第二話 『お母さんの言う通り』
日も傾き、影が一段と長くぼやけてきた頃。少年が一人、学生鞄を背負いながら歩いていた。それだけ言えば普通だが、少年は全身血まみれで、彼の歩いてきた道のりにはポツリポツリと血痕が残る。見ようによっては文化祭の準備中にペンキを頭から被ったとも言えるかもしれない。いや、言えない。
「あの、流石に鬱陶しいんですけど……」
そう呟いた少年の周りには人っ子一人見当たらず、はたからすれば赤面するように大きな独り言である。子連れが見れば、不審者扱いされて子供の目は賢明な親御さんに隠されるだろう。
「――ウスイさん」
少年は後方上空に迷惑そうな顔で目をやる。すると、そこには真っ黒の電線を揺蕩わせながら、まるでサーカスのピエロのように歩くウスイの姿があった。
「これは失礼、あまり気にならないようにと離れて歩いたつもりなんですけど……」
「むしろ気になるんで、歩くなら横歩いてください」
「おや、良いのですか?」
そういうとウスイは体操選手のように見事な宙返りの末、ビタリと着地を決めると、どこか嬉しそうに少年の隣を歩き始めた。
閑散と立ち並ぶ家々を背景に、血まみれの学生と紙袋を被ったタキシードの大人。なんともヘンテコで奇妙な絵面である。
「なんでついてくるんですか?」
「それはですね。あなた――そういえばお名前聞いていませんでしたね……ん? んんッ!?」
頬を指先で叩きながら、ウスイは何かに気が付いたようで、おもむろに床に頬を擦りつけ、少年を後ろから覗き込む。見てくれはよく言ってゴキブリである。
すると、
「――ぷっぶハハハッ!」
ウスイは突然、下品に汚くアスファルトの地面の上をお腹を抱えて、通行人の迷惑も気にかけることなくのたうち回った。
「なんすか……」
呆れた様子の少年はウスイのその様子に嫌悪の視線を浴びせる。しかし、成人を超えていそうな相手が駄々をこねる子供のような体制で地面を転がっているのだ無理もない。
「いや、だって君! まるで小学生がやる様じゃないか、ましてや高校生がやっているだなんて――ダアッハッハ!」
――『立木 キセツ』
そう書かれているのは、少年が履く白いスニーカーのかかとであった。つまるところ誰の所有物であるかを示すため古来より用いられてきた記名である。
取り違わないという意味では理にかなっている。っと言えなくもないが、それを四捨五入すれば大人のような高校生がしているとなると、ウスイほどではないが笑ってしまうものかもしれない。
「……」
ウスイの事をまるでひっくり返ったダンゴムシの腹を見るように見た後、ため息すら漏らすことなくキセツはその場を後にした。
「――あぁ、ちょっと……!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ほどなくして二人組は目的地へとたどり着いた。
錆て穴の開いた階段とホコリをかぶった室外機、火事でもあったのかと思うほど黒く染まった壁、そこは絵にかいたようなボロアパートである。
「ほう! ここがキセツ君のお宅ですか。なんだかぼろいですねぇ」
片腕を腰に当て、足を開き、若干上半身をを横にスライドさせながらウスイはそう言った。なんとも失礼が極まったやつである。
しかし、ウスイの声はどこか上ずって、紙袋の中の表情を見ずとも分かるほどに上機嫌であった。
「ホントになんでついてきたんですか……面白いこともないでしょ」
「いやいや、私は貴方に興味があるんですよ。興味津々なんですよ」
「はぁ……」
キセツは呆れた表情でガキを開け、一枚板の木の扉をキィと高い音を立てて開いた。
中は畳六畳ほどの一部屋で、なかなかに年季の入った壁には、ことろどころにヒビやシミがある。家主のキセツよりも先にウスイはズカズカと中に入ると、靴を投げ捨てて調子よく物色を始めた。
「ほう、ほうほうほー」
まるで他クラスに友人を探すキョロ充のように、部屋中を見渡すウスイ。目的は何なのか皆目見当もつかない。
と、
「これは……お面ですか?」
ウスイが足を止めて見ている壁には日本の代表的な古典芸能能に使われるような、おかめの能面が掛かっていた。笑っているのか真顔なのかもよく分からない表情に加え、窓から差し込む暖色の光のせいもあって、どことなく不気味にである。
「それは、死んだ母さんの形見です」
「形見……?」
ウスイは能面からそのまま下へと視線を落とすと、そこには小さな机。上に立てられた二つの写真たてが目に入る。一方は手入れの行き届いた綺麗な物。そしてもう一方は倒れて、嫌みっぽいお母様が見たなら一週間は飯が出ないであろう量のホコリを被っている物。
その中からまず、ウスイは綺麗な方の写真立てを手に取った。
「こちらはお母様ですか。なんともお若い方ですねぇ――これほど若いうちに亡くなられるとは何んともお気の毒に……」
ほんの一時間ほど前に大量殺人を犯した犯人とは思えない言葉を吐きつつ、ウスイはそっと写真をしばらく眺めた後、もとあった位置に戻す。
続いて倒れている方の写真たてを手に取ると、ウスイはパタパタと写真たてを叩く。
「おや、ホコリが――いけませんねぇ。こういった物はきちんと掃除しなくては……こちらは?」
ウスイが見るそれには写真を撮られるのを慣れていない硬い表情の男が映っていた。
「それは、死んだ父親」
血を洗い流そうと、水道の蛇口をひねりながらキセツはそう言った。
「ホコリが積もるほど倒れっぱなしだなんて、なんとも扱いが違うように見えますが……どちらもあなたの親類なのでは? お父様はお嫌いなのですか?」
「いや……嫌いではないけど――」
「けど?」
「他人だから」
「え?」
「父親は俺が生まれる前に死んだ。だから、会ったこともなければ、声を聴いたこともない。そんな人間を父親といわれても、俺にはあまりピンとこない。だから、その写真に写っているのは他人です。他人の写真ならば一々気にしたりしないでしょ」
洗面台で顔を洗いながら、キセツは至極当然のように言い放つ。
「そ、そうですか……なんだかキセツ君は変わってますよねぇ。合理的というか、ピンキリというか、考え方が酷くろ過していて不純物が一切なく、凝り固まっている。――キセツ君、友達いないでしょ?」
写真を机に戻し、何かを背後に感じたウスイが洗面台の方を振り向くと、タオルを首に巻いたキセツの不機嫌そうな視線と目が合った。
「だったらナンスか?」
「おっと、気を悪くしたなら謝ります……というか、以外に友達欲しいんですね」
「……欲しいというか、母さんに百人作れと言われたんで」
「あ……そうですか」
どこかで聞いたことのあるフレーズの対象年齢とキセツの実年齢のギャップに、ウスイは再び空気を掴むような、どうにもやるせない何かを感じる。
そして同時に、キセツという少年にある予感がした。
「ねえ、キセツ君。君の靴なんだけどさ。名前書いてるのって、お母様にそうしろって言われたから?」
「そうですけど」
――あぁ。もしかして、
「じゃあキセツ君……こういうのはどうかな」
コイツ……。
そういうと、ウスイはウスイの母親の写真を再び手に取った。
「――お母様。もう一度会いたくない?」
「え? 母さんに……会えるんですか?」
キセツはこれまで一切見せてこなかった表情を見せる。
出会ってからこれまでの間で、一度も表情を変えてこなかったキセツの反応の良さにウスイの予感は確信へと変わる。
――食いついた……やっぱり、この男。タチキ・キセツは……マザコンだ。
「私は天使ですよ? 人の一人や二人。生き返らすなんて、お茶の子さいさい朝飯前、あっという間に五体満足て死者蘇生です」
身振り手振りで余裕を見せ、キセツのことをその気にさせる。
「で、でもどうやって?」
――来た、来た来た来たあああ! こんなクソガキに、わざわざ下手に出ながら、おんぼろアパートまでついてきたかいがあったってもんだ。
さあ――、
ウスイはただ一つの目的のために、キセツの家までついて来ていたのであった。
それは――、
「これを被って私の名前を読んでください。あとは、私にお任せを――」
――その不死身の身体、オレによこせ。
そういうと、ウスイは被っていた紙袋を脱ぎキセツの前に差し出した。
そして、ウスイの仮面の内側。すなわち本当の顔面が姿を現す。左右の目は、まるでカメレオンのようにそれぞれ別の方を向き、半開きの口からは粘性のあるヨダレが滴る。さながら酔っ払いのそれであった。
「ウスイさん、大丈夫ですか?」
「……」
ウスイからの返答はない。
どうやら、天使というのはその仮面を被る人間がなくては、口もろくに聞けないものらしい。
「強引な人だ……いや、天使か? まぁいいか。でも、これで母さんが――」
普通なら、ウスイの話は聞くに値しない戯言である。人を蘇らせるなど、イカれた宗教の決まり文句のようなもの。
しかし、キセツは母親のこととなるとひどく単純であった。彼の頭の中にはウスイという天使が起こした高校生大量殺人の光景がよぎる。
――天使に、あれだけの力があるならもしかしたら。
キセツは天文学数値であれどゼロではない確立に賭けて、ゆっくりと仮面を頭の上へ持ち上げかぶる。
「……ウ――」
そして今、まさにウスイの名前を口に出そうとした瞬間、
バリィンッ!!
突然、夕日を注いでいた窓が割れ、外から黒色の物体が室内へと入り込んできた。
キセツは紙袋に空いた小さな穴からガラスの散らばった畳の上を見る。
「……カラス?」
中途半端に羽を伸ばし、畳の上でピクリとも動かないそれは、まごうことなきカラスである。
しかしながら、普通のカラスと違うところも一目で理解できた。
――そのカラスの口からは、人の腕が伸びていたのだった。