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泥と硝煙に愛は耐えられるのか?  作者: 菅原やくも
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前編

 朝陽の光が、周囲に照りはじめていた。空に雲はなく、晴れわたる気配を感じさせた。本来ならば、素晴らしい一日の始まりのはずであった。足元に溜まっている、大量の泥水さえなければ……

 人々の表情は、空の模様と対照的だった。


 先日まで続いていた雨のおかげで、塹壕(トレンチ)の中は水浸しの状態だった。とはいえ、こうしたことが昨日や今日にはじまったわけでもなかった。サラエボでの皇太子暗殺事件を発端に、一九一四年から始まった欧州大戦はこれまでの常識を逸し、あまりにも長期に、途方もなく長きにわたって続いていた。


 塹壕の中に溜まった水の上には、大小さまざまな木の板が桟橋のように置かれていた。それらは兵士たちが、自分たちの足を濡らさずに行き来するための通り道であった。もちろん、配置につく兵士らが塹壕の中から、敵陣地へ向けて銃を撃つための足場も兼ねていた。

 どのみち誰であれ、軍用ブーツを履いているからといって、きれいとは言えない泥水に足を漬けたくなどなかった。ましてや彼らは今、ここで暮らしていると言っても過言ではなかった。

 ねぐらとなっている洞穴(どうけつ)は、塹壕のさらに深いところに位置していた。大雨の降った日には、目も当てられない状況となることも少なくなかった。

 いずれにせよ、ここは戦場なのであった。一日の終わりに、無事に自分の命が残っていれば、それ以外のことは些細(ささい)な問題でしかなかった。


 一人の兵士が足場の上でしゃがみ、タバコをふかしていた。早朝のこの時間は静かなものだった。砲撃の音も、銃声も、あるいは誰かの叫び声も、まだ聞こえてはいなかった。


 戦争が始まったばかりのころは、嗜好品(しこうひん)であるタバコはもちろん、夕食のときにはワインやビールなど、気前よく様々な物が配給されたものだった。だが今は、あらゆるものが不足していた。戦うために必要な弾薬ですら、ときには節約しろという通達が出る有り様だった。


 それに戦線も、兵士たちの働きの割に変化がなかった。毎日銃を撃ち合い、頭上を砲弾が飛び交う、ときどき誰かが死ぬ。そんな単調な日々の繰り返しだった。まったくもって、不毛な応酬以外のなにものでもなかった。だが戦線にいる者たちは、それについて疑問に思うことはあっても、議論することはなかった。末端にいる兵士たちにとっては、上官から命令を受けて銃を撃ち、その合い間に食事をして休息をとる、それらが全てなのであった。


 タバコをふかしている兵士は、戦争が始まる前から軍にいた。つまりは古参兵というわけだが、その性格や素行のおかげで昇級とは無縁だった。とにかく、誰かに命令を出すよりは、敵に向かって銃をぶっ放すほうが性に合っているわけだった。それでも、四、五人からなる小隊を率いる立場ではあった。階級で言えば兵長。近いうちに、伍長へ昇級するといった話も出ていた。彼は精力的に働いているわけでもなかったが、昇級の理由は簡単で、適任が他にいないかったのだ。物資と同じように人員も不足していた。

 それに昇級が良いこととは限らなった。彼の同世代の知人には、次々と昇級していく者もいたが、皆死んでしまった。なぜなら指揮を執っている最中に、敵の砲火や榴弾(りゅうだん)にやられてしまったのだ! 戦争は三年近く続いていた。

 彼は軍服の胸ポケットから、一枚の小さな写真を取り出して見つめた。そこには、兵長と同い年くらいの女性が家の戸口に立ち、少し遠慮がちに微笑んでいる姿が写っていた。


「兵長殿、」


 唐突な呼びかけに、彼は写真をポケットに戻して声の方を向いた。

 声をかけてきたのは、つい最近やって来たばかりの新人兵士だった。


「おはようございます! ポール兵長殿」


「よう、カミーユか。おはようさん」


 カミーユ二等兵は、あどけない感じの印象を与える若者だった。聞くところによると、学校を卒業したばかりだという。銃も満足に撃てなさそうな若者まで、戦場に送り出さねばならないなんて、戦況はどうなっていくのか?

 ポール兵長からしてみても、先が思いやられる気がした。だが深く考えたところで、どうにかなる話でもなかった。


「今朝は冷えるな」


「あ、はい」


「さて、一日の始まりだ」


 兵長は立ち上がり、短くなったタバコを水溜まりに捨てた。


「それで、サルヴァドルとクロードは?」


「はい。朝食を終えて、小銃の準備をしています」


「そうか。カミーユ、お前は?」


「僕は晩に手入れをしています。なので、準備はすぐ整います」


「うむ。いい心がけだ」

 ポール兵長は満足げに言った。「じゃあ、そろそろ配置につくとしようじゃないか」


「ですが、兵長殿……」


「どうした?」


「弾薬がもう、一人につき小箱一つ分しか残っていません」


 二等兵は、弾薬十五発入りの紙箱をいくつか抱えていた。


「それだけ?」

 兵長はその小箱を一つ、受け取った。「置き場には、たったそれだけなのか?」


「はい。僕が見たときはそうでした」


「まあ……しょうがないさ。いずれ補給班が持ってくるだろうよ」


 そうしているうちに、サルヴァドルとクロードも小銃をかかえてやって来た。


「よう、二等兵! 浮かない顔してんな?」

 お調子者のサルヴァドルは言った。「それとも兵長、朝から叱りつけでもしたんですか?」


「そんなわけないだろう」

 兵長はあきれたように首を振った。「俺たちが使う弾薬の乏しいことに、気を揉んでいるんだよ」


 それを聞いて、普段から無口で沈着なクロードも「仕事熱心な」と、つぶやいた。


「射撃の腕前もあれば、文句なしだよ」

 兵長は仕切り直した。「さあさあ、今日も仕事だ。みんな持ち場につきたまえ」


「つまらん戦争に戻る、ってわけだ」

 サルヴァドルが茶化すように言った。


「ああ、まったくだよ」

 兵長は淡々と応じるだけだった。



***


 朝の虚脱状態の兵士たちへ喝を入れるかのように、味方の大砲が咆哮(ほうこう)を上げた。続いて小銃や機関銃の銃声も、少しずつ加わりはじめる。しばらくすると、上空に発動機(エンジン)の唸り声が聞こえてくるのだ。

 味方の飛ばした偵察機か、あるいは敵の戦闘機、はたまた爆撃機か……だが、塹壕にいる兵士たちは、さしたる関心を払っていなかった。気をつけるのは、頭上で敵が爆弾を放り投げたときだけだった。


 そうしているうちに、敵の撃った砲弾が飛んでくる。たいていは塹壕の手前に落ちるか、あるいは頭上を飛び越し、後方に落ちるのが常であった。もちろん、だからといって直撃しないわけではなかった。そのときには兵士たちの四肢は引き裂かれ、塹壕から吹き飛ばされる。それでもマシなほうで、兵士の姿が消失する、という言い方のほうがしっくりくるときもあった。


 どうであれ、ほんの少しでも身を守りたければ、鉄製ヘルメットはしっかり被っておけ! というのが常識だった。榴弾の直撃でなくとも、いつどこからか破片や銃弾が飛んでくるとも分からなかった。そして、そうなるかどうかは、統計学的な気まぐれと確率任せの問題だった。


 兵長はこれまでに、さまざまな光景を目にしてきた。銃弾を頭に受けてもかすり傷で済んだ者もいれば、顔面へまともに銃弾を受けて死んだ者、榴弾の大きな破片が身体に突き刺さって死んだ者、ときには、絶え間ない砲撃の音に発狂する者もいた。平時であったならば反吐(へど)が出そうになる光景さえ、すっかり見慣れたものになっていた。

 さりとて、負傷という分類のなかにおいて、直接の戦闘によるものは、実際の数としては少ないほうだった。むしろ、兵士にとっての最大の敵は、身近な健康上の問題であった。まずは、なんといっても塹壕足(ざんごうあし)。歩くことはおろか、腫れた脚では靴を履くことも困難になった。最悪は壊疽(えそ)を起こし、脚を外科的に切断せざるをえなくなる。


 伝染病も厄介だった。赤痢やチフスなんて願い下げであったが、病気を媒介するシラミが流行ることもあった。いずれにせよ、清潔とは無縁で程遠い場所で、それらから逃れるのは難しかった。どんなに貧しい出身でも、自分の家のほうがまだマシと言えた。


 誰もが——宣戦布告した政治家たちですら——、戦争はすぐに終わると考えていた。遅くとも、始まった年のクリスマスまでには決着がつくだろうと……

 そんなことは、とんだ思い違いとなったのだ。深く長い塹壕は今、内陸の中立国スイスの国境から、イギリス海峡に面する海岸線にまで達していた。両軍ともに完全な膠着(こうちゃく)状態に陥っていた。 


 前途多難という状況だったが、砲兵たちの士気はまだ高かった。なにせ彼らは、大音響とともに大口径の砲弾を、敵陣地に打ち込むという実感があった。それに比べて歩兵のやる気のなさときたら、目も当てられなったただ、ポール兵長も他人のことは言えなかったが……


 戦争が始まったばかりのころは、兵士たちは小銃を構えて戦場を駆け回ったものだった。だが、機関銃陣地なるものが登場するなり、末端にいる兵士の仕事は銃を構えて敵兵を撃つことから、スコップやツルハシを手に穴掘りへと変わった。とりわけ騎兵はお役御免だった。

 皆、軍服を着た炭鉱夫のようだった。希少鉱物や石炭が出てくるわけもなく、掘って出てくるのは泥、泥、泥……大きな石ころ。またあるときは、雨水を汲みだした。

 そして、長い時間と膨大な犠牲の末に出来上がったのが、この塹壕(トレンチ)というわけだった。


 敵の、吠えるように飛来する機関銃の銃弾という殺意から、身体を守ってくれる塹壕。だがときには、榴弾が飛び込んできて大惨事になることもあった。狭い部屋で爆弾が爆発するざまを想像してみると分かる。逃げ場はなく、爆風と鋭い金属片が細長い塹壕の中で暴れるのだ。


 ポール兵長がここまで生き延びてきたのは、ある意味で、幸運以外のなにものでもなかった。もちろん彼も、ずっと無傷でやってこれたわけではなかった。裂傷に打撲、骨折、それこそ榴弾の破片が刺さったこともあった。軽い塹壕足にもなり、コレラなどの病気にも(かか)った。いずれでも、後方で少しばかりの療養休暇をとると、すぐに戦場へ戻った。というよりは、早く戻ってくるよう命令された、というのが正確なところだった。

 ただ、復帰どころか、自分自身の人生に戻ることが叶わなかった仲間がいるのも、事実だった。


***


 あくる日の晩、炊事兵たちは嬉々としたようすで、食事の準備を進めていた。

 その日の夕食は量も種類も多く、どこか豪勢な雰囲気があるように感じられた。


「おい、これ見ろよ。ワインもあるぜ」


「珍しいじゃないか」


「ここ最近は、気の抜けたビールすら懐かしかしく思ってたんだ」


「上の連中も、ちっとは最前線の士気を上げる気になったらしい」


 話しつつも兵長は、長年の経験から、近いうちに大規模な作戦でも始まるのだろうと予感した。だいたいにおいて、大きな動きがある前には、兵士たちを喜ばせておくという算段があることに気が付いていた。


「今夜は盛大に食って飲むぜ」


「おいおい、ほどほどにしとけよ。俺たちはまだ戦争の真っただ中にいるんだ」


 だが兵長も、和気あいあいとした夕食の席で、それ以上水を差すような真似はしなかった。彼だって、美味い飯が食える時間はなによりの楽しみだった。


 翌日は早朝から騒がしかった。現場の指揮官たちが各地を歩いてまわって、兵士達の士気を鼓舞(こぶ)していた。補給物資も、後方から続々と届いてきた。大量の弾薬と手榴弾(しゅりゅうだん)、新品のガスマスクと予備のフィルター……さらには新型の半自動小銃、歩兵一人で運用できる軽機関銃まであった。

 クロードは黙って武器を手にとり、あれこれと検分していた。カミーユ二等兵は珍しそうに、それらを横から眺めていた。


「こりゃ、すごいですぜ、兵長」

 サルヴァドルが言った。


「そうだな」


「新しい作戦が始まるんでしょうか?」

 カミーユ二等兵も訊いた。


「そうだな、たぶん。とりあえず、他所の部隊に持ってかれないうちに、自分たちの分をたっぷり確保しておくとしよう」


「兵長、突撃の時はこの軽機関銃で援護しますぜ」

 サルヴァドルは、早くも弾倉へ弾を込めはじめた。


「頼もしい限りだ」


 そうして指揮官の一人が近づいてくると、ポール兵長は真っ先に訊いた。


「これから、どんな作戦がはじまるんです?」


「大規模反攻作戦だ」

 指揮官は仰々しく答えた。「まず手始めに、全ての砲兵部隊が敵陣地へ徹底的な砲撃を行なう。

 しかるのちに、機関銃部隊が援護しながら、君ら歩兵部隊が突撃し、敵の塹壕を押さえて敵兵を一掃する。我が方へ有利になるよう、戦線を一気に押しし進めるのだ」


 兵長は予想した展開だと思ったが、作戦の規模の大きさには少々驚いた。


 指揮官は「一斉突撃は本日の正午。準備を整えて待機しろ」と言い残し、塹壕を中を進んでいった。

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