第一話 『明日から夏休み』
抜けるような青空が窓の外に広がり、もう随分と聞き慣れたセミの声が騒音トラブルも気にすることなく鳴り響く。
そこは、東京都第四区第三高等学校の二年一組の教室。
窓や壁にはスプレーで、まるで品のない文字がいくつも並んでいる。先に断っておくと、グラフィティにハマった校長の趣味が講じてこうなったわけではない。これらはすべて、在学中の生徒達が暇を持て余した結果生み出されたものである。
しかし、そんな教室にいる生徒たちは、化粧をする手を、スマホをいじる手を止め、静かにただ黒板の方を向いていた。
「え……?」
――タン、タカタカ……。
見た目に問題があるだけで、本来真面目に授業を受ける生徒達であると言うわけではない。そんな生徒は、現実を知らない新人教師の頭の中にだけあって、実在することはないのだから。
ならばなぜ、そんなことが起こっているのか、それは酷く単純な話であった。
ただ生徒たちは単純に教卓の上で軽快にタップダンスを踊っているタキシード姿の何者かにくぎ付けになっていたのだ。
「タカタンッ! ――はじめまして! 私はウスイ。青春真っただ中の皆様におかれましては、進学・就職・恋愛・人間関係などなど、エトセトラ。日頃より苦悩されることも多いかと思われます……ガァ! そんなお悩みも今日でしまいにございます」
目元だけ開けられた紙袋を被ったその男は見た目通りのこもった声で、若者からは嫌われるであろう分かったようなことを言うと、片手でオーケーサインを作り、できた輪っかに口元を当てる。すると、男の頭上には白く発光する輪が現れた。
「ふぅううう」
ウスイは、その何もないはずの輪っかに思いっきり息を吐く。するとそれは、まるで大道芸人がバルンアートをするかのように、紙の伸びるパリパリと言う音と共に先ほど作った指の輪から茶色い紙袋が膨らむ。
と、それがバレーボールほどに大きく膨らんだ時、ウスイはスパイロメーターをした後の中年男性のように膝に手を付く。
「ハァ……ハァ……」
息も絶え絶え、体力のなさを体現させるウスイ。いきなり踊り現れたかと思えば袋を膨らまし、疲れて息切れ、その場には何とも言えぬ空気が漂う。
「皆様をお助けに参りました私。ヒーロー。――いえ、天使がお迎えに上がりましたゆえにね……」
バァアン!!
ウスイは両手を合わせることで膨らんだ紙袋を圧縮させ、心臓に悪い破裂音を教室にとどろかせた。居眠りに夢中になっていた学生がいたのならば、飛び上がって皆の注目を一身に受ける……だけならばどれほどよかったことだろうか。――その爆音は一つにとどまらなかった。
教室内にいた幾人もの未来ある若者たちの頭部は水風船のようにはじけ飛び、線路下のトンネルレベルの壁の落書きは、トマト祭後のブニョールの街並みを彷彿とさせるかのような赤で上書きされ、その場の治安が三段階ほど下がった。
「ハァ……なんともあっけがないですねぇ。人とはどうも卵のように脆い。まるで弱いものいじめをしているみたいで気分が悪くなってしまいそうです……」
ため息をつき、皮靴の先で教卓をいじりながら、高校生大量殺人犯は何ともとぼけたことをぬかす。全く勉強していないと言いつつ、テストで高得点を取る内心ドヤ顔野郎のようで、なんだか胃がムカムカする。
「……ってぇ」
と、息の詰まるような鉄臭さと沈黙の支配する教室の中に、わずかばかりの怒りと苦しみの孕んだ声が上がった。ウスイは悪い足癖を止め、首を傾げ、声のした窓際最後列といういわば勝ち組ポジションに目をやる。
すると、不可能はウスイが積もらせてきた経験という砂の山に小石となって現れ、頭をさする少年がムクリと顔を上げる。
「え……なんで生きてるんです……?」
ウスイの疑問は当然のものであった。
たった今ウスイの持つ特異な能力がこの教室にいた全生徒の頭を吹き飛ばしたのだから、教室内で生きているのはウスイ以外に存在するはずがない。しかし、その少年は何の気なしに無事な頭部を見せつけてくる。
「治ったんすよ……というかこれじゃあ、明日の終業式は無いっすよね? じゃ、帰るんで」
「はぁ……」
有り得ないことが起きた時、人間は口をあんぐりと開けて唖然とする。そしてそれは天使もまた同様であり、ウスイはピシャリと息と動きを止めて少年を見つめる。
見られている少年はと言えば、なんとも慣れた手つきで幾人かの亡くなった生徒の荷物をあさり、財布から高校生にしては持ちすぎている額を拝借する。
しかしそんな占有離脱物横領罪はウスイにとっては、気にもとまらないほんの些細なことである。
頭の中で色々と考えながら、ウスイは男子生徒が扉に手をかけるまで呆然とその光景を眺めていた。そして少年が扉に触れた瞬間、止まっていた時が動き出したかのように口を開くのだった。
「ちょ、ちょっと待ってください! いや、私はね。おかしいと思うんです。君の頭は今私が吹き飛ばしましたよね?」
押してダメなら引いてみろではないが、ウスイは自らの頭の中で思考することをやめ、本人に直接聞いてみることにした。
「……はい」
「では、どうして生きているのです?」
「治ったから」
「……いやいや、先ほどからまるで擦りむいた膝に唾でもつけて直したみたいな様子だけれど、おかしいですよね? 頭一つ吹き飛んだんですよ?」
「何すか、人の体質のこと変って言いたいんすか? それってひどくないっすか? 体臭がきついとか体毛が濃いとか、それと何が違うんすか。ちょっと他人より傷の治りが早いからって化け物扱いっすか? そういうこと言っちゃうの良くないと思うんすよね」
「え……はぁ」
男子生徒の屁理屈というか持論というか曲解というか。常人の考えよりも湾曲し屈折し曇りガラス越しに見た考えと、少しばかり垣間見える怒り混じりの言葉にウスイは思わずため息混じりに言葉を漏らした。
あっけに取られるとはまさにこのことである。
「じゃ――」
ガラガラガラァ、パタン
理不尽なまとめられ方をして返す言葉の一つも見つからないウスイを置いて、男子生徒は職員室でも後にするように丁寧に扉を閉めて下校してしまった。
「えぇ……」
教室には天使と死体だけが残った。