痛恨の一撃
終わりのゴングが鳴る。
それでもグレイルの成した偉業は無視できない。
長年サンディスに巣食っていた犯罪の温床。国を蝕み傀儡とせんと暗躍していた悪。その大部分を排除したのだ。奴らが勝利を確信して油断したところを叩いた。
彼らをあのまま放置していれば、サンディス王国は元老会――死の商人の傀儡だっただろう。国を、民を、国土すべてを奴らに吸いつくされて滅ぶまで弄ばれる。
相互監視による国の安定のためのシステムの一つが、完全に腐敗していた。
その腐敗に関わっていた多くの貴族がその立場を剝奪される。サンディス王国の長年居座っていた老害が消えた。その一族だけでなく、派閥ごと消し飛んだ。停滞していた代謝が促されれば体制は大きく変わるだろう。
不満はあるがグレイルを処することはできない。
彼は国を生かした。それは娘のため――ただそれだけで。
アルベルティーナが安全に、安心して過ごせる居場所を作るためのついでに。
「お、お父様。わたくしは、もうお父様に無理をして欲しくありません! お父様がこんなに大変な目に遭うなんて!」
グレイルに言い募るのはアルベルティーナだ。
非常に残念ながら、この儚げな娘しか魔王のストッパーになりえないのが現実である。
周囲が心の中でエールを送る。口にも顔にも出さず、切実に応援する。表に出したら魔王に何されるか分かったものではない。
それだけじゃない。溺愛する娘以外の言葉では、魔王の心に響かない。
「気にしなくていいよ、アルベル。お前は特別だ。
すべてを望み、すべてを手にし、好きに生きればいいんだ。
いつも言っているだろう? 好きに選び、好きに遊び、好きに壊しなさい。世界はお前のためにあるのだから」
自分を心配する娘が可愛いのか、グレイルは耽溺するようにその頭を撫でる。
アルベルティーナ以外、震えるしかない。恐ろしいことに、グレイルはある程度実現可能なのだ
(……お、お父様……皆様の前でもその溺愛節を……!)
幸いなのが、それを向けられている相手が善性の持ち主なことだろう。
過分な権力も財も求めず、慎ましい幸せで満足している。恵まれているという自覚がある。
もしもアルベルティーナが我が道を行く欲望モンスターだったら、目も当てられないことになっていた。
コーディーや元老会すら小物に見えてしまう、とんでもない邪悪が君臨していたはずである。
ぞっとする甘やかしを目にしながらも、誰もが静かに目を逸らす。
「いえっ! 負けませんわ! わたくしは負けられません! お父様、今後は危険なことをしないでくださいまし!」
めげかけながらもアルベルティーナが抵抗して、なんとかグレイルの意思を覆そうと奮闘する。
今にも泣きだしそうだが懸命に訴える。そんな娘に、心底不思議そうに首を傾げるグレイル。
「どうしてだい? お前が幸せでないこの世界に意味などない。そのためなら、この命も惜しくないよ」
それはグレイルの真心から生まれた言葉だろう。
だが、アルベルティーナの表情は凍りついて真っ白になる。すとんと感情の抜け落ちた顔から、彼女の衝撃が分かる。
わなわなと震え、かんばせと同じくらい真っ白になった指が伸びる。何かを堪えるように頬を押さえていたが、ついにそれが決壊したと分かった。
ぼろり、と大粒の涙がその双眸から落ちた。
「なんで……なんで、なんでえええっ! おとうしゃまはわたくちのこと大好きなのに! わたくちはおとうしゃまが大好きなの! なのにどうしておとうしゃまは分かってくれないの~! どうしてそんな意地悪いうの! わるいこなのー!」
わあわあと周りの目など忘れて大泣きし始めた。
感情が溢れすぎて語彙力が死んでいる。だが言いたいことは分る。
先ほどまで言葉を尽くして説得を試みていたが、己のことなどどうでも良いと言わんばかりのグレイルに、悲しみや怒りが上回ったのだ。
(……幼女……)
(これは完全なる幼女泣きだ……)
アルベルティーナは顔を真っ赤にしてしゃっくりを上げながらも、怒りを露わにしている。でも全然怖くない。
グレイルはと言うと――物凄く動揺していた。
平素の余裕の笑みが掻き消え、号泣する娘をどう泣き止ませようかとおろおろしている。
自分が原因なのは理解しているのだろう。宥めようと迷走し、手を伸ばしたり引っ込めたりを繰り返していた。
「ア、アルベ……」
「きらいぃいいい!」
グレイルの手を払いのけたアルベルティーナが大きな声で拒絶した。
その瞬間、グレイルの表情がざっと青ざめた。血の気の引いた顔で、娘を縋るように見る。
アルベルティーナは立ち上がって距離を取るので、グレイルも立ち上がって何とか自分のほうを向かせようとした。
「おとうしゃまだいきらい! なんでもするって……ずっといっしょだっていったのにうそつき!」
痛恨の一撃である。
その衝撃に、グレイルの動きは完全に停止して立ち尽くす。
アルベルティーナはそのまま走って出て行ってしまい、すぐ後ろをアンナが心配そうに追いかけていく。
会場は静まり返る。
その静寂を破ったのは、乾いた何かが割れて折れる音だ。
その方向を見ると、扇をへし折ったラティーヌがいた。グレイルの隣で俯きながら、両手にそれぞれ扇の破片を持っている。
当然だが、不良品ではない。度重なる加力によってついに木製部分が負けたのだ。
ラティーヌは扇だった物をテーブルに両手で叩きつけるようにして立ち上がると、グレイルに詰め寄った。
「貴方! アルベルを泣かすなんて! それだけはしないと思っていたのに――」
怒りのままに胸ぐらを掴もうとしたラティーヌだが、思った以上に強い力で引っ張られて離してしまった。
違う――グレイルの体が傾いだのだ。
「え?」
ラティーヌに衝撃を与えられた方向に、棒のように倒れるグレイル。受け身も取らずに本当にそのまま倒れた。
しかもその後もピクリともしない。身じろぎもせず瞼も閉ざされている。
なんと、グレイルは気絶していた。理由は言わずもがな、先ほどのやり取りだ。
「ショックなのはアルベルでしょう! あの子に謝ってから寝込みなさい!」
ラティーヌは強かった。長年、ラティッチェの女主人をやっていただけある。
娘の拒絶に一発KOされた魔王に、誰もが驚愕で動けない中このセリフである。
読んでいただきありがとうございました。
父子喧嘩、アルベル優勢。多分引き分け。