十七話
すずなには、政治のことはよく分からない。上で何が起こって下にその影響が出たかなど、本当の所は伝わってこないから。
戦を決めたのは間違いなく九条だった。けれど実際に指揮を採ったのが九条だったかどうかは分からない。
近辺の地図を思い出せば、確かに首は傾くのだ。九条家の本拠、清雲は左々田村からずいぶん遠い。そんなところから、はるかに勢力の劣る大名一人を討ち取りに、わざわざ出張るだろうか。
頼宗は何かを言いかけて、呑み込んだ。すずなが振り上げた手も受け入れようとしていた。
不本意な戦だったと言えないがゆえの、せめてもの誠意だったのか。
そして、気付いた。
(わたしはそうして、護られているんだ)
頼宗が理で、彼の名分に救われている兵たちがすずなだ。
迷わなくていい。行いに責任も生じない。なぜなら決めたのは『上』で、従った『下』に咎はない。
それはとても楽なことだった。事実、仮初めに外へ出ただけで、こんなにも苦しい決断が襲いかかってくる。その重さを、今まではすべて理と炬が肩代わりしてくれていたのだ。
幼く弱く、未熟なすずなには選択の権利など存在しなかった。それも否定できない。
そしてそれは子どもにのみ許される楽。庇護してくれる大人の存在はとてもありがたくて――年齢によって恥ずべきことへと変化するものだと思い知った。
すずなは一人前と見なされるほど大人ではない。けれど子どもでもない。境目のとき。
「……ふふっ」
「すずな殿?」
急速に心が晴れていく気がした。自然と笑いが零れ出る。
理の――庇護者の思想に従えないことは、悪ではない。だからといって全部を否定する必要もない。
すずなはただ、己の思いに忠実であっていいのだ。
己の、責任と共に。
「上に立つ方のお考えは……やはり、わたしのような未熟者には遠く及ばぬものだったのですね」
「それはどうだろうか。立場の違いというだけだと思うが」
「そうでしょうか? 幸継様に教えていただくまで、考えもしなかったのですよ?」
是非など考えず理に従っていれば安心だったし、いざ頼宗と会えば怒りに振り回され、彼が見せた反応に引っかかりつつも、心情など知ろうとしなかった。
「私を叱り飛ばそうと考える者も、城中にはいまいよ」
そういえば、そんなことを言われていた。
「そなたは薬師として患者を救った。大名は民を護った。それだけではないのか」
「……そうかもしれません」
攻め込まれた方から見れば攻め込んできた敵兵はただの敵だが、その上の武将たちにとっては守るべき部下で、民だ。
……何も変わらない。
幸継から言われれば、すんなりと受け止めることができた。
「幸継様。以前、どのような薬師になりたいかとお訪ねになられましたね」
「ああ」
「今もこれと定められてはいません。やはり、理想を感情が許せない」
頼宗の真意がどうであれ、事のきっかけを作った九条を許せるかは別の話だ。
理の理念を尊敬しても、実行できないのと同じ。
すずなは理ではない。どれだけ憧れようと、同じにはなれないのだ。分かっていたつもりで、今ようやく実感できた気がした。
そして何より、すずなの心が望んでいない。傷付いた心が疼くから。
「ですがわたしは、幸継様を癒したい。この想いは本物です」
心が向き合える相手にしか、本心からは尽くせない未熟者。でも今はそれでいいと思った。それ以上は行けないと、見つめてしまったというべきか。
だがこれまで目を閉じ耳を塞いできたことを考えれば、前進だ。
「では、私はそなたにとって救ってもよいと思われたということでよいのかな」
「そ、そこまで選びません」
「私は大名だ」
「大名であっても、です」
幸継の振るう刀の先なら、信じられる気がしたから。
……それがたとえ、自分と同じ子どもを作ることになったとしても。幸継にならさらにその先を見れる気がしたから。
「ありがとうございます、幸継様。あなた様に会えてよかった」
「私も、そう思っている」
互いに目を合わせ、微笑する。心地良い温もりが、眼差しだけで通い合う気がした。
無闇などきどきが小さくなって、落ち着いて幸継の気脈と向き合う。経穴をなぞり、気脈を整えていく。
すべての流れを丁寧に活性化させ、すずなはふっと息を抜く。そして妙に視界が明るいことに気が付き、空を振り仰いだ。
二人を照らしていたのは、真上に輝く月だった。柔らかな光に包まれている感覚が心地よくて、やるべき工程はすべて終わったのに、神泉から抜け出すのが惜しく思えてしまう。
――あるいは、幸継と離れることをか。
「……体が軽いな」
「完治はされても、幸継様のお体はまだ本調子ではありません。しばしの間、幸継様の助けとなれば幸いです」
強化を支えているのはすずなの呪力なので、幸継に負担はない。
「……そろそろ、戻りましょう」
名残惜しい気持ちを振り払い、すずなは神泉での儀式の終了を告げた。
「……そうか。これで終わりか。長く世話になったな」
「患者様に元気になっていただければ、わたしたちも報われます。よく耐えてくださいました。ありがとうございます」
どれだけ懸命に手を尽くそうと、元気になる者ばかりではない。だからこそ、こうして健やかな姿を見られるととても嬉しい。
「影秋と行き違いになっても困る。彼が戻ってくるまでの間、滞在させてもらってもいいだろうか?」
「もちろんです」
すずなにとって幸継は、急いで追い出したくなるような客ではない。きっと理も炬もうなずくはず。
「……だが、私がこの地を発つのは遠くない」
「はい」
幸継には、彼が本来在るべき場所と、帰りを待つ人がいる。
「だから……私と共に御柴に来てもらえないか」
「幸継様……?」
未来の選択肢としては、なしではない。しかし今のすずなはまだ決められずにいる。
その意志を幸継は理解してくれたと思っていた。だから誘いの文句が不思議で、すずなは首を傾げる。
「前に言ったな。そなたがやりたいと思うことに、私も力を貸したいと」
「はい。覚えております」
とても嬉しかったから。
「そなたが道を定めること、私の側ではできないか?」
「……?」
心の問題であるのだから、できなくはない。幸継の側にいれば、また新たな考え方ができるようになる気もする。
その点を考えに入れても、すずなの中ではまだ怯えが勝っていた。
ようやく見つめた自分の気持ちを、これから理想と擦り合わせて道を考えようと思っていたところだ。
自分の技でも外では有用かもしれないのは分かったが、理と比べて劣るのも事実である。
学ぶことは幾らでもある身だ。庵からすぐに離れようとは、すずなはまったく考えていなかった。
すずながとても不思議そうな顔をしているのを見て、幸継はやや顔を強張らせた。
「もしかして、薬師として誘っていると思っているか?」
「わたしは薬師としての能しかありませんが、それ以外に何かあるのですか?」
「……いや。私の言い方がよくなかった」
すずなを誘ったときの文句を思い出したか、幸継は首を横に振る。
貴族や武家の姫君には、直接的な言い様は雅ではないと眉をひそめられてしまう。しかし遊びに凝り過ぎた一部の常識などすずなには縁がない。単純に幸継が毒され過ぎているだけだ。
こほんと咳払いをして、他の意味に取られない言葉を選び、告げる。
「私は、薬師ではなく一人の女性としてのそなたに、側にいて欲しいと思っている」
「!?」
「だがそなたの志を邪魔するつもりはない。だから聞いている。私の側では、そなたの夢は追えないか?」
「――……!」
薬師として招くのではない。
招きたいと思った女性が薬師を志しているから、続けられる環境を自分では作れないのかと聞かれているのだ。
考えたこともなくて、すずなはただ呆然とした。
世には男性と女性がいて、好き合ったもの同士が夫婦となる。そしてすずなも女性なので、男性にとって一応妻となる可能性がある……のだと、知ってはいたが実感はなかった。
そもそもすずなの周りには師と後見人しかおらず、訪れるのは患者のみ。そして患者の性差など気にしたこともない。訪れる患者もすずなを女性としてではなく、薬師としてしか見なかっただろう。切羽詰まっている患者にとって、薬師の性別など些細過ぎる問題だ。
「え、ええと……」
では、幸継はどうか。もちろん患者だ。
……だった、だろうか。
しかしよく考えれば、幸継は初めから自分を女性扱いしていたのかもしれないと、今更すずなは気が付いた。
(じゃあ、わたしは……?)
始めは気にしていなかった。全然、まったく、これっぽっちも。
――けれど。
(さっき、妙に幸継様の体に触れることに背徳感を覚えたわたしがいた……。それは、彼が、男性である、から……?)