王子と令嬢
ルーカス編。彼は真っ当の更生中。
外に出れず公務には出られないので、滅茶苦茶勉強しています。
静かに頁をめくる音だけが落ちる。
ぱらり、ぱらりと一定の間を置いてそれは続いた。
視線で文字を追い、その単語と文から織りなされる知識と物語を思考の中でじっくり咀嚼する。味わう様にじっくりと読み耽るその時間は、この上なく贅沢だった。
今まで、読書といえば戦術と歴史と帝王学が主だったものだった。只管に詰め込んで、頭の中に叩きつけるように力づくで押し込んでいた。追い立てられるように我武者羅に学んだ。
貴賓牢に入れられたばかりは、只管焦燥と絶望が交互にやってきた。慙愧の念ばかりが往来し、心が沈んでいた。だが、それがやがて諦観と後悔に変わり、自分のやってしまったことを粛々と受け入れる覚悟を決めた。
気落ちのあまり食欲も気力も失い、茫洋と狭い部屋を眺めていた。
最初は母であるメザーリンがやってきたが、何故こんなことをとルーカスを責めて嘆いていた。そこには息子への心配ではなく、メザーリンの自己憐憫だった。ルーカスを王太子にすることは彼女の悲願だった。そうなれば、メザーリンは国母となる。
しばらくすると、監視を縫うようにしてひっそりと訪れたのは驚いたことに異腹弟のレオルドだった。彼もそれなりに罰が下っていたが、ルーカスほどではなかった。皮肉気な言葉や視線の中に、自分を慮る温度を感じた。
彼が来るのは決まってほんのわずかな時間だけだった。余り近づかず、言葉を交わしてルーカスが欲しがるだろう情報を吟味して落としていった。
ルーカスの処遇の方向性、ルーカスが狂おしい程に溺れたレナリアという男爵令嬢のこと、来なくなったメザーリンの動向、側近であったグレアムの暗躍。
貴賓牢に入れられて隔離されているルーカスには手に入りづらい情報を、細々と伝えていった。
今まで第一王子と持て囃していた連中は、王位継承権がラウゼス陛下直系の中でも一気に最下位となった時点であっという間に消えた。手のひらを返し、去っていった。
当初は苛立たしさも覚えたが、今では清々しささえ感じた。
王太子にはなりたかったと思っていた。
レナリアにずっと「ルーカス様は王太子なんですから!」と早とちり――というより勘違いをされていたから、余計に固執していたかもしれない。
自分の時間を手に入れると、持て余すことがあったが最近はそうでもない。
最近は読書に没頭している。貴賓牢でも出来る数少ない趣味だ。
クロイツ伯爵はあらゆる本の蒐集家だった。魔導書、歴史書、童話、神話、中には若い女性の好みそうな恋愛小説や、幼い子供の好みそうな冒険譚まであった。
物語など、国の成り立ちに関わる英雄譚や神話くらいしかあまり読まなかったが、それ一つでも地方によって若干アレンジがあってその微妙な差異が面白い。
歴史書と照らし合わせると、その背景に政治的な事が絡むこともあるし、宗教や地方の特色に基づいていることが多々ある。
わかり易いのはこの国では悪神や邪神扱いされている者が、隣国では善神や福神扱いされている場合もある。
その背景にはそこにすむ人々の背景があったりする。
例えばゴユラン国は乾燥し、砂漠地帯も多く点在する。そのため水に関わる精霊や神は須らく善に属すような扱いになる。太陽の神は絶対であり強大で、時に残虐。月は静かで優しい女神。逆に、海側の地方では水に関わるものは恵みであり時には冷酷な存在だ。
その地方に伝わる話は伝統や生活に密着していることが多い。
より、その民に馴染みやすいように脚色されているのだ。
そのことが面白いというと、レオルドは目を輝かせて賛同した。彼もそういったものについて造詣が深いらしい。ここに訪ねてくるのは自分よりも本目当てなのではないかと思うことすらある。どうやら、レオルドはクロイツ伯爵が相当苦手らしい。確かにラティッチェ公爵の実弟であり、かなり顔立ちも似ているが纏う雰囲気はだいぶ違う。ルーカスは最初こそ恐怖を覚えたが、何度か面会するうちに彼の人となりをそれとなく察した。
有能でユーモアもあり、頭の回転も速い。穏やかで義理堅い性格もあり、人脈も多い。貴族には利己的な人間も多いが、クロイツ伯爵は出世欲も薄い。
どちらかというと家庭的というべきか、家にいる家族と会いたいと苦笑している。恐らく、彼は少し望めば陞爵も難しくない。ラティッチェ公爵に目を掛けられているほど優秀で、人との折り合いも巧い。ラティッチェ公爵家と縁の深い出自でありながら、フォルトゥナ公爵家の人間はクロイツ伯爵には一切噛み付かないあたりが彼の人柄ゆえだ。
そんな彼が王都にまで来ているのは、ルーカスが起した騒動により、大分人事も変わり貴族の中でも処罰があったからだ。
新たな采配には、一段と配慮が求められるため田舎で静かにしていたいクロイツ伯爵は、出世欲もなく優秀かつ公平という評価故に引っ張り出された。
また、ラティッチェ公爵に苦言を呈しても叩き潰されない非常に希少な人材のため、これ以上の恐怖に耐えられない者たちが手紙を出しまくり、平身低頭で、時には泣き落としで強引に連れてこられたとも言われている。
かなり貧乏籤を引いたともいえる。
ルーカスを訪ねに来た時も、半分以上の割合で疲労を滲ませ老け込んでいた。
それでもラティッチェ公爵と造作は似ているが、その草臥れた様子を見るたびにこの人は血の通った人間だと思ってしまう。ラティッチェ公爵は絶世の美男子といえるが、年齢不詳過ぎていろんな意味で浮世離れしている。
「ルーカス殿下、アルマンダイン公爵令嬢がお見えになっております」
「………通してくれ」
「はい。見舞いにと花を頂きましたが、こちらはいかがいたしましょうか」
「書斎に」
「畏まりました」
恭しいがどこか冷淡に騎士は一礼して去っていった。
一から勉強し直すと父王に申し入れ、今までの本とともに趣味の蔵書も増えている。
このペースで増え続けると、書架の重みで床が抜けるか書斎が埋まるのが先かとクロイツ伯爵にも冗談ぽく言われた。彼は既にやったことがある、と苦笑していた。
流石に政に直結するような文書には目を通せないが、歴史書をはじめとする様々な読む本の幅を増やしたことにより、多方面からの考察ができるようになった。知識は人を豊かにするというのも頷ける。
今まで遊び惚けていた分を取り戻すように、ルーカスは我武者羅に勉学に没頭した。
軽く目頭をもみほぐし、息をつく。
アルマンダイン公爵令嬢といえば、婚約者のビビアン・フォン・アルマンダイン嬢のことだろう。艶めく黄金の巻き毛に、ブルーサファイアを思わせる意志の強そうな瞳。迫力の美女というのは彼女のことを言うのだろう白皙の美姫である。四大公爵家の生まれもあり、ルーカスに年の近い令嬢の中ではトップクラスの家柄の持ち主だ。
序列をつけるとすれば、一番はどうしてもラティッチェ公爵令嬢に軍配は上がるし、王家という一点であればエルメディアも高貴ではある。だが、妹姫の唯一の取り柄はそれくらいだ。ビビアンは優雅で聡明、そして勤勉。社交界にも影響力があり、王子妃としての研鑽も怠らなかった彼女は紛れもない貴婦人であり、ルーカスの失態の犠牲者の一人だ。
レナリアに傾倒していた時、婚約者であるルーカスを正しく諫めた彼女に対し散々な態度を取ったことは覚えている。
謝罪の手紙や花など折を見て出しては見たが、返事はなかった。自分の言動を鑑みれば、今更だと唾棄されても可笑しくない。
令嬢の鑑ともいえるビビアンを、理不尽に謗った。
一度や二度ではない。ビビアンはけして目を逸らさず、いつもまっすぐルーカスを見て諫めてきた。当時は、なんて詰まらない女だと思っていた。模範的な令嬢といえばいいが、貴族らしい気位の高さに辟易した様子を隠そうともしなかった。
だが、それは当然である。ルーカスのあの恋にとち狂った言動を、彼女以外に諫められるものは少なかったし、ルーカスの横暴さに見限った者もいた。
忸怩たる思いを飲み込み、ルーカスは深呼吸をして椅子から立ち上がる。
当初、ここへ入れられたときこんな狭くて貧相な場所とはと落ち込んだが、最近ではこの動きやすい手狭さも悪くないと思っている。
どうあがいても貴賓牢ということもあり、以前の応接室や貴賓室よりも質素になる。
そんな場所の皮張りのソファであっても、背筋をピンと伸ばして優雅に座るビビアンはそこにいるだけで華やかだ。
「御久しゅうございます、ルーカス殿下。お会いできて嬉しく存じ上げます」
洗練された所作は流石というべきか、淑女らしいお辞儀に懐かしさを覚える。
スカートを摘まみ上げ広げながら、首を垂れる。一見すれば簡単に見えるが、その所作は貴婦人には必須の社交マナーの一つだ。そして、その仕草一つで格付けが行われることすらある。
「ああ、久しいな。息災であった――などと私が聞くべきではなかったな。苦労を掛けていることだろう。謝罪程度では済まないことは承知しているが、謝らせて欲しい」
「いえ、謝罪は十分に頂きました。陛下からも」
手紙は届いていたようだ。だが、謝罪は要らないというのは、今更だということだろう。
王子妃としてずっと、王太子妃教育も受けていたビビアン。それは苛烈な権力争いも絡み、アルマンダイン公爵家からもメザーリン王妃からも激しいプレッシャーを掛けられていたことは容易に想像できる。
「いや、私個人からも謝罪するべきだ。王子殿下ではなく、ルーカス個人として謝らせて欲しい。
貴女がその謝罪を受けたとしても、許すか許さないは君の自由だ。
私のエゴかもしれないが、私の行いが貴女を貶め傷つけた事実を認めるし、それは正式に謝罪すべきだと思う」
「………殿下」
どこか途方に暮れたようなビビアンの声。いつもの毅然とした彼女らしくない、弱弱しさを感じた。
その言葉に重ねるようにして、頭を下げる。
「すまなかった。ビビアン・フォン・アルマンダイン令嬢。
貴女の言葉は正しかったのに、私は態度を改めるべきどころか非難して、立場を貶める言動を多くした」
本来、王子が人に謝罪することなどは滅多にない。
公人として行わなければならないこともあるが、こうも深く頭を下げることなど個人としてはもっと少ない。
しばらくそのままの姿勢でいると、躊躇いがちなビビアンの声がこぼれる。
「顔を、どうか顔をお上げ下さいませ。殿下」
請われるがまま顔を上げると、いつもは凛としたビビアンが珍しく途方に暮れたような顔をしている。
どうしていいか分からない、とその顔に書いてある気さえする。
いつもは貴族の令嬢らしからぬ鉄壁の笑みを浮かべている彼女が、年相応の少女のようであった。
「すまないな。これでは私の自己満足だ。困らせるつもりはなかったのだが」
公爵令嬢が、一応はまだ王位継承権をもつルーカスに謝罪しろなどと声高に言いづらいだろう。
ましてや、ビビアンは非常に礼儀正しい令嬢だ。ルーカスとの婚約期間は長いものの、いつも一線を引いていた気がする。
「いいえ、いいえ殿下。そのお言葉だけで十分でございます。わたくしの言葉が、殿下に届いていたと、理解していただいたと分かっただけでも十分報われるというものですわ」
青い瞳を潤ませ、ぎこちなく微笑を浮かべる姿がなんと美しいことか。
いつもの毅然としたビビアンが別人のように見えた。どこか頼りなさげで、しかし酷く眩しい。
ルーカスは初めて、ビビアンに出会った気がした。
公爵令嬢と第一王子という婚約者という繋がりや、身分という柵を消した姿。
そのような表情をさせてしまったことに罪悪感を抱くとともに、嬉しいような切ないような別の感情が湧きだすのを感じていた。だが、それはいけないと理性が蓋をする。
ビビアンの涙を帯びた眼差しの奥にある熱を知りながらも――知っているからこそ決して出してはいけないものだ。
今更である。
むしろ、この感情はビビアンを不幸にするだろう。
零れたミルクは戻らないのだ。
「花を持ってきてくれたそうだな。ありがとう。ここから窓越しに多少庭を見ることはできるが、香りを楽しむのは久々だ」
「少しでも殿下の慰めとなれば、嬉しゅうございます。実は、本日お持ちいたしましたオレンジの薔薇はわたくしの家でも特に美しいと評判の物を御持ちしましたの」
「それは楽しみだ。書斎に飾らせてもらう予定だ。どうも殺風景でな」
頬を染め恥じらい、はにかむような笑みで答えるビビアン。その姿に穏やかに目を細めて頷くルーカス。
貴賓牢という場所に似つかわしくない、和やかな会話が交わされる。
ルーカスは気づいていなかったが、今のルーカスは激しい王位継承権争いから弾かれ、奇しくも今までの張り詰めたものが消えていた。それにつられるように、ビビアンも緊張がほぐれていた。
いつどこでだれの目に留まるか分からない。自身を強く律して、己の立場から逸脱した言動をしない様にと強く戒めて神経をすり減らし、張り詰めさせていた時とは違った。
ビビアンとの婚約を、メザーリンが強引に引き留めていることをルーカスも知っていた。
アルマンダイン公爵としては、実質王位継承権を失ったのも同然であるルーカスに娘を嫁がせることにメリットはない。
多少年回りが離れていても、位を下げてでも利益のある家に嫁がせたいだろう。
もしくは、ビビアンの婚期が遅れても年下を取るかだ。貴族社会はどちらかといえば、夫が年上のことが多い。男性より女性の婚期が早い傾向があるからだ。
ビビアンは今年で十七であり、あと一年で学園を卒業する。この国では十五以上から婚姻は可能だが、学園という社交場で人脈を作った後で卒業するのがほとんどだ。親が逝去し、急を要して学校を途中でやめる人間や、途中で来なくなり単位だけとって卒業する貴族も多少はいる。
正直なところ、この年齢まで来てしまったビビアンに良い縁談はほぼ望めないといっていい。
良家程、幼いといっていい年齢で婚約をすることが多い。そして、良い条件の相手程争奪戦になり、その椅子取りゲームは苛烈となる。
ドミトリアス伯爵や、ラティッチェ公爵子息のように全く婚約者も作らず、特定の相手もいない珍しいものもいる。彼らは非常に人気だが、その婚姻の決定権はラティッチェ公爵が握っているというのは暗黙の了解といっていい。
ドミトリアス伯爵家は十年近く前、当時の当主の病気で没落しかけた。それに手を差し伸べたのがラティッチェ公爵だ。事業提携や資金提供、人脈の伝手などあらゆるバックアップをして、あらゆるものを叩きこんだ。現在の若き当主であるミカエリスの尽力もあってかなり隆盛している。その恩義もありラティッチェ公爵から婚約者として女性を紹介されれば拒否することはできないだろう。
キシュタリアはそもそも公爵子息なのだから、家の当主たるグレイルが婚約者を定めればそれは決定も同然だ。
おそらくだが、アルマンダイン公爵としてはこの二人にぜひとも娘を嫁がせたいと思っているだろう。
二人とも優秀だし、レナリアに微塵も靡かなかった点も評価が高い。
だが、二人ともビビアンに対して礼節を持って丁寧に接していたが、それはあくまで社交場で模範的という意味の仲の良さだった。
本来、彼女の身の振りを考えるならばルーカスのところに来てはいけないというべきだった。
しかし、嬉しさを抑えきれず花のように柔らかく笑うビビアンに、そのような言葉を告げるのは気がとがめた。
ルーカスの記憶に残るビビアンは、いつも厳しいまなざしで、高貴な令嬢の仮面で模られた笑みだった。
自惚れでなければ、ビビアンは婚約者としての義務以上に自分を慕っている。
「殿下、アルマンダイン令嬢。そろそろお時間が」
ルーカスの意識を引き戻したのは見張りの騎士だった。
それに僅か無念さと後ろめたさ、そして安堵を覚える。
「まあ、もうそんなに時間が過ぎていましたの?」
「その様だな。来てくれたことに感謝する。送ってやりたいが、私はここから出られないからな――扉の前までだが」
手を差しだすと、ビビアンは一瞬だけ虚を突かれた表情をした。
僅かに躊躇うように視線を泳がせたのだが、おずおずとルーカスの手に白い指先を重ねた。
婚約者で在ったことを差し引いても、以前の態度が尾を引いているが解る。エスコート一つにビビアンが躊躇う様になってしまった。今の有様に心がざらつくような不快感と落胆を覚えた。そんな立場ではないのは解っている。何より忌々しいのは、過去の自分の浅はかさだ。
扉まで送るまでの道、そんな内心を悟らせないように努めた。
「気を付けて帰ってくれ。最近はどうも城内が騒々しい」
「………そのことですが、殿下」
やや歯切れの悪いビビアン。少し表情が翳った。
「なにかあったのか?」
ルーカスが少し声を落として聞けば、静かに頷くビビアン。
「以前学園にいらした、ラティッチェ公爵令嬢を覚えていらっしゃいますか?」
「アルベルティーナ・フォン・ラティッチェ令嬢だろう。勿論だ。
………機会があれば、彼女にも謝罪したいとは思っている。そもそも、公爵がそれすらも許すかが問題だろうな。気長に根気強く交渉はするつもりだが」
あの令嬢にも非常に失礼を通り越して、非道なまでの言動を取ったことはルーカスもしっかり覚えている。
アルベルティーナはグレイルの亡き愛妻クリスティーナの忘れ形見。クリスティーナはルーカスの従姉に当たる美貌の貴婦人だ。ほとんど面識はないが面差しはシスティーナの生き写しだとは聞いている。
王女であったシスティーナの肖像画であれば、ルーカスも見たことがある。金髪に王家の瞳を持つ類稀なる美貌の持ち主だった。アルベルティーナは瞳や髪色こそラティッチェ公爵譲りだったが、クリスティーナやシスティーナによく似た美姫だった。
「アルベルティーナ様は、王家の瞳をもつ姫君だと発覚したそうです」
「………なんだと? 待て、私の記憶違いでなければ彼女は青い瞳をしていた」
王族たるもの表情で内心を読まれてはならないと厳しくされている。
だが、それでも声が震えるのは押さえられなかった。
ビビアンが嘘をついているなんて思っていない。彼女はいつもルーカスに対して真摯で誠実だった――側近であり、友でありながらルーカスの恋人と情を交わしていたグレアムとは違う。今更、それを責めるつもりもないし、ルーカスの中でレナリアは過ぎた出来事だった。
だが、一人の国の僕としてグレアムの愚行は目に余った。最近は、耳を貸そうともせず会えなくなったとレオルドが苦々しく報告をした。ますます持って庇い立ても何もできない状況になっている。
そろそろ逃げるかもしれないと、国王にも伝えたが――とっくにそちらの方がグレアムの愚行に気づいているかもしれない。父王の後ろにはラティッチェ公爵がいる。
「魔道具で変えていたそうですわ。
先日、ラティッチェ公爵邸で行われていたパーティ………いえ、お茶会でしたかしら?
そこに大量の賊が押し寄せておりまして、その賊の目的の一つが彼の令嬢の暗殺だったそうですの」
「………それは大事件だな」
「しかも、当時公爵は別の討伐で不在。公爵夫人であるラティーヌ様と、ご子息のキシュタリア様が代行として主催しておりました。
先日、奴隷密売の一斉摘発に成功しまして、その慰労も兼ねた盛大なものだったそうですわ」
「奴隷か。何度取り締まっても無くならないものだ。
隣国のゴユランでは奴隷産業で財を成した人間も少なくないからな。最近は香辛料や織物の貿易も増えているから、それに交じってきたのだろうな」
「ええ、今回は数年ぶりの大取物だったそうです。我が国の貴族や商人も少なからず関わっており、奴隷の他に違法密輸の品物がいくつも押収されたそうですわ」
嘆かわしい限りだ。ルーカスが言えた義理ではないが、ここ近年の貴族の質は落ちている。そのせいで、一部の有能な人間に負担が増え、無能たちがつるんで悪事を働くという悪循環が生まれている。
見かねたラティッチェ公爵が篩い落として、多少の粒を残して害悪排除をしているが、彼一人では間に合っていないところも多くあるのが現状だ。
かの公爵は怪物だの魔王だのと恐れられているし、事実非常に恐ろしい人だが偏見や差別は意外と少ない。実力を重んじており、溺愛する娘以外は全部有象無象。
劇薬のような人だが、使いどころを間違えなければこれほど有難い人材はいないだろう。
非常に気難しいし、扱いも難しい。
凡夫だと父王を嘲笑う人もいるが、あれだけ恐ろしく、かつ有能なラティッチェ公爵に一度たりとも顰蹙を買ったことの無いラウゼスはかなり凄い人ではないかと思う。
王家という単位では幾度となく失態はあるが、ラウゼス個人では一度たりともラティッチェ公爵の怒りを買ったことがない気がする。
ラティッチェ公爵も、ラウゼス陛下に対してはそれほど苛烈ではない。王妃であるメザーリンやオフィールには辛辣さがあるし、ルーカスにもあたりがキツイ。
国王と公爵という立場上、判りにくくはあるが二人は個人的にはかなり相性がいいのだろう。
「幸いにもご令嬢は無事でしたが………」
「その騒動に乗じて、彼の令嬢が王家の瞳の持ち主と発覚したと?」
「ええ、ですがフォルトゥナ公爵に連れられ登城した際、かなり気が動転していたそうです。今ではヴァユの離宮に閉じこもりふさぎ込んでいると聞きます」
「深窓のご令嬢と聞くからな。かなり精神的にも来るものがあったのだろう」
学園の件もあり、屋敷でも殺されそうになったなんて、トラウマになってもおかしくない。
ましてや自分の家である屋敷に賊が大量に押し寄せてきたなんて、安住の地であるはずの場所がそうでないと分かってしまったら二重の意味で心労があるだろう。
「………ルーカス殿下、ラティッチェ令嬢が気になりますか?」
「気にならないと言えば嘘になる。曲がりにも私は王子だ。この国を憂えるものとしてもだが、私個人の不作法もある――ラティッチェ令嬢の王族への心証は下がり切っているだろう」
あの血筋で王家の瞳の持ち主――王継承権の序列がひっくり返ることは容易に想像できるが、溺愛するグレイルが簡単に愛娘を王家に渡す気がしない。
下手をすれば王家と公爵家が激突する。そして、正直王家の勝算のほうが薄いとすら、ルーカスは判断していた。
「あの、そうではなく………」
「彼女を欲しいとは思わない。そんなことを言える立場ではないし………正直に言えば、もう権力争いはうんざりだ。
母は躍起になって彼女を組み入れようとするだろうが、それこそ恥の上塗りだろう。そこまで恥知らずには成れぬ」
「然様ですか」
どこかほっとした様子でビビアンが目を伏せる。
「母に何か言われたら、ビビアンはアルマンダイン家と、貴女自身を優先して考えてくれ。
これ以上迷惑を掛けたくないし、恩知らずにもなりたくない。
アルマンダイン公爵にもそのように伝えておいて欲しい」
ルーカスの慮るその言葉に含まれる意味に、ビビアンは悲愴な声を上げた。
自嘲するような笑みをたたえたルーカスに、その真意に気づく。
「殿下! わたくしは貴方と婚約を解消する気はありません!」
「私の失態にビビアンまで連座する必要はない。物言いこそきつく聞こえたかもしれないが、貴女は正しかった。それは周知のことだ」
「殿下………っ」
「不甲斐ない婚約者ですまなかった。ビビアン・フォン・アルマンダイン令嬢。
貴女は私にはもったいない、気高く美しく素晴らしい令嬢だ。
さあ、帰るんだ。ここにいても、貴女には何もいいことはないのだから」
ままならない想いを抱え、ルーカスはビビアンを見つめる。
その笑みが酷く愛おし気で熱を帯びていることすら、ルーカスは気づかない。
扉が閉じ、暫く扉の向こう側にいた気配がゆっくり離れていく気配を感じる。その気配が完全になくなったあと、ルーカスは扉に手を置き、細く息を吐きながら額を付けた。
何もかも今更だ。
レナリアのことも、アルベルティーナのことも、ビビアンのことも。
一時の熱に狂い、本当に大切なモノを見失った。守るべき秩序を乱した。
なぜ自分はいつも気づくのが遅いのだろうと歯を食いしばった。
読んでいただきありがとうございました。
ビビアンはずーっとルーカスのことが好きなので、父親に反対されても婚約をやめるつもりはありません。
間違いなくこのシリーズではダントツ正統派ヒロイン属性。