八話
初日以降、幸継は約束通り治療に専念してくれた。回復も順調だ。日に日に元気になっていく姿を見ると、嬉しくなる。
「ふんふん。ふんふふ~ん」
つい、鼻歌が出る。ただしそれは音程が定まらず、聞いた人を不安にさせる酷く微妙なものだった。
普段ならばすずなの恐怖の鼻歌を聞くのは、せいぜい理と炬だけである。理は慣れ切っていて温かい目で受け入れてくれるし、炬に至っては天上の音楽だと褒めそやす。
もちろん姿が見えたときは止めているが、間の悪い偶然とは回避し難いものなのだ。
主に炬のせいで一歩間違えば勘違いしそうな状況だが、訪れた客が運悪く遭遇した際に耳を塞いでそそくさと去っていく光景を何度となく見てきた。そのため己が音痴なのだという自覚がすずなにもある。
だから人前で口ずさむことのないように気を付けてはいる、が。
「機嫌がよいな。よければその理由、私にも教えてもらえるか? ぜひ参考にしたい」
「!」
相手から来られた場合は、さすがに対処できない。
安静にして寝ているとばかり思っていた幸継が、ちょっと苦笑気味にすずなの様子を見て、そう声を掛けてくる。
「ど、どうして起きていらっしゃるのです!?」
「寝てばかりいても体は疲れる。ああ、理殿には許可をもらった。少しの散歩ぐらいならばよいようだ」
「そうでしたか」
確かに幸継の経過は順調だ。理が判断したのならば間違いもない。
すずなが納得したのを見て取ると、幸継は楽しげに訊ねてきた。
「歌は好きか?」
「すみませんでした」
「なぜ謝る」
はい、でもいいえ、でもないすずなの答えは、質問に対して適していたとは言い難い。しかしすずなにとってはまずしておくべき回答だった。
「決して、音楽を侮辱しようとか、そういうつもりはないのです。耳で聞いた通りに歌っているつもりなんですよ、これでも!」
どうもわざとでなくては外れないほどに音階を外しているらしく、人によってはふざけているのかと怒られてしまう。
「そ、そうか」
「でも違うんですよね、分かります。子どもの頃、隣りに住んでた姉様はとっても優しい人だったんですけど、今思い返すと――わたしが歌うと笑顔が引きつってました。頑張ったねって褒めてくれたけど、姉様が褒めるときにつっかえたのを見たのは、後にも先にあれだけです……」
優しい嘘だったが、気付けないほどすずなも鈍くはない。周りにはきっぱり言ってくれる子もいた。そして今なおまったく改善されていないのも、充分知っている。
「ええとその、すまない。……歌は、好きか?」
「…………好きです」
そう。すずなは歌が好きだった。悲しいことに。
「……不憫な」
くっ、と目頭を押さえて本気の同情をされた。
「ふ、不憫じゃないです! 多分!」
「冗談だ。そなたが楽しそうに歌っているのは伝わってきた。――そういえば、気脈が視られる者はその大きな力ゆえに神から枷を与えられて生まれると言うな」
「そんな話があるのですか?」
「ああ。私の近くに気脈が視られる人間はいないから、確証のある話ではないが」
「気脈を視られる代償だと言われれば、音痴でも料理の才能がなくても構わない気がしました。……でも、お師様も炬様も視れますけど、別段枷はないような……」
「さて、どうかな。弟子であり、養い子であるそなたに見せたくなくて隠しているだけかもしれん。ここは一つ、暴いて成長をしろしめすのも孝行かもしれんぞ」
そんな提案をする幸継の顔は実に楽しそうだ。幼い頃は結構やんちゃな若君だったのではないだろうか。その気性を残したまま真っ直ぐ育っているあたり、御柴の家中は大分平和そうだ。
「人が隠しているのなら、それを探ろうなどとは悪趣味ですよ」
「暴いてやった方が楽になる秘密もあるぞ。宴の参加を渋る武将が孤立気味だったとき、そやつが下戸だと皆に教えてやったら、次からは意気揚々と参加して、馳走を平らげていたからな」
「……成程」
人と物事による、ということか。少なくともその武将にとって、秘密が秘密でなくなったほうがよく回ったのは間違いない。
「御柴様は、よく人を見ていらっしゃるのですね」
「大切な身内だからな」
皆が心地よく御柴にいられるよう、細かな計らいを厭わぬ人なのだ、と分かった。
「さて。大分脇道に逸れてしまったが、そなたの機嫌の理由、よければ教えてもらえるか」
そういえばそんな話だったと思い出す。別段、すずなにとって隠すような理由ではない。
「御柴様が元気になられましたから」
すずなの答えが予想外だったのか、幸継は目を見開いて黙ってしまった。それから少しばかり顔を赤くして微笑する。
「私のことでか」
「はい」
「そなたの素直さは、なかなか響くな」
「響く、ですか?」
「心に。身を労わられて嬉しくない者はいないだろう」
言われてすずなの心に浮かんだのは、理と炬、二人の顔。
「そうですね」
心配してもらえるのは、嬉しい。大切に想われているのだと実感できるから。心がほんわかする。
そのすずなを見て、幸継は複雑そうな顔をする。
「そなたが善き人に育てられたのはよく分かった。喜ばしいことだとも思う。……しかし今は、私を見て欲しかったところだな」
「あ、も、申し訳ありません」
面と向かって話している人を他所に置いてしまった。これは面白くないだろう。
「悪いと思ってくれたか?」
「はい」
「では一つ、頼みを聞いてもらおう」
幸継の言い方が半ば強制したものだったから、すずなは警戒して返答に一拍置いた。
「……できることは限られますが」
悪いことをしたとは思っているが、執拗に責められるほどの失態でもないはずだ。求められたもの次第では断るつもりで、すずなは先を促す。
すずなの心理は幸継にも伝わったのか、彼は楽しそうに笑った。
「そなたは礼節に準ずるが、肩書は見ないのだな。私を叱ってみせたときもそうだが、そなたは目の前の相手をただ一人の人としてしか見ていない」
「ご不快ですか?」
自分の考え方が異端である自覚はすずなにもある。しかし理や炬と暮らしたこの六年で、すずなの中にすっかり根を張ってしまっている。そしてそれが間違っているとも思っていない。
人の命に貴賤はない、と。
人としての礼儀は尽くすが、すずなは大名としての幸継を敬っているわけではない。
愚直に言い放ったすずなに対し、幸継が見せたのは爽快そうな笑みだった。
「いいや。そなたが正しい。だからこそ、そなたには個として扱ってほしくなったのだ」
正しい、と言われたことにすずなはびっくりする。
(この方は、本当に大名なのかしら)
身分は今更疑いようがないはずだが、ついそんなことを思ってしまう。
「個としてとは、どういうことでしょうか?」
「名で呼んでほしい。御柴はこれでも沢山いるのだ」
「よろしいのですか?」
「私が求めているのだ。そなたはどうだ?」
農民であるすずなには姓などないが、姓名を持つ者にとって、名を呼ぶのが一定の親しさを許した証であることぐらいは知っている。
それは幸継がすずなを認めた証だ。彼らからすれば、名などあってないような農民の娘を。
――いや、違う。
すずなと己の命の尊さに差などないと、彼はうなずいてくれた。だからすずなにも自分の価値を個として認めるよう望んだのだ。
己を認めてくれた相手を、拒む理由などない。
「承知いたしました、幸継様」
「うん」
名を呼べば、幸継は嬉しそうに笑った。
「それで、頼みとは何でしょう?」
「今のが頼みだ。聞き入れてくれたということでよいな?」
警戒して構えていたのに、まさかそんな可愛らしい頼み事だったとは。近畿を支配する大名家の当主とは思えない。
つい、すずなは吹き出してしまった。
「その顔、私がもっと無理難題を吹っ掛けると思っていたな?」
「はい。実は思っておりました」
認めてしまう。
人によっては無礼だと怒られるだろうが、幸継は大丈夫だと確信があった。なぜなら、幸継もとても楽しそうだったから。
「ふふ。幸継様は冗談にも長けていらっしゃるのですね」
「どうかな。お前の冗談はつまらないと、父上にはよくどつかれるが。しかしそなたに受けたのならば上出来だ。――だが、誤解はしないでほしいのだが」
「?」
優しい口調のまま、瞳の奥に真剣な光を灯して、幸継はすずなを見つめる。
「そなたに私を見て欲しいと言ったのは、勢いや冗談ではない」