牢屋越しの対話
ジュリアスは劣悪な環境に慣れているというか、浮浪児出身でもあるので耐性が高いです。
積み上げられた石が剥き出しになった壁。
高い窓は小さく、月光が寒々しく鉄格子を浮かび上がらせている。
夜の空気が窓からそのまま降りてくるので、裸足のジュリアスのつま先はすっかり冷たくなっていた。
壁と同じ無機質な石床にはむき出しのトイレと簡素で粗末な机と椅子が一つずつ。ないよりはましな薄っぺらな布が布団代わりだ。
身体検査と言って最初に着ていた服は取り上げられ、代わりに支給されたのは薄っぺらな白シャツと茶色いズボンだ。囚人服が出ないだけましだが、着替えは無し。おまけに何日も風呂に入っていないので体に不快感が纏わりつき、臭ってくる。
こっそりと口の中に指輪は隠したので取り上げられなかったが、尋問が厳しくなればバレるのも時間の問題。
今のところは全くそういった気配はない。不慣れというよりド素人がジュリアスの担当をしているのだろう。
(他のフォルトゥナ一族はいない。貴賓牢にいるのか? 養子の俺は本物の貴族じゃないとでも言いたげだな)
ジュリアスは自分で爵位を得た新興貴族だ。
由緒あるフォルトゥナ公爵家に養子入りできたのは、アルベルティーナの助力があってこそである。
それを羨み、蔑んでいる人間がいることなど知っている。
この状況から察するに、ジュリアスが正式に養子縁組をしようと、平民扱いするような連中がジュリアスの身柄を拘束しているのだろう。
(フォルトゥナ公爵家は身動きが取れない。アルベル様は真っ先に押さえられているだろう。救出に期待できるのはキシュタリア様とミカエリス様……ぎりぎりでクロイツ伯爵と言ったところか?)
キシュタリアはこの盤面をひっくり返せる鍵を握っている。
だが、使い所を誤れない諸刃の力だ。強力すぎて、一度使用すればサンディスの中枢が未曽有の混乱と粛清が来るのが間違いない。
ジュリアスより優先するのはアルベルティーナ。彼女の安全が確保できているか、せめて無事な姿が確認できる状況でないと使えないだろう。
その時、自分に誰かが近づいてくる気配があった。
ほんの僅かな衣擦れの音――暗闇に紛れて消えてしまいそうな存在感だ。
「ご無事ですか?」
「まあな。アルベル様は?」
「だいぶ滅入っております」
現れたのはレイヴンだ。
もし、ジュリアスを連れ去るだけなら彼だけでも事足りるだろう。
看守たちはここ数日ですっかり警戒心が抜け落ちた腑抜けばかりだ。酒を飲んで馬鹿騒ぎをし、カード賭博に興じている声が独房まで響いている。
「はあ……風呂に入りたい。頭だけ……、洗顔や着替えだけでも」
「バレるから駄目です。牢に入れられている人間が小奇麗になっていたらどんな阿呆でも気づきます」
レイヴンが首を振ると、懐からパンと水、そして果物をいくつか出してジュリアスに渡す。
ほんのり湿った布も渡されたが、それで最後だと分かるとジュリアスは渋面になる。
軽く顔や首筋、髪を拭くが多少マシになる程度の実感しかない。
「こんな姿、絶対アルベル様に見られたくない」
いつだって、特にアルベルティーナの前ではいつでも清潔できっちりとした身繕いを心掛けていた。
以前は主人の前だから、今は好いた人の前ではだらしない不潔な姿など見せたくないからだ。
不満はあるが、ジュリアスはいたって元気である。
敵はジュリアスを監禁はするが痛めつけたりしない。なにか理由があるのだろう。
やり方に回りくどさや陰湿さを感じる。
「アルベル様にご報告――」
「するな。あの人はすぐ顔に出る。ベルナとかいう変な女がずっと傍にいるんだろう?」
ぴしゃりと遮ったジュリアスに、こくりと頷くレイヴン。
独房に入れられたジュリアスを、すぐにレイヴンは見つけ出した。
すぐにアルベルティーナやフォルトゥナの置かれた現状を説明してくれ、その後も定期的に顔を出しては差し入れや報告を入れてくれている。
おかげで、ジュリアスはこのミニマリストの行き過ぎたような場所で熟考できた。
「ベルナは暗殺者で間違いないんだな?」
「はい。巧妙に隠してはいますが、僅かですが歩き方に癖が出ております。あそこまで静かに動けるのはそれなりの訓練を受けた者だけでしょう」
同業者が近くにいるので、レイヴンは非常にやりにくくなっている。
レイヴンはアルベルティーナの『影』――完全なる私兵。数少ない切り札である。ここで見つかってはならない。
危機が迫った時、相手の隙を突いてアルベルティーナを連れて逃げるためにも。
「フォルトゥナ公爵たちの居所は?」
「クリフトフ様とパトリシア様は貴賓牢におりますが、フォルトゥナ公爵はまだ……」
「見つからず、か。容疑が掛けられているとはいえ、まだ公爵当主だ。ぞんざいな扱いはされていないとは思うが、いったいどこへ連れて行ったんだ?」
あれだけ強引に事を進めたのだ。やる気ならとっとと首を刎ねている。それか毒を盛って口を塞いでいるだろう。
国の番人たるグレイルがいなくなり、国の最重鎮たるラウゼスは床に伏したまま。今のサンディスは元老会の思うままだ。
唯一拮抗できそうな四大公爵家のうち、フォルトゥナは崩され、ラティッチェは足並みが揃っていない。
アルマンダインとフリングスはこの急展開に警戒心を強めているが、自分たちが崩されないように守りを固めて今後の攻防に備えている状態だ。
思考しつつも差し入れを着々と腹に収めるジュリアス。
栄養価や腹にたまるのを重視しているので、味や触感は二の次の物ばかり。咀嚼もそこそこに、ほとんど水で押し流している。
それでも看守が持ってくる黴臭いパンや、変な臭いのスープよりましだ。
黄金の杯に輝く雫が集まる。
何色とも例えられない液体をばら撒くと、輝きを放って霧散した。
小さくため息をつき、レナリアは老人を見下ろす。
老人の落ち窪んだ目は毒のせいか、それとも長年の気苦労のせいかはレナリアには分からない。そもそも興味もない。だが、コンラッドに命じられ、ラウゼスを回復させているのだ。
これが美男子ならレナリアの心も踊るが、父親どころか祖父と言ったくらいに高齢である。実につまらない仕事だ。
魂や命を掠め取るのも禁止で、面倒ばかりで旨味がない。
(国王っていうからどんなのかと思ったら、しみったれた爺さんじゃない。回復と昏睡を重ね掛けしないといけないし、聖杯の力がもったいないわ)
レナリアは最初から威力を調節なんて器用な真似はしていない。というよりできないので、二つの奇跡を起こしている。
ラウゼスを回復させている時、決まってコンラッドはダレル・ダレン宰相と話し込んでいる。
国王が意識不明で、王太女は王族としては未熟――という名目で、現在の王宮はコンラッドを擁す元老会が牛耳っている。
コンラッドの紹介でレナリアに息子のグレアムを治してもらった手前、ダレルは強く出られない。
なんだか、体よく利用されているようだ。レナリアがヴェールの下で不貞腐れていると、コンラッドがやってきた。
「レナリア、朗報だ。君は国王の快癒に貢献した褒章に、貴族籍を得られることとなった。正式な後見人ができるぞ」
「えっ! じゃあドレスを着ていいの? アクセサリーは? お屋敷や領地やタウンハウスはどの辺になるの?」
コンラッドの齎した情報に、レナリアの気分は一気に浮上する。
聖女として振る舞うことを強要されていたレナリア。清楚で慎ましい女性であることを求められていたが、うんざりしていたのだ。
抱き着かんばかりにコンラッドに近づいたが、そっと手で制された。なかなかガードが堅い男である。
でも、今回は許そう。レナリアはとてもいい気分なのだ。
「それは正式決定してからだな。現在、元老会と宰相の間で候補の家を吟味している。反対は出まい。派閥外にも、君の治癒能力に救われた貴族が後押しするはずだ」
聖女としてぱっとしない貴族の治療に回っていた甲斐があったものである。
この宝石一つない、白いだけの衣装にも飽き飽きだ。レナリアはもっとフリルとレースがたっぷりの可愛らしいドレスを着たい。そんな宝石の似合うドレスこそ、ヒロインに相応しい。
そして、その隣にはヒロインに相応しいパートナーが必要だ。
ツキが回ってきたレナリアは、楽しくて仕方がない。
上機嫌なレナリアの背中を、コンラッドは冷ややかな笑みで見送っていた。
利用されているとは知らず、愚かなことだ。
(サンディスを手に入れたらあの小娘も用済みだな。身も心も、魂ごとすべて聖杯にくべてやろう。随分お気に召したのだから、消えるその時まで、永遠にともにあればいい)
あの強欲で愚鈍なレナリアに、相応しい最期だろう。
馬鹿ほど扱いやすい。いつまでも自分が主役と自惚れていればいい。
すべてが終わった時、上前を撥ねるのはコンラッドなのだ。堆く積まれた犠牲の上に、勝者の玉座に座るのは自分一人いればいい。
ほかの三人の王配候補は始末する。
ミカエリス・フォン・ドミトリアス伯爵。
キシュタリア・フォン・ラティッチェ公爵。
ジュリアス・フォン・フォルトゥナ公爵子息。
決死の覚悟でラウゼスが推した候補者は、すでに包囲網にかかっている。
「もうすぐだ。もうすぐで逢える―――私のクリスティーナ」
コンラッドの狂気と執着を孕んだ声。彼以外、誰も聞いていなかった。
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