全てこの男性のせい
目の前の極上の男は、私の腕を掴んだまま、さらに一歩私へ近づいた。
真剣な顔が目の前に迫る。
あり得ないくらい、近い。
これはもう警報がなるレベルだ。
「水村、お願いがある」
「断る」
それが何かを聞く前に、私はそれを断った。
嫌な予感がする。そう、とても。
むしろ、私がお願いしたい。
今すぐ手を離して。そして私から離れて。
そうじゃないと、きっとすぐにバレてしまう。
私の顔が赤いのも、心臓が全速力で走った後みたいに早く鳴っていることも。
全部全部、バレてしまう。
だけど川原はさらに距離を詰めた。
「顔、よく見せて」
私は慌てて顔を逸らす。言うことを聞いてたまるか。
だけど川原は切なそうな顔をして見つめてくる。
「俺、ずっと思っていたんだ」
「何を」
「お前、実は……」
そこまで言って、川原は自分の肩にかけていたバスタオルを手にすると、それで私の顔を拭いた。
「え?ちょっと何すんの?」
私はその手を慌てて止めようとする。
少し濡れたタオルで拭かれたら、メイクが取れてしまう、それは困る。
それは困る。困るのだ。
「いや、ちょっと、川原。困るって」
「いや、少しだけ」
川原は手を止めずに、タオルで私の顔を拭く。
「いや、だから、いい……」
乱暴ではないけれど、しっかり顔を拭かれてしまい、私はむっとして、川原を見上げる。
視線を上げると、とても近くに川原がいた。あまりにも近くにいて、今度は私が驚く。
川原の目が丸く見開かれて、私を見ている。とても驚いた、とその顔が言っている。
ヤツが何を見て、何に驚いているのか瞬時に理解した。
「いや、これは……」
私は口籠もった。
川原はようやく、と言ったように声を出した。
「水村。お前……」
ああ、バレてしまったか。と私は心の中でため息をついた。
実は私は超、童顔、なのだ。
これはこれで大変で、私は長らく悩んでいた。大学生の時はずっと高校生に間違えられた。飲み会といえば学生証を出さないといけなかった。大学の時のバイトでもそのせいで大変なこともあった。だから就職活動を始めた頃から、これではいけないと思い友人とメイクを研究した。
太めのしっかりくっきりした眉を描く。
長めに目尻を伸ばした黒いアイラインとアイシャドウ。
これだけでも随分違うものだ。
童顔の私はこれで垂れ目を隠して、しっかり者の目線のキツい女子に生まれ変わる。
だけど、たった今、私の武装は剥がされてしまった。
多分、丸腰の私の顔は、川原のストライクゾーンど真ん中とはいかなくても、それなりのいいところを突いているような気がする。
つまり、嫌な予感がする。
しかも、とても。
「ええと、川原くん。少し離れてもらっていい?」
私は腕を伸ばして、川原の胸を押して少しでも距離を取ろうとした。
そう、適切な距離感。今いちばん大事なものだ。
だけど、それは叶えられることはなかった。
川原は私の両手を握ると、私を自分の方へ引き寄せた。
「やっぱり」
「へ?」
「俺、ずっと水村の顔、確かめたかったんだよね」
腕の中で奴の顔を見上げると、川原は笑った。
するとあっという間に体がごろんと横になって、私の目の前にはさっき綺麗と思った川原の顔とその後ろには部屋の天井が見えた。
見なくてもいい、見る予定のなかった天井が。
おかしい。
「川原、体勢がおかしい」
「おかしくない」
川原はキッパリと言い切ると、私の頬を撫でた。それだけでなんだか背中がぞくりとした。
「俺、ずっと思ってたんだよね」
「何を?」
「実は水村は童顔なんじゃないかって」
「は?」
「俺の目に狂いはなかった」
「え?」
川原は満足そうに息を吐いた。
「水村のこと、前から好きだったから。顔もタイプだったことがわかって、実はすごく嬉しい」
笑顔でさらりと爆弾発言を落とす。
頭の中がとてつもない勢いで動く。
川原がさっき言っていた、ずっと想っている相手って……。
私は恐る恐る川原を見る。
視線が合うと、川原は笑った。とても嬉しそうに。
だけどそれにとても嫌な予感がしてしまう。
危ない。これ、とても危ない。
私の本能が逃げろと警告する。
だから私がゆっくりと体を左側にずらしてその場を離れようとしたら、ありえないくらい素早い動きで川原の右手が私の顔の横にドンと突かれた。
「簡単に逃すと思う?」
そう言って、川原は笑った。
その顔は悪戯が成功した子供が自慢げに笑ったような顔だった。
いや、まさにこの時、川原の企みは成功したのではないだろうか。
「まさか、狙ってた?」
顔を寄せてくる川原を両手で押し留めながら聞くと、川原は済ました顔をした。
「何を?」
「今日のこと、全部」
言った後で、考える。
今日の飲み会、誰から誘われたんだっけ?それから、藤田に最初からお酒を勧めたのは誰だっけ?
頭の中で今日のことを思い返す。だけど焦りすぎて、頭が働かない。
「どこから狙ってたの?」
その質問に、川原は少し考えるような顔をした。
「別に狙っていないよ」
「嘘だ」
「少しは狙ってたのは認めるけど、思っていたよりうまく行った。だって水村が俺を助けてくれたから」
「え?」
川原は嬉しそうに口角を上げた。
「まさか本人が色んなところで絶妙なアシストしてくれるとは思わなかった」
手間が省けたな、そう言って微笑みかけてくる。
私はとても苦い顔をして、川原を睨みつけた。
「助けたつもりないけど」
そんなつもりない。非難を込めて見ると川原は困ったような顔をした。
「その顔、反則でしょう。そんな顔で怒っても、逆効果だし」
「はああ?」
「結果的に、水村が俺を助けたってことだから」
川原は極上の笑顔で笑った。
「水村に関しては、少し拗らせた気もするから、今日は少し大変かもしれないけど、大丈夫、優しくするし、絶対に水村を満足させる」
「ちょっと、どういうこと?」
川原は答える代わりに、右手で私の頬を撫でた。左手はスッと私の腰を捉える。
私が逃げられないのを確認して、ゆったりと笑った。
「俺、こう見えて彼女には一途だから。浮気しないし」
「いや、そんなこと聞いてない」
「もしかしたら、少し重いかもしれないけど、そこは覚悟してもらっていい?」
「いや。同意してないし、覚悟できない」
また反論しようと開こうとした私の唇に川原の指が触れた。
「とりあえず、黙って」
女の私よりもずっと、色気のある顔で微笑む。
川原は私を抱きしめて、私の耳に顔を寄せる。
「好きだよ」
そう、耳元で囁いた。
どうしてこうなったのだろう。
近づいてくる川原の綺麗な顔を間近に見ながら、私は心の中で問いかける。
今夜の綺麗な満月のせいか
それとも美味しいお酒のせいか。
いや、違う。
いろいろ考えて、私は頭を振る。
答えはそうじゃない。わたしにはわかっている。
「よそ見しないで、俺を見て」
だけどすぐに声がして、私の顔は彼の目の前に引き戻された。
その顔がとんでもないほどの色気を溢れさせて私を見る。
それを見て私は確信する。
今日、どうしてこうなってしまったのか。
それはこの目の前の男の人のせいだ。
絶対、そうだ。
諦めて、私は目を瞑った。
***
その夜は彼の宣言通り少し、いやかなり大変だったけれど、最終的には優しくしてくれた。
そう、あれが優しさだというのであれば。
そしてあの日以降、自称私の恋人を名乗るようになった男は今も私のそばにいる。
いなくなる気配がない。
おかしい。
基本的には優しくて見た目も良くて、私にはもったいないくらいの彼氏である。
だけど、絶妙に見える場所に所有印を残したり、休み明けから会社で大人気ないくらい恋人アピールするなど少し、いやかなり困ったところはある。
大丈夫、あなたの彼女はそんなにモテない。誰かそう教えてあげて欲しい。
でもそこも、事前の本人申告通り、『少し重たい』というところなのだろう。
いや、これ少しなのか?
だけど一番困るのは
彼の行動や暴走を、私はとても困っているはずなのに、結局許してしまうことだ。
そして私のメイクはあれ以来、彼好みのナチュラル清楚系へ移行した。
洋服もパンツスーツから可愛らしいワンピースへと変わった。
こうして彼の好みに変わっていくことも、彼の行動を嫌がるようで受け入れてしまっていることも、私も彼が好きだという証拠なんだと思う。
悔しいけど。
あの日に、彼の誘いを受けた時点で、こうなることは決まっていたのだと思う。
全て、彼の思い通りなのだ。
完