十八話
「わ、わたしは女だったのでしょうか!?」
「違うのか!?」
うろたえたすずなは微妙な確認の仕方をして、幸継は驚愕の声を上げた。
「え、いえ、だって、わたしは薬師で、農民ですよ!?」
「あ、ああ。そういう意味か」
幸継の妻たる女性になり得るのか――となれば、すずなでも即答できる。
無理だ。
薬師としてなら、実力が伴えば仕官することはできるのかもしれない。しかしさすがに女性としては無理だろう。あるいは、側室としてなら納まれるのか。
(お師様のような薬師になり、自分が憧れたような人に、わたしもなりたい。憧れた人の力になりたい。ずっとそう思って来た。もちろん今でも)
幸継に応えても不可能になるわけではない。しかし道は確実に遠のく。
(わたし――……)
目に見えているのに、言葉が詰まった。
答えられない自分に、誰よりすずなが驚く。
(迷って、いるの? どうして?)
大名家に入りたいだなんて、爪の先程も思っていない。感情だけなら嫌悪の方が近いぐらいなのだから。
薬師として認めながら、それ以上に女性として側に在ってほしいと請われれば、すずなとて素直に嬉しいと思う。しかしそこに気持ちがなければ、申し訳なさを感じる程度のはず。
しかしすずなは迷っている。
「――……」
答えられずに視線を落とし、黙ってしまったすずなを前にしても幸継は揺らがなかった。ここまでのすずなの言動から、彼女の反応が芳しくないものになるのは予想していたのだろう。
「私は諦めない。最後まで」
(最後というのは、利羽様が戻られるまで? それとも……)
揺さぶられた心は、ただ不安を訴える。
けれどその不安がどこから来るのかは、分かっていなかった。
神泉から戻り寝支度を整えた幸継は、一人であることを確認してから落胆の息をついた。
色よい返事がもらえるなどと、楽観に構えていたわけではない。しかし叶わなかった現実にはやはり落ち込む。
(だが、可能性はある)
ここ数日、すずなが幸継の肌を見る機会などいくらでもあった。こちらが罪悪感を覚える方が間違っているのではと思うほど、彼女は常に平然としていたものだ。
なのに今日は、裸であることを意識された。それに勢いを得た面があるのは否定しない。
たとえ今回断られたとしても、場所が分かっているのだから会いに来ればいいだけだとも思っている。
すずなが断ったのは幸継との未来ではない。迷いのせいだ。
つまり薬師としての道しか見ていなかった彼女を、迷わせることができたのである。
ゆえに確信を持つ。
――引く理由はない。
(影秋はあとどれ程で戻るだろうか)
この庵が正確にどこにあるかが分からないので、影秋がいつ戻ってくるのかが、幸継には予測もつけられない。
影秋の足は特殊なので、彼が本気になれば国一つを一昼夜で駆け抜けることも可能だが、それを知るのは幸継のみ。他の人間がかかわるときは普通の人間の速度を守る。今回もおそらくそうするだろう。
(もうしばらく、とは、当主として考えるべきではないな)
だがそんな本心があるのを、幸継は否定しない。心の中でだけは自由だ。
しかし生憎と、現実は幸継に優しくなかった。ざざ、と近くの草が不自然な音を立てる。
寝静まった家人に遠慮した訪いに応え、幸継も音を殺して立ち上がった。
若干、残念に思う気持ちを引き摺りながら。
「幸継様」
外に出ると、そこには影秋が待っていた。
「無事、快癒されたようですね」
幸継の全身を目線でなぞった影秋が安堵の息をつく。一目でそうと分かったのは、影秋も気脈が視えるからだ。
ただしその使い方は、癒すすずなとは真逆の事。
「ああ、彼らのおかげだ。そして、ここまで私を護ってくれたお前のおかげだ」
「主を死なせるなど、御柴忍の名折れですから」
この乱世で果たすには、なかなか難しいことを言う。だが幸継とて心は同じ。
「そうだ。私は死ねぬ。お前たちを死なさぬためにもだ」
「そのせいで、幸継様を殺したい者が五万といるわけですがね」
「厄介なことだな」
生まれ一つで沢山の人間と妖を敵にしてしまった。嘆くつもりはないが、厄介だとは思っている。
「幸継様も受け入れた定めですよ。――で、幸継様を襲った邪妖の本体を、朝賀山で見つけました」
すずなは邪妖を見たとき、それが形のない怨念が指向性を持っただけのものだとは見抜いた。しかしそれが本体の人間が意図的に生み出したものだとは考えなかった。
人を被害者としてしか捉えなかったのは、すずなが瘴気の凶悪性をよく知っていて――人を、信じているからだ。
だが影秋は違う。幸継を襲ったモノが何であるかを知った瞬間に、探すべきものができた。
「朝賀山だと!?」
都にほど近い名にぎょっとする。
「昨日の昼頃から妙に荒ぶり出したんです。まあ、そのおかげで見付けられたんですけど」
「昨日……。すずな殿たちが私に送った瘴気を断ち切ったからか……?」
「かもしれませんね」
仕留めたと思った相手が生きていれば、憤るだろう。まして瘴気と結んだ人間は、負の感情を抑えられない。
「啓十の民は城内に避難しました。幸継様のご母堂様がいる限り、生半可な邪妖は近付きません。ですが周辺の町や村は別です」
「誰もいないからと言って、町を襲わせるわけにもいかない。急ぐ必要があるな」
人命が最優先だから、そのとき救うためならば町など捨てるべきだと幸継は思っている。だが町が機能を失えば、後の生活がままならなくなるのも必然。護れる限り護るべきだ。
「御柴の兵は精強です。なんたって、幸継様の兵ですから」
皇の務めを代わりに負う、幸継のための軍だ。彼らは人ならざるものと戦うことを前提に鍛えられている。
「ですので、幸継様が戻るまでぐらいは持つでしょう」
「そう願うしかないな。私はお前と違って、一昼夜で国を横断する足は持っていない」
「便利さを噛み締めて、もっとありがたがってくれていいんですよ」
ニィと目を細めて影秋は笑う。人を食ったその笑い方は、見る者に狐を連想させた。
「もちろん、ありがたがっているとも。――さて。すぐに発つ、と言いたいところだが、世話になっておきながらあまりに不義理だ。一筆書くまで待て」
「分かりました」
幸継は部屋へと戻り、影秋はその場で待機して待つ。
紙と筆の用意をした幸継は、書くべき内容を少し迷う。そして結果、理と炬、すずなの三人へ向けた純粋な礼を記した。
満足に礼のできない非礼を詫び、事が片付き落ち着いたら、改めて伺うことも告げておく。
そうして手紙を書き終え、今度は出発するために表に出た。と。
「待て」
「!」
その人物の接近に気が付いたのは、声をかけられてからだった。すぐに炬の声だと分かって警戒は解いたものの、心臓にはよくない。
(理殿といい、すずな殿の能力の高さといい……。ここに住む者たちはどうなっているんだ)
こんな人里離れた庵で隠遁しているのが信じられない人物ばかりだ。
(だが、丁度良かった)
恩人の一人には直接礼が言えそうだ。
「炬殿、私は」
「我も征こう」
幸継の台詞を手の平を出して遮り、そんな宣言をしてくる。
「な、何?」
「ここしばらく、獣共が怯えていた。本来の住処である山を恐れてだ。その元凶はどうやらそやつらしい」
「瘴気溜の本体が朝賀山にあるのなら、山の獣が逃げ出すのも無理はないが……」
炬の見解にうなずくことはできるが、それは同行の理由にはなっていない。
「瘴気を現世から駆逐するのは私の務めだ。心配は無用。必ず鎮める」
信用されないことはいささか幸継の矜持を傷付けた。口調にやや棘が生じたのもそのせいだ。
「汝れに何かがあれば、すずなが悲しむ」
対して炬の返答は、幸継のこと自体はどうでもいいと言わんばかりの、予想外のものだった。
唖然としたのは一瞬。すぐに懐疑的な気持ちになる。
「……悲しんでくれるだろうか。戦場で命を落としても」