第31話 諧謔の影
闇だ。
何もない、光の届かない真っ暗闇。
―――――――無。
そんな視界不良の世界において、しかし感覚だけはまだ残っていた。
“死後には感覚だけが残るのか?”
アダンはこともなげにそう思った。
“あれからどうなったんだ?”
と、アダンは思い返そうと思ったがすぐにやめた。
終わったあとの世界で、回顧する気には到底なれない。悲しいばかりだったことを誰が思い出したいというのか。
『なぜ諦観する?』
と、虚空を切り裂く声が聞こえた。
アダンは振り返る。しかしそこに声の主はいない。
『さあ、残った馬は消えた』
“どこだ”、とアダンは辺りをくまなく探る。だが姿形など確認しようもない。
ここは前後不覚の闇。そもそも自分がどこを向いているかもわからない。
『つまり、アリスは死んだ』
「黙れ!!!!!!」
それは―――アダンにとって触れてはいけない部分であった。
「お前は誰だ!!? ここはどこだ?! 俺は死んだはずだぞ!」
『お前はまだ死んでいない。惨憺たる様相であっても化け物は必ず生き残る。お前は死ねない』
「死んでない・・・・・・だ、と―――?」
なんとも言い表せない表情を浮かべるアダン。声の主はそれを見逃さなかった。
『得も言えない表情だな。まさか死にたかったか』
「・・・・・・・・・・・・」
『まあいい。それよりも、質問に答えようか。ここは時の狭間。ほんの小さな、時間の微小区間だ。現の時は密着して流れる。しかし一本の線に見えるソレには僅かな隙間がある。それがこの世界。理想郷だ。お前の知る無縫の加護もこの理想郷の借り物によるものだ。まあアリスの場合はその微小区間がかなり狭かったが―――』
アダンはその内容を理解できなかった。いや無意識に理解しないようにした。それは防衛本能。
世界の真理に、おいそれと手を出すことを本能的にためらった。
そこに達すればもう後戻りできない、と脳が告げる。
『―――それよりも、俺のことだったな。俺はお前だ。俺はアダン。そう納得しろ』
有無を言わせない威圧感をアダンは全身で感じた。そうしろと命じられたかのような重みだった。
「・・・・・・わかった」
アダンは震える声を抑え、そう言った。疑問は残るが、ソレから嘘の気配がしない。この世界でこの能力が通用するのかわからない。だが、今は自分を信じるしか無かった。
『本題だ。アリスが死んだ今―――お前はこれからどうする?』
「あ、アリスはまだ―――――――」
『観念しろ。事実を許容しろ、アリスは死んだ。これは覆らない事実だ』
かかる重圧が増す。まるで大蛇に縛り上げられるような錯覚を受ける。
『さあ、どうする?』
「アエを―――トゥデのもとに送り届ける」
『それからは?』
「それから――――――」
続く言葉が、アダンには見当たらなかった。しかしそれがアダンの答えと言えるだろう。
なにも、その次に続く後が無い。架かる人生という橋が途切れている。
それはつまり―――
「死のうと思う。この世界は残酷で、理不尽だ。なんのために生きているのかわからない。だからもう―――目をつぶったまま、何も見たくない」
『生きる目的、か。人間は矮小な器とは違って、抱くものだけは立派だ』
もう一人の自分、と名乗るソレは、そう言葉をこぼした。
『しかし言ったはずだ、自分。まさか今しがたアエに掛けた言葉を忘れたのか?』
それを聞き、アダンは顔をうつむかせた。
“俺たちはアリスに救われた。だったら、その生命を無駄に散らすわけにはいかないはずだ。”
『これにはもちろんお前も含まれている。お前はアエを治療し、生かした。だがお前自らは死を選ぶのか? それはあまりにも―――手前勝手な願いだと思わないか』
ソレはなんの感情を込めずにそう言った。冷え切った声。
アダンはぞくりとした。まるで脊髄に水銀を流し込まれたかのようであった。
“気圧されている。”、とアダンは感じていた。
だが―――アダンにはどうしても反論したいことがあった。
「それは、―――仕方がないことなんだ。この世界は、俺みたいな混血がほんの少しの幸せも享受できないように作られている。初めから終わる世界に生まれていたんだ! 俺たちは―――! だから混血はこの世に生を受けるべきじゃなかった。苦しいだけなら、なおのことだ――――――」
それは―――人生の述懐であった。
アダンの一糸纏わぬ言の葉は、無光層の世界に木霊した。
『変えろ』
ソレはその一言だけを告げた。
『世界を変えろ。環境が不幸を誘うというのなら、自分で変えてみせろ』
“それができたらどんなに良いことか・・・・・・!”、とアダンは心のなかで憤慨する。
『今のお前を一言で表すのなら、それは――――――勇気がない。これに尽きる。自分を変える努力もしないくせに世界に見切りをつけている。全く甚だしい限りだ』
ビキリと、アダンの中で何かが断線した。
それは逆上か―――、それとも消沈か―――。
『アリスの目的は何だ?』
アダンは開口しようとするが、唐突―――その質問にアダンはピタリと硬直した。
―――アリスの願い。
アダンにはなんの心当たりもなかった。
人間、生きているというのならば何かしらの目的を持っている。
人の生きる目的というのは、多種多様だ。原始的欲求を満たすだけに生きるという者もいれば、崇高なる実現の欲求を叶えたい者もいる。
例えば、アダンはアリスを守るという目的がある。
しかし――――――アダンは考えたことがなかった。
その庇護の対象であるアリスの目的を。
『お前は本当に―――アリスのことを知らないんだな』
ソレはただ――――――事実を簡潔に述べた。
アダンはそれに反論できなかった。全くその通りで、取り繕いのしようがない。
アダンは失望した。――――――自らに。
『よく考えれば分かることだが―――時間がない。教えよう・・・』
ソレはそう言った。
答えを提示できるのか? 、とアダンは疑問に思った。
これまでずっとアリスの側にいた自分でさえわからなかったというのに、こんな見ず知らずの奴にわかるはずもない、とも。
―――だがそれはすぐに覆された。
『アリスの願いは―――お前と一緒にいることだった』
簡潔。その願いはあまりにも純粋だった。
共存という願望。それ以上でもそれ以下でもない。
その願いはアダンの胸にすとんと落ちた。
『アリスは全てにおいて、お前を救おうとした。時に不意打ちから守り、時に蘇らせようとし、時にお前を逃がした。全てはお前と生きるためだった。だが、その末に死んだ。アリスはお前との共存以上に、お前自身の幸福を強く願った』
他人を―――家族を想う。
アダンは“同じだ”、と思った。
『いや、断じてそれは違う』
しかしそれは否定された。
『アリスはお前を守る。お前はアリスを守る。だがその根底にあるものは全く違う。アリスは損得勘定のない愛情から。しかしお前は―――“罪悪感”からアリスを守っていた』
「―――――――――は、?」
なぜ今、ここで罪悪感という単語が出てくるんだと、アダンは疑問を呈せざるを得なかった。
『お前はずっと罪の意識から逃れようとしている。後ろめたさから目を背けようとしている』
アダンは納得できなかった。偽善の心でアリスを助け守っていたなんて、それこそ心当たりがない。
『だがそんな下卑た動機とは違い、アリスは純粋な幸福をお前に願った。生かされたお前に自死は許されない。アダン、アリスの願いを叶えろ。お前がこの世界で幸福に生きること、そして自ら命を絶たないことがアリスの悲願だった』
大切な人が幸福に生きてくれること。それがどれだけ嬉しいことか。
他人のために生きたアダンだからこそ、その気持ちは痛いほどにわかる。
「だが、―――この世界は」
それでもなお―――アダンには出来ない言い訳が浮かんでしまう。
どれだけ化け物と言われようとも、どれだけ体が強くとも、心が弱い。アダンは初めてそれを自覚した
『もう一度言おう。お前には、勇気がない。いつか来るであろう平和な世界を待つばかりでは駄目だ。今、ここで変えるしか無い。幸福になる―――そのために世界を変えろ。悲願を叶えることこそが死者への手向けとなる』
もうこの世にはいないアリス。遺したものは二つ。
それはアダンとアエ。
だがその一人が自ら命を絶つなんてことは―――あまりにも悲劇的すぎる。
「そうだ―――俺は・・・・・・・」
『そうだ―――お前は・・・・・・・』
アダンは己が心に何かが灯るのを感じた。
死んでいた心が、動かくなっていた歯車が再起動を図る。
それに呼応するかのように、徐々に辺りが白く、明るくなる。
目覚めの兆候。
これから辛く、苦しい現実が待ち受けるだろう。
「―――戻らなくちゃいけない」
『―――戻らなくてはいけない』
だが、それでもアダンは立ち上がる。そうしなければならない。
アリスが命を落としてまで繋いでくれたその生命。
一欠片も無駄にしてはならない。
「―――生き抜くんだ」
『―――生き抜かなければならない』
それがアリスへの餞になる。
「―――アリスの兄として」
『―――アリスの兄として』
「え?」
しかしそれは―――――――断絶された縁。
アダンの思考を司るそれは、機能を果たしてくれなかった。
―――理解不能。
ただその言葉だけが脳内を埋め尽くす。
ふと、気配を感じ、顧みた。
そこには―――嵐のように渦巻く眼を持つ、巨大な化け物が一匹。
直視――――――することができなかった。
人間という種の本能が、霊長類が持つそれが、“視る”という動作を拒んだ。
しかし―――どんなに恐ろしくても、つい見てみたくなる。
怖いもの見たさ―――――――それもまた本能なのかもしれない。
ノガレタイ―――
ニゲタイ―――
カエリタイ―――
心の悲鳴は五月蝿いほどに、体中に反響した。
やがて“それ”は、大きく口を開けた。動物が獲物を捕食するための動作。
開けた口はアダンの背丈などゆうに超える。
口の中には剣山のごとく、幾千もの牙が顔を覗かせた。
そして――――――がぶり、と一呑み。
アダンは抵抗なく、喰われた。
中は暗く、昏く―――光の反射さえをも許さぬ漆黒。
それはあまりに一瞬の出来事だった。
闇が瀑布のようにアダンに襲いかかる。
アダンは意識を保つことすらできず、呑まれた。




