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六話

 ――目が覚めた思いがした。


 この庵で意識を取り戻し、己が不覚を取ったことを理解してすぐに頭に過ったのは、早く家に戻らなければという焦りだった。


 より正確に言うならば、役目をつつがなくこなせなかったことへの失望を恐れたのだ。それはすずなの言う通り、家臣を信用していないがために生じた気持ち。

 だから突かれた瞬間、はっとした。


 臣下を信じぬ主君だから、臣下もまた心を寄せられないのか、と。


「さて、それでは御柴様。少々失礼しますね」


 幸継を部屋に戻したすずなは正面に座り直すと、なぜかいきなり服に手をかけてきた。


「ま、待て! 何をしようとしている!?」

「傷を診ようとしています。御柴様が無意味に無茶をされたので経過を診なくては」


 さも当然、という様子で言われる。

 だが幸継からすれば、そうなのかとはとても言えない答えである。


「そ、そなたは女性だろう!」

「はい。それが何か?」

「な、何か……?」


 幸継の常識では、妙齢の男女は気安く触れるものではなかった。肌を見るなど言語道断である。

 少なくとも、幸継の周りの女性はそうだった。男の裸など見たら、悲鳴を上げて卒倒するような奥ゆかしい女性しかいない。


 女性の薬師はもちろん御柴にもいる。貴人の女性を診るのに同性であるのが好ましいことが多々あったため、女性に許された数少ない職業である。


 とはいえ学ぶことが許されるのは家が裕福な者に限られるし、彼女らの役目はあくまで貴人の女性を診ることのみ。異性を診察するようなことはしない。


 なのにすずなは、心底不思議そうな顔をした。幸継が何を言っているのか分からないと、本気で思っている。


「医の道に性差が関係あるのですか?」


 問われて、幸継は答えられなかった。

 ない、と思ってしまったからだ。

 思ってしまってから慌てて否定する。そもそもの大前提がそれを許さないはずだ。


「だが妙齢の女性が男の裸を見るというのは不埒な行いではないか」

「命を救う前には些細なことでは」


 また反論の余地のない正論が返ってきた。まったくだ、と思ってしまった。


「わたしは気にしませんし、御柴様もわたしのことは『女』ではなく『薬師』として認識ください。それなら問題ないでしょう」


 性差を関係ないと言い切ったすずなに、幸継は目眩がした。なぜ彼女はそのような育てられ方をしているのだろう。


 だが同時に共感した自分もいるのだ。自分が御柴幸継という一人の人間ではなく、武士である矜持。それと同じものを目の前の少女から感じる。


(つまり彼女は、薬師としてその務めを果たそうとしているだけ)


 人命を救うという崇高な目的のためにだ。そこに男であること、女であることを持ち出す己が、酷く邪な気さえした。


(女性であることを意識するのは、いっそ侮辱かもしれない)


 理性では納得できなくはない。しかし感情は別だ。後ろめたさや羞恥は拭えない。だが仕事に真摯であろうとする者を侮辱するつもりはもちろんない。

 板挟みになって幸継が固まっている間に、すずなは了承を得たとしてさくさく診察を始め、終えた。本当に顔色一つ変えずに。

 生々しい傷の断面にも、怯む素振りさえなかった。


(……ああ、本当に。薬師だ)


 他のことなど何も映っていないすずなの真剣な瞳に、幸継は納得する。そして、己を恥じた。


「大丈夫そうですね。では、薬湯を持ってきます」

「すまない」


 謝罪をするということは、己の非を認めるということ。言葉一つ、行動一つが家に降りかかる幸継の身の上からすれば、重い責任が伴う行いである。


 だから滅多なことでは感謝も謝罪も口にしない。――してはならない。どれだけ心が痛もうと、幸継は一人の人である前に、御柴家当主の武士であるから。


 ずっとそう気を張ってきた。けれどここならば大丈夫な気がしたのだ。

 己が思うまま気持ちを表したのは、元服以来かもしれない。

 心のままを素直に口にする。それだけで肩から力が抜けた気がした。


 愚かな真似をしたとは幸継も思っているのだ。それでも動かずにいられなかったのは、焦燥に負けた弱さゆえだ。

 馬鹿な行いを止めてくれたことと、余計な手間を駆けさせた詫びを口にする。


(ここではきっと、御柴の名にさしたる意味はないのだろう)


 ここにいる者は皆、幸継をただ一人の人として扱っている。何をするにも御柴の名が付いてくる幸継には、それを違いとしてはっきりと感じ取れた。

 思った通り、すずなはただ優しく労わる笑みを浮かべる。そこに武門の男子が簡単に謝罪を口にしたことへの驚きや蔑みはない。


「体が弱ると、心も弱ってしまうものですから」


 純粋に慰める言葉を残し、すずなは部屋を出て行く。


 妙に安らぐと思えば、部屋に満ちた薫香が心地よいのだと気が付けた。その香りに身を浸していると、心なしか痛みが和らぐ気さえする。

 ややあって、すずなは椀を盆に乗せて戻ってきた。


「御柴様、こちらをどうぞ」


 手渡された薬湯を、大人しく飲む。

 ほんのりと甘みがあって飲みやすい。薬といえば顔をしかめずにはいられないほど苦いものと思っていたから、意外だ。


「心身に緊張があるときは、甘味がそれを緩める働きをしてくれます。甘とは五行説において土属性であり、これを中心に据えると、木火金水に配される春夏秋冬の節目を表す役割をします。中央に置いた土気とは、始まりと終わりの区切り、正しき流れを司る力でもあるのです。調和に大きな働きを持つ属性でもあります」

「確かに、落ち着く味だ」


 素直に認めてうなずくと、すずなはほっとしたように微笑んだ。


「私は御柴の当主であるのだから、きちんと己を律し、強く在らねばならない。だがそなたは薬師であるから……少し、弱音を吐いてもいいだろうか?」

「もちろんです」

「家の心配は、本当にしていない。私は先日当主を継いだばかりの身で、実は伴っていないからな。父上は多少足を悪くしただけで健在でいらっしゃるし」


 この乱世だ。前線で戦えなくなった当主が引退を考えるのは自然な流れと言える。


「信の厚い殿様であらせられるのですね」

「その通りだ。家中の者も皆、父上だからこそ団結できた。だから少し……難しくてな」


 反対されているわけではない。時期は繰り上がったが、父はかねてから早くの代替わりを考えていた。家臣たちも薄々察していたはずだ。

 当主の交代が上手くいかず、家が没落した例は後を絶たない。自身が健在なうちに幸継に基盤を作らせるつもりだったのだ。


 御柴が零落することは許されない。陽之元のためにだ。

 嫡男である幸継が継ぐのは、ごく自然なこと。才覚についても不満が出たことはない。それでも――まだ足りない。誰が何を言わなくとも、空気が伝えてくる。


「立場が変われば、距離感も変わるものなのだな。彼らは父上の臣であって、私の臣ではない。だからぎこちなくなってしまっている」


 変わらないのは幼少から側に仕えてくれている影秋だけだ。


「私が己で彼らの心を掴まねばならないだけだと、分かっている」


 そのために早々に渡された地位だ。理解しているからこそ、焦る。そして幸継自身、そのぎこちなさに疲れてもいた。


「そなたに叱られたとき、懐かしく思った」


 当主の息子でいたときは手厳しく叱ってもらえた。かくあるべしと様々なことを教えてもらえたし、間違えれば正しい答えが示される。


 けれど当主の座に就いた幸継は、己自身で判断しなければならない。誰もこうしなければならないと指示してなどくれないのだ。

 誰もが幸継に従う。己の言葉が持つ責任に、身震いせずにいられない。


「だから、ありがとう」

「高貴な方には、守るべき体面がいろいろとあるのだと思います」


 若君になら教育できても、主君にできるのは諌言を呈することのみ。でなければ主君に恥をかかせる。


「ああ、その通りだ。私がまだ幼いのだ。家中のぎこちなさは、ようは私が皆に気を遣わせているせいで生まれている」


 第一子として生を受け、家を継ぐ覚悟も育ててきたつもりだった。いや、育ててもらってきた。


「過ぎたことを懐かしむ私は、ここで捨てていこう。そなたに叱られて目が覚めた。感謝している」

「ありがたきお言葉に存じます」


 すずなの言葉や態度に裏はない。純粋に、幸継が心の整理を一つ済ませたことを喜ばしいと捉えているだけだ。


「そなたは、美しいな」

「…………はい?」


 思ったままを幸継が告げると、すずなは耳慣れない音を聞いたとばかりに唖然とした表情を見せる。


 大仰に喜ぶ振りをしながら、その実褒めそやされることを当然として待っている姫たちと違い、何と純朴で愛らしいことか。そんな反応にも好感が持てる。


「そなたの心根は、とても美しい」

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