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十九話

「争いを止めるために向かった汝れにならば、悲しむだろう」


 そうかもしれない、と思い直す。

 すずなが怒る様は悲しいが、彼女が悲しむ姿を想像すると、そちらも辛い。


「瘴気溜は世の混沌と無関係ではない。その元凶を見過ごせばすずながより悲しむ。ゆえに、我も征く」


 ようは、すべてすずなのためらしい。

 すずなが炬に信頼を寄せているのも明らかなので、今後のために、幸継は一つ訊ねてみる。


「炬殿はずいぶんとすずな殿に優しいようだが、なぜだ?」


 命を救われたすずなが恩義を感じるのは分かる。しかし助けた側の炬からも、それと同等、あるいは以上の好意が見受けられた。


 理もそうだが、炬とすずなもそこまで年が離れているわけではない。好意の形によっては難敵となるだろう。


「我の手を取った(いとけな)い小さな手が温かかった。それだけだ」

「今のすずな殿は、もう小さくはないだろう」

「それでも、変わらぬ」

「……分かっていてはぐらかしているのか?」


 幸継がした質問への答えとして間違っていないが、核心でもない。


「私はすずな殿を好いている。そなたはどうなのだ?」

「すずなが我と在ることを望むのなら、そうする」


 それは選ばれることを待つ姿勢だ。正面から突きつけられた幸継は、僅かな後ろめたさと尊敬を覚えた。同時に不甲斐なさに呆れる気持ちもある。


「私はそなたほど気も長くなければ臆病でもない」

「ぬ?」


 臆病呼ばわりが気に障ったか、炬がぴくりと眉を動かす。恩人に対して失礼かもしれないが、幸継は訂正しようとは思わなかった。


「私は待つつもりはない。こちらから行く」


 すずなにとって優しいのは、きっと炬の姿勢なのだろう。しかしそれで満足できるほど幸継は達観していなかった。

 それに何だかんだと言って、相手に委ねきるのは卑怯だとも思う。


「それもよかろう」

「余裕か?」

「否。すべてはすずなの心のままに。――しかし、心せよ」

「っ」


 鋭く炬が睨みつけてきて、空気が変わる。鳥や虫さえ息を殺し、周囲が耳に痛いほどの静寂となった。


「世の権力ですずなを従わさせられると思うな」

「愚弄するか」


 もとより、そんな浅ましい手段を取る気はない。


 すずなのことを愛しく想っている。同じぐらい恩も感じている。人としても、薬師としても尊敬していた。

 だから彼女を傷付けるようなやり方をする気はない。させもしない。


「先程の台詞、そのまま返そう。恩義を盾に、彼女を縛らせると思うな」

「……ふっ」


 しばしの睨み合いの末、炬は口元を緩めて小さく笑う。


「よかろう」


 引き下がり、おもむろに炬は歩き出す。


「炬殿?」

「すずなは汝れを気に入っている。なれば我から言うことはなし」

「……不思議な愛し方をする人だな、そなたは」


 同じだからこそ感覚で分かる。炬のすずなへの想いは、保護者としてだけのものではない。だがその熱はどこまでも広く穏やかだ。

 幸継は燻る熱を扱いかね、戸惑いの中必死だというのに。


「愛は、愛よ」

「違いはないが……」


 然程年の変わらぬ相手を前に、焦燥を感じる。


「征くぞ。負の情念を刺激され、彼奴は荒ぶっている。早々に鎮めた方がよい」

「そなたに祓われたからか?」


 幸継を害するために送った瘴気が払われたのは、本人にも伝わっているはず。執拗な敵意を感じるので、仕留められない苛立ちを爆発させていてもおかしくない。


「それもある。しかし一番は己の主に拒絶されたためであろう」

「主? そなたは瘴気の核となっている者を知っているのか?」

「先日会った、九条家縁の大名のようだ。――そしてすずなの村を焼いた、直接の仇よ」

「……待て。九条の戦は兵以外の者への手出しを暗黙に禁じている。その禁を破ったのは確かただ一人――」


 九条家一門衆の一人、世木(せき)徒長(ただなが)


 戦場となったのは近畿と関東の狭間にあった小大名の領地。


 支配者としてあまりよい大名ではなかった主に、民は反旗を翻す。そのときに助けを求められたのが九条だ。民の蜂起に応えた九条は共に戦を仕掛けて勝利。その後新たな奉行として徒長が配置された。


 九条が領地を取った直後、御柴は追い落とされた大名の方に助けを請われている。九条の義は認めていたため、本来ならば受けるつもりはなかった。しかし徒長の運営があまりに劣悪であったため、土地の割譲と傘下に降ることを条件に参戦、徒長を追い返している。


「余程、汝れを恨んでいると見える。己の転落はすべて御柴のせいだと考えているのだろう」

「固執される理由は理解した。……ならば尚更、急がなくては」


 恨みが御柴に向いているのなら、都も危うい。

 炬を加えた幸継たち一行は、啓十へ向けて馬を走らせた。




 朝の目覚めは爽やかだった。今日はどうやら快晴だ。


 心身ともに健康を取り戻した幸継が迎える一日目の朝としては、これ以上なく相応しい。

 日課の薬草園の世話のため、すずなは身支度を整えて表に出る。そうして入り口に差し掛かったとき、違和感を覚えた。

 そしてその正体もすぐに悟る。


(幸継様の具足がない)


 庵を訪れた時の幸継の恰好は厳めしかった。丹念に守護の呪をかけられた武装の呪衣だ。妖の類の討伐を考えての装備である。


 とはいえ、怪我人にそんな武装は不要なので、呪衣は洗って仕舞い、草履は棚の隅に置かれていた。その草履がないのだ。


「……」


 外出するには時間が早い。大体、今の幸継が散歩に出るなら、すずなたちが用意した普段使いの方を選ぶだろう。そちらは土間の隅にぽつんと置いてある。


 不安を感じ、すずなは幸継の寝室へと向かった。覗く必要はない。外からでも人の気配ぐらいは感じ取れる。


 寝室は静かだった。気配一つ感じない。引き戸の取っ手にそっと手を添えると、ひんやりとした。人のいない冷たさだ。

 その冷たさを感じた瞬間、すずなの手は迷いなく戸を横に滑らせた。


 視界の先には――やはり、誰もいない。人が立ち去って時間の経った、寂しい冷たさが満ちている。


「……どうして?」


 いるはずの――いると信じて疑わなかった幸継の姿がない。すずなの声は酷く頼りなく、呆然とした響きで零れ落ちる。


 部屋を見回した視界に、白い紙が映った。

 誘われるように敷居を越え、紙を手に取る。几帳面な文字で認められたそれは、間違いなく手紙だった。


 書かれているのは黙って発った理由と謝罪。それと感謝。礼儀を損なわない内容が、余計に繋がりをぶつりと断ち切られた感じがした。


「……うそ」


 幸継が挨拶もなしに姿を消した理由には、納得できる。いつものすずなならば、病み上がりの身を心配はしても、そうなのかと受け入れて終わりだ。


 なのに今は、頭が真っ白になって考えられない。認めたくない気持ちで、文面を三回読み返す。けれど書かれた内容が変わることはなかった。


 幸継は、もういない。本来在るべき場所に戻ったのだ。

 そしてそこに、すずなとの繋がりなどない。


「――……」


 それが現実だと分かっていた。分かっていたはずなのに、いざ突きつけられればこんなにも苦しい。


「どうして……?」


 現実だと認めた途端、幸継と過ごした時間が頭の中を駆け巡る。彼と過ごした時間がどれだけ楽しかったか、すずなに思い知らせるのに充分だった。


「わたし……」


 気付きたくなかった。けれどこれは、きっと。


「わたし、幸継様が好きだったのだわ……」


 もうしばらくあると思っていた時間に甘えて、自分の感情を見つめなかった。幸継がそこにいる幸せをただ享受して、待ち受ける困難しか考えなかったのだ。


 一度離れれば、こんなにも遠くなってしまう人なのに。


「ふ……っ」


 悔しくて、声を殺してその場で泣く。


(わたしはどこまで幼く、甘えているの)


 怖いもの、嫌なものから逃げる習性が付いてしまっているのか。しかしそうして縮こまった結果が――これだ。


(もし昨日のわたしが、幸継様に抱いた気持ちをきちんと見つめていれば)


 共に行くと言えば、彼は連れて行ってくれたのではないか。危ないからと置いて行かれたとしても、手紙に約束が記されたのではないか?


 けれど、もう――


(いいえ、遅くない! わたしはまだ何もしていない!)


 後悔と共に諦めそうになる心を、すずなは叱咤した。


 ――啓十へ、行かなくては。

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