第九話 『その店内には象がいる』
むせ返る様な血液の鉄臭い匂いをかき消すほどに、店内はカレーのいい臭いで満たされている。
いたるところに血だまりと、さまざまな人の部位が転がっているというのに食欲がわいてきそうで、なんとも度し難いコンセプトの店だ。
「ご注文は?」
白い輪を輝かせ象のマスクをかぶった店主が厨房から顔を出し、慣れた口調で入口に立つ二人にそう言った。首から下げたエプロンにはカレーではなく血液がべったりと付着している。オススメといえば一体何が提供されるのか、興味と恐怖が心に同居する。ワクワクドキドキというやつである。
「……カレー」
「あいよ」
羽黒が注文すると、店主は厨房へと消えていった。
どうやらこの店は一人で切り盛りしているようだ。しかし、安い・早い・うまい。と、サラリーマンにうどんの次に好まれるカレー屋なのだからバイトは何人か雇ったほうが良い。回転率は飲食店の要だ。
「食うのかよ。嫌いだったんじゃねえの?」
「昼食取り忘れた。それに、後で殺すしタダだろ?」
お決まりのゴルフクラブを足元に置き羽黒は厨房の見えるカウンターに座った。
一応は今回の討伐対象である天使の出す食事であるのだが、羽黒にとっては自分の腹の虫の機嫌と財布の重さの方が気になる様だ。
「カレーです。どうぞ」
ポンと置かれたのは平たい皿によそわれたライス。そして、魔法のランプのような見た目をしたカレーソースポットには並々にカレールーが入っている。見てくれはなかなかよさげである。
しかし、羽黒はスプーンでカレールーをほじくると、肉の塊を顔の前まで持ってきて、眉をひそめて、
「これ、何の肉? あーし、カレーは牛しか食わねえんだけど」
「は? 豚肉だろ」
キセツのそれはもはや宣戦布告である。
店内に冷たい空気が流れるが、もちろんそれは空調が謎の利きを見せたからではない。キノコがどうのタケノコがどうの程度の生産性皆無な言い争いの悪寒に近い何かだ。
「あ? なんで豚なんだよ。お前舌どうなってんの」
「お前こそ、なんだよ牛って、普通豚だろ。母さんも豚で作ってたし」
「お前の普通をあーしに押し付けんな。これだから豚は……」
人生で十本の指に入るであろう無駄な時間を送るう二人。そんな中、その二人に何か言いたげに肩を震わせている者がついにその口を開くのだった。
「人だよォオオオ!」
「――――」
店内に大きな声がとどろく。
握っていたオタマを地面に叩きつけ、怒りが厨房に見える煮込み過ぎて吹きこぼれた鍋のように全身から噴き出ている。しかし、無理もない。自信を持って提供した料理にケチを付けられて、料理人のプライドに傷かつかないわけがない。
そして、そんな思いを孕んだ叫びは、くだらない争いに終止符を打った。そして、
「……うるせえ!!」
「……うるせえなあ!!」
――グベジャアアア!!
途端、赤い片腕とゴルフクラがゾウの頭を左右から挟み、血液が飛散する。筋肉自慢の林檎つぶしのように頭部の弾けた天使の体は力なく倒れ、カウンターにもたれかかった。
どうやら、客は神様だったらしい。それもひどく短気で仮面を被った死神である。
「たく、カレーに血が入っちまった……」
そう言ってカレールーをライスではなくテーブルの上にかける羽黒。行儀が悪いとかもはやそんな次元ではない。人間の生ゴミはそれなりに散らばっているが、ここが三角コーナーか何かと勘違いしているのだろうか。
「きったねえなあ……」
本当にお粗末様なその惨状にため息を漏らしながら、キセツはテーブルの上のカレールーを指先でなぞる。そして、小さな肉塊をつまむのだった。赤身が多く、指先で軽く掴んでわかる弾力の強さは、おおよそこれまでに咀嚼してきた何よりもある。
ここで、キセツの中に一つの興味がわいた。
いったいどんな味がするのか。カウンター越しに見える鍋からはみ出ている五本指を見れば大方、それが何の肉か予想はつく。そして、それを口にすることは一種の禁忌であることを知っている。だが、だれしも一度は思ってしまう。学校のトイレのそばにある非常ボタンを押してみたいという非常識な欲求のように、倫理という同調圧力から脱却する身勝手なカタルシス。もはや手は自然と口へ運び始める。
と、
「何やってんだアアア!!」
店の入り口から鳴り響くとんでもなく怒りに満ち満ちた怒号が、キセツの禁断の果実の一口目を止めるのだった。
「あ? なんだ?」
「お前らか、これしでかしたのは? お前ら誰だ?」
ズカズカと店内に押し入るのはエプロンを着た一般人。
なかなかの恰幅の良さに加え、豊かな無精ひげ。何より際立つのはその眉間にとんでもなく寄ったシワであろうか。
そんな男に対し、羽黒がゴルフクラブを肩でたたいて答える。
「特異課だけど?」
「特異課? あの気味の悪い集団か。で、俺の店どうしてくれんだよ?」
「どうするもこうするも、これやったのあーしじゃないし。知らね」
「あ? こうならねえようにするのがお前らの仕事じゃねえのかよ! ったく、役に立たねえ税金泥棒共が……グヘアッ!」
羽黒はあろうことか男を蹴り飛ばし、仰向けになったその体に腰を下ろした。
憎まれ口をたたくのは自由だが相手は選ぶ必要がある。言葉とはナイフにも着火剤にもなる。そして、怒りは可燃性だ。
「ああ、よくねえなぁ。何でもかんでも頼ってばっかで、思い通りにならねえとガキみてえにピーピーギャーギャー」
「お、お前ら一応警察だろ。市民にこんなことしてただで済むと――」
ドォオオオン!
男の頭を少しかすめ、ゴルフクラブのヘッドが地面にめり込んだ。脅しとしては上々、男は時が止まったように言葉の蛇口を占めた。
「おい、騎乗位野郎。まず”ありがとうございます”が足りねえな。店の形が残って、自分の命が五体満足なだけで、お前は鼻水垂らして感謝すべきだろ。はき違えんなよ。あーし達はお前ら人間を守るためにいるんじゃねえ。天使を殺すためにいるんだ。これ以上文句が言いてえなら、チーズとウォッカを持ってこい。そしたら嫁の愚痴くらいは聞いてやる。持ってこれねえなら、カラスのエサになる前にそのケツの穴みてえにクセぇ口を閉じろ」
「……あ、あぁ」
飲食店でなんとも聞きたくない単語をいくつも並べる女に、この店の店主は憤怒に任せた勢いを完全に失った。どうやら今の自分の命の希薄さに気が付いたようだ。
「――おいおい」
キセツは指先の汚れをティッシュで拭き取り、小さくなった店主に気の毒と言わんばかりの視線を送る。
自業自得というべきか、金髪ギャルの言うように黙ってあるものに感謝しておけば、少なくともゴルフクラブを振り下ろされるというトラウマを植え付けられたりはしなかっただろう。
そして、キセツがその元凶である羽黒の肩を叩こうと手を伸ばしたのだ。
シュゴッ!
キセツの腕は弾かれた。
しかしそれは、羽黒にではない。彼女は未だ背を向けて座ったままだ。キセツが不思議な顔をして腕を見ると、包丁が手首の半分ほどまで突き刺さっている。切れ味はそれなりだが、骨を断つには少し足りないらしい。
と、
「イッテえええ!」
思い出したようにキセツは叫んだ。鳥も驚く忘れっぷりである。
直ちに突き刺さった包丁を引き抜き、ドバドバと流れる血液を抑えながらキセツは再生の時を待ちつつ、厨房の方を見た。
そこにいたのは先ほどの天使。全身文字通り血まみれで、首の座っていないソイツの頭からはなんだか色々と垂れている。
「う……ご、ひゅうぅ――」
発声器官を無くしているらしく、空のシャンプーを何度も出そうと試みているような無様な音を出している天使は、カウンターを転がるように越えて客席へやってきた。
「げ、生きてんのかよそれ……キモッ」
背後の騒がしさに羽黒は立ち上がり、すべての半規管をつぶされフラフラの天使と対面する。ジャンキーなゾンビ映画ならば、ここでキーンと高い叫び声を出して気を失って見せるが、そんな可愛らしさは、あいにく羽黒には持ち合わせていない。流れるように臨戦態勢である。
椅子にされていた男はといえば自分の店を放ってバタバタと出ていったが、それは賢明な判断と言えよう。
「こひゅー、ヒー……」
ガバギィイイイ!
と、羽黒がゴルフクラブを振り上げるよりも早く、巨大化した赤腕がまるで人形遊びでもしているみたいに天使の体を握り、そのまま天井に押し付けた。
「痛いなぁ……血がいっぱい出ちまったよ。頭がクラクラするし……。チンコみてえな仮面付けやがってよ。キメえよなア! キメえ奴は死んだほうが良いよなア!!! ギャハハハ!」
キセツは潰れた頭ごと今度は全身を握り潰した。バキバキと骨の折れる音、ぐちゃぐちゃと内臓や筋肉がひき肉になる音が雨のように噴き出る血液と共に流れ出る。
そして、
ボトォリッ……
もはや、頭をつけていることも限界となった首がちぎれ、仮面ごとその頭部は地面に落ちる。そして、天使の輪っかは光を完全に失った。羽黒はそれを拾い上げ仮面をビリビリに破き捨てる。これにて、仕事は終わりである。
「ギャギャギャ!」
「いつまでやってんだよ……」
未だ死体をレモンのように握り、バットマナーを決め込んでいるキセツを見て、呆れ顔の羽黒。
そして、
――チリン、チリィイン
「き、キケケケ……」
扉は鈴の音と共に開き、黒色の輪を光らせたカボチャ頭のご来店である。
誤字脱字等ありましたら、ご報告いただけるとありがたいです。
自殺転生もよろしくお願いします!