心中
これは私の心中の話だよ。どうしてあんたが私の話を聞きたいだとか言い出したのかは分からないが、聞きたいというなら話そう。どうせあんたに話したって何も解決しないのだから。これはね、私がまだ人間という概念すら理解できなかった時の話だよ。
昔私はまだ幼く、ただ突き動かされる激情のまま生きていた。あの時の世界はどこまでも輝いていて、その輝きがなぜか黒く汚れきった自分を嘲笑してくるように思えていた。だからそんな世界の断片を一つずつ破壊していった。そう、私は目の前にある物から輝きを奪おうとした。
ただ私にはどうしても壊せない物があった。それは一冊の本だった。よくある豪奢な見た目ではなかったけれども、素朴な見栄えで、その本だけは輝かず、私を馬鹿にもしなかった。なぜならその本は私が当時一度も会ったことのなかった私の母親が、私と一緒にあの家の大人に渡してくれたという代物だったから。
その本は私の預け先の家の大人が私の誕生日になると取り出して、私に読み聞かせてくれた。私はその本の内容は難しくてちっとも理解できなかったけれども、大人がこれはあなたの母親の願いなんですよと読み上げた後に言うのを聞く度に、身の引き締まる思いがしたよ。
だから誕生日が来てから数日間はたとえ周りの世界がなんと馬鹿にしてきても、耐えることができた。その数日間だけは私は手のかからない子どもだった。母親がいて、自分に願いを託してくれていると考えると、何をしたらいいのかは分からなかったけれども、何も壊してはならないと戒めることができた。
ただそれは毎回数日間だけだったんだ。私はやっぱり周りの光たちのあざけりに我慢できなくなって何かを壊してしまった。そうして壊すと、結局戒めを守れない子なんだと痛いほど自覚して、周りの輝きが増して、それがますますこんな自分を見下してきているように思えた。
そうやって私があまりに物を壊し、他の子どもを傷つけようとするものだから、やがて大人たちは私から物と人を遠ざけるようになった。最初は私を説得や体罰で矯正しようとしていたのに、諦めたら次は隔離だ。私から人間界は遠ざかった。私は壁や床に反抗するようになった。散発的にそれらを殴りつけた。
そう言えば一度逃げ出したことがあったなぁ。あの家に、珍しく赤子じゃない、あの頃の私と同年代くらいの子どもがやって来て、おそらく私のことを知らなかったんだろう、私に話しかけてきた。私はその子のいびつな笑いになぜか強烈な光を感じて、反抗したくなって私はその子に殴りかかった。
その子は殴り返してこなかった。ただ一発私に殴られた後、大泣きしたんだ。すると大人たちは私に怒りを露わにして詰め寄ってきた。私はこっぴどく叱られると直感して、それで逃げ出したんだ。いつも叫んだり、暴れたりするだけだった私の唐突な行為を、誰一人止められなかったよ。
私は柵を超えてただひたすらに走った。道があったからそこから外れて、行く当てもなく地面を蹴って進み続けた。しばらくして私は川にたどり着いた。石造りの橋もあった。そこを越えれば自由になるかもしれないと思った。だが自由になんてなれなかった。大人たちに追いつかれて捕まったんだ。
あの後私はそれはそれは激痛とともに怒鳴られたよ。ただあの新入りの子どもに謝りなさいと言われても、私は謝らなかった。頑固に口をつぐんで周囲を睨み続けた私との我慢比べに大人は遂に根負けして、この子はいつもこうだと吐き捨てて、それからあの子は決して私に近づかなくなった。私はと言えば壁や床からの光に抵抗し続けていた。
そんな私に転機がやって来た。大人が私に、両親があなたを引き取りたがっていると言ってきたんだ。ただ、と大人は言って、もしこれからちゃんとした生活を送れたらの話だけどとも付け足した。私はどうしたらいいんだと、その大人に問い詰めた。
なぜ破壊ばかりしていた私が、その言葉を言ったのか。それはきっとあの本のような存在になりたかったからだろう。あの本は光らずに私をじっと見据えてくれた。そんな存在を私に与えてくれた両親なら、私のことをきっと下に見ないだろうと思えたんだ。だから彼らとどうしても一緒に暮らしたいと考えた。
私に対してその大人は驚き、それから言葉を選びながら、誰でも温かく接すること、身だしなみを整えること、物を大切にすることなどと教えた。それらの約束事は、いつも否定形で命令されていた私にとって新鮮な言葉だった。その時になって初めて私は何をしたらいいのかを学んだ。
私は穏やかな子どもになるよう努め始めた。確かに光はいつでも私を眩く見下してきたけれども、私はあの本のような人間と出会えると思うと、どんなことでも耐えきれる気がした。反抗心を胸に抑え込む生活は確かに長かったけれども、経験も言葉も足らなかったけれども私は頑張った。
一年が経った。約束通り私を私の両親が迎えに来る日が決まった。私は旅行鞄を与えられて、そこに着替えや雑貨、そして大切な本を入れてもらった。大人は私に、その日が来たらあなたの母親が迎えに来るよと言った。私はようやく光から解放され、光のない生活が送れると思って内心で喜んだ。
そして解放の日が明日に迫って、あの家の皆々が私にお祝いをした。そこではいつもよりは豪勢な食事が振舞われて、それから角が取れた私に子どもたちがそれぞれ言葉を手向けて、あの子の番が来た。あの子は私が殴った日から相変わらず一言も話していなかったけれども、その日は私にあのいびつな笑みで、やっと光になれるね、おめでとうと言った。
その言葉を聞いた瞬間、私の体に怒りが込み上げてきた。その言葉は私の目的を否定する言葉でしかなかった。私はあの子を憤怒の目で見据えた。あの子は自分が何をしたのかも知らずにたじろいだ。なりたいのは、見つけたいのはそれじゃないと私は衝動を抑えきれず爆発させてしまった。
その夜、私は大人たちにきつく戒められて縄で木に縛りつけられた。大人たちの一人が去り際に、それでも予定は変えられないから明日引き取ってもらうことなるとだけ言い残した。私はその言葉を聞いて、希望はなくなったわけではなく、これでもまだ光のない世界に行けるのだと気持ちを落ち着かせた。数時間ほど経ち、風邪をひいては迎えに来るあなたの両親に悪いからという理由で縄が解かれた。
そして私は大人に連れられてあの家の中に入ってから、早く寝なさいという命令通りにすぐに自分のベッドに入った。両親はいったいどういう存在なのだろうかとか、何度も考えたはずの疑問が幾つも頭に浮かんできて、やけにその夜は眠れなかった。
私は起床後、大人たちと身支度を整えて、迎えに来るはずの母親をトランクとともに待った。母親がやって来た。彼女は光を放っているようには見えなかった。穏やかな存在であるように思えた。母親は色々とあの家の大人と話して、私はその話をただ聞いていた。最後ですがと母親は言って、本の状態はどうですかと聞いた。
大人が私に、旅行鞄を開けなさいと優しい声色で命じた。私は旅行鞄を開けて本を取り出そうとして、その本がぼろぼろになるまで破られていることに気づいた。私は頭が真っ白になって、何もできずにいた。母親がどうしたのと言って、旅行鞄の中を見た。
それを見た途端に、母親は取り乱した。唐突に母親が光を帯びだした。母親はこの嘘つきたちが、本が大切に扱われていないじゃないかと吐き出した。大人たちは明らかに狼狽していた。私はあの子がやったんだと大きな声を出した。大人たちは事情を知っていたので、あの子を呼んだ。
あの子は大人たちに連れられて現れ、僕じゃないと言った。母親は、本さえ大切にせず他人のせいにもするような子どもは必要ないと私にわめきたてた。大人に怒られたのが気に障って私が人目を盗んで本を破いたんだとあの子は述べて、私のせいにしようとした。大人たちは私か動転している母親のみを見ていた。
その時私はあの子のうっすらと笑っている顔を見た。私はその笑っている顔を見てすぐに、あの子が光を喪失していることに気がついた。ただ居心地の良さは感じなかった。あの子はまさに私の生き写しのように黒くきたならしく笑みを顔面に貼り付けていた。
私は私の夢が瓦解していく瞬間をつぶさに捉えていた。けれどもどうしようもなかった。あの家の大人たちは私が犯人であると思い込んでしまった。母親も私を責め立てていた。喜びの園を目前にした私の足場があっという間に壊れ朽ちていく中、あの子はぎらついた眼でにやついていた。
私は破損した本を大人から奪い取って一心不乱に逃げだした。なぜだかいつか渡れなかったあの橋を越えようと思えた。あの橋を越えれば光がない世界に行けるような気がしていた。あの家を出る間際、あんな子どもは追う価値もないと、母親と呼ばれていた存在が声を荒らげるのが聞こえた。
私は橋までやって来た。あとはそこを渡るだけだった。だが渡る途中で、どこまでも光があり、光のないものは壊れたり、黒く汚れていくのかもしれないという確信が私の体内からせり上がってきた。私はもうここから飛び降りようと思った。去りたくなってしまった。
だから私は橋から身を投げた。水は衝撃を全身に与えて口が開いて息が抜け出ていき、体が思うように動かずに水面に光が見えて、光から遠ざかっていく私は本を抱えたまま目を閉じようとした。けれどもそれは叶わなかった。あの家の大人の一人が私を川から引っ張り出したのだ。
私は死ねなかった。私があの家に戻ってきたときには母親はもういなかった。本は、私が川から引っ張り出された時に流れ去ってしまった。私はまた光に照らされて生きることしかできなくなった。光から逃げ出すことなどできないとも気づいてしまった。
だから私はせめて光にならないように生きることにしている。そのためほとんど強制的に採用されたとある職場ではすぐに首になったよ。そんな私はあの本の内容も題名も分からないけれども、あの本を抱えていたときの感覚は忘れないように決めている。これが私の心中だよ。