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泥と硝煙に愛は耐えられるのか?  作者: 菅原やくも


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2/2

後編

 絶え間なく、味方の砲撃の音が響いていた。


 歩兵たちは銃剣をつけた小銃を手にして、そのときを待ち構えていた。兵長は腕時計で時間を確かめながら、一抹の不安を覚えた。これまで幾度となく敵への砲撃はおこなわれていたが、さほど動じない戦線が、果たして小一時間の集中砲撃と歩兵の突撃で、突破できるのだろうかと……

 しかし疑問に思ったところで、無駄だった。作戦は始まっていた。


 そして、そのときが来た。味方の砲撃が止まると兵士たちは一斉に塹壕を飛び出し、硝煙と煙幕に包まれている敵の塹壕へ向かった。

 地獄絵図の再来だった。突撃する兵士たちは、敵の機関銃陣地から放たれる弾幕により、糸を切られたマリオネットのように崩れた。兵長の不安は的中した。あれだけの砲撃で、今更簡単に敵が怯むはずがなかったのだ。すでに味方の陣形は崩れていた。雷鳴のように銃声が響き、再び砲撃の撃ち合いも始まっていた。


 突然、前を進んでいた兵士の足元が爆発し、兵長はとっさに伏せた。


 地雷だった。兵長は、その吹き飛ばされた兵士のところに駆け寄った。彼は苦痛に顔をゆがめ、身体を痙攣(けいれん)させ、人間のものとは思えぬ叫び声を上げたていた。その兵士の脚は消えていた。

 さらに止めを刺すかのように、機関銃の弾が飛んできた。弾丸は兵長の近くをかすめ、倒れていた兵士の息の根を止めた。

 銃弾は周辺の地面にめり込み、泥が飛び散る……


 兵長は素早く移動し、近くの大穴に隠れた。それは砲撃でできた穴だった。もっとも、そうしたクレーター状の穴は、とうの昔からあちこちにできていた。兵長はすぐに小銃を構え、射撃の姿勢をとった。威圧的な水冷式機関銃を、銃手は別の方向へ向けて間欠的に射撃を続けていた。兵長が持っているのは狙撃銃ではなかったが、この距離で狙うには充分だった。


 一発撃ち込むと機関銃手の頭がカクンと揺れ、後ろに倒れた。だが、すぐさま別の兵士の姿が現れた。敵は兵長の姿に気づき、機関銃の銃口を向けた。それでも距離があるはずだったが、兵長は、銃口を間近くで突きつけられた気分だった。だが、銃弾は飛んで来なかった。


 敵は焦った表情だった。機関銃は弾切れだった。まだ兵長の運は尽きていなかった! 彼は腰に下げていた手榴弾を素早く手にしてピンを抜き、敵陣地に向かって高く投げた。

 それは狙い通りの場所に飛び込み、炸裂した。敵は叫び声とともに散った。


「はっはっは! 一個潰してやったぞ」


 さらにもう一個投げ込み、止めを刺した。それから身をかがめたまま進んだ。その途中、別の穴でうずくまり、むせび泣いている兵士を見つけた。


「カミーユか?」

 兵長は近寄って確かめた。


「またっく、シェルショックだな?」


 それは砲撃の衝撃によるショック症状だった。後世では、戦闘ストレス反応と呼ばれる心身症の一種であることが判るが、まだこの時代は、砲撃の爆風や衝撃により引き起こされるものと考えられていた。


「おい! しっかりしろ!」


 兵長は二等兵の顔に、力いっぱいの平手打ちを食らわせた。焦点の定まっていなかったその目が、正気を取り戻しはじめた。


「へ、兵長殿?!」


「気をしっかり持つんだ!! この先に塹壕がある!」


 兵長は身を低くしたまま、二等兵を引きずるようにして進んだ。吹き飛ばした機関銃陣地を過ぎたところに塹壕があった。二人は迷わず飛び込んだ。

 そこには敵だけでなく、味方の死体もたくさん転がっていた。

 二等兵は目の前の光景に呆然としていたが、兵長は慣れたものだった。それから兵長は、小銃に付けている銃剣で、死体を小突いてまわった。明らかに死んでいると分かるものもあれば、本当に死んでいるのかどうか、分からないものもあった。


「な、なにしてるんですか?」


「ああ……死んだふりで、不意打ちをかます敵がいないか確かめてる。大丈夫そうだ」


 それから、近くに倒れていた味方の兵士の死体から、弾薬と手榴弾を取り上げた。


「さて、少し休もう」


 散発的に銃声が聞こえていた。ただ、敵の塹壕の一つが、死体だらけになっているということは、敵戦線の一番初めは、おおかた突破したのだろうということだった。突撃開始から、横に並んでいた別の小隊、サルヴァドルやクロードとも離ればなれになっていた。とはいえ、このような混乱状態では無理もなかった。

 すると突然、一人の兵士が塹壕へ転がり込んで来た。


「なんだ!?」

 その兵士は頭から血を流し、うめきながら片方の腕を抱えていた。どうやら、怪我をしているようすだった。


「おい、大丈夫か?」


 兵士は小銃を持っておらず、代わりに赤十字のマークが入った腕章をつけ、同じく赤十字のマークが大きく描かれたカバンを背負っていた。


「衛生兵だな」


 だが、その衛生兵はただ呻くばかりだった。


「カミーユ、手伝え!」


 そうして兵長は、衛生兵の持ち物から包帯や消毒液を取り出し、怪我の簡単な処置をしてやった。頭は打撲と擦り傷、腕は銃弾がかすめたようだった。どちらも、この戦場においては大した怪我ではなかった。

 ただ、その衛生兵の眼には、恐怖が浮かんでいた。その着ている服装を見れば、味方ではなく敵だということが分かった。

 彼は懇願するように何か言葉を発したが、兵長と二等兵には分からなかった。


「言葉が通じないな」


「ポール兵長、この人……敵ですか?」


「まあ、そうだな」


 兵長は平然としたようすで、近くにあった木箱を引き寄せると、椅子代わりにした。


「敵といっても、衛生兵を殺すわけにはいかない」

 そう言ってタバコを取り出し、火を付けた。


 じっさいのところで、条約によって禁止されていた。だが現実には、誤射ということで殺される衛生兵も少なくなかった。


「あんたも吸うかい?」


 衛生兵は恐る恐るタバコを受け取った。彼も、カミーユ二等兵と同じくらいの若者にみえた。

 タバコに火をつけると、束の間、戦場が静かになったような気がした。


「次のクリスマスは、まだ来ないのかねぇ」


「どうしてです?」


「クリスマスには、お互いに撃ち合いを遠慮するのさ」


 それは後世において、俗に“クリスマス休戦”と呼ばれるものだった。だが、これらは公式なものではなく、戦線の兵士達で自発的に行なわれたものでもあった。


「“敵を愛しなさい”」


 兵長はぼそりと、煙草の紫煙とともに言葉を吐き出した。「聖書には、そんなことが書いている。ただ……ここじゃ、愛どころか憎しみの連鎖みたいなものだ。イエス様も、こんなの見たら卒倒ものだな、きっと」


 兵長は皮肉な笑みを浮かべた。「まあ、俺は敬虔(けいけん)なカトリックでもないし、それに聖書には“思い悩むな”とも書いてある。なんでこんな戦争やってるかなんて、俺らが理由を考えるだけムダだな」


 どこから人の声が聞こえたかと思うと、見知らぬ三人組の兵士が現れた。一人は短機関銃を、他の二人は小銃を構えていた。まったくもって戦闘のさなかでありながら、ポール兵長は気が緩んでいた。


 三人組は、敵だった。


 お互い、着ている軍服の違いに気づくと咄嗟に銃を構えた。間近で撃ち合いになるかと思われたが、衛生兵がなにか喚きながら両者の間に割って入った。

 言葉が通じなくとも、衛生兵が何を言わんとしているか、兵長には分かるような気がした。だが、この状況では相撃ち必須と思われた。


 そのとき——

 連続する銃撃音とともに、敵は衛生兵もろともその場に崩れた。


「兵長、危ないところでしたぜ」


 ポール兵長が声の方を見ると、塹壕の外には軽機関銃を構えたサルヴァドルの姿があった。


「恩に着るよ」


「援護すると言ったでしょう」


「ただ、衛生兵まで撃つのは……少しやりすぎだ」


「けっ! 兵長は人が良すぎる」

 サルヴァドルは軽機関銃とともに塹壕内に降りた。「衛生兵だって最近じゃ、拳銃を持ってる。もしものときに撃たれないとも限らねぇ。敵を見たら、とにかく撃つに限りますぜ」


 それから、軽機関銃を地面に置くと、倒した敵兵の武器を手にとった。


「ほう! 機関短銃(サブマシンガン)なんて使ってやがる!」


「なんですか? それは」カミーユ二等兵が尋ねる。


「ああ、使うのは拳銃弾だが、とんでもねぇ連射式の銃。塹壕の中じゃ、散弾銃(トレンチガン)と並んで大いに活躍する代物……目の前の敵を一掃する塹壕清掃機ってわけだ」


 サルヴァドルは試しに、近くの死体に向けて引き金を引いた。小気味よい音とともに弾丸が連続発射され、薬莢(やっきょう)が周囲に舞った。


「こいつはいい! 持って行くとしよう」


「おい、サルヴァドル、ところでクロードはどうした?」


「さあな……置いてけぼりにしちまった」


 そっけない返事だった。兵長は、クロードもやられてしまたのだろうと思った。

 そして、周囲の銃声が少しかばかり大人しくなったかと思うと、発動機の響きと金属がこすれ合うような騒々しい音が聞こえた。


 するとサルヴァドルは「よ! ついにお出ましだ」と、言った。


 三人は塹壕からゆっくりと顔をのぞかせ、あたりに視線を向けた。


「なんですか⁉」二等兵は驚きの声を漏らした。


戦車(タンク)だ」


 それは、ゆっくりとした歩みで、敵の銃弾を跳ね返しながら戦場を進んでいた。兵長も、戦車という新兵器が来るという噂話は耳にしていた。現物にお目にかかるのは、初めてだった。

 農業トラクターのような無限軌道(キャタピラ)を備え、装甲(アーマー)に身を固めた車体、大砲と機関銃で武装した代物だった。いわば動くトーチカ、あるいは移動する小型要塞とでもいう代物だった。


「はぁ、まるでデカい鉄鋼の獣だな」


「獣のなかでもアルマジロだ。巨大なアルマジロ。そんで、横から大砲が飛び出してらぁ。いよいよ敵陣地に突撃して、ぶっ放すに違いない」


 まるでサルヴァドルの期待に応えるかのように、その砲塔から閃光が放たれた。だが砲弾は、見ていた兵長たちの近くに着弾した。

 彼らは砂塵(さじん)と爆風に翻弄(ほんろう)され、その場に伏せた。


「クソ! あのバカめ」

 サルヴァドルは悪態ついた。「動きはうすのろカタツムリみたいなくせに……俺たちを敵と間違えてますぜ、きっと」


「ああ、無駄口はそのくらいにしよう。さあ、行くとしよう」


「了解、兵長殿! 敵陣に突っ込むのが俺らの仕事だしな」


 そうして三人は塹壕を出ると、銃を構えて戦場を進んだ。


***


 その瞬間、ポールはかつて派手にやらかした、酒場での喧嘩(けんか)を思い出した。そのときの相手は元ボクサーだった。痛みの感覚よりも、パンチを胸に受けた衝撃のほうが印象的だった。

 しかし今は、ポールの胸に当たったのは(こぶし)ではなく、小銃の銃弾だった。そしてポール兵長はその場に倒れた。サルヴァドルもとっくの前に、敵の銃弾に屈していた。


「兵長!!」

 カミーユ二等兵は叫び、駆け寄った。


 ポールは、口の中に鉄っぽい味が広がり、胸に痛みがにじむのを感じた。とうとう、口利かぬ者たちの仲間入りをするのであろうことを悟った。

 抱え起こそうとする二等兵に向かって言った。


「カミーユ二等兵……いいか、聞け」

 それから、なかば震える手で、服のポケットから、一枚の小さな写真と封筒を取り出した。「この手紙を直接……写真の女に渡してくれ」


「この人は?」


「俺の恋人。戦争が終わったら、結婚するつもりだった……」


 二等兵はどう答えていいか、分からなかった。


「頼んだぞ! カミーユ、生き延びろ」


 ポールはそれだけ言うとうなだれて、もう言葉を発することはなかった。カミーユは、泣きそうなりながらも黙って頷き、受け取った手紙と写真を自分の服のポケットに入れた。それから、兵長の言葉をしっかりと胸に刻み、小銃を持って立ち上がった。


***


 ——“メアリ、君がこの手紙を読んでいるということは、俺は地獄みたいな戦場で死んだということだろう。


 あるいは、こんな手紙を書いておこうと思ったのが、そもそもの間違いなのか? ほんとうに自分でも、酷い場所に来てしまったと感じる。戦線では、神様は人間が嫌いなのかと思えるくらい、人が死んでいってる。弾薬と同じくらいに、簡単に人間が消費されてしまう。ごめんよ、余計なことを書くのはやめにしよう。


 どうか、悲しまないでおくれ。たしかに俺だって、君と結婚するかどうかとても悩んでいた。でも、戦場に行く前に君と式を挙げていたら、こんなにも早く、君を未亡人にしてしまうところだった。


 俺のことを、きれいに忘れてくれとまでは言わない。だが、この狂気の沙汰が終わったときには、もっと良い男を見つけるのがいいさ。後ろを振り返らず、前を見て人生を歩むんだ。”——

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