二話
部屋にはほんのりと甘く柔らかく、それでいて爽やかな香りが漂っている。香りの素は薫香だ。乳香を使い、鎮静作用を高めている。
遠くの地よりの渡来品で高価だが、ここにその値段に頓着する者はいない。
「まずは、これでよいでしょう」
一通りの処置を終えた理がそう言うと、患者を連れてきた青年――利羽影秋と名乗った従者は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
影秋の出で立ちが職業独特のものだったので、聞かずとも分かった。今は顔こそ隠していないものの、全身を覆う軽装の黒装束――間違いなく、忍だ。
「一体何があったのですか?」
理は布団に横たわる青年を見てから、改めて影秋へと視線を戻す。
「刀傷に瘴気とは、穏やかではありませんね」
陽之元には時折、世の気脈や生物に害を及ぼす、瘴気と呼ばれる悪しき気が生じることがある。土地を枯らし、人や獣が浴びれば気脈を狂わす。それが傷口を通して内気から犯すとなれば、危うき状況にあると言わねばならない。
「そも、こ奴は一体何者であるか」
「はっ。この方は朝廷より啓十の国司守に任じられておられます御柴家当代、御柴幸継様にございます」
「御柴の、ですか。それはまた……大変な方がいらっしゃいましたね」
師匠の反応は言葉ほどには驚いておらず、後見人に至ってはほぼ無反応だったが、すずなは瞬間的に身構えた。貴族や武士、ましてや大名となれば好ましい記憶がない。
世は、混迷の時代を迎えている。
かつてこの陽之元を平らかに統べていた朝廷は、武家政権が樹立し幕府が開かれたときに直轄地を奪われ、財と権力を失った。代わりに陽之元を支配した幕府ではあるが、度重なる乱によって現在は衰えている。
陽之元は実質的に支配者を失っており、各地で力をつけた大名たちが自分勝手に覇を競っているのが現状だ。
御柴家は有力大名家の一つである。そしてこの家は、力を得ただけの他大名とは少々違う。
現当主、御柴幸継には天皇家の血が入っているのだ。
古くより天皇家に仕え、信も厚かった御柴家は国司守の官位を持つ。これに加えて天皇家が皇女を差し出したのは、世に対する宣誓である。
天皇家はこれより御柴に付く。御柴の意は天皇家のもの、と。
これにより御柴家は朝廷に実権を返すことを前提に、諸大名の誰よりも強く、全土統一の名分を持つのだ。
御柴の大殿が戦上手であったことも後押しとなり、効果はてきめんだったと言える。御柴家は数年で畿内周辺の諸大名を恭順させた。そして本家は御所を内に囲う啓十の地で栄えている。
おそらく今、陽之元で一番治安が良いのは啓十であろう。
しかし隙を見せれば食い殺されるこの乱世、当主が倒れたとなれば大きく揺れるのは想像に難くない。影秋が必死に助けを求めたのも道理である。
(御柴の殿は、意外にお若い方だったのね)
当主というより、若君と言われた方がしっくりくるぐらいだ。
「幸継様を失うわけにはいかないのです。どうかこの方の治療を引き受けてはいただけませんか」
「うーん……。そうですねえ……」
「問題があるのですか」
快諾されなかったことに、影秋は不安を過らせた。そして理の後ろで話を見守っていたすずなも驚く。
これまでどのような立場の、どのような病状の人であっても、理が受け入れなかったことなどなかったのだ。
「私のような者の所に御柴の殿がいては、家中が穏やかではないでしょう。身柄を返せと詰めかけられては具合が悪い」
何を馬鹿なとは思うのだが、身分の高い者がそういった暴挙に出る可能性があるのは事実だ。
貴族や武士の血を引いていない平民が、尊き方に触れることそのものを疎ましく思うらしいのである。少なくとも、すずなが以前住んでいた村の地頭はそうだった。
地頭と同じ考え方をする者が御柴にいれば、名もなき薬師が殿を診ることを、不相応だと非難される恐れがある。
「それは……申し訳ありません」
理が言った事態が起こる可能性があることを、影秋は認めた。
「ご不快かとは存じますが、知らせに戻るのを遅らせることで実現は避けられるかと思います。幸継様をお任せするのに理様以上の方はおりません。どうか、引き受けていただけませんか」
治して文句を付けられるのが前提とは、あんまりである。
しかしそれに苦い顔をした影秋が悪いわけではない。彼も使われる側の人間で、権力者の横暴を止める力などないのだ。
「貴方が一手打ってくれるのなら、引き受けましょう。のんびりと――そうですね、半月ほどかけて往復してもらえればいいかと思いますよ」
「ありがとうございます!」
「その間、御柴殿の身は私たちでお護りしましょう」
「はっ。ではそのように――」
「否!」
理の提案を安堵の表情で受け入れようとした影秋だが、炬から発せられた強い否定にびくりと身を硬くした。
「即刻、連れ帰れ」
そして次に放たれた言葉には、一切の容赦がなかった。思わずすずなは声を上げる。
「か、炬様。それはあまりに無茶です!」
理が誰のために難色を示したのか、なぜ炬が強固に拒絶するのか――分かっていたからこそ、すずなは口を挟まずにいられなかった。
理も炬も、多少難癖付けられたぐらいでどうにかなるほど柔ではない。彼らはどこででも生きていける逞しさを持つ。
彼らが気にしたのは、すずなだ。すずなにとって権力者の横暴とは、心の傷を抉るものだったから。
「意識さえない者を見捨てるとは、あまりに道理に反した行いではありませんか」
すずなが止め、理が窘める。その間影秋は額にじっとりと脂汗を浮かべ、頭を下げた姿勢まま動けずにいた。
「先に道理にもとる行いをしたのは誰ぞ?」
権力の意味をはき違えた横暴さえ存在しなければ、無用な心配であるのだ。かつての行いが返ってきているに過ぎない。
「面倒な輩のことだけではない。すずなはすでに年頃の娘ぞ」
「それは、まあ。しかし相手は怪我人ですし、それに――」
「否! 今は、に過ぎぬ!」
健康に戻ってもらうために治療を行うのだから、遠からずそうなるだろう。
「それはそうですが」
気負いなく請け負った理に、すずなと影秋はほっと息をついた。
理の見立てがこれまで間違ったところを、すずなは見たことがない。治ると言えば治るし、助からないと言えば……そうなる。
「特に昨今では、世の乱れと共に人心が荒んでいる」
「影秋が仕えているのですから、その心配はまず無用です」
(……あれ?)
先程から引っかかってはいたが、これほどの物言い。間違いない。
「お師様と利羽様はお知り合いなのですか?」
しかも大名である幸継の従者である影秋の方が、理に敬服している。どういう関係なのだろうかと首を捻った。
「古い知人ですよ」
「畏れ多いことにございます」
穏やかに答えた理に、影秋は言葉通り、深く頭を垂れた状態で応じた。
しかし成程、とすずなは納得する。影秋は偶然にここを見つけて幸継を運んだのではない。理に託すことが、一番助かる可能性が高いと考えて訪れたのだ。
「ぬ……っ。しかし、だな……!」
「まったく……。炬、貴方は過保護に過ぎます。とはいえそれもまた愛であり、選択の一つ。ならば私は師としての務めを全うするべきでしょうね」
炬を咎めようとした理だが、途中で思い直し、首を横に振る。そして改めてすずなを見つめた。
「私は、すずなには自由に、己の意思のままで生きて欲しいのです。――ですので、すずな?」
「はい、お師様」
「貴女はどうしたいですか?」
「心のままに答えよ。汝れが望むのなら、この男、即刻、安全に御柴の城へ帰して見せよう」
理の手前か、すずなに罪悪感を与えないためか。無事に送り届けるつもりではいるらしい。そして炬の言葉は信頼できる。
相手は大名。すべてを最高の基準で揃えられる人物だ。たとえここで拒まれようとも、実際には然程困りはしないのだろう。医者にかかる金も当てもない人間とは、文字通り別世界の存在だ。
少しだけためらってから、すずなは影秋へと目を向ける。
「利羽様、一つお聞かせくださいませ。御柴様にとって望ましいのは、どちらだと思われますか?」
すずなは外の暮らしをほとんど知らない。だから両方を知っている影秋に訊ねた。
「理様に診て頂く以上の治療など、この世に存在しない」
御柴という最高峰の大名家の内部を知っているだろう影秋が、きっぱりとそう言い切った。
ならばすずなの答えも決まった。居住まいを正し、まずは炬に頭を下げる。