序章 まだ新月の頃 ②
俺が手伝ったことで仕事は倍のスピードで進む様になった。
全部終わると、男二人は俺と目線を逸らすようにして、こそこそ帰っていった。
正直、嫌な気持ちが残ったけれど、俺は黙ってそれを見送った。
水村を思い出して辺りを見渡したが、もう姿は見えなかった。
先に帰ったのかもしれないと思って、慌てて廊下に飛び出る。
なぜだか、もう一度水村と会わないといけないような気がした。
廊下の先に水村の姿を見つけた。帰る準備をしてエレベーターに向かって歩いている。俺は急いで声をかけた。
「水村!」
水村は立ち止まって、振り返る。体の動きと共に、彼女の背中で一つに結んだ髪の毛が揺れた。
その髪の動きが印象的だった。
「何?」
水村は不審そうに尋ねる。
とりあえず俺は彼女へと向かいながら、片手を上げて微笑んだ。
今までこうして笑いかけると、大体の女性は頬を赤くするか、恥ずかしがって俺を見るかの2パターンだった。
だけど、大抵それでうまく行く。
逆に言うと、それだけでいい。
だけど、水村はそのどれでもなかった。
嬉しそうでも、顔を恥ずかしそうに赤くするでもなかった。
強いて言うなら、とても面倒そうな顔をしていた。
「川原も帰る?」
そう言ってあっさりと歩きを再開する。
俺はその隣を歩きながら、内心はとても焦っていた。
衝動的に声をかけただけで、それ以上は、何を話すかも決めていなかった。焦りながら早口で話しかける。
「遅くまでお疲れ」
「お疲れ様」
そこでエレベーターホールについて、彼女は下へ向かうボタンを押した。
「あのさ」
「え?」
俺は少しためらって、口を開いた。
「遅くなったし、飯でも食べて帰らない?」
ひどい誘い方だった。
飯、なんて女性を誘うやり方ではない。ましてや遅くなったし、なんて、本当にそのままだ。
いつもはもっとスマートにできる。
だけど、俺はその時頭が働いていなくて、そう、とても緊張していた。
そのせいか、あり得ないくらい格好悪く誘った自覚はある。
そのくせ、どんな返事が来るのか、気になってそればかり考えてしまった。
そんな俺らしくない誘いを、水村は静かに受け止めた。
答えをじっと待つ俺に、彼女はあっさりと返事する。
「ごめん、いいや」
「え?」
水村はスッと顔を俯かせた。
「もう遅い時間だし。ごめん」
あまりにも飾りのない返事に、俺は驚いた。
即答で断られるなんて、今までなかったから。
「あ、そう、か。そうだよな、遅いもんな」
俺は誤魔化すように笑うと、水村は視線を下げたまま頷いた。
「ごめん。私、明日も仕事あるんだ」
「そうだな、悪い」
ちょうどそのタイミングでエレベーターがついた。
水村はそれに乗り込もうとして、だけど思い出したように立ち止まる。
俺へ向かって顔をあげた。
その瞳が俺を見た。
「川原、ありがとう」
「え?」
そっけない言葉が来ると思っていたのに、意外にも優しい声と言葉だった。
俺は驚いて、思わず聞き返した。水村はそのまま俺を見て、もう一度口を開いた。
「川原が手伝ってくれなかったら、全然終わらなかった」
水村は少し目線を下げる。そして
「ありがとう」
小さく口元を綻ばせて笑った。
その顔が、表情が、俺を引きつけた。
その笑顔を可愛いと思ってしまった。
「水村」
俺はたまらず水村を引き止めた。
驚いた顔をして、水村は顔を上げた。
「何?」
引き止めたくせに、俺は猛烈に困る。
何も思いつかない。
だけど、一つだけ言えるとしたら、俺はあともう少しだけ、水村と話したかった。
「お疲れ」
情けないことに、出てきたのはそんなありふれた言葉だった。
格好悪い、だけどその時の俺の渾身の挨拶を、水村は困ったように笑って受け取った。
「じゃあ、お疲れ」
そういうと、俺が何か言う前に、ドアを閉めた。
俺は一人取り残された。閉まったドアを見つめていた。
水村は癒し系ではなかった。
さっぱりで、きっぱりした男前な性格だった。
彼女の行動は色々規格外で。
だけど、周りをバッサリと切り捨てた彼女の言葉に、俺は救われたような気がした。
あの毅然とした彼女の姿が、目に鮮やかだった。
だけど、俺のタイプじゃない。
そんなのは、全く俺の好みじゃない。
なのに、彼女は俺の心にいきなり飛び込んできた。
俺は今日初めて話した、好みのタイプではない女性に、
思い切り心を掴まれた様な気がした。
***
あの日以降、俺は水村から目が離せなくなった。
それとなく聞けば、水村のことをいいと思っているやつは、予想よりも多かった。
その事に、なぜだか焦る。
ただ、その時の俺は、どうしてこんなに彼女のことが気になるのか、その理由を考えなかった。
そこから目を逸らせた、とも言える。
今なら言える。ただの強がりだ。
「水村って彼氏いるの?」
この間の同期に探りを入れる。だけど、そいつは俺の言葉を聞いて猛烈に嫌な顔をした。
「え、まさか、お前、水村のこと気に入ったの?嘘だろ」
そう言って、やめてくれ、俺の水村に、と大声を出す。
俺はとても嫌な気持ちになった。
「そんなんじゃない。この間たまたま一緒に仕事したから。いいヤツだなと思って」
それでもそいつは俺を嫌な目で見た。
「水村が減る。お前見るな」
ひどい言われ方に苦笑いが出る。
「大体お前のタイプじゃないだろう」
俺はその指摘をさらりと流した。
「で、どうなんだよ」
そいつはイヤイヤ返事をした。
「いないよ」
それを聞いて、俺は安心する。
だけど、次の言葉に俺はとても驚いた。
「でも、多分、好きなやついる」
「え?」
そいつは大きなため息をついた。
「同期の藤田ってわかる?そいつだと思う」
頭の中で藤田を思い浮かべる。今度はすぐにわかった。
正直仲がいいわけではない。見た目もどちらかというと普通の、でも悪いやつではなかった気がする。
だけどそれくらいしか思い出せないくらい、印象が薄い。
俺が考え込んでいると、そいつは俺を覗き込んだ。
「俺の予想だけどね。水村そいつの前だとすっげえ可愛い顔するんだよ」
「は?」
「本当にね、いい顔するんだよね」
羨ましい、そう言ってそいつはまたため息をついた。
俺も、心の中でため息をついた。
その頃の俺は、いつの間にか水村にかなり入れ込んでいた。
そんな自分の気持ちを、そろそろ認めないわけには行かなくなってきた。
だけど変わらず、水村と俺には全く接点がないままだった。
そして俺はついに見てしまった。
水村と、噂の藤田を。
仕事の合間にコーヒーを買いに行った時だった。
ちょうど水村の部署の前を通って、最近の癖で中を覗き込む。
水村は席を外していて、それを残念に思う。
ビルのロビーのコーヒーショップでコーヒーを買って戻る。すぐ目の前を水村が歩いていた。
ちょうどいい、と声をかけようとして、隣に男がいるのが見えた。
その人が藤田だと、すぐにわかった。
なぜなら、その時の水村がいつもと違ったから。
いつものキリッとして、そっけない態度ではなかった。
少し恥じらいながら、でもしっかりと笑っていて、とても可愛らしかった。
そう、とても可愛いらしかった。。
その姿は、一目で彼女が彼に恋をしているとわかるものだった。
キリッとした印象の水村が、柔らかくふわりと笑う。
クールな印象なんて感じさせないくらい、優しい笑顔だった。
あんな顔、俺には見せてもくれなかった。
俺だけではなくて、あの顔は多分誰にも見せていないのだろう。
一人を除いて。
だけど、その表情に俺は落とされてしまった。
よりによって、他の男に恋をしている水村の顔に、
またしても心を掴まれてしまったのだ。