本懐の慣れの果て
コーディーの本懐
もし逃げる前に、アルベルティーナを連れ出そうとしていたら、その時点で始末する手はずは整えていた。
コーディーの性格からして、お荷物になる元老会を助けない。自分の脱獄を優先するはずだ。外からの応援が期待できない以上、単独行動だ。無力な彼のできることは限られる。リスクを回避するために、隠し通路を生かす方向で動くだろう。
寝室から向かえばレイヴンが打ち取る。ヴァユの離宮のどこから出ても、ガンダルフとゼファールが厳戒態勢を敷いている中では、目的の場所に行く前に確保されるだろう。
「コーディー、お前がここにきてくれて嬉しいよ。姑息なお前なら、まずは保身のために逃げると待っていた甲斐があった」
グレイルは見惚れてしまいそうな微笑を浮かべる。その中身が苛烈で冷酷な魔王だと知っているコーディーにとって、悪夢以外の何ものでもない。
どうしたら逃げられるのか、必死に考えていた。目まぐるしく動く視線と、血走った眼球がコーディーの諦めの悪さを物語っていた。
身体能力、魔力、知能――どれをとってもグレイルに軍配が上がる。
迷路のような隠し通路から遺跡内部で撒けば、まだ逃げられる可能性があったかもしれない。だが、グレイルから目を離し、背を向けたその瞬間に剣が鞘から抜かれるのは想像がついた。
一対一で対峙すると、コーディーの嫌な記憶が呼び起こされる。
まだグレイルが少年のあどけなさが残る、青年に差し掛かったばかりの頃。
クリスティーナの婚約者やその候補者たちに執拗な嫌がらせをし続け、ようやく婚約に持ち込めた。最低限の婚約期間後にすぐに挙式する予定だったのを、グレイルが異を唱えたのだ。
どこかへと行方知れずになったラティッチェ公爵家の長子に代わり、グレイルが爵位を引き継いだばかりだった。その裏で、実兄を殺したのではないかと噂もあったが、それを黙らせる実力と貫禄がすでに備わっていたグレイル。
鬼才と噂をされていても、所詮は青二才とどこかで侮っていた。
どんな嫌がらせにもめげず、それどころかそれを逆手にとってコーディーの立場を追い詰めていく。今までコーディーを畏れていた者たちも、仕返しのようにグレイル側にいった。
気づけば数多の手駒も手札も消え失せ、すべてを手にして艶然と微笑む魔王がいた。
「どうして邪魔をする! クリスの時ならず、アルベルティーナまでも! お前は! 何度、邪魔をすれば気が済むんだ!」
手を前に出し、グレイルを制止するように声を張り上げるコーディー。
引け腰気味で、じりじりと後退する姿はすぐにでも逃げ出したそうである。事実、そうであるがグレイルが恐ろしくて目を離せないのだろう。
「私の最愛にばかり手を出そうとするからだ」
コーディーはグレイルの地雷を踏み抜いている。思い切り、何度でも。
積年の恨みが、憎悪と共に渦巻いていてもグレイルはまだ殺さない。無力な虫の足を一本一本もぐように、ゆっくりと追い詰めている。
「愛した女を自分のモノにしたいと思って何が悪い! お前だって俺からクリスを奪っただろう」
「でも最愛ではないだろう」
グレイルの鋭利な返しに、コーディーは一瞬言葉が詰まる。
白けたような魔王の視線。宝石のようなアクアブルーは、いつだって冴え冴えと本質を見ている。その目が嫌いだった。いつも迷わず間違えないグレイルの姿は、自分の愚かさを見せつけられる気がした。
婚約した当時、クリスティーナは諦めてコーディーを受け入れようとしていた。王家の瞳は暗く淀み、表情すら人形より虚ろになっていく。その目に希望と恋慕の明かりを灯したのはグレイルだった。あの眼差しこそ、コーディーが望んでいたものなのに。
あの笑顔も、声も、視線も全部欲しかった。あの誰よりも愛しい面差しに愛されたかった。ずっと、ずっと待ち続けていたのに。
蓋をしたかつての感情が揺れ動く。コーディーはまさかと思い顔を上げる。
グレイルが一歩前に出れば、コーディーは下がる。
「お前が」
「やめろ」
「本当に愛していたのは」
「嫌だ。言うな!」
「システィーナ王姉殿下――今は亡きシスティーナ・フォン・フォルトゥナ公爵夫人だけだろう」
「黙れええええ!!」
比類なく美しい異母姉。絶世の美貌に華奢な姿。どんなドレスや宝石や花だって、あの貴婦人の前では脇役だ。
自慢の姉で、狂おしいほど思慕を持っていた。いつも陰から見て、深く心酔した。ずっと魂が焼かれるような憧憬を抱いていた。
儚げなのに思い切りが良い。元気でよく笑う人。卑しい身分の母を持つコーディーにも分け隔てなく接してくれた数少ない肉親。
コーディーの初恋は花開く前に落ちて腐った。気づいた時には、システィーナはガンダルフの妻だった。ガンダルフからの求婚ならともかく、システィーナが猛烈にアプローチをしての結婚だった。システィーナは心底ガンダルフを愛し、妻になっても恋をしていた。
二人を見るたびに苦しかった。システィーナの変わらない恋慕は、いつだってガンダルフに向かっていた。
「だから、よく似たクリスを欲しがったんだろう? アルベルだってそうだ。お前はクリスもアルベルも好きじゃない。愛してもいない。
ただ、システィーナ夫人に似ているから欲しかっただけ」
グレイルは事実を叩きつけた。容赦なく、逃げられないように。
ずっと目を逸らしていたものを突き付けられ、コーディーは頭を掻きむしる。
「うるさい! うるさい!」
「だから平気で暴力も振るえる。暴言も吐ける。人としての尊厳も踏み躙れるし、代替品だから雑に扱える」
淡々とグレイルは言葉を連ねる。穏やかに、緩やかにまるで幼子に本を読み聞かせるような優しさすらあった。
頭を抱えながら必死に首を振るコーディーは、その声を振り払いたいのだろう。自分の隠していた心を暴かれ、つまびらかにされるのが恐ろしいのだ。
コーディーの拒絶を心底面倒そうに見やると、グレイルは小さく嘆息した。
「本当に好きだった相手には何も言えなかったくせに、気持ち悪いな」
ずっと黙り、想いを告げなかった。だからこそ、コーディーの恋慕は歪曲していった。強く深く、紛れもない本心だからこそずっと消えなかった。その気持ちを認められず、隠して、誤魔化して、別のモノをあてがって。
燻り続けた執着は、ここまでの狂気に変貌していった。
「お前に……お前に何が分かる! 地位も、才能も、女もすべて手に入れた奴に! 俺の気持ちが分かってたまるか!」
図星を突かれて逆上したコーディーは吠える。それは狼というより、負け犬のようなけたたましさだ。怒りに震え、たまたま手に触れた棒を手にグレイルに襲い掛かった。
武器というには貧相な棒。それは長年放置されて朽ちた建物の一部で、まばらに腐りかけた廃材だ。振るだけで朽ちた木屑が落ちるくらいだ、当たっても大した威力にはならない。それを武器にしてしまうくらい、コーディーは動揺している。やけくそな攻撃が何度も空ぶった。
「分からないね。分かりたくもない」
喚いて聞こえないだろう相手に、グレイルは呟く。
理解したくもない自己愛だ。
コーディーは自分が傷つきたくないから、想いを告げなかった。振られると知っていた。その愛は望む形では終わらないと知っていたから。
それどころか、システィーナからの家族としての愛や情すら失いかねない。そうなることを恐れて黙った臆病者。それがコーディーだ。
グレイルは、剣を抜いた。その勢いのまま、コーディーの体に剣筋が通る。
コーディーの肩口から血飛沫が飛ぶ。手にしたボロボロの木は滑り落ち、倒れ込んだ。肩から胸にかけて鮮血で真っ赤だ。
仰向けに倒れ込んだコーディーは、ひゅうひゅうと頼りない呼吸で空を見上げるしかできなくなる。
今更になって気づいた。今日の空は満月で、星がよく見える。
大きく見える月だが、どんなに手を伸ばしたって届きはしない。月の輝きに、恋焦がれた金髪の貴婦人の姿が重なる。
それは走馬灯か、それともコーディーの切望が見せた幻か。
「……ああ、嫌だ。行かないで、姉様……システィーナ姉様……っ」
血濡れの手を空に掲げ、藻掻くように必死に月に向かって伸ばすコーディー。
彼の目にはもうグレイルはいない。優しくも残酷な笑みで、別の男を愛した女性を見ている。自分が惨めな顔をしているのを分かっていた。だから彼女の視界に入ることすら恐れ、本心を知られることを拒み、逃げ続けた。
でも、本当は違う。逆だった。愛を乞いたかった。恋を伝えたかった。その瞳に、自分だけを映してほしかった。
自分だけに向かって、笑ってほしかった。
王宮の片隅で身を縮めていたあの頃から、コーディーの願いはそれだけだ。ようやく気づかされる。
「……俺を、見てよ。一度でも、いいから俺を愛し……て……」
「しす、てぃ……」
ごほりと血を吐き、一筋の涙と共に力を失うコーディー。それきりだ。あれほど執念深かったコーディーはあっけなく力尽きた。
息を引き取った老人を、つまらなそうに見下ろすグレイル。すでにコーディーの犯罪の証拠は押さえていた。拷問にかける必要もなく、すべての手札がグレイルの手元にきていたのだ。セバスやベルナ、ジェイルを忍び込ませて掴んだ情報だ。
いくら王家の血筋でも、コーディーの価値はなかった。すぐに殺しても許されるくらいには罪が重く、グレイルがその後始末を一任されていた。
「死に際まで執着するなら、さっさと玉砕すればよかったものを。愚かだな。コーディー・ダナティア」
グレイルの言葉は吐き捨てるようだった。
本当にくだらない。後生大事に思慕を抱え込んで、捻じれに捻じれた初恋は醜悪な愛憎となった。誰も幸せにならない、実に粗末な結末だ。三流劇でも採用しないシナリオである。
コーディーの配下は一掃した。表の人間も、裏の人間も。死の商人は完全に潰すには至らないが、少なくともサンディス内の勢力は壊滅状態。
長年繋がりを持っていた元老会とコーディーが失脚し、中枢に忍ばせた駒が纏めて排斥された。その上、グレイルが戻ったと知れ渡れば、残党は知らぬ存ぜぬで息を殺すだろう。
アルベルティーナの安全も確保された。今までグレイルが掌中の珠として大事にしていた。グレイル一人で守り続けていたが、これからは身分や肩書が娘を守ってくれる。
グレイル一人で守る必要もない――だが、一番の守護役を降りるつもりは毛頭ないが。
アルベルティーナは幸せそうに笑っている。
「……これで良かったんだ」
剣を鞘に仕舞い、夜風を感じる。
「そうだよね、クリス」
思い出の妻は微笑んでいる。誰よりも美しく、愛おしく。グレイルの唯一の妻。本当に愛した女性。
こんなとき彼女はどういうだろうか。想像をしてみる。
クリスティーナはにっこりと悪戯っぽく微笑んだ、そのままグレイルに向かって―――
『まずはアルベルと仲直りしなくちゃダメでしょう?』
両手を腰に当てながら、ちょっとだけ眉と眦を上げつつお怒りアピール。それでもって、しっかりと釘を刺してきた。
アルベルティーナの第二次反抗期を思い出し、頭を抱えるグレイルであった。
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