軽挙の代償
魔王降臨のターン。
アルベルティーナが動く前に結構終わっていた。
残酷描写が後半にあります。事後って感じですが。
貴族の――しかも上級貴族のご令嬢の馬車を呼び止め、その本人どころか御者や使用人すら許可を取らず乗り込むのってかなりマナー違反ではないのかしら。
これ一歩間違えば誘拐・強盗の類と一緒じゃないのでしょうか。
抉じ開けられた馬車の扉は、鍵がちゃんとかかっていたがプラプラと揺れているあたり強引に開け放ったのだろう。
恐怖を伴い唖然と見上げる私に対して、不遜な態度で鼻を鳴らすのがこの国の第一王子だという青年。
ヒキニート令嬢である私は、たまにメイドが持っている姿絵をチラ見したくらいでしか王子たちの姿を知らない。前世のゲームの記憶では二次元デフォルメな姿だ。
確かに金髪緑目は、私の持つ数少ない知識と照合できるが――こんなに乱暴極まりない青年が本当にこの国の王子様なのだろうか。ほとんど面識のない、しかも重鎮の溺愛する娘の馬車にいきなり土足で乗り込んで指をさして睨みつけてくるこの青年が?
王族というものは、あらゆる状況に応じた礼節をもっていなくてはいけないのではなくて?
ゲーム知識では割と紳士で優雅な正統派王子様だったような気がするのですけれど・・・? あくまでヒロイン目線なの?
困惑する私は、なんとか声を絞り出そうにも喉が恐怖にひきつってはくはくと意味のない呼吸を繰り返すばかり。
何故か?
一つのことに思考が支配されていた。
怖い。
怖い、怖い、怖い!!!
たった一つの思考が頭を埋め尽くす。
いくら美形でも、身分が尊くても、粗暴で敵意溢れる姿で迫ってくれば恐怖以外覚えない。
「おやめくださいませ、ルーカス殿下! お嬢様はお体も弱く、非常に繊細な方なのです!」
「下女ごときが私に指図をするつもりか?」
「ですが、このお方は・・・」
「ドミトリアス伯爵とラティッチェ公爵子息に庇われて随分と粋がっていたそうではないか」
粋がっていませんわ・・・・なんでそんな噂になっていますの?
私、今日は学園でキシュタリアとミカエリスとジュリアスとジブリールや連れてきた使用人たち、お父様くらいしかお話していませんわ。
恐怖で身を縮めていると、胸の前で組んでいた手を無理やり掴まれて、馬車から引きずり出された。アンナの悲鳴が上がる。
乱暴に引かれた腕が痛い。エスコートなんてものでは間違いなくなくて、ますます恐怖に委縮した。
「・・・お父様ぁ・・・」
「はっ、父親に縋ろうというのか? どこの田舎貴族かは知らないが、このまま貴族を名乗っていられると思わないことだな」
小さな私の助けを求める声に、嘲笑が返される。
私がこれ以上粗相をすれば、お父様にもご迷惑がかかる?
完全に恐慌状態に近いと自覚しながらも、震える体を制することすらままならない。
「殿下! それ以上はおやめくださいませ!」
アンナが私に駆け寄ろうとしていたが、殿下の護衛らしき騎士にあっさりと弾き飛ばされた。
鍛え上げられた屈強な騎士が腕を一振りしただけで、華奢で小柄なアンナは石畳の道路に打ち付けられてそのままぐったりと動かなくなった。横たわる姿に血の気が引く。
「アンナ!」
「おっと、逃げようというのか? それとも本当に使用人などに心を砕く殊勝さを持ち合わせていると思わせたいのか?」
打ち捨てられたようなアンナ。すぐに近づきたいが、別の騎士にあっさり阻まれた。その時の衝撃で眼鏡が落ちたが、それは拾われるどころか踏みつられて破壊される。
私の護衛に集まっていた騎士はまるで罪人のように捕縛され猿轡までかまされて、驚愕、そして困惑したように殿下と私を見比べている。
何人かは抵抗を試みたのか、ぐったりと倒れている。
ヒロインとゲームを進めていた時は優しい王子様であったが、今いる彼は何なのだろう? 権力を振りかざし、一方的に攻め立ててくる。まるで、男版アルベルティーナではないか。元祖アルベルティーナのほうが陰惨で悪辣であったが。
頬に恐怖か悔しさか分からない涙がこぼれる。
無力だ。私は恐怖で震えることしかできないのか。やっぱり役立たずだ。
お父様とのお出かけで、珍しくお洒落に気合を入れて選んだ白いドレスはすっかり土で汚れていた。繊細なレースはお気に入りで、派手ではないが上品なものを選んだ。だが、やはり外面だけ繕っても私は中身を伴わない張りぼて令嬢なのだ。
打ち付けられた膝が痛い。手の平も痛い。涙で頬が冷たい。惨めで無様で仕方がない。
「しかし、殿下・・・いくらなんでもこれはやりすぎでは?」
「やりすぎなものか! この女の差し金でレナリアは泣いたのだぞ?! レナリアの折角の誘いを邪険にするキシュタリアやミカエリスも許せぬが、身分も弁えずに彼らにすり寄るこの女こそ諸悪の根源だ」
断じて私を悪と決めつけにかかっているルーカス殿下。
王太子がまだ決まっていないこの国において、現在第二王子とその座を競っている。
そして、この言葉の端々に滲むレナリアへの異様なほどの寵愛は、間違いなく彼が完全に入れ込むほどレナリアに惚れているという事実を如実に表していた。
愛は盲目というが、もはや精神の均衡を崩しているレベルではなかろうか。
「適当な場所へ入れておけ。しかるべき場所で処罰を言い渡す」
ルーカス殿下は崩れ落ち俯く私に侮蔑交じりの視線を寄越し、背を向けてさっさと侍従らしい青年を連れていった。その侍従もほんの一瞬憐みの視線を私によこす。
座り込んでいる私に、日に焼けたくすんだ緑の髪のおじ様というには若い、でも成人してだいぶ経つだろう二十代だが貫禄のある騎士が膝をつき話しかけてきた。
「レディ、大変申し訳ないが運が悪かったと思って諦めて欲しいのです・・・今しばらく我慢してほしいのです。私たちは貴女を無体に扱いたくはありません。
騎士を付けたうえ立派な四頭立ての馬車を用意するくらいだ。お父上は立派な方なのでしょう――王子はそれすら分からないほど、とあるご令嬢に入れ込んでしまっているのです。
お父上はどちらか教えてもらえないでしょうか? なるべくすぐに釈放されるようにこちらから手を回しましょう」
「お、お父様は立派な方です・・・上級貴族で、王都へ・・・いまは登城しにいっていると思います」
お父様は立派なお人。私とは全然違うお人なの。でも、私はご迷惑をおかけすることしかできない。今も、お父様の御威光に縋ることしかできないのだ。
「そうですか・・・早馬を飛ばせば今日中には・・・レディ、お名前をお伺いしても?」
耳慣れない低い声だが、この声は先ほど王子を制止しようとしてくれていた声と同じ。物腰も穏やかで丁寧だ。
この人は、少なくともルーカス殿下のこの行いを良しとはしていないのだろう。だが、騎士という以上は逆らえない立場だ。
のろのろ私が顔を上げると、びっくりしたのか体ごと顔を背けて一気に後退した。まるで凄いものを見た――私の泣き顔はそれほどひどいのだろうか。ぺたり、と頬に触れるとまだ濡れている。
「・・・システィーナ様!?」
誰ですか、それは。
驚愕を顔に張り付かせたまま、彼は居住まいを正して片膝をついて首を垂れた。胸に手をやり騎士の礼を取る。
その表情がかなり緊張しているのは、気のせいだろうか。私を見る目が、哀れみではなく憧憬と羨望を帯びた――崇拝的な何かを感じる。
彼の声が思いのほか響いたのか、他の騎士たちもわらわらとやってきた。思わずびくびくと身を抱く様に縮めたが、その騎士たちの様子もおかしい。
絶句、驚愕、哀切、恐怖――先ほどの顰め面が次々と塗り替わり、こちらに注がれる視線が痛い。
だが、私はシスティーナ様とやらではない。人違いだ。首を横に振る。
「も、申し遅れました。わたくしはアルベルティーナ・・・アルベルティーナ・フォン・ラティッチェです」
やっとのことで絞り出す。その声は情けないほど震えていたが―――騎士の半分が腰を抜かし、膝から崩れ落ち、中には失神するものが続出した。
状況が悪化した。
「・・・・もしや、あのラティッチェ公爵の・・・」
「・・・はい、不肖ながら娘にございます・・・常日頃、お父様がお世話になっております」
もはや周囲はうめき声しか上がらない。
だが、私に話しかけてきた緑髪の騎士は私を何とも言えない顔で見ている。その表情はとても複雑そうで、哀しいような嬉しいような遣る瀬無いような。
その時、再び何かを言おうとした、ぴたりと目の前にいた騎士の動きが停止した。そこにあるのは驚愕と、ほんの少しの恐怖。だが、それを押し込めてぐっと嚥下してやり過ごす。
彼の後ろに、いつの間にかレイヴンがいた。そういえば、今までどこにいたのだろう。
「お嬢様、遅れて申し訳ありません――何がありました?」
「レイヴン? 今までどこに・・・」
「薔薇を・・・・お嬢様が綺麗と喜んでいらしたので、いくつか株を分けていただきました」
「まあ、可愛い苗。ありがとう」
手首にぶらさがった袋には苗が入っていた。私が薔薇園ではしゃいでいたのを見て、貰いに行っていたの? その心遣いが嬉しくて、少し心が温かくなった。
レイヴンもまさかこんなに事態になっているとは思わなかったのだろう。あれ? 危うく置いていくところだったの? 危なかった。
レイヴンは黒い瞳から完全にハイライトを消して、緊迫する騎士たちを値踏みしているかのよう。
「始末しますか?」
「やめてください。この方々は命令に従っただけ。やむを得ず命令があった手前従っただけで、わたくしを気にかけてくださったの」
まさか、騎士にナイフを突きつけているの? 私からは見えないが、レイヴンの立ち位置からしてどこかに突き付けても十分おかしくない近さだ。
「ではお嬢様の御召し物をその様にしたものはどこに?」
「・・・・その方は学園に戻られました。またこちらへ来ると思います。それよりアンナをお医者様に診てもらって」
「・・・・お嬢様がそうおっしゃるなら」
やや不満そうに手を引いたレイヴン。しかし、その白い手袋をした手にはしっかりと細身のナイフが握られていた。手品のように軽く手首を揺らしたかと思うと、それはどこかへ消えてしまった。ほんの一瞬の早業で、よくよく見ていないと気づかないくらい。
だが、レイヴンは動かず近くでまごついていた騎士たちを睨みつけた。その目が一瞬、ぎらぎらと肉食獣めいた輝きを帯びた気がした。
「医者を呼べ」
もはや獰猛な獣のようなレイヴン。手負い獣のびりびりした殺気を浴びた騎士は、転がるように走っていった。
緑髪さんは険しい顔でレイヴンを見ているが、私がいる手前、何か言おうとして何度も口を噤んでいるようだった。視線がね、ちらっちらと私を伺っているの。困った感じに。
レイヴンはいい子なのに、余り好かれないのよね。なぜかしら?
「アルベルお嬢様。お手を。お運びいたしますがよろしいでしょうか?」
「ええ、頼みます」
膝をついて視線を合わせるレイヴン。私の手も汚れているのを見て、一瞬レイヴンが痛ましそうに表情をゆがめた。そして許可を得た後、横抱きにして私を持ち上げた。
うーん、やっぱりあっさり持ち上がるのね。私ってちゃんと中身はいっているわよね? ご飯ちゃんと食べているもの。
「お、おい待て! 使用人ごときがその方に触れるなど・・・っ」
「アルベルティーナ様は人見知りが激しく、男性が苦手です。特に上背のある成人男性を恐れます。ただでさえ畏縮しているこのお方をこれ以上怯えさせたいのですか?」
騎士の一人が呼び止めようとしたがぴしゃりとレイヴンにはねのけられた。
私も無理だわ。この中で私に触れられるのはアンナとレイヴンだけだわ。
自分より圧倒的に体格の良い騎士たち相手に、レイヴンは一歩も引かない。何か言ってきてもビシバシはねのけていく。ジュリアスの教育の賜物ね。
「それとも・・・弟君であらせられるキシュタリア様を呼びつけますか? 幼馴染で面識のあるミカエリス様? 長年よりお仕えしていたジュリアス様にしますか? まさか王都に向かっているお父上であり公爵様のグレイル様を?
わざわざ自分たちの無能さと失態をより広げたいならどうぞお好きになさってください」
レイヴンがこんなにすらすらといっぱい喋るの初めてみたわー。
しかし、なんでこんなに苛々しているのかしら? ずっと眉間にしわが寄っていてよ? 可愛いお顔が台無しだわ。
あら? なんだか頭がふらふらするわ? 安心して気が抜けてきたのかしら?
なんだか頭の奥がずきずきするし、今更になって膝や手の平がもっと痛くなってきた。
目を開くのも辛くなってきて、視界が揺れて瞼が落ちていく。レイヴンの肩口に額がおちると、ぐらぐらしていた頭が安定した。
「アルベル様!?」
ああ、もう無理だわ。
次に意識が浮上して見えたものは天井。羅紗のような天蓋が幾重にも張り巡らされ、天蓋の外の光を間接照明のようにぼんやりと柔らかな暗さを醸し出していた。ふかふかなベッドに横たわって、あまりはっきりしない頭でゆっくりと周囲を確認する。
知らない場所だ。
でも、ちょうどいい暗さと明るさがあり落ち着く場所だ。
ゆっくりと自分を見下ろすと、デコルテを広くとりフリルをあしらったネグリジェを着ていた。普段、私は風邪をひいたり、寒くなったりしない様にと温かい季節でもそれなりに首元まで詰まったものを着ることが多い。
誰が着替えさせてくれたのだろうか。
こうなると無駄に豊かなお胸が邪魔だな。何か手掛かりはないかとロゴや名入りの刺繍はないかとネグリジェを引っ張ってみる。ローズブランド製品だった。どおりで着心地がいいはずだ。ということは、これは良家の子女や貴族令嬢などの借物かしら?
もぞもぞしていた気配に気づいたのか、隣の部屋からごとんばたんと大きな音が響く。
爆ぜるようにして開いた――が、その割には静かな音だった。
「お、お嬢様お目覚めですか・・・・!?」
「アンナ・・・!」
左のこめかみに大きなガーゼを付けたアンナが、目を真っ赤にして転がり込んできた。
いつもはきっちりと纏めている髪が少しほつれている。
ベッドの傍に素早く侍ると、アンナは投げ出されていた手を握りしめた。その温かい手にホッとする。
「申し訳ございません、御傍に居ながら守り切れず・・・!」
「いいえ、貴女は十分なほど私のために尽くしてくれました。あの方が本当に殿下かは存じ上げませんが、使用人の貴女が制止するには難しかったでしょう」
「いいえ、いいえ! もっと早く動くことができれば! この身がどうなろうともお守りすると誓っていたのに・・・っ」
事実、アンナはその身を顧みず守ろうとした結果、屈強な騎士に荒く振り払われて昏倒してしまったのだ。頭にある手当の跡からして、下手をすれば本当に死んでいたのかもしれない。
ア、アンナが無事でよかったよおおおお!
私の数少ない心を許せる相手の一人だ。いつも影のようにそっと付き従っているメイドだが、私の入浴や着替えまで任せられるのはドーラが消えた後は彼女一人だ。
背中の傷を見られるのは出来る限り少なく、というお父様の意向もある。基本、私の体を本当の意味で見たことがあるのは彼女位だ。
昔はジュリアスもそうだったけど、流石に今は無理だわ。いや、たるんではいませんけど。メリハリボディですわ!
アンナは「御召し物は私が変えさせていただきました」と、私の懸念をすぐにはらしてくれた。
「貴女が無事でよかった・・・あら、レイヴンは?」
物静かだけど、基本必ず私の護衛として控えているはずなのだけれど。
私の問いかけに、アンナの顔が強張った。
感動で真っ赤にしていた顔色から一気に赤みが消えて、青白いほど真っ青になってカタカタと震えはじめた。
「その・・・」
「どうしたの?」
「こ、公爵様があの後すぐに学園に戻ってきて・・・」
やべー予感しかしねーでござる。
汚れてしまったドレスの代わりに用意されたのは、ピンクのドレスだった。しかもかなり胸元が開いているデザイン。背中はしっかり覆われているのですが、背中やウェストを締める分、胸元をしっかりと強調してしまうような形なのだ。背中や腰、胸の周辺のお肉を全力で胸に寄せ挙げて集結させるぜという飽くなき執着心すら感じるデザインだ。胸の部分はリボンで調節してだいぶ変えられるけれど・・・
もう少し大人しい色はなかったのかと思ったけれど、アンナが「その、お嬢様のお胸が入るサイズが・・・」とのこと。幸い、私はもともと背中やお腹はポニーの乗馬で鍛えていたためそこまで大きなバストアップにはならなかった。
まさにプリンセス! といわんばかりのフリル満点Aラインドレス。胸元とドレスの裾に薔薇のコサージュがアクセントとなってる。
それとなく避けていた系のThe乙女系デザインをまさかこんな時に着る羽目になるとは。ガチロマンティック系のドレスだが、最先端のコサージュとレースを取り入れているので、時代遅れのデザインではないけれど・・・
怪我をしたアンナには申し訳なかったけれど、ねだってねだって願い倒してお父様のところまでの案内を頼んだ。
このまま放置したら、きっと何人かの首が物理的に飛ぶかもしれない。
他所から見れば傷物の私を、至高の宝の様に大事にしているお父様。
そんなお父様が、大嫌いな王族の小倅にわたくしを傷つけられたなんて耳に入ったら、怒らないはずがない。
今はマナーもかなぐり捨てて、ドレスの裾をつまみ上げて大股で走った。途中、何度も裾が大きく翻ったけれど、気にして何ていられない。
「お父様!!!」
「ああ、アルベルティーナ。気分はどうだい? 酷い目に遭ったね」
人が集まっても余裕のあるダンスホールには、毛足の短い絨毯が敷かれていた。真っ白な大理石とのコントラストが美しく、真上に魔石のライトが点々と輝いている。
そのホールの真ん中に、お父様が立っていた。
重厚な扉を開け放った先は夥しい赤。その中心に、一人スポットライトを浴びているように、絢爛に一輪咲き誇るような存在感だった。
絨毯がもとより赤いけれど、なお一層真紅に染まっている部分があった。そこには決まって何かが蹲って、周囲は呻いてすすり泣いている。
「すまないね、アルベル。お前が起きてしまう前に全て片付けようと思ったんだけれど、思ったより笑えない妄言をほざくものだから、作業が遅れてしまったよ」
にこやかなお父様の朗らかな声が響く。豊かなバリトンはしっとりとした大人の色気と余裕を帯びている。
どこまでも気遣い、優しい微笑みが私だけに注がれている。
お父様の隣には、ベルベットの張られたものがよさそうな椅子に座った金髪の青年。恐らく私に怒りを当たり散らしていただろう王子がいた。だが、様子がおかしい。なんというか、恐怖で完全に目がイッちゃったような顔をしてがくがく震えている。もとより色白なのに完全に血の気が引いた顔。
彼の隣にはテーブルがあった。銀の皿にはボールのようなものが並んでいる。
ジュリアスは傍に立ち、私の視線が向いていることに気づいて目を少し見開いたがそれも一瞬。素早く一礼して――さりげなくテーブルを視界から遮る様に立つ。
「ああ、こちらに来てはいけないよ。折角ジブリール嬢から借りたドレスが汚れてしまうからね」
お父様はそういって、手に持っていた何かを捨てた。
一枚の紙片のようなそれはひらりと舞って絨毯の上に落ちたが、それが間もなく赤く染みて滲んでいく。
「本当はすべて始末すべきだとは思うんだが」
お父様は、絨毯の上を歩く。その絨毯が多くの水分を含んでいるためか、ぬかるんだ音が響く。絨毯の上に転がる何かの近くを歩くと、その音は一層響く。
じっとりと絨毯を濡らす正体が何なのか、ぼんやりと理解する。
「それはあんまりだとルーカス殿下が駄々をこねるんだ。おかしいだろう?
騎士候や下級貴族風情が、濡れ衣を着せられた公爵令嬢に怪我をさせたんだよ?
その女性の名誉はもちろん、その家自体にも大変な損害を与えるし、名誉が失墜する。
身体的な怪我など令嬢であればそれが場合によっては一生ものになることは常識だろう。
命令したのは殿下とはいえ、本当にしてはいけないことというのは少し考えれば分かることだろうに」
ぴちゃ、ぴちゃ、と色のついた液体が躍る。お父様が歩くたびに跳ね上がる。それはわずかにお父様の足元を汚す。
嘆かわし気に頭をふるお父様に合わせて、艶のあるアッシュブラウンの髪が煌めいた。
「仕方がないからね、ルーカス王子殿下に選んでもらったんだ」
朗々とホールに響くお父様の声。
その場所には、たくさんの人がいる。だが、完全に背景の様に誰一人動かず喋らない。いつの間にか、すすり泣きすら消えている。
ホールに点々と不自然に転がる人――おそらく、彼らの首はもう付いていないのだろう。
「紙を引いてもらってね、順番は決めさせてあげたよ」
すっとお父様が差し出したのは数枚の紙。
白っぽい色も、大きさも先ほど捨てたものとよく似ていた。
「なのに、半分も選んでないのに途中から嫌だとごね始めた。仕方ないから、先に選んだのから処罰して並べたんだが――どうやらまだ自分のやらかしたことをご理解してなかったようでね、あのように腑抜けてしまったよ」
肩をすくめるお父様。きらきらと私の大好きなお父様の色が、アッシュブラウンの髪が魔石の光源を受けてまばゆく輝く。宝石のような蒼の目が困ったように細められているが、私を見つめるときの甘く蕩けそうな温度はない。私を視界に入れると温度が灯り、外された瞬間消える。
私の目の前に差し出されたのは、何人かの家名らしきものが書いてあるカード。
その中に、宰相子息のグレアムやダチェス男爵令嬢の名前まで入っている。騎士たちだけでなく、加担したものすべてを廃するおつもりなのだ。
近づいてくるお父様。私は胸の前でぎゅっと手を握り、顎を引いてお父様をしっかり見つめ返した。
「どれがいい? アルベルティーナ――すべてはお前が望むがままに」
穏やかに生死を委ねるお父様。
お父様はわたくしを愛してくださっている。とても深く。そして、それに伴う様にそれ以外のものが命も存在も空虚で軽薄なものでしかないのだ。己の手が、存在が、血で汚れようとも構わないのだ。
「お父様、もう十分です。わたくしは無事ですわ。アンナとレイヴンが守ってくれたのです」
「身を呈して昏倒させられたアンナはともかく、レイヴンはどこかを勝手にほっつき歩いていたようだが」
「わたくしの為に、思い出にと薔薇を戴いてきてくれたのです。すぐに戻ってきました」
「まだあれもいるというのかい?」
「ええ、お願いです。あの子はわたくしに必要です」
戸惑うな。淀むな。迷うな。
はっきりとお父様にいえばいい。私の願いを。お父様は、私の願いだけは踏みにじったりはしない――どうしようのないものだけ、譲らないけれど。
お父様は、本当に私に優しいのだから。私だけには。
「・・・・仕方ないな。ジュリアス、それはもう一度再教育に放り込んでおけ」
その声に静かに、だがはっきりと「御意に」と返す声。ジュリアスの声と同時に、何かが引きずられる――やっぱりここにレイヴンもいたのか。
「あれが這い上がれるかは奴次第だが、これが最大限の譲歩だ。わかってくれるね?」
「・・・お父様のご温情とお気遣い痛み入りますわ。わたくしの思いを汲んでくださり、感謝いたします」
お父様の譲歩。せめて近くに置くなら、私を守れる護衛のできる従僕でなくてはならない。
それはレイヴンの仕事でもある。きっと生易しいものではないのだろう『再教育』は。
だけど今すぐ処分されていないだけ望みはある。レイヴン、勝手にあなたの処遇を決めてごめんなさい。どうか生き残ってください。
ふと、お父様が困った顔をしているのに気づいた。アクアブルーの瞳が心配そうにこちらを見ている。
「・・・・お父様?」
「その色のドレスも似合うとは思うけれど、少し悪い虫を寄せ付けやすそうだから着替えてきなさい」
「これしか入るサイズがなかったそうですわ」
「だが、そのデザインは少々な。可愛いアルベルに何か起きないか、心配で気が気じゃなくなってしまうよ」
確かにお胸を強調するデザインだ。
もとより大きい私が着ると完全に悩殺ドレスだ。初心な青少年や巨乳好きなんて瞬殺だろう。
といっても、わたくしは傷物令嬢なのだから本気で口説いてくる人なんていないでしょう。この惨状を見たご令息は全力でお父様から逃げたいでしょうし、その娘なんて地雷にも程がありますわ。
「お父様がいればわたくしにおかしな方など近づいてきませんわ。
ね? お父様。本当に大丈夫です。心配だとおっしゃるならお父様が私と一緒にいてくださいな」
「・・・・仕方ないね。でもやはりまだ顔色が良くない。セバスに体の温まるハーブティーでも淹れさせよう」
私には至極優しい声と、労わる視線。先ほどまで貴族の令息令嬢の前で首ちょんぱカーニバル(だと思う)をやっていたとは思えない。
そういってお父様は手に持っていたカードを投げ捨てる。はらりとあっさりと散らばるそれは地面に落ちた。
先ほどまで生死与奪権としてあったものは、漸くただの紙切れとなった。
私の肩を抱いたお父様は、パチンと軽く指を鳴らすと汚れていた靴をはじめとした足元を一瞬で綺麗にした。
「キシュタリア、ジュリアス、ミカエリス――この始末はお前たちに任せる。あとで報告するように」
あらー、まだ完全に娘溺愛モードじゃなかった。魔王モード残っていた。
これは相当お怒りですわ、お父様。
サンディス王家、頑張ってくださいまし。わたくしは助力しませんわー。
わたくしもあんな怖い思いはもう懲り懲り!!
お父様にあとでもっと滅茶苦茶絞られればよろしいと思いますのー! 死人が出ない程度にお願いしますわ、お父様。
頼りになりますわ、お父様。メッチャやべーカーニバルを即時開催しちまうのがちょっと困ってしまうのだけれど。でも王子自体は肉体的に無事だったからセーフ? 第一王子派っぽい人も、途中からはちょんぱされる前に止められたし。
なんというか、人の死体というものを初めて見たのかもしれませんが、意外と平気なものです。
私は意外と冷たい人間なのかもしれません。レイヴンやアンナが怪我するのも死ぬのも嫌だった。キシュタリアやジュリアスやミカエリスがいなくなってしまうのは嫌だった。
怖くていてもたってもいられなかった。
でも、あのお父様が持っていた紙片を見たとき、どこかで「死んでしまっても仕方ない」と思っていました。
私は自分の周囲の、ほんの一握りの大切な人以外はどうでも良いのかもしれません。前世の推しであったメンツにときめきもしませんでした。二度と会いたいとも思わない。
先ほどのチラ見えした魔王モードのお父様には、ちょっとまだドキドキしますが。
・・・・・・・本当に、無茶はしないでくださいまし、お父様。
読んでいただきありがとうございます(*- -)(*_ _)ペコリ
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結構やる気に直結するので(*´ω`*)