無駄なあがき
老害の後始末。
執務机に堆く聳える白い巨塔。その山積みの書類をもくもくと処理するグレイルは、国王の補佐以外にも仕事を抱えており多忙だ。
急ぎの分を終え、一息ついた。隣で青白いどころか青黒い顔で手を動かしている実弟のゼファールを見る。その頬には「おうち帰りたい」と文字が張り付いて見えた。
なんだかんだあって数か月自分の領地に帰っていない。基本、田舎暮らしが性に合っていると王宮どころか王都にいることすら珍しいゼファールだ。この連日激務と騒動のコンボは心身にきていた。
しかもお仕事の相棒は自分によく似た人外魔境。最近は死神を殺して黄泉から舞い戻ったと噂される実兄魔王だ。手を抜いたら即座にバレる。
「終わらない……この仕事が終わったら、新しい仕事ができるだけだ。人手が足りなすぎる」
「仕方ないだろう。文官が足りないんだ。圧倒的に。特に王家関連のことは元老会の管轄だったからね。彼らの処刑は確定しているし、引継ぎも残った資料から考えるしかない。
王族もアルベルと陛下の二人だけ。今後追加されるだろう王配を含めても五人だから、どうしても内情を知る四大公爵家を中心とした者たちが担うしかない」
国王と王太女だけという何とも人員の層が薄い王族たち。紙よりぺらっぺらである。
片や老人、片や温室育ちのお姫様である。当然ながら二人の担当する公務や執務は厳選された。せめてもの救いは、二人が真面目で勤勉なことだろう。
「うう……こんなところで朝日を拝みたくない。何で兄様なんかと日の出を見なきゃならないんだ。スヴェン……ラウルセル、リリーシャ~」
めそめそぶちぶちと愚痴をこぼしているゼファール。疲れが最高潮に溜まっており、普段はお腹にしまっている本音までまろび出ている。彼の口からは、義息子や義娘の名が祈りのように繰り返されていた。
そんなゼファールに嘆息し、先に休ませようと口を開きかけるが、その言葉は飲み込まれた。
ひらりと蝶が飛んできたのだ。燐光のように輝き、羽ばたくたびに光の粒子を軌道に残す。幻想的なそれは音もなくグレイルの指先に止まった。
「……動いたな」
その言葉にゼファールは勢いよく立ち上がった。
先ほどまで萎れていたのが嘘のように眼光が鋭く、グレイルのほうを振り返る。
立ち上がったグレイルにセバスが外套を羽織らせる。普段のものより薄手で地味なもので、装飾性よりも実用性を重視した作りだ。
「動いたって……どこに?」
グレイルは美しく微笑んだ。玲瓏に。酷薄に。嗜虐的に。この時を待ちわびていたと、凄絶な殺意と濃密な悪意を込めて。
グレイルにここまで憎悪を抱かせる相手は、後にも先にもあの男一人だろう。
薄暗く冷えた空気。体の芯まで凍えてしまいそうな寒さなのに、どこかどんよりと籠っているように感じる。
ごつごつとした荒い石畳の廊下は小走りになるだけで何度も躓きかけ、盛大に転んだ。だが、時間は着実に経過し、刻々と朝は近づいていく。
最後の見張りが見回ったのはいつだっただろうか。月も星も見えない地下だと時間の経過が分かりにくい。護衛も侍従もいない中、粗末な服で必死に足を動かす。止まれば、恐怖が容赦なく心を甚振ってくるのが分かっているから、気を紛らわせたくて前に進み続けるしかないのだ。
早くここを出たい。
男――コーディー・ダナティアは切実にそう願っていた。以前通った時は、ひたすらに心躍っていた。楽しみで、愉快で、気が高ぶって仕方がなかった。
聖杯の奇跡はすっかり解けて、今は老いさらばえた貧相な姿になった。豪奢な絹の衣装も、絢爛な宝石もなくなった。今その男にあるのは衰えたその身と、まだ燃え尽きぬ強欲な精神だけ。
(まだやれる。私は負けるはずがない。あんな小僧に、またしても――)
いくらグレイルが優秀でも、その血にはサンディス王家の血がない。その魔力も宿っていない。だから、どうやってもたどり着けない。
コーディーが王族のみが使える隠し通路を駆使すれば、追跡は不可能だ。
これは王家すらその存在を見失い、元老会が秘密裏に管理していた。遺跡の警備機能と接触すると、血筋が薄すぎれば排除対象にされてしまうから、実際に使ったことがあるのはコーディーくらいだろう。
王族以外には、それだけ危険なのだ。
(できればアルベルティーナを連れて行きたかったが、今の姿では女一人攫うのも難しい。配下を集めなくては)
アルベルティーナはヴァユの離宮で暮らしている。
かつてのクリスティーナへの狼藉は暴露されてしまったが、どうやって彼女の寝室まで行ったのかまでは調べが及んでいない証拠である。
大方、フォルトゥナ公爵家がヴァユの離宮を改装し、警備を見直したから油断しているのだろう。細かい魔道具やコーディーの配下の者は軒並み排除されたが、この大掛かりな隠し通路には何も手を加えていない。
グレイルが王妃たちのお下がりを愛娘に与えるとは考えにくい。それなら、新しい離宮を立てるだろう。王太女が住まう場所なれば建築に最低でも三年。こだわればもっとかかる。
それまでに他国に潜伏している死の商人と接触し、再起を図る。最悪、アルベルティーナが結婚していても奪えばいい。
コーディーには諦めるという選択肢はなかった。
寿命と偶然に次はない。これが最後だと理解していたのだろう。
コーディーの初恋の女性の面影が、次代に生まれる確証はない。むしろ、システィーナの美貌をクリスティーナが継ぎ、更に孫のアルベルティーナまでそのまま似たのが奇跡なくらいだ。あそこまで混じりけなしに、最高の容姿と高貴な瞳を受け継いでいた。
「まだだ……終わりじゃない。これで終わってなるものか……っ」
ようやく薄暗い通路を抜けると、そこには外の世界が広がっていた。
緑が蔓延る、打ち捨てられた廃屋。人々の生活の気配は失われ、朽ちた残骸ばかり。かつて多くの王族やその関係者が収容され、絶望の中で過ごしたとされる。
その人々の嘆きが響き、恨みを募らせた亡霊が出るとされて放置され続けている。城に近い位置にあっても、忌まわしいとされ日中ですら人が来ることはほとんどない。
深夜ならばなおさらだ。
なのに。
「やあ、コーディー。夜の散歩にしては遠出をしたね」
どうして魔王がいる。あの忌まわしい小僧がいる。
コーディーは愕然とした。見たくない顔を凝視するしかない。いるはずのない存在を否定したくて仕方がないが、恐ろしくて目が離せないのだ。
またもコーディーを陥れた化け物がいる。その白いかんばせは美しい。微笑は魅惑的なのに、底知れない不気味さがある。絶望を齎す魔王グレイル・フォン・ラティッチェ。死神すら殺して、現世に舞い戻った怪物がこちらを見ていた。
何度陥れても、殺そうとしてもコーディの前に立ちはだかる。余裕のある笑みに、膝が震える。鼓動が暴れるように騒がしく、ぐっしょりと嫌な汗が流れていった。
「知っていたよ? 王族しか通れない隠し通路を、君が使っていることくらい。どこにどう繋がっているかも把握済みだ」
混乱するコーディーの内心を読んだかのように、グレイルはこともなげに告げる。コーディーにとって奥の手である通路さえグレイルの手が及んでいることに愕然とした。
信じられない。信じたくないというのが本当のところだろう。取り繕う余裕もないコーディーは、唾を飛ばしながら叫ぶ。
「馬鹿な! この通路はサンディス王族の魔力に反応するんだぞ! いくら貴様が魔法の才があろうと、属性や性質を変えることなど――」
「アルベルの魔力なら?」
グレイルの魔力なら無理だが、結界属性と王家の瞳を持つアルベルティーナなら話は全く変わってくる。
その指には深い緑色の輝石が摘まれていた。簡素な土台にはもったいないほど、立派な魔宝石だ。グレイルが灯した魔法の灯りに翳され、深緑が煌めいた。
「影の一人が、アルベルからサンディスライトを貰っていてね。かなり広範囲を調べてくれた」
王配候補向けの最高品質のサンディスライト。アルベルティーナは魔力が高く、その魔法石と親和性が高かった。
本来は王配へのみ与えられる代物だ。しかし、窮地にあったアルベルティーナは信頼していたレイヴンが動きやすいようにと渡していたのだ。
大して力を籠めずとも、そのサンディスライトだけで遺跡を行き来できている。通行証の代わりになるくらいには、アルベルティーナの魔力は遺跡に認められているのだろう。
レイヴンとしては、アルベルティーナが遺跡を探索したがるから仕方なく調べ回っていたのだが有益な情報となった。
「そんな馬鹿な……っ! 私がこの通路を見つけるのに何年かけたと……! どれだけ時間をかけたと思っている!」
激昂するコーディーだが、グレイルは微笑んでいる。不気味なほど静かに、穏やかに。
レイヴンの報告ではアルベルティーナの足でもヴァユの離宮からここまで辿り着けると聞いた。コーディーが牢から消えた報告を受けてから、ここに来る間の時間を考えると、かなり迂回していると考えられる。アルベルティーナとコーディーの通ったルートはだいぶ違うのだ。
二つの場所の距離を考えても、コーディーが出てきたのが遅すぎる。彼はかなり急いでいたはずだ。
(やはり魔力の質によって制限があるのか。待たされたわけだ)
コーディーは王家の瞳こそ持っていたが、魔力も凡庸で結界魔法を使えなかった。
素質はゼロではないけれど、秀でた才能がないと分かっていたから研鑽をしなかったのだろう。敵対心を持つグレイルが魔法を得意としているのも、関わりたがらなかった理由の一つかもしれない。
この男は負けると分かっている勝負はしない。最初から分かっているなら、基本引き下がる。姑息で、臆病で、自分の危機に敏感だ。
だから権謀術数の王宮の中、妾腹の中でも身分の低い王子だったコーディーは生き残れた。彼の生まれた時代は多くの兄姉と弟妹がいた。王家の瞳を持っていたとはいえ、同様の条件のスペアは多くいた。コーディーは王族でも下の人間だったのである。
「そうなのかい? それはご愁傷さまだね」
頭を抱え嘆くコーディーに、グレイルは気のない慰めを贈る。
読んでいただきありがとうございました。