聖女を騙る者
お久しぶりです。また間が空いていしまいましたが更新です。
その部屋は薄暗かった。カーテンで閉ざされた、嵌め殺しの窓からは光が入ってこない。
光源は使用人が持つ、魔石のランプのみ。
部屋は籠った臭いがする。埃と生き物と薬の臭いが充満していて、ずっといたら気持ち悪くなりそうだ
部屋の中心には檻がある。金属製の檻の中では、何かがもぞもぞ動いていた。
「……これが例の患者ですか?」
ヴェールの奥で顔を顰めたレナリアが、感情を押さえて声を絞り出す。
おぞましさ、疎ましさ、気持ち悪さ――それを表に出してはいけない。だって、今のレナリアは『聖女』なのだから。
やっとヒロインらしいルートに戻ってこれたのに、しくじるわけにはいかない。
「はい、我が愚息のグレアムです」
そのすぐ後ろで答えたのは、サンディス王国の宰相ダレル・ダレン。
憔悴の色が濃く、目元は落ち窪んでいる。悲哀と絶望に支配された目は、暗い檻の中で蠢く息子に向けられている。
かつては次期宰相ではないかと目されていたグレアムは、虚ろな目での緩慢に動いている。今はまだいいほう。酷い時は獣のように唸り威嚇するのだ。
薬が切れると暴れるので、全身を縛っている。人語を話さなくなって、だいぶ経った末期患者だ。
(だいぶ進行が進んでいるわね。廃人じゃない)
異臭の中にはつんとしたものもある。排泄も垂れ流しなのかもしれない。
以前にも増してグレアムは酷いありさまだが、レナリアは口角を上げた。
こんな廃人を治療したらますますレナリアの株は上がるだろう。何せ、相手は宰相。影響力はもちろんだが、報酬も期待できる。
レナリアは魔法が使えないが、奇跡を起こせる聖杯がある。
手足が欠損していても腹に大穴が開いていても、重症の病人でも願えば治せる――まあ、それなりに対価は求められるが。
「まあ……なんということでしょう。お任せください」
さも痛ましげに言って両手で聖杯を持ち、祈る仕草をする。
黄金の杯にはみるみる輝く液体がたまり、レナリアはそれをグレアムに向かって掛けた。
外傷ではないので本来は飲ませるほうが良いのだが、今のグレアムは正気ではない。近づきたくなかったのだ。
「あー……うー……」
動きながらずっと曖昧な声ばかり出していたグレアムが静かになり、やがて健やかな寝息となる。
一見すると眠っただけに見えるが、先ほどとは明らかに肌の血色が違う。
「おお……グレアム! こんな静かに眠るのはいつぶりか……!」
いつも薬を探し、禁断症状で暴れていたグレアム。大人しくさせるには睡眠薬や鎮静剤を投与するしかなかった。
檻に顔を食い込ませる勢いで近づいて歓喜するダレルに、レナリアはにんまりと笑う。
奇跡を目にした人間は、決まって歓喜し安堵し、その後にレナリアに感謝して崇拝する。
閉鎖的なサンディスの貴族たちだって同じ。なすすべがなく諦めていた彼らに奇跡を施し、コンラッドとレナリアは勢力を拡大した。
あるものは不治の病、事故により身体の欠損、聴力や視力を喪失、精神の病。
聖杯の奇跡の前ではないも同然だ。
(ま、その代わりに寿命や魂を少しいただくけどね)
そうすれば、聖杯に力を集めつつ奇跡を起こせる。
相手は長年の悩みが解決したことに浮かれて気づかない。常人には自分の寿命や魂など見えないのだ。
それに、大金を積んで奇跡を望む人間はたいてい年寄り貴族が多い。ぽっくりいっても、怪しまれない。
数か月後や数年後、突然死したって聖杯の奇跡とは結び付けられないだろう。
ゴユランの周辺で奇跡を施していたが、ばれていない。そもそもあの地域は環境が劣悪で老衰で死ぬほうが少ない。
魔法があってもこの世界の文化レベルは、到底前世に及ばない。
むしろ、魔法という便利なツールがあるから伸び悩んでいるのだろう。
今回のグレアムもおそらく長生きはできない。この奇跡の代償は、命の前借と魂の切り売り。
でも、レナリアには関係がないこと。
ダレルの「息子を治してほしい」という願いは叶ったのだ。
「次にご子息が目を覚ますときには、かつての健康を取り戻しているでしょう」
「ありがとう……ありがとうございます……!」
手を握るダレンを振り払いたいと思いつつ、レナリアは我慢した。
十数年若ければレナリアの食指も動いたが、今の彼では老いすぎている。
ダレルの顔立ちはグレアムと似ている。かつては知的で端正な容姿の持ち主だったのだろう。
それにコンラッドやジェイルから喋るとぼろが出るから黙っていろと、口を酸っぱくして言われている。
業腹だが何かの拍子で正体がばれては困る。
レナリア・ダチェスはまだ悪女の汚名が付いたままなのだ。
「では、私はこれで失礼します。お大事になさってください」
本当は今すぐに対価の一つや二つ要求したいところだが、聖女らしく振る舞わねばならない。
薄っぺらい礼より金貨入りの袋か、宝石や貴金属がいい。
だが『砂漠の聖女』らしからぬことはするなと、これまた口うるさく言われている。
贅沢も男遊びも賭博も禁じられて、鬱憤は溜まっていた。
でもずっと我慢している。それは、すべて一つの目的のため。
帰りの馬車に揺られながら、レナリアは変わり果てた顔で笑う。
「アルベルティーナ……今度こそお前が消えるのよ」
愛されるのはヒロインでなければならない。だって、ここは『レナリア・ダチェス』のための世界なのだから。
彼女はそれを本当に信じていた。
ひたすらに、一途に、盲目に――それが世界の理だと疑っていなかった。
読んでいただきありがとうございました。