吠える令嬢
黄昏が終わり、夜の帳が下り始める。
一台の馬車が、とある屋敷に入っていった。その馬車には二本の剣が交差した紋章が入っている。
ドミトリアス辺境伯家の馬車である。
つい先日、陞爵の手続きが終わったと通知が来た。
思ったより早かったことに驚いたが、ゼファールが内密にすべてを進めてくれたそうだ。
(てっきり年を越すかと思ったが……陛下の暗殺事件のごたつきを逆手に取ったのか)
すっかり見慣れてしまったタウンハウスからの風景。
少しずつ近づく騒がしい足音に、きっと今日も機嫌の悪い妹が帰ってきたのだと分かる。
「ただいま帰りましたわ、お兄様!」
「お帰り。レディなのだからもう少し淑やかに歩きなさい」
ノックもなしに開け放たれた扉は壊れる勢いだ。強盗や道場破りでもするのかという力強さである。
ミカエリスの注意も知ったことかと言わんばかりに、大股で入ってくる。
「ですが! 何なんですの、あの腐れた噂は!」
帽子を毟るように取り、スパーンと手袋を床に叩きつけたジブリール。
その顔は怒りで染まっている。髪や瞳に負けず劣らず紅潮していた。きっと、お茶会や馬車の中ではずっと我慢していた分、腹の底から煮えくり返っているのだろう。
「あのぽっと出の男にお姉様を取られていいの!? 今じゃあの男が王配候補のトップと言われていますのよ!」
吠えるジブリールを静かに見返すミカエリス。
アルベルティーナの後見はラウゼスの暗殺未遂事件以降、容疑のあるフォルトゥナ公爵家ではなくダナティア伯爵家に変わった。
同時にミカエリスたちはヴァユの離宮から完全にシャットアウトを食らっている。
現在の社交界では毎日のようにアルベルティーナとコンラッドが逢瀬を重ねているという噂が飛び交っていた。
祖父一家の裏切りと義父の危篤にすっかり気の滅入ってしまった哀れな王太女。それを慰め、献身的に支える麗しき伯爵と、新たなゴシップとして界隈を賑わせている。
これは婚約も秒読みではと言われるほどだ。
一方でアルベルティーナは会うだけで体調を崩すほどコンラッドを嫌っているという話もある。
これはメイドネットワークでスミアが仕入れた情報だ。ジブリール付きの侍女――アルベルティーナにとって、アンナ的存在の彼女は貴族とは違う同職ならではの話が入ってくるのだ。
だが、これらの噂は人目を憚るように密やかに交わされている。
コンラッド派や元老会派の者たちが猛威を振るう現在、不仲説は貴族の界隈では流れていない。
(現在の情報戦はダナティア伯爵が一枚上手か……)
血筋を重視する旧貴族や日和見勢はそちらに流れ始めている。
キシュタリアが持つ切り札――ミカエリスも最近に詳細を聞いたが、これはサンディス王国だけの問題にはならないだろう。
相手に致命傷となりうるが、相手はサンディスの重鎮。そうそうたる顔ぶればかりだ。この事件は、国の奥深くに突き刺さる騒動になる。
相手だって、このままこちらが引き下がるとは思っていないだろう。
「あーっ! もう、最近は緑のアクセサリーを見るだけでイラつきますわ!」
ジブリールがソファにあったクッションを掴み、ぶんぶん振り回す。
それを避けつつ相槌は忘れないミカエリス。無言を通していると、クッションが剛速球で飛んでくると経験から知っている。
「コンラッド派は同盟の証として身に着けているからな」
おかげで最近よくサンディスライトの装飾品を見る。
男性で見るのはタイピンやカフス。女性はネックレス、ブローチ、髪飾りあたりだろうか。
たいていは粒のような小石サイズだ。ぎりぎり宝石ラインの輝きを持っているが、それでも十分稀少な代物である。
魔石としても宝石としても高価なサンディスライト。サンディス王国のみから発掘される、特産品でもある。
そんな稀少価値の高い宝石を使った宝飾品をばら撒いている財力が、元零落貴族からどう出ているのかは不明だ。
鉱脈を持っているとは聞かない。そもそも、サンディスライトが出土する鉱山は厳重に管理され、場合によっては国の管轄となるのだ。
名家の譜代臣下や王族が管理するならともかく、不名誉な先代の影響があるダナティア伯爵家の管理下にはならないだろう。
突如として社交界に現れたコンラッド・ダナティア伯爵には謎が多い。
周囲の人間を忠義のある人間で固め、情報漏洩の無いようにしているのだろうか。
そうだとしても金が動くところは人が集まり動くし、自然と噂も出る。
サンディスライトなんて特にそうだ。王家の象徴と言える宝石なので、純度の高い魔法石となると一握りしか持つことすら許されない。
(この指輪のように)
アルベルティーナから贈られたサンディスライトの指輪。
これは間違いなく超一級品。王族とごく一部にしか許されない極上品だ。
ミカエリスが見た限りコンラッド派の持つサンディスライトは、これより数段も落ちる代物だ。
だが、コンラッド自身が持つサンディスライトは、指輪に匹敵する。石だけ言えば、コンラッドのほうが大きい。
コンラッドの父親は王弟だったが、度重なる失態で伯爵まで降格させられた。母親についても定かではないのに、元老会があれだけ肩を持つ理由が不明だ。
元老会の弱みを何か握っている。もしくは、それに匹敵するメリットがあるのだろうか。
権力欲の強いファウストラ公爵家は血守の一族だけあって、王家と血筋も近い。自身の血筋から候補者を出さず、わざわざコンラッドに協力する理由。
骨と皮ばかりの老骨。しかも生まれも育ちも筋金入りの貴族様。王家を見下し、王を傀儡にし、国を操り、貴族を玩具にするような輩だ。
とてもではないが、二十代そこそこの若造に恭しくするわけがない。
あの老害たちは狡猾だ。そして常に傲慢だ。それでも、コンラッドには間違いなく従っている。
黒い繋がりがあろうとも、お手手つないで仲良くなんてしない。相手に危機が迫ったら背中を刺して逃亡するだろう。嬉々として囮に使う。
だからこそ――一網打尽にする舞台を、キシュタリアは待っている。
不自然でなく役者が揃う、大きな劇場が用意されるその時を。
「そもそもあのデザインが古臭いのですわ! 流行にはサイクルがあるとはいえ、懐古主義には早すぎましてよ! 数年前まで使い古され擦り切れまくった伝統デザインばかりがモチーフで……! だせえ! だっせえのですわ!」
ミカエリスの思案など知ったことではないジブリールが吠え猛る。
社交界の紅薔薇として、あのナンセンスなデザインがそこら中に蔓延るのは我慢ならない。流行を逆流している。
ローズブランドを通してアルベルティーナが流行させたデザインが、あんな埃被った骨董品に追いやられるなんて我慢できない。そう全身で叫んでいた。
「ジジババには馴染みのデザインですけれど、親のせいで着用を強いられたご令嬢たちの顔と言ったら……!」
あれは虚無としか言いようがなかった。
目を細め、口角は上げているが心が伴っていない。本人の意思ではないのが分かる、張り付いた笑顔がなんと悲しいことか。
着飾った年頃の令嬢は、真っ先にその装いを自慢したり主張したりするものである。それが一切なく、言うな見るな触れるなのオーラをまき散らしていた。
「分ったから、落ち着きなさい」
ジブリールが吠えるたびに振り回され、殴られるクッション。
クッションカバーの柄はひん曲がり、そろそろその中身がぶちまけられそうである。