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全て満月のせい  作者: 史音
6/10

後日談 ここで、キスして。①

壁ドンとは数年前からよく見かける様になった言葉である。


小説や漫画、主に女性を対象にした作品で見られる行動で、その多くは女性が壁を背にして、男性の両腕で自分の体の両脇を挟まれる状態を言う。

一般的には強引に男性が女性を口説くときに使用される場面が多い。


もちろん、私だって壁ドンをドラマや小説や漫画で見たことはある。

その場面はどちらかというと、たとえそれが強引なものであっても、女性の胸をときめかせる効果があると思う。


だけど、そう考えると、今の状態は少しおかしい。

今この瞬間に、私は壁ドンを体験しているけれど、全くと言って良いくらい胸がときめいていない。

少なくとも、私は。


壁に向かって手をついているのは女の私で、私が体を拘束しているのは、自称私の恋人に、ついこの間なったばかりの男だった。


だけど、自称私の恋人、もしかしたら非公認の恋人かもしれない男、川原は私を見て口角をあげて笑った。

「どうしたの?何かあった?」

余裕たっぷりに笑ってみせるその顔は、おそらく私が怒っていることに心当たりはあるのだろうということは、見ればすぐにわかる。

それなのに、その顔がとても、思わず目を奪われてしまうほどに色気があったから、思わずどうして私が彼に壁ドンしているのか忘れてしまいそうだった。



そう、私は怒っていた。



それは今日の昼のことだった。

私は普段襟付きのシャツを着ていることが多い。だけど、今日はジャケットのインナーにはセーターを来ていた。シャツではなかった理由としては、この男と付き合う様になって、なし崩し的に彼の家に泊まることが増えたことや、着ている洋服の系統が変わったことが関係しているのだけれど、今は、それはどうでもいい。


この男は顔も良くてモテるせいか、一つ勘違いしていることがある。

自分が歩くだけで女性を惹きつけてしまうから、自分の彼女も自分と同じようにモテていると思ってしまっている。


その恐ろしいほどの勘違いのために、以前からお泊まりの翌日に私の鎖骨あたりに赤い痣の様なものができることはあった。襟付きのシャツを着ていても、微妙にしっかり見えそうな位置に付けられることはあって、その度にボタンをきっちり止めたり、汗が出る様な暑い日にオシャレと言い張ってスカーフを巻くこともあった。


だけど、今日のはいただけないと思う。


私はいつものように仕事中に髪を後ろで一つに結んでいた。そうしたら、たまたま同じ部署の一つ上の女性の先輩が、私のデスクの横を歩きながら、私をじっと見ていた。

なんだろうとその時はなんとも思っていなかったけれど、休憩室に行ったときに、その先輩がそれとなく声をかけてきた。


「あのさ、水村さん」

「はい?」

そう言って、彼女は右手で自分の左肩の後ろを指さした。

「今日はバッチリ見えてるから、流石に隠した方がいいと思うよ」

「え?」

私は持っていたコーヒーをテーブルに置いた。

先輩はそっと私に顔を寄せて、5文字の単語を囁いた。


私は驚いて、思わず椅子から立ち上がった。みるみる顔が赤くなるのがわかった。

「え?え?」

言葉を失っている私に、先輩は苦笑いした。

「いつものシャツだと見えそうで見えないようで、やっぱり見える感じなんだけど、今日はしっかり見えちゃっているから」

髪を下ろすか、私のカーディガン貸そうか?

そう、とっても言いにくそうに付け加えた。


つまり、以前から私の鎖骨とかに出没していた所有印が、今日は私の肩?首?にバッチリ見えている、らしい。

だって自分では背中は見えないから、わからない。

しかも、先輩の話を聞けば、いつもついている。


見えそうで見えないようで、やっぱり見える、って、何?

つまり、見えているって事だよね?

見せようとしているって事だよね?

確信犯、だよね?


そして、今日はバッチリそれが見えている、と。

そう、この人の思惑通りに。


私は恥ずかしくて、恥ずかしくて、何も言えなくなってしまった。

先輩は私を見て、気の毒そうに笑った。

「川原くんって、意外に独占欲強いんだね」

その時の私は、もう怒りと恥ずかしさでいっぱいだった。



で、私は急いでヤツに連絡した。

今日は話したいことがあるから、家で待つ。

私は仕事が終わると急いでヤツの家へ向かった。

まだヤツは帰ってきていなくて、強引に渡されていた合鍵を使って、先に家に入った。

いらないと思っていた鍵を、今日初めて活用した。

これを持っていてよかったと初めて思った瞬間だった。



家で待つこと1時間、ようやく帰ってきたヤツを、リビングに入るなり勢いよく壁ドンしてやった。


で、今に至る。



目の前の見た目だけは完璧に整った男は、その微笑みを崩すことなく口を開く。

「こんなふうにしてもらえるなら、もっと早く帰って来ればよかったな」

「うるさい」

私は自分よりも背の高いやつに向かって手を伸ばしながら、目だけはキッと睨みつけた。川原はそっと自分の手を動かして私のスカートを指で軽く持ち上げた。


「これ、似合ってるよ。すごく」

こんな可愛らしいレースのスカートなんて、ついこの間までの自分なら絶対に選ばなかった自信がある。だけど、この人の家に予期せず初めてお泊まりした翌日、私は帰り道でこんなスカートを買ってしまった。


たまたま入ったお店で目についた物を試着して、店員にのせられたから買ってしまったのだと、自分では思っている。

それ以外は考えないようにしている。


どうしてそのお店に入ったのか、とか

いつもの洋服とテイストが違うのに何故そのお店に行ったのか、とか

余計な事は頭の中から追い出した。


考えてしまったら、負ける気がする。


私が彼としているのは、恋愛のはずなのに、なぜだか負けられない戦いをしている気分だ。



「それ、今、関係ない」


私はその手を振り払った。


そのまま指で肩の後ろを指さした。

「こんなところに痕つけないで」

川原はわざとらしく目を丸くした。私はそれにも少しイラッとしながら、話を続ける。

「今日、先輩に言われて、ものすっごく恥ずかしかった。こういうの、もうやめて」

「先輩って誰?」

だけど、怒った私をよそに、川原はどうでもいい事を気にした。

そしてとても冷たい声で聞き返してきた。


真っ黒い瞳がじっと私を見る。その冷たさに私は少しだけ怯む。

顔の綺麗な人って、真剣な顔をするだけでとても冷たく見える。

「誰でもいいでしょ」

「大有りでしょう。男なら、そいつに狙われてるってことだから」

「また、そんな」

私は大きなため息をついた。


「誰かさんと違って、私はモテません。そういうのはない」

「知らないだけだよ」

「じゃあ、誰が私のこといいって言ってるの?教えてよ」

売り言葉に買い言葉で言ったら、川原はさっきよりももっと冷たくて、とても嫌な顔をした。

「教えると思う?絶対教えないよ」


思わず言葉に詰まると、川原は表情を崩して大きくため息をついた。

「な、何よ」

川原は視線を落として、私から顔をそらす。

「俺はね、不安なんだよ」

「な、何が」

顔を逸らしたまま、目線だけ私に向ける。目線に色気が含まれて、私は思わず口ごもる。


「俺は水村が好きだし、それを口に出しているけど、水村は俺のこと好きだって言ってくれたこと、ないだろ?」

そう言ってまた視線を逸らせる。今度はさっきよりも小さくため息をついた。

「水村は、本当は俺のことなんて、なんとも思っていなくて、いつか飽きられちゃうんだろうなって思うと……」

伏せられた目に、切なさが浮かぶ。

哀愁の漂う姿に、思わず胸が痛む。


川原は小さく息を吐いた。

そうして、視線を上げるともう一度、さっきよりもしっかりと私を見つめる。

「不安でたまらないんだ」


よくよく考えると、話がおかしい。

不安だったら、何をしてもいいのか、ということになる。

今回の問題の根本が揺らいでいる。


私は常識的で節度のある大人の男女の付き合いを求めているのだ。

キッパリとそう言い返せばいい。


だけど、川原の姿はとても寂しそうで、切なそうで。

自分がこの人にこんな顔をさせてしまっている事に、罪悪感が生まれてくる。

こんな目で見つめられたら、きつく言い返すなんて難しい。

少なくても私は。


「そ、そんなこと言われても」

「うん?」

「そもそも嫌いな人に、こんなこと……させないっていうか」

「え?」

恥ずかしくて、思わず声が小さくなる。

川原はじっと私を覗き込んだ。

「好きじゃない人と、こんなことしない」

私が目線を上げると、川原と視線があった。

やっぱり綺麗すぎる顔は、緊張する。私は咄嗟に顔を逸らせて俯いた。


頭の上で大きなため息が聞こえた。

恐る恐る顔を上げると、川原がじっと私を見ていた。


「じゃあ、証明して見せてよ」


「は?」


川原は私を見た。

とても、真剣な顔だった。


「俺が好きって、証明してよ」

ね?そう言って笑う。

私は口籠もった。

「ど、どうやって証明するのよ」

「そうだなあ。一緒に暮らすとか、可能な限り早くに親に会ってもらうとか、やり方は色々あるな」

「ええ?」


私は即座に反論した。

「そんなの急に言われても」

「俺にとっては急ではないけど」

「私は違う」

しかも、そのどれもが、決断するのに勇気のいるものではないか。

取引の条件として、おかしい。

簡単に言うようなことではないし、言わないで欲しい。


困った顔の私を見て、川原は楽しそうに笑う。

「じゃあ、ひとまず簡単なのにしようか」


壁ドンをしているのは私で、追い詰められているのは川原のはずなのに、実際追い詰められているのは私だった。


私は川原が何を言うのか、待った。

川原はじっと私を見た。


たっぷり時間が経ったあと、川原は口を開いた。



「キスして」



「え?」



思わず戸惑った声を出す私に、川原はもう一度告げた。


「ここで、キスして」


そう言って笑う。


見惚れてしまうくらい、とても綺麗な笑顔でもう一度、言った。


「水村から、俺に。キスして」




活動報告にも書きましたが、少し後日談的なお話を投稿します。

お付き合いしてもらえたら、嬉しいです。

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