公爵令息の憂鬱
アルベル以外の視点を見てみたいとのことでしたので、キシュタリア視点。
基本アルベルティーナは外見の攻撃力が強いです、ワンパン殺傷力が抜群です。初恋特攻。
中身はアホの子が入ったポンコツですが、身内には素直で優しい子です。
キシュタリアは貴族といっても名ばかりの、底辺といえるような家柄の子だった。
そして、女にだらしなかった当主がとても美しかった母親を無理やり愛人にしたことにより妾腹の息子として生を受けた。
本妻とその息子たちには疎まれていた。ろくな教育も受けず、本宅にいることも許されず狭い倉庫だった小屋を与えられそこに住んでいた。
女にだらしない父親だという男は、キシュタリアには見向きもしなかった。しかし、母のラティーヌやキシュタリアが出ていくことは許さなかった。本妻の怒りに触れるのを恐れてラティーヌやキシュタリアを庇うことはなかったが、見目の良い愛人にはまだ未練があるようだった。脂下がった、欲に血走った眼が母を舐めるように見るのが嫌いだった。
粗末な家とも言い難い場所で、夏は汗だくになり、冬は寒さに凍えていた。
薄い塩味の安い豆や屑野菜のスープに、酸っぱい固い黒パン。たまに卵や肉の切れ端でもあれば豪勢だった。お腹いっぱい食べられるときのほうが少なく、いつも草臥れた服を着て、母と肩を寄せ合うように生きていた。
ただそこにいるというだけで、本妻やその子供たちに陰湿ないじめを受けた。
ただでさえ少ない衣類を汚され破かれた。窓を壊され、雨風が入ることもしょっちゅうだった。キシュタリアを見つけると、追いかけ回され叩かれたり蹴られたりした。母が何とか生活の足しにしようと内職をしていた。それをわざわざ嘲笑い邪魔にしに来る本妻が嫌いだった。
使用人たちもキシュタリアたちを冷遇した。友達はいなかった。
所詮は愛人とその息子、当主を父と呼ぶことも許されず、異腹の兄たちを兄と呼ぶことは許されなかった。
ある日、本妻の息子の一人が母を当主とよく似た欲に塗れた目で見始めるようになった。
最初は盗み見るように。次第に、母に近づいて父ではなく自分の愛人となれと恥知らずな命令を口にするようになった。当然母は拒否した。それに激怒したその男は、逆上して母を嬲ろうとした――あるいは殺そうとしたのかもしれない。
それを見た瞬間、キシュタリアの中に澱のように積もっていた怒りが爆発した。
記憶はあまりない。
気づけば庭木が跡形もなくへし折られ、敷地を囲っていたレンガが崩れ、屋敷が半壊していた。
恐ろしいものを見る目で、父である男が見ていた。いつも蔑みの目を向けていた本妻も、加虐的な目を向けていた兄たちも。
化け物、近づくな、そんな声を聴いた。
なんとなく、ここを追い出されるんだなと理解した。漸く出られるとも思っていた。
キシュタリアが暴走させた力は魔力だった。キシュタリアは膨大な魔力持ちと発覚した。それから間もなく、やけににこやかな――いつもの脂下がりとは違うが、やはりいやらしい笑みを浮かべた父である男がやってきた。
キシュタリアを引き取りたいという申し出があるという。そこは名家で、この家の本家のさらにもっと格上の総本家のような存在。かなり遠縁であるものの元をたどればつながりがある――そんな雲泥の差がある大貴族の良家だという。
そこは大層裕福な家で、キシュタリアの持つ魔力を存分に伸ばしてくれるし、養子として引き取るとのことだった。ゆくゆくは爵位を継がせてもいいとすら言っているという。
いくら幼いキシュタリアでも、話が良すぎると思ったが血縁上の父親は本気にしているようだった。胡散臭さを感じていたが、すでに前金に手を付けてしまい、断るのは不可能だった。没落して名ばかりの貴族だった家は、目の前に転がり込んできた大金にむしゃぶりついたのだ。
キシュタリアは諦観をもって受け入れた。ここよりはましかもしれない。
壊れかけた襤褸家とつぎはぎだらけの服。薄いスープと固いパンを分け合って飢えをしのぐ日々。卑しい血、化け物と冷遇する家人と使用人。もう、うんざりだった。
母だけは守りたかった。幼いキシュタリアにとって母は唯一だった。守らなければいけないと、幼心に思っていた。
そして、キシュタリアを迎えに来たのは『ラティッチェ公爵』という男性だった。
美しい男だった。
明るい銀の混ざったようなアッシュブラウンの髪は、同じ茶色でも煤け色と揶揄されたキシュタリアとは全然違う艶めいた色をしていた。聡明そうな眉の下に怜悧さのある切れ長の目に収まっているのは青い宝石のような瞳。すっと通った鼻梁と、やや薄い唇は表情の読めない笑みが浮かんでいた。
一見細そうに見えて肩幅はしっかりとあり、上等な服を着ている。白いシャツに濃紺のベスト。銀糸を使い複雑な模様が光り加減で透けて見える上着は洗練されたセンスを感じた。明るいグレーのズボンを履いており、組んだ足は驚くほど長かった。靴は傷一つないピカピカの革靴である。あの一足や一枚でこの家の何年分の生活費になるのだろうか。
ぞっとするような美貌とはこういうことなのだろう。キシュタリアの母も美しかったが、その男は次元が違った。別の生き物のような美貌だった。
そこにいるだけで、圧倒的な存在感があった。
漠然とした恐ろしさを感じながら、そのラティッチェ公爵を――義父となる男性を見た。
その圧倒的なオーラや美貌に本妻だけでなく、血縁上の父と兄もあんぐりと口を開け惚けていた。
キシュタリアを見ると、少し目を細めた。笑っているけれど、よく観察すれば目の奥は笑っていない。
「初めまして、キシュタリア君だね?」
「はい・・・」
「私の名前は、グレイル・フォン・ラティッチェ。話は聞いているとは思うが、公爵家の当主だ。
我が家には息子がおらず、娘が一人なんだ。そして、娘は少しばかり事情があり当主となるにも、婿をとるにも難しいから君を養子に迎えたい」
穏やかだが静かで聞き取りやすい言葉だった。うっとりしてしまいそうな豊かな声音。だが、キシュタリアの本能が警鐘を鳴らしていた。
物腰は穏やかで、とても風采も立派。口調も柔らかで、小さなキシュタリアに視線を合わせる気づかいを見せるのは実にできた人のように思えた。
「条件を、一つ。お願いがあります」
「何だい?」
「母も、一緒に連れて行ってください。夫人として迎え入れていただかなくてもいいので、母を一緒に連れていく許可をください」
ここにいたら、母は間違いなくこの家の悪感情の的になる。
お世辞にも人ができたとは言えない人たちばかりいる。むしろ下郎といっていい。
ラティッチェ公爵は少し考えるようなそぶりをすると「構わないよ」とにっこりと笑った。優しそうだ。美しいのに、やはり何か作り物めいていて恐ろしい。
あの脂下がった男は美しい愛人を手放すのは嫌なのかやや渋った。しかし、母も連れて行くからと金貨の入った袋をラティッチェ家の執事が出すとすぐさま手のひらを返した。
まさに金で買われた養子縁組だった。
そのまま馬車で連れていかれたが、ちらりとキシュタリアとラティーヌを見た公爵は執事に命じた。
「これではアルベルに見せられん。見られる程度に整え、躾けておけ」
「畏まりました」
これが本性かと、少し落胆したが納得もした。
そして、母に微塵も興味を持っていなさそうなのでまだ良しとした。
その後、ラティッチェ家の別宅だという――前の御屋敷の敷地が二つは入りそうな立派な建物に連れていかれ、キシュタリアは徹底的に体や髪を洗われ、一から礼儀作法を叩きこまれた。スパルタだったが、新しい服と温かい部屋と十分な食事を与えられていたのでそれほど苦しさはなかった。母もかなり厳しいレッスンを受けていた。公爵のいっていた『アルベル』という人物は、それほど重要なのだろうか。
アルベルト? アルベリー? アルバトロス? アルベルティーナ? アルベロッサ? 公爵の愛おし気に転がすアルベルという愛称から思い浮かぶ名前。一人娘といっていたのだから、女なのだろう。そもそもあれは愛称なのかすら分からない。
しばらくして、漸くお許しが出て公爵家本宅に行けることとなった。
そのころにはすっかり痩せこけていた体もやつれていた頬もだいぶ肉がついてきた。母はますます美しさに磨きがかかった。公爵家で出される食事はとても美味しく、出される衣類もとても高級で洗練されたものばかり。
最初袖を通した時は、恐縮するほどだった。
本宅に行く前、久々にラティッチェ公爵が姿を見せた。
「お前たちにアルベル――私の娘の、アルベルティーナを紹介する。
お前たちはあの子のために生きて死ね。逆らうことは許さない。その時は死と絶望を持って贖わせる。
余計なことを考えず、アルベルティーナに尽くせ。お前たちの価値はそれだけだ」
あんまりな物言いだったが、いっそ悍ましさすら覚えるほど威圧を放ちながら公爵は言う。逆らえば、文字通り始末されると理解した。ただ是と恭順するしかできない。
キシュタリアは母とともに頷いた。
アルベルティーナとはどんな少女だろう。ラティッチェ公爵の娘だというくらいだから、おそらく綺麗な子なんだろうなと――そして、同じくらい冷酷そうだ。
そんな思いを胸にしまいこんで、叩きこまれた人好きをさせる笑みを顔に張り付けた。
連れてこられた部屋はとても豪奢であるが、テーブルにレースクロスがかかり柔らかい色のカーテンや壁紙が不思議と人を落ち着かせる場所だった。そして、豪華な調度品に囲まれ、真紅の布張りのカウチに本をもって座っている少女がいた。
見た瞬間、すべてを貫かれたような感覚がした。
鮮やかで艶のある黒髪は長く、緩やかに波打っている。白い肌は滑らかで、まろい頬はほんのりと薔薇色だった。形の良く細い眉、大きなぱっちりとした深い緑の瞳。その目を縁取る睫毛は風が起きそうなほど長く少し俯くと大きな目をあっさりと隠してしまう。小さな鼻に、柔らかそうな少しぽってりしたピンクの唇。
お人形のような、いや、天使のような少女がいた。びっくりするほど美しく可愛らしい。
髪や瞳の色や容姿は公爵とは似通っていないが、目が眩む美貌という一点は間違いなく一緒だった。
その少女を見るなり、あの冷たい威圧感と恐怖が美貌を着て歩いているような公爵が相好を崩す。
「アルベル」
「お父様!」
キシュタリアたちを見て、一瞬隣にいた少年の陰に隠れようとした少女だったが、公爵の姿を見るなりぱっと表情を輝かせて抱き着いた。
声も可愛い、と少女独特の甘く高い声が胸に響くのを感じた。
くらくらと酩酊するような熱に浮かされたような感覚を感じながら、キシュタリアはぼうっと少女を見つめた。同じくらいか、少し年下くらいだろうか。
少女が動くたびに可愛らしいピンクのドレスが揺れるのが花のように可憐だった。
自分がどんな自己紹介をしたか、母がどんな話をしたかすらぼんやりと過ぎていった。
アルベルティーナはかなり人見知りのようで、初めて見るキシュタリアやラティーヌの前になかなか出てくれなかった。しかし、興味はあるようでジュリアスという従僕に引きずりだされて小さな声で自己紹介をしてくれた。だいぶ恥ずかしがり屋でもあるのかもしれない。そしてすぐにジュリアスの陰に隠れて、そっとこっちを伺ってくる。
その仕草すら小動物のように愛くるしく、顔が緩みそうになる。それは母のラティーヌも同じようだった。
ずっと兄や本妻、父である人物に悪意と侮蔑と忌避する視線にさらされていた。
それに比べれば、少し戸惑いと恐怖と興味がないまぜになった少女の視線は可愛いものだ。
可愛いな。声をもっと聴いてみたい。顔が見たい。なぜそんなことを思うのか分からないけれど、ずっとそんなことを思っていた。
気が付けば、自分の部屋だという場所に案内されていた。
「お嬢様は人見知りが激しいので、ほどほどに」
帰り際、黒髪で眼鏡をかけた従僕――ずっとアルベルティーナがくっついていた従僕が釘を刺してきた。
不興を買うのは言語道断。だができるのならばあの少女と話してみたい。だが、養子であるキシュタリアが正真正銘公爵の愛娘であるあの娘に気安くはできない。ラティッチェ公爵がアルベルティーナを溺愛しているのはいうまでもない。キシュタリアは悩んだが、意外とあっさりとその問題は解決した。
アルベルティーナは時折、とびきり美味しいお菓子や料理を用意してお茶会や食事などに招いてくれた。
お茶会の時は必ずといっていい程、ジュリアスという年の近い従僕かアンナという仲のいいメイドを連れていた。そして、たまにドーラというラティーヌと同じか少し年上くらいの、顔立ちは美人風だけれどキツイというか、癖のある印象のメイドを連れていた。
ジュリアスとアンナは有能でよく気付く使用人だった。彼らは対応もよかったが、ドーラは明らかにラティーヌとキシュタリアを見下していた。聞けばもともとはアルベルティーナの実母付き――つまり公爵夫人付きの上級メイドだったそうだ。なぜ使用人の中でも特に辛辣で、ラティーヌやキシュタリアに冷たいかと合点がいった。
アルベルティーナが、拒絶しないだけかなりマシな部類だった。むしろ、怯えながらに受け入れようと健気にこちらに歩み寄ろうとする姿はラティーヌの目にも可愛らしくて仕方のないものに見えているのは明白だった。
だが、やはり怖がりの小さな少女に強引に近寄ることもできない。
メイドのアンナや従僕のジュリアス、執事のセバスにも相談しても一様に、慎重に距離を詰めてくださいというのが総合判断だった。
ラティーヌは、なぜか公爵の再婚相手として選ばれていた。最初は不思議だったが、後にパーティやお茶会の供をした母により判明する。
あの化け物じみた美貌の公爵はモテる。それも凄まじく。本当の愛はアルベルティーナの実母のクリスティーナに捧げたままだが、それでも公爵の正妻の座が空きっぱなしという状態に如何なる手を使っても滑り込みたいと妄執じみた粘着する女性が後を絶たない。デビュタントから未亡人どころか、夫のいるマダムまでしつこく言い寄ってくるそうだ。
公爵は根回しも良くスパルタ教育を受けさせている間に、ラティーヌの後見人に上級貴族を何人もつけさせていたため、元下級貴族の愛人というレッテルは表立って罵る人間は少ない。つくづく隙の無い義父であった。そして味方であれば心強い。
相変わらず公爵は恐ろしい義父だが、その娘のアルベルティーナはほっとけない少女だった。
時折、アルベルティーナは真夜中に悲鳴を上げて飛び起きると、アンナやジュリアスに宥められている。余りに酷いと、公爵が来るか朝が来るまで泣きじゃくるか、暴れ疲れて泣いて疲れて気絶するように寝るまで騒いでいた。
最初はその理由を知らなかったが、かんしゃくの一つかと思っていたが何かがおかしい。その時のアンナとジュリアス、そしてセバスまでもがかなり張り詰めていることに違和感を覚えた。
様子を探っているとアルベルティーナは過去に誘拐されたことがきっかけで、狭い場所や暗い場所が苦手。しかし、それを知っている使用人の誰かが彼女にいじめじみたことをしているというのだ。
それを聞いたとき、まさかと思ったが事実だった。傍付きをしている中でも、アルベルティーナの怯え方を知っているアンナやジュリアスは、彼女が寝た後にも部屋が暗くなりきらない様にしている、顔になにもかからない様に気を配っている。にもかかわらず、視界が真っ暗闇の中でアルベルティーナが起きることが何度もあった。誰かが意図的に仕掛けているのだ。
そのことにはキシュタリアもラティーヌも激怒した。質が悪いにも程がある。
後にその犯人である上級使用人のドーラはジュリアスをはじめとする皆に追放された。もしかしたら、生きていない可能性もあったが、知ったことではない。
虐められていた当のアルベルティーナはそれほどことを重くとらえていなかったようだが、先に彼女を慮る者たちの怒りと我慢が振り切れた。
アルベルティーナはにこにこと何かを思いついてはジュリアスにお願いしている。ジュリアスはいつも通り、だがよく見れば大抵浮足立って熱心に聞いている。だが、その内容によっては公爵家の使用人たちが下級から上級までひっくり返る大騒動になることもあった。
アルベルティーナは世間知らずの箱入り娘だった。
だが、その頭脳は恐ろしく発想力が豊かだった。そして、ラティッチェ家当主はそんな娘を溺愛し、娘が望むなら気が済むまでやらせろという方針だった。そして、それがとんでもないものを次々発明するきっかけとなる。
今までにない美食や、ファッション。美容品から健康食品や薬品や生活用品の類まで。
キシュタリアには最初よくわからなかったけれど、年齢を追うごとにアルベルティーナの特異性を徐々に理解する。
たまに、屋敷までアルベルティーナ会いたさに詰めかける人間もいる。だが、ごく一部の公爵の許可を得た人間しか入ることは許されない。
この屋敷で最も偉いのは公爵だが、最も厳重に守られているのはアルベルティーナだった。
ようやくキシュタリアにも慣れてきたころには、アルベルティーナはあの屈託のない笑みをキシュタリアにも向けるようになっていた。相変わらずおっとりしていたが、お姉さんぶりたがる、背伸びをした姿がとても可愛らしくて――でもなぜか姉と呼ぶのに抵抗があった。最初は姉と呼んでいたが、呼ばなくなると少しむくれていた。
やがてキシュタリアが社交界に出るようになると、当然公爵令息としての振る舞いを求められる。
社交界で、義姉の容姿など碌に知らない連中が勝手な想像で彼女の容貌を貶すのは、最初こそはらわたが煮えくり返った。笑みの奥に怒りを押し込めて、温和で人好きのさせる笑みを携えたままそいつらを突き落とすタイミングを虎視眈々と狙っていた。
幸いに、従僕のジュリアスはしれっとした顔をしてそれを絶妙にアシストしてくれたのでそれほど苦労はしなかった。時折、執事のセバスや公爵までそれを黙認するどころか、後押しするそぶりを見せるのでかなりうまく立ち回れたと言える。
ラティッチェ領の発展は王都に勝るという噂が立ち上り、公爵家はますます栄えた。それをみなが公爵自身の能力だと思っている。それが、公爵の溺愛する娘によってもたらされたと知るものは不自然なほどいない。
だが、それでアルベルティーナの安全が保たれるなら安いものだ。彼女は嫁がなくていい。令嬢として最高峰の教養を受けながらも、その教育には不自然に穴があった。その意味を知りキシュタリアは、公爵がアルベルティーナを嫁がせる気がないと知りますますほくそ笑む。彼女はずっとラティッチェにいて、自分の傍で笑っていればいい。こんな汚い世界など知らなくていい。
お茶会やパーティで、色々な人と出会った。デビュタントの可愛らしい令嬢や社交界の華と呼ばれるような美女にも。だが、キシュタリアの胸には何も響かない。
甘くねだる声も、しな垂れかかる柔い体も、熱を帯びた眼差しも白けたものにしか見えない。
キシュタリアはそれらの令嬢よりも美しく可憐な少女を知っていた。
幼いあの時から、ずっと変わらずに。今もキシュタリアの胸にいる。どんな声よりも甘く響いていた。彼女が名を呼ぶ瞬間が、なんと甘美な事か。
ずっと一緒にいたい。
ずっとその声を聴いていたい。
そのためなら狭く歪な作られた楽園を、生涯をかけて守り続けることすら構わない。
かつては、きらきらと胸に秘めていた初恋だった。それが気付けばどろどろとした執着に様変わりしていた。
こんなもの、あのアルベルには見せられない――義弟として、ずっと胸に秘めているつもりだった。
アルベルティーナは嫁がない。ならば、次の当主である自分が彼女を留めれば、ずっとそばにいれるはずだ。義父を説得する方法はあった。アルベルティーナはラティッチェ家が大好きなのだから、それを利用すればいい。
ゆっくり、ゆっくり彼女がこちら側に落ちてくる瞬間を待てばいい。
落ちたことすら気づかないほど緩やかに、ゆっくりゆっくり沈んでしまえばいい。
気が付けば、自分がいなければ息ができなくなるほどに溺れてしまえばいい。
キシュタリアが知らず彼女に溺れたように。
「ねえ、キシュタリア。貴方は気になるご令嬢はいないの?」
「え? なんでいきなり?」(目の前にいるけど)
「だって、私はともかくキシュタリアに婚約者がいないのはおかしいでしょう?」
「まあ、僕個人じゃなくて公爵家の問題だからね」(君以外はどれも同じ)
「悩んでいるようなら、私も一緒に選んであげるわ!」
「うん、絶対やめて」(義父様にばれたら候補じゃなくて確定になる!!!)
ある意味、公爵より人でなしなところがある義姉は、善意で極悪な言葉を口にする。
公爵子息のキシュタリアを陥れようとする陰湿で悪辣な貴族たちをいなすよりも、無垢で善良な好意からキシュタリアに見合う令嬢を探すアルベルティーナのほうがよほどキシュタリアにとっては強敵だった。そして心臓に悪かった。
残念そうにお見合いのポートレート付きの釣書を持つアルベルティーナ。
それを没収したキシュタリアは、取り返そうと手を伸ばす彼女の頭に触れ、そのまま髪を梳く。
数少ない人間にのみ許される特権。ゆっくりと手を動かせば目を気持ちよさそうに細めるアルベルティーナ。柔らかく艶のあるブルネットは絡まりを知らない滑らかな指通りで、ほんのり香油が薫る。
本来の姉弟でもしないだろう触れ合いに、疑問を持たないアルベルティーナ。それをいいことに頬や首筋にゆっくりと触れる。怖がらせないよう、優しく。
「くすぐったいわ、キシュタリア」
「そう? ごめんね」
今はまだ、このままで。
コロコロ笑うアルベルティーナに笑みを返しながら、背後から静かに監視している従僕に気づかないふりをした。
後日、あのすまし顔の従僕が密告したのだろう。キシュタリアは実母のラティーヌにしこたま怒られる羽目となる。
本気で切れた母はヒールがテーブルの脚にめり込むほどの蹴りを入れて、恫喝じみた叱責をしてくるのだ。テーブルが木製だとめり込むが、これが金属製だとヒールが折れる。
その剣幕はあの済ました従僕も後ずさり、長年仕えた執事も青ざめ、公爵すら首を傾げて回れ右をする。
家で共に過ごすことが多いからか、すっかり義理の娘であるアルベルティーナを溺愛しているラティーヌ。年頃になり、ますます美貌に磨きがかかるアルベルティーナの前では実の息子ですら害虫扱い。というより、前科が多すぎたのだろう。
幼いころは微笑まし気に容認していたが、結婚適齢期に近づくにつれて母の目は厳しい。
実母のラティーヌも、男関係で嫌な思いをしたことが多いからかもしれない。
アルベルティーナがそのあたり全く無知なのも原因だろう。狭い世界で生きていた彼女に、比較対象はほとんどいない。これは公爵の教育の賜物というべきか。
ラティーヌはアルベルティーナにキシュタリアの危険性を伝えるべきか、いつも悩んでやきもきしている。迂闊に教えて意識させては、かえって危険かもしれないと悩ませ――結果、すべてを知っていてちょっかいを掛けるキシュタリアに激怒する。
そんな裏事情もしらずにいるアルベルティーナをたまにアホ扱いしている失礼な従僕の澄ました顔が頭に浮かび、無性に腹が立った。
アルベルティーナも怒るのだが、その怒り方は可愛らしいだけであった。なまじ、周囲の怒り方が激しかったり、凄まじかったり、悍ましかったりものだったりする分、彼女の怒り方は可愛らしく拗ねている程度にしか見えない。一応、彼女なりに怒っているのだ。
普段は頼りになる従僕だが、どうもアルベルティーナと距離が近すぎる気がする。
アルベルティーナも頼りになる従僕、そして幼馴染兼兄のように慕っているジュリアスはどうも公爵と似た匂いがする。そして、自分と近いものも。
「・・・ジュリアスめ」
「違います、坊ちゃま。私です」
「アンナ!?」
「お嬢様の教育によろしくないことはおやめください」
「・・・・悪かったよ」
普段は淑やかに控えるアンナの茶色の瞳に、母のラティーヌと同じものを見た。
逆らってはいけない何かの眼。
ジブリールといい、なぜアルベルティーナ絡みになると途端に強力になる女性が周囲に多いのだろうか。
アルベル過激派がラティッチェ家に多い。
読んでいただきありがとうございました(*- -)(*_ _)ペコリ
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