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気づいていないのは本人だけ

ポンでコツなアルベルが戻ってきました




 グレイルのいる執務室は地獄と化す。彼は仕事のできる人間ではあるが、上がってくる書類に不備があることを許さない。容赦なく弾く。疑問があれば呼び出しや差し戻しは当たり前。

 普通ではないかと思うかもしれないが、グレイルは一つ一つを覚えて後で容赦なく査定に組み入れてくる。自分は良家の出身だからと高をくくっていた貴族が左遷された数は両手でも足りない。

 例え特定の家が選任されていた仕事であっても、無能が追い出され、魔王のお眼鏡に適う人材が来るまでひたすらチェンジ。ほぼ他人レベルの分家の者が呼ばれても、能力があるなら権利が移されるなんてこともあった。

 現在人材枯渇に陥っているサンディスでは、とにかく能力が求められた。惰性で椅子に座っている無能はお呼びではないとばかりに払い落とされている。国を回すために必要な人事ではあるが、上がごっそり消えて我が天下と思っていた連中にしてみれば恐怖でしかない。

 仕事が遅くても真面目にやっているなら、それなりのポジションが用意されたのはゼファールのフォローである。

 しかし、地獄の番人がいることには変わりない。

 書類を提出しに来る文官にとっては断頭台に上る気持ちだ。魔王の判断次第では、その書類を作った者どころか、その部署がプチッと潰されることすらある今日この頃。

 やることが本当に魔王。相手が泣いて縋って駄々をこねても決定は覆らない。剥奪や降格されごねた者はいたが、絶対零度の一瞥で心が凍死した。

 グレイルは愛娘のために、一刻も早く国を立て直したいのだ。結果が効率化の鬼である。彼の人の心はどこにあるのかと誰かが言ったが、魔王相手にそんなものを望むほうが無理である。

 今日も胃痛を抱えた文官が、グレイルの執務室の前で躊躇っていた。避けられないと分かっていても、逃げ出したくて仕方がない。

 人事異動で先月採用されたばかりのほやほやの新人だが、下っ端ゆえに魔王への配達役を任命された。日々、苦行を強いられている。

 書類を作った人間は別にいるが、何かミスがあると叱責を受けなければならない。正しくは、彼は伝言役として一度叱責を聞かなくてはいけないのだ。自分にあてられたものでなくても怖い。

 立派にアラフォーなのだが、見た目は二十代で通用しそうな若々しい美貌のグレイル。美形が怒ると怖い。ちょっとした間や息の音すら震えが来る。

 汗だくの手でドアノブに手を伸ばし、いざ開かんと覚悟を決め――やはり無理。怖い。秒速で蹲った。


「まあ、どうなさったの? 体調でも悪いのかしら」


 身を縮めていると、典雅であり可憐な声が下りてくる。魔王の部屋の前に似つかわしくない、鈴を転がすような声音だ。不思議に思いながらも、腹を押さえながら振り返る。

 そこには絶世の美姫と謳われた王太女アルベルティーナがいた。

 目玉がこぼれるどころかすぽーんと飛び出そうな勢いで驚くが、後ろにいる冷ややかな視線の侍女たちに我に返った。


「お、おおお王太女殿下にご挨拶申し上げます」


「ご機嫌よう、と言いたいところだけれど、貴方はそうでないわね。挨拶はいいけれど、顔色が悪くてよ。王宮は今、人手不足で忙しいでしょうけれど……倒れたらもっと大変よ」


 国王ラウゼスと並ぶ穏健派の王太女の言葉が、恐怖に凍えた身に染みる。緊張と安堵がごっちゃになるが、そこに労られたという喜びが投入されて感情がごった煮になる文官である。溢れかえり、処理落ちした感情が溢れた。べちゃあっと顔を汗と涙と鼻水で濡らす。

 アルベルティーナはそんな感慨無量の文官の姿に、そんなに今の王宮は多忙なのかと困惑する。くだらない悪戯に躍起になっていた自分が、恥ずかしい。

 だが、ここまで来てやめられない。


「用事はお父さ……んんっ。宰相宛の書類かしら? ついでに渡しておきましょう。貴方は今日だけでもお休みを取って、ゆっくり休みなさい。サンディスは今、大きな転換期。頑張ってくれる人材を潰すわけにはいきませんからね」


 アルベルティーナ的には「明日から馬車馬のように働くのです!」と言う意味だが、その言葉に文官だけでなく警備の騎士もぶわっと涙ぐんだ。王太女からの労いに、感涙が溢れて止まらない。日々、魔王の圧に晒されている彼らにとって、一時の安らぎだ。

 前世の現代日本の記憶を持つアルベルティーナは労働基準法に基づいてラティッチェもそれに近い労働環境に変えた。週休二日、有給、特別休暇、ボーナス、退職金、産休とこの世界ではありえないほど福利厚生の充実度だ。

 体調が悪ければ、休むのも当然の権利だと思っている。多忙な中、インフルエンザのように感染力の強い疫病が流行ったらとんでもない打撃になる。


「あばば……ばびばぼうぼばびばぶ……」


 自分の涙で溺死しそうな文官に、ちょっと引いてしまう。その原因が自分の何気ない言葉なのは気づかないアルベルティーナである。それでも、お礼を言っているのは察した。

 アルベルティーナが書類を取る前に、アンナがさっと回収する。主人の手を煩わせるまでもない。そもそもアルベルティーナが無暗に近よるだけで修羅場ができる可能性が高い。予防策は必須だ。美しすぎるのも難儀なものだ。


(グレイル様がお戻りになられてから、以前の姫様になってしまっていますから我々が気をつけなければ)


 ジュリアスの評すところのポンコツである。アンナは主人を敬愛しているので、口が裂けても言わないが、今の警戒心が擦り切れる寸前でぺらっぺらの薄布レベルなのは知っていた。薄すぎて布越しに輪郭どころか、景色が見えてしまう。

 ベルナもそれを知っていた。笑みを張り付けながら、周囲の騎士が変な気を起こしていないかチェックしている。

 そんな侍女たちの思惑など知らず、扉をノックするアルベルティーナである。


「お父様、今お時間よろしいですか?」


 その声に、中から洩れていた僅かな冷気がぴたりと止まった。多忙さに張り詰めていた空気が霧散するのが分かる。返事より先に、足音が近づいてくる。

 さっと扉を開いたグレイル。侍従を押しのけて出迎えに来たのだ。


「どうしたんだい、私の天使。何かあったのか?」


「ええ、お父様にお昼ご飯をお届けに参りましたの!」


 むふーっと満足げなため息と、言ってやったぜと満足げな顔。アルベルティーナのそんな様子に、緊急性はないどころか平和的な理由だったことに表情を緩めるグレイル。

 そういえばと、まだ昼食が届いていなかったのも思い出した。ヴァユの離宮に元ラティッチェの料理長であるゴードンがいるので、彼の料理を運ばせている。タウンハウスより近場だし、ゴードンのほうが腕も良いのだ。

 グレイルはアンナが持っている書類は執務机に置くように指示する。今はアルベルティーナを優先した。可愛い娘に不躾な視線が集まる前に執務室に招く。ソファに座ったアルベルティーナはテーブルにバスケットを置いた。


「今日はわたくしの手作りですのよ! ゴードン料理長のご飯はナシですわ!」


 そう宣言し、渾身の意地悪が決まったとドヤアアアッと勝利を確信するアルベルティーナだ。限りなくポンでコツな部分を晒しているなんて自覚はない。グレイルの執務を邪魔してご飯もダウングレード。これを悪辣と考えているのは本人のみだ。深窓の姫君らしい儚げな外見をして、美食への執着のある彼女からすれば立派な拷問まがいな仕打ちのつもりなのだろう。

 現実は不愉快にさせるどころかグレイルの機嫌はかつてない勢いで上昇している。間欠泉か打ち上げ花火のように盛大にブチ上がっていた。

 娘の第二次反抗期にどう立ち向かおうかと悩んでいた矢先だ。前回のように悲しげな顔で避けられるのは、精神的に堪える。

 今回は趣向を変え、自分から攻めていくスタイルのようだ。攻撃力は塵どころかマイナスで、グレイルのメンタルを著しく回復させていると気づいていないようだが。


「お父様とのお約束、いっぱい破りましたのよ! コンロを使用しましたし、包丁だって使いましたの!」


 そんなグレイルの様子を知らず、ドヤーンと一人で絶好調のアルベルティーナだ。

 後ろに控えていたセバスは「さすがは姫様です」と内心感服していた。考えた上でやる行動が、予想の斜め方向を突っ切っている。ねじれの関係レベルかもしれない。


「そうか。頑張ったんだね、アルベル」


 グレイルは非常に満たされた気持ちで娘の頭を撫でる。

 凝り性な娘のことだ。満足できるまで試行錯誤して、グレイルに渡せるレベルの料理ができてようやく持ってきたのだろう。

 大好きな父親に褒められて、ますますご満悦なアルベルティーナである。これだけで苦労が報われた。

 用意された数種類のサンドイッチと、温かいスープ。娘の手料理に舌鼓を打ちながら、会話をする。アルベルティーナは試食で満腹なので、紅茶だけだ。

 綺麗に平らげたグレイルは、娘が退室した後も機嫌が良かった。その噂を聞き付けた部下たちは、ここぞとばかりに書類を提出しまくる。

 鬼の霍乱。魔王のご機嫌。この時を狙わず、いつ行くと言うのだ。

 いつもならギリギリまで迷って溜めてしまうが、今が好機とばかりに駆け込んだ。不備があるのはやはり突き返されたが、威圧されなかっただけだいぶマシだ。




読んでいただきありがとうございます。

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