序章 まだ新月の頃 ①
水村愛という女性の存在に気づいたのは、入社して1年経つ頃だった。
同期で同じ部署の男と仕事終わりに飲みに行った時だった。飲みながらお互いの恋愛事情とか、気になる女性の事を話していた。
「俺は、絶対、水村。水村愛」
そいつは即答でその名前を挙げた。
「水村?」
俺は最初、ピンと来なかった。
同期に対して失礼だけど、俺は水村を知らなかった。
「そう、水村」
そう言ってそいつは満面の笑顔で酒を飲んだ。
だけど、すぐに大きくため息をついた。
「今、誰とも付き合っていなかったら、絶対水村に声かけたんだけどなあ」
一緒に飲みにきているヤツは、それなりにモテて、今は社内の一つ上の美人の先輩と付き合っている。
「水村、本当にいいんだよ」
悔しそうに言う姿を見て、さらに興味が湧いた。思わず身を乗り出す。
「水村って、俺知らないな」
「だってお前のタイプじゃないから」
だからに決まっているだろう。と笑った。
「え?どういうこと?」
「水村はクールビューティだから」
頭を捻るけれど浮かばない。
俺の好みは可愛らしい子、で決まっている。
綺麗より可愛い、パンツよりスカート、ショートヘアよりセミロング。
昔から彼女として選ぶのはそういう子で、俺に寄ってくるのもそういう子だった。
それを知っているコイツは、大きく頷いた。
俺の好みではない人…と頭の中で想像していると、目の前の同期が口を開いた。
「水村って、小柄で目のキリッとしてる人」
「へえ」
そんな人いたかな、と言う俺の相槌に、同期は呆れたように笑った。
「興味ないな、お前」
「そんなことないよ」
俺はグラスを傾ける。こいつが話したそうだから、つい話を追ってしまった。
「で?どこがいいの?」
「見た目もキリッとしていて、俺の好みだし。性格もさっぱりで、男前なの。俺は好き。全部、好き」
「自称サバサバ女子だろ?俺はいいわ」
コイツがこんなに絶賛するのも珍しい。それが気に入らなくて、思わず反論すると笑った。
「いいよ。水村は俺のお気に入りだから。お前とかに汚されないでほしい」
もう、忘れて。
そのあまりの言いっぷりに、苛立つ。
確かに俺はモテる。
誘われた時に特定の相手がいなければ、基本断ることはない。一途に一人と付き合うよりは、短い期間で多く付き合うタイプと言える。
どちらかというと誠実な付き合いはしていないかもしれない。
かと言って、俺に会ったら汚れるような言い方はやめてほしい。
「やめろよ、そんな言い方」
「え、でもそうだろう?お前のタイプならあっという間に手を出して、飽きたら別れるんだし」
俺は苦い顔をした。同期にこう言われるって、相当信頼がない。
「俺の水村は大事にしたいんだよ」
「お前のじゃないだろう」
すると同期はため息をついた。
「そうなんだよ。結構人気あるんだよ、水村」
それでまた少し、水村に興味が湧く。
目の前の同期が、こんなに高評価を下す。周りからも人気がある。
それって、どんな子なんだろうと。
だから翌日こっそり彼女の部署まで見に行ってみる。
それとなく覗いて、俺はため息をついた。
絶賛されていた水村は、これっぽっちも俺の好みではなかった。
髪は自然なままの茶色いストレートで、それを無造作に後ろで一つに結んでいた。着ているのは白いシャツに黒いパンツで、周りのカラフルな色や花柄の洪水に比べたら正直地味だった。
メイクも最低限って感じで、顔立ちも不思議と甘さはなくて、その分、キリッとした眉の下の、スッと流れるような目が印象的だった。
確かに可愛らしい、よりはクールビューティ、と言った方が正しい。
でも、とりあえず
「タイプじゃない」
俺はそこを歩いて通り過ぎながら、そう呟いた。
それきり、水村のことは忘れたはずだった。
***
でも、それからすぐに水村と話す機会があった。
もうすぐ入ってくる新入社員の社員旅行の準備という仕事が回ってきた。
人数分の書類や沢山の物品を時間割ごとにまとめるという面倒な仕事を、俺たちの同期で順番にグループを作って、しかも時間外にやらないといけない。
俺が当てられた日は準備の最終日で、その場所には俺と水村、それから他部署の男性社員2人と女性社員1人が集まった。前日の奴らがサボったのか、今日が最終日だというのに、作業はほとんど終わっていなかった。週末の金曜日の夜に残業という事実以上に、仕事の大変さに全員がうんざりしていたと思う。
話し合った結果、俺ともう一人の女性社員、それから男性二人と水村の2グループに分かれて作業することになった。俺は水村との仕事に興味があったけれど、女性社員が俺と離れなかったから、仕方なく彼女と作業することにした。
俺はこういう時の仕事は超特急でやってさっさと帰るタイプだ。
だから彼女をそれなりにフォローしつつ、一人無言で作業を進めた。だけど、彼女は何かにつけて俺に話しかけ、俺はその度に作業を中断することになった。
こいつ、わざとやっているな。
時間稼ぎに作業をゆっくりやるとか、わからないふりをするとか、本当許せない。
仕事には真剣に対応するべきだと思う。俺はかなりうんざりする。
おまけに反対の組は男二人がすぐにサボるせいで進みが遅い。それにも俺はちょっと呆れていた。
早く終わらせてくれないと、俺も帰れない。
ひとまず自分たちの作業は終わらせた。
途中から彼女をそっちのけにして、俺一人でかなりこなしたからだと思う。
終わった分を俺と彼女で隣の部屋に運ぶ。仕方ないけど、これからあっちの分も手伝うか、と思っていた時だった。
「川原くん」
「何?」
後ろから声をかけられて、俺は振り返る。
少し下げた視線の先には上目遣いに俺をみる彼女がいた。
一度視線を下げて、それから躊躇ったように俯いて、それからもう一度俺を見上げる。
オレンジのチークが鮮やかだった。部屋の電球に照らされて、ピンクのグロスがキラキラした。
彼女ははにかみながら口を開いた。
「もう、終わったし。こんな時間だからご飯とか食べて帰らない?」
俺はちょっと冷めた目でそれを見てしまった。
自分でも、人気があることはわかっている。
モテる、人好きのする人間であることも、わかっている。
だけど、だからと言って、いつ誰がどんな場面で異性を誘ってもいいというわけではない。
いつもだったら、もっとうまい返事ができたのかもしれない。
だけどその時の俺は、いつものようにいい返事ができなかった。
「ああ、そう。俺はもう少しやっていくから、腹減ったなら先に帰れば?」
身も蓋もない、そっけない返事をしてしまった。
それもとても冷たい表情と声で。
まだ他の奴らは働いているのに。
仕事は全部、終わっていない。
なのに終わった、とかおかしい。
多分、仕事をしている段階から、俺はイライラしていたのかもしれない。
彼女の言葉で俺の苛立ちはピークに達して、そして彼女はそんな俺の反応に気圧されたのだと思う。
何か言いたそうにしていたけれど、結局黙って部屋から出て行った。
怒っていたかもしれない。
俺はため息をついて、それから残った分を片付けるために作業に戻ろうとした。
流石にあの量を3人で、全く戦力にならない二人と水村でやるのは厳しい気がしたから。
だけど、作業する部屋に戻るためにドアを開けようとして、俺は立ち止まった。
中からの会話が聞こえてきて、思わず足を止めた。
「川原とあの子、絶対戻ってこないよな」
「だろうな」
「あいつ、いろんなところで遊びまくっているから、きっとあの子も狙われてるんだろう」
「いや、夕方、川原がこの作業をするって聞いて、女子が大勢でじゃんけんして誰が行くか決めてたよ。あの子ああ見えてやる気満々だった」
「川原、マジすごいな」
そう言って二人が笑う。
男二人は手を止めて完全に話していた。奴らは話しながら笑う。
「川原とかイケメンってだけで得してるよな。羨ましい」
苛立っていた気持ちが、急速に冷めていくのがわかった。
俺は少し前の自分の行動を後悔した。
こんな風に言われているなら、手伝う事はないかもしれない。
ここまで言われて手伝うとか、ちょっと馬鹿らしいかも。
ドアにかけた手を下ろそうとした時だった。
部屋の中に大きな声が響き渡った。
「ねえ、終わった?」
声の主は水村だった。
俺はこっそり部屋の中を覗く。
男二人のところに、水村が立って歩いて行って、奴らの作業の様子を覗き込む。
見るなり
「っていうか、全然終わってないね」
そう言って、はっきりと苦笑いした。
男同士が顔を見合わせて気まずそうに笑う。
水村は二人の前で腕を組んだ。
「あのさ、私は川原くんのこと何も知らないし、興味もないけど」
水村は俺に聞かれているなんて思いもしないのだろう、その場にいない俺にも厳しい言葉を浴びせた。
「川原くんは私たちと同じ量を、あのスピードでほぼ一人でやり切ったんだけど。それは評価されていいんじゃない?」
男達が息を呑んだのが伝わる。
水村はさらに追い討ちをかけるように続けた。
「同じ様に仕事が出来ない時点で、文句言う権利とかないと思うけど?」
それはとてもキッパリとした言葉と態度で。
正論すぎるからか、男二人は何も言わなかった。
水村は言うだけ言って、自分の席で作業にもどる。
「私たち、まだまだ時間かかっちゃうね」
そう言って、ため息をついた。
俺は驚いた。
水村が男相手にキッパリと言い返した事。
仕事に関して、俺の事を評価してくれた事。
水村が俺に興味がないと言い切った事。
この短い時間で、沢山驚く事があった。
全てが水村の事だった。
俺はドアの前で迷う。
このまま帰ってしまうか。手伝うか。
帰ることはできる。その方が楽なのもわかっている。
だけど、ここに水村を一人残すことに、とてつもない罪悪感を感じてしまった。
別にタイプでもない女性に。
彼女は俺に興味がないって言ったのに。
俺だって、彼女には興味なんてないのに。
ないはずなのに。
それなのに。
それなのに、だ。
結局、俺はドアを開いて中に入ってしまった。
みんなが驚いたように俺を見た。
部屋に入った俺は、真っ直ぐに水村を目指して歩いた。
彼女の目の前に来ると、俺は口を開いた。
「俺たちの分終わったから、手伝うよ」
彼女は顔色を変えることなく俺を見あげた。
黒い瞳が真っ直ぐに俺を見ていた。
少しして、彼女は俺から顔を逸らした。
「じゃあ、これお願いできる?」
そう言って、手元の資料を指さした。
色のない、素の爪がライトに反射して光った。
なぜだかそれを、眩しく感じた。




