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二十話

 勢いよく顔を上げ、すずなは立ち上がろうとする。だが。


「ああ……。先に知ってしまったのですね」


 そこにかかった穏やかな声に、冷水をかけられた。


「お師様……」

「……泣いていたのですか?」


 振り仰いだすずなを見て、理は珍しく目を見張る。


「いいえ、これは」


 反射的に否定しかけて、すずなは止まった。理相手に自分の幼さを誤魔化せるはずがない。彼はもう充分に知っているはずだから。


「……はい」


 だから、幸継への想いを認めてうなずく。


「そうですか」


 きちんと感情を整理して答えたすずなを、理は優しく見つめて肯定の言葉で迎えた。


「少し話をしましょうか。……ですが、客人のいないこの部屋は貴女には堪える。居間においでなさい」

「はい」


 幸継の手紙を畳み直し――置き場に迷う。やはり家主である理に渡しておくべきだと思って、先を行く理の背に声を掛けた。


「あの、お師様。幸継様からのお手紙はどうしたらいいでしょう」

「そうですね。後で拝見します」


 すずなが差し出す手紙を受け取って懐に仕舞い、理は再び歩き出す。すずなも後について行った。

 居間で腰を落ち着けるなり、すずなは口を開く。


「お師様は幸継様が出て行かれたこと、ご存知だったのですか?」


 急くすずなと対照的に、理は囲炉裏に火を入れ、湯を沸かし始めた。踊る火の姿と爆ぜる音。そして熱の温かさが心を落ち着けてくれる。


「ええ。昨日の夜、影秋が戻ってきましたのでね。炬は彼らについて行きました」

「炬様も?」


 まさか仕官するわけでもあるまい。そうなると、嫌な予感が湧き上がる。

 炬は幸継の星に凶兆を視たと言っていた。


「幸継殿の身の上は過酷です。彼は陽之元統一を成す期待によって産み落とされた」

(あ……)


 理に言われてようやく気付いた。すずながそちらに思い至らなかったのは、幸継が口にする陽之元統一が押しつけられた重みではなく、彼の望みとして語られたからだ。

 そしてきっと、嘘はない。だからこそ一番近くにいたすずなこそが気付かなかった。


(幸継様は、この乱世に立ち向かっている方)


 立場が違うと言えばそうだろう。しかしすずなはただ目を逸らして逃げた己と比べて強く恥じ入った。


 惨劇を目の当たりにした幼子が立ち直るには短すぎる時間だし、また本当の意味で立ち直れはしない。立ち直ったと笑える人間になりたいとも、すずなは思っていない。


 ――けれど今は、進みたい。


 この庵に来て初めて、すずなは変化を望んだ。


「どうぞ」


 物思いに沈んだすずなの前に、薬湯の入った椀が差し出される。


「ありがとうございます」


 受け取って口を付ければ、仄かな甘みが乾いた口腔を癒す。思わずほっと息をついた。


(幸継様も、こんな気持ちだったのかな……)


 緊張を和らげる甘の土気の話をしたことが、思い出すともなしに浮かび上がる。


「……幸継様は、強い方です」

「そう思いますよ」


 尊敬の念と共に言ったすずなの意見を、理も肯定した。


「好きという気持ちだけで共にいるには、彼が負うものは大きい」

「……はい」

「それでも幸継殿を追いますか?」


 出された椀をぎゅっと握って、すずなは己に問いかける。

 感情だけで追いかけては、きっと後悔する相手だ。困難しかないと分かっている。


 ――けれど。


「追いたいです」


 失ったと分かった瞬間に苛まれた悲しみを思えば、それ以外の選択肢などなかった。


「私が反対だと言っても?」

「――っ」


 びくりとすずなの肩が震える。


 すずな自身によくないことでしか、理はすずなの意思を止めたりはしない。彼にそう言われれば、よくないことをやろうとしている気がしてしまう。

 そして理の庇護を失うかもと思い至ると、堪らなく怖かった。


(でも、わたしは)


 それでも尚、すずなの心に灯った火は消えない。


「すみません、お師様。それでも行きます」


 行きたいのではない。行くのだ。

 言い切ったすずなに、理は優しく微笑んだ。


「ならば行くべきですね」

「お叱りになりますか?」

「いいえ。貴女の胸に芽生えた新しい愛を、なぜ叱るのです?」

「無茶だから、です」

「それを分かっているのなら大丈夫」


 苦しいだろう。辛いだろう。叶わない恋かもしれない。それでも走らずにいられない。


「ただし、これだけは忘れないように。私も貴女を愛しています」

「お師様」

「逃げたくなったら私の元に来なさい。無理をしてはいけません。すずなは一途過ぎるところがありますからね。そこだけは心配です」


 帰ってきていい場所があるのだと、念押しされた。


「ありがとうございます、お師様」


 自分を拾ったのが炬で、師となったのが理で、本当に幸せだったとすずなは感謝をする。


 幸継のもとへ走れば、きっと道に迷うだろう。なぜならそこは道なき道だから。すずなが初めて足跡を付けて進んでいく道だからだ。


 己の選択を疑うときも来るはずだ。歩き出した先で苦しい思いをすることも。

 それでも後悔はしないと決めた。


(わたしが、決めたの)


 自分の意思が選んだ結果だから。


「分かりました。では啓十へ行きましょう」

「え? 行きましょうって……」


 まるで理も一緒に行くような言い方である。きょとんとしたすずなに理は苦笑する。


「もちろん私も行きますよ。すずなを一人で送り出すなどとんでもない」

「でもお師様、庵が空になってしまいます」

「そうですね。外出しているのでお待ちくださいとでも張り紙をしておきましょうか」


 大方の日付を記しておけば、訪れた者の方で待つべきか帰るべきか判断できる。


「物盗りが来たら餌食になってしまいますよ」


 張り紙なんかをしていれば、家人がいないのが分かってしまう。ますますだ。


「差し上げてしまいましょう。この庵にすずなより大切なものはありません」


 惜しげもなく言い切って、理は立ち上がる。


「では、準備を始めますか。幸継殿の側に仕えるのなら、貴女には見ておくべきものと知っておくべきことがあります」

「それは……知らないといけないことだらけだとは分かっていますが」


 すずなは俗世と離れ、理と炬に護られた薬師の生活しかしていない。正直なところ、町で暮らすことさえ危うい。


「そちらは幸継殿に何とかしていただきます。すずなをここから連れ出すのは彼ですから。そうではなく――御柴に課された使命の方です」


 言って溜め息をついた理は、強い憂いを見せていた。




 理の庵と啓十までの距離は、馬で四日というところだった。早馬を乗り継ぎ最速で戻った幸継たちは、翌日の明け方には啓十を臨む小山に辿り着く。

 そこから啓十の北にある朝賀山の姿も良く見えるが、その様子は異様の一言に尽きる。


 山が、黒い。


 瘴気ではない。瘴気を使って作り上げられた邪妖の群れだ。


「……何という」

「ん。でも幸いなことに生き物の気配は薄いですね。落ち葉あたりが媒介かな」


 手を翳しつつの影秋の言葉は幸継にとっても安心材料となった。憑かれた動物を斬るのは、仕方なくとも寝覚めが悪い。


「しかしあの量の瘴気が町に入れば、憑かれる者も少なくあるまい。――ふむ。では、そちらは我が受け持とう。汝れら二人は山へ行き、元凶を仕留めよ」

「分かった。町を頼む」

「うむ」


 鷹揚にうなずき馬首を向けると、炬は啓十へ向けて直進する。


「私たちも行こう」

「ですね」


 山へ近付けば近付くほど、圧迫感が増す。


 瘴気の量がただ事ではない。次から次へと邪妖は生じ、尽きる気配が全く見えなかった。


 近付いて分かったが、邪妖には顔がない。つるりとした卵型ののっぺらぼうで、簡素な具足を身に着けている。印象としては足軽隊だ。


 瘴気の塊をその姿にしているのは、瘴気溜の核となった人物の意思が反映されたもの。

 その様に幸継が覚えたのは、腹立たしさだった。


(それほどまでに、兵が欲しかったか)


 邪妖に顔がないのは、作り出した者が兵をまともに見ていないせいだ。

 麓から近付く幸継たちに、ついに邪妖の群れが気が付いた。


「んじゃ一丁――」


 片方は順手、もう片方は逆手に構えた忍刀を手に、影秋は気負いのない声でそう呟き。


「どいてもらおうか!」


 力を込め、地面を蹴る。

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