十四話
「我は炬。娘はすずな。我らはとある邪妖を追って分け入った」
炬が淡々と対応するも、その内容はすずなの耳を素通りしていく。
(なぜ。どうして)
一生会うことなどないと思っていた。会うべきではないとも思っていた。
会ってしまったら、この手を復讐で血に染め、理の理想を追うことを自分に許せなくなるかもしれないから。それを嫌だと思うぐらいには、すずなは理を尊敬し、憧れていた。
けれど好機が向こうから来てしまったときは、どうすればいいだろう。頼宗は手負い。すずなでも、もしかしたら討てるかもしれない。
(皆の、仇が、討てる……?)
どくどくと心臓が早鐘を打つ。すずなの目が留まったのは、炬が腰に差す二刀の内の片方――脇差。そちらならば、両手で持ちあげて振り下ろすぐらいはできるかもしれない。
手が、震える。
しかしすずなが実際に炬の腰へと手を伸ばす機はあっさりと奪われた。頼宗が現れた奥からもう一つ、敵意を振りまく気配が近付いてきたせいだ。
『それ』はすずなと炬が追ってきた本来の相手。幸継を襲った邪妖だと、纏う瘴気が告げてくる。
「見付ケ、マシタゾ。頼宗、様」
現れたのは三十半ばほどの武将。礼装である直垂姿だが、どうにも服に着られている感がある。
だがそんなことよりも、すずなは邪妖の姿そのものに愕然とした。
(人……!?)
邪妖とは、瘴気に侵され人に害を成すようになった妖の類を指す言葉である。邪妖に唆されたり呪術によって操られることはあっても、人そのものが瘴気に取り込まれる例は少ない。
余程精神に大きな傷があったのだろうか。
「一度ノ敗北デ改易トハ、アマリニ情ケガナイデハアリマセヌカ……」
「ほざけ下郎が! 改易で済ませたのは兵の手前よ! でなくばそっ首刎ねているところじゃ!」
改易――土地の没収も武将にとって相当の罰だが、頼宗の非道さは更にその上を行く。
「ドレダケ、私ガ九条ノタメニ尽クシテキタカ……」
ざり、ざりと、男は歩み寄ってくる。
「ナゼ、取リ返シタ左々田村ヲ私ニクダサラナカッタ。アノ土地ヲ得タノハ私デアルノニ。一門トシテ仕エタコノ私メニ、何故アノヨウナ仕打チヲナサレタノカ」
嘆きの声を上げながら、邪妖は刀を持った右手を振り上げる。
「恨メシイ、憎ラシイ……」
力任せに振り下ろされた刀を、頼宗は何とか受けた。しかしその一回で刀を取り落としてしまう。
「土地ヲ寄コセ、財ヲ寄コセ。私ニハソノ権利ガアル」
「愚かなり」
妄執の独白を、炬が文字通り一刀両断した。発している本体ごと。
「オ……ウ……?」
「眠れ」
ずるりと上半身と下半身が斜めにずれ――それを抑えようと手で支えた先から、灰になって崩れ去っていく。
零れ落ちる灰へ向かって炬がもう一振りすると、形を崩した瘴気が刀身へと吸い込まれた。一瞬だけ刀身を黒く染めたが、鋼はすぐに元の輝きを取り戻す。
その様を一瞥してから、炬は刀を鞘に納めた。
(人では、なかった)
人の妄執が源となってはいたが、人ではない。あれは瘴気の塊だ。
人ではなかったことに、まずすずなはほっとした。次いで目に入った頼宗の姿に、複雑な気持ちになる。
(……助かって、しまった)
残念だったのか、これでよかったと思ったのか――どちらが多くの割合を占めているか、すずな自身にも分からなかった。
「頼宗様!」
「いずこにおられますか、頼宗様!」
「――ここじゃ!」
傷口を押さえながら声を上げた頼宗に応え、すぐに従者と思しき二人が姿を見せる。当然そこには、傷付いた主と見慣れぬ人間二人がいるわけで。
「曲者!」
顔色を変えた従者二人が刀を抜く。
そうなるのは容易に想像が付いていたのだろう。すぐに頼宗が制止の声を上げる。
「落ち着け、それは俺らも同じじゃ。それにこやつらは俺の恩人よ」
「目的が彼の邪妖であっただけだが、相違ない」
主の一声はさすがの効果だった。従者二人は慌てて刀を納める。
「失礼いたしました! 主をお救いいただき、感謝いたします」
炬へ向けて詫びた後、二人は目を鋭くして頼宗を睨む。
「一人で先行されるから、このような怪我を負う羽目になるのです! とにかく応急処置だけいたしましょう。きちんとした手当は山を下りてからになりますから」
「うむ」
従者の一人は薬師の心得を持つのか、頼宗の患部を検める。信頼しているらしく、頼宗は従者に体を任せたままで顔を炬へ向けた。
「貴様にその気がなくとも、俺は助かった。礼がしたい。何か望みはないか」
「不要だ。――すずな、戻るぞ」
「……はい」
二度はない好機――なのだろうが、いかに本人が手傷を負っていても、従者二人の前で頼宗を害するのは不可能だ。
惜しいという気持ちを捨てきれないまま、すずなは背を向け炬について行こうとして――目に入ったものにためらった。
従者が取り出したのは紫清膏……ではあるのだが、紫がずいぶん薄い。シコンの沸騰回数を間違えた結果だろう。
陰陽五行において、紫は水を示す。水は木の母であり、火を剋する。火気を抑える水気の紫という色は、熱や苦しみを抑える役割を果たすのだ。また木気を養うことで血を清くし、悪化を防ぐ期待もできる。
(あれでは調和していない。効果が薄い)
薬師が最も気を配るべきは、調和だ。人体の内気と世界の外気、すべてが調和していればこそ、人は健やかでいられる。
頼宗の怪我はそれなりに深い。本体は炬が斬ったためこれ以上瘴気が強くなることはないが、受けた分は傷口に凝っている。薬の調合さえ満足にできない薬師が、体内の気を荒らさずに瘴気を祓えるだろうか。
気になって目を離せずにいたら、従者はなんと瘴気を無視した。まるで視えていないかのように。
「待ってください!」
そうと気付いた瞬間、すずなは声を上げていた。
「貴方は九条様を殺すおつもりですか!」
「な、何だと!? 何を馬鹿なことを!」
「どういう意味じゃ。こやつは代々九条に仕える譜代じゃぞ。俺の信ずる家臣への無礼、事と次第によっては九条への侮辱と取る。覚悟はできておろうな!」
脅しを込めて怒鳴られようと、すずなの態度は毅然として揺らがなかった。相手の致命的な間違いに確信があったからだ。
もっとも、隣に炬がいなければ口を挟んだかどうかの自信はない。
それは、すずなが大名の度量を信じていないから。まして親や友人の仇なのだから、尚更。
(侮辱と取って撥ね付けるなら、そうすればいい)
すずなにとって頼宗は、何としても救いたい相手というわけではない。
「その紫清膏は不完全です。それに薬師の方。貴方様は九条様の気脈が視えていないのですか。それとも見ぬふりをしているのですか」
「き、気脈だと?」
すずなの問いに答えるのではなく、従者はただ驚き、目を見開く。頼宗も同様の反応を示した。
「娘、そなたには気脈が視えるのか!」
「はい」
肯定しながら、ふとすずなは影秋の台詞を思い出す。気脈が見えることそのものが稀な才だと。
それではどうやって薬師をやっているのか――と、すずなはそのとき本気では受け取らなかった。
しかしまさか、ありのままの真実だったのだろうか。
(気脈が視えない方が普通なのであれば、瘴気が絡んだ瞬間になす術がなくなるのでは……?)
外の常識を初めて知り、すずなはぞっとした。
「頼宗様、この者が言っていることが本当であれば、私などより余程優れた薬師です。そしておそらく、私は間違いを犯してしまう。ですが……」
すずなが真実を言っている証はない。
頼宗の視線が、すずなを計るようにじっと注がれた。
(拒まれたら引き下がろう)
自分は本分を全うしようとした。相手が拒んだだけ。そう自分に言い訳ができる。
緊張に口の中が乾いた。どちらになってほしいのか、すずな自身にも分からない。
頼宗の逡巡は長くはなかった。
「娘。いや、すずなといったか。貴様に任せたい。引き受けてくれるか」
彼はすずなの言を優先する方を選ぶ。
「承知いたしました」
拒まれなかったこと、命を救えること。それらに喜びとは正反対の気持ちを抱いていることを自覚しながら、すずなはうなずく。
「貴様はすずなを見て学べ」
「はッ」
もちろん頼宗もすずなを信じ切ったわけではない。続けて従者にそう命じる。要は監視だ。
監視されようが困ることもないので、すずなは気にせず頼宗の側に膝をつく。