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一話

 木の葉に夜の露が残り、陽の光にきらめく早朝。せっせと農作業に励む少女の耳に、引き戸が開けられる音が届いた。

 少女の年頃は十五、六。絹のように艶のある美しい黒髪と、碧玉の色をそのまま移したと見紛うばかりの、はっきりとした青の瞳。面立ちは整っていて愛らしい。


 ほとんどの人が黒髪に黒目であるこの陽之元で、少女の容色は珍しかった。

 とはいえしばらく前から渡来人が陽之元を訪れるようになり、彼らの血を継ぐ子どもも少数だが存在している。金の髪、青の瞳を持つこともそう珍しくない彼らが周知されたおかげで、昔のように物の怪だ鬼だとまでは言われなくなった。


「ほんに、ありがとうございます、(ことわり)先生」

「いえいえ、大したことはしておりません。どうぞ、お大事に」


 丁寧に腰を折る客を、中から共に出てきた庵の主――理が柔らかに微笑みつつ送り出す。

 一晩の客人となった老女は、少女に気付くとそちらにも頭を下げた。


「お嬢さんも、ありがとうね。お薬の原料はほとんど貴女が育てているのだとか。その年で薬師様とは、素晴らしい方は年など関係ないのだねえ……」


 専門の知識が必要となる医学は、学ぶ場が少なく取り扱う品も高額であることが多い。自然、一般の人々からは縁遠いものとなってしまう。

 その知識を、技術を持つ人を、自分とは違う世界に生きる相手だと隔てて考えてしまう気持ちは分かる。かつての少女もそうだった。

 だからこそ、首を横に振る。


「とんでもない。わたしなどまだまだ未熟者です。その御年まで生きられた貴女様の知恵には、遠く及びません」

「おや、まあ」

「お元気になられて、本当に良かった。お困りのことがありましたら、いつでもいらしてくださいね。できる限り、力添えをいたします」

「そう言ってもらえるのなら……。そのときはまた、よろしくねえ。それじゃあ、また」


 互いに頭を下げて挨拶を交わし、老女は去って行った。その背を見送る少女の隣に、理と呼ばれた青年が歩み寄る。


「朝早くからご苦労様です、すずな。しかし過ぎた謙遜することなどありませんよ。貴女の腕は日ごとに磨かれているのですし、この薬草園に至っては、最早私がすることなどないぐらいです」

「お師様にお任せいただいたお仕事ですから。果たせているのなら、とても嬉しく思います」


 褒められた、認められた充足感と誇らしさに、すずなは照れと喜びが混ざった笑顔になる。そのすずなを見つめる理の目は、大切な相手を慈しむ優しさに満ちていた。


 理の見た目は二十歳前後と、誰かから『先生』と呼ばれるにはかなり若い。しかしその物腰には老成した貫禄さえあって、呼称に違和感を覚えさせなかった。

 理は銀の髪に緑の瞳と、すずな以上に陽之元では珍しい色合いをしている。人里離れた山間にあるこの庵では気にする者もいないが、町中にいればさぞかし人の視線が突き刺さることだろう。


「この薬草たちを使うことになる人々を思い遣る気持ち、そして誠意ある世話を受け、ここの植物たちは皆、活き活きと育っています。貴女には本当に感謝しているのですよ」

「お師様のお役に立つことが、わたしの本懐です! お師様に受けた大恩に比べればまだまだですが……!」

「おやおや、困りましたね。恩を着せようとしたわけではないのですが。力のない子どもを助けるのは、大人の当然の役目ですから」

「助けられれば恩を感じるのは、普通だと思うのです」

「ではその恩は、貴女の前に貴女のように困っている人が現れたとき、その人の力となることで返してもらいましょう。けれど無理をする必要はありません。いいですね?」

「はい、お師様!」


 助けてくれた恩人、そして敬愛する師匠と同じ行いをすることに、喜びを感じさえすれ厭うなどあるはずもない。

 自分を苦しみから救ってくれた医学。そして傷ついた心に寄り添ってくれた優しさ。理から与えられたその二つどちらにも、すずなは深く感謝している。彼のようになりたいと幼心に抱いた憧れが、そのまま夢に、目標になるのに時間はかからなかった。

 そんなすずなのひたむきさに、理は少しだけ、心配そうに表情をくもらせる。


「無茶をしてはいけないのですよ? そして困ったり迷ったりしたときは、必ず私に相談してくださいね」

「わ、分かりました」


 すずなが理に師事してから、もう六年が経つ。幼子とは呼べない年齢になったのに、理の扱いはどうにも変わってくれない。そこだけは複雑だ。


(でも、まあ、(かがり)様よりは、まだ……)


 もう一人の恩人の姿をすずなが脳裏に思い浮かべると、丁度本人が裏山から下りてくるのが見えた。

 赤髪に金の瞳をした偉丈夫だ。年は理よりもやや上だろうか。筋肉の乗った厚い体をしており、顔付きも厳しく精悍だ。


「お帰りなさい、炬。早かったですね。……ときに、その熊は」

「依頼で仕留めた熊だ。すずなも成長期ゆえ、肉がいるだろう。くれるというので貰ってきた」

「否定はしませんが……。わざわざ担いでこなくても。大変だったでしょうに」

「肉は命の糧となり、毛皮は暖を与え、胆は薬剤となる。活かさぬ理由が無し」

「ああ、なるほど。確かに私が言いましたね」


 熊胆が欲しいと理が言っていたのを、すずなも聞いた。まさか熊を一頭丸ごと持ち帰ってくるとは思わなかったが。


「手間をかけました。ありがとう、炬」

「仕事のついでだ」

「今回のお仕事は熊狩りだったのですか?」


 特定の相手に仕えているわけではない牢人(ろうにん)の炬は、時折村や町へ行き、臨時働きで金銭を稼ぐ。

 すずなの問いに、炬は首肯し眉を寄せた。


「うむ。人里にまで下りてくる熊を何とかしてほしいとのことだった。大方は山に帰したが、こやつだけは仕方なかった」

「では、その熊は……」

「人を喰った。見過ごせぬ」

「そうですか……」


 人には人の、獣には獣の領域がある。しかし人を食べ、『餌』と認識してしまった熊は脅威と化す。命を護るために、狩るしかない。


「近頃の獣は落ち着きがない。何かが起こっているのかもしれぬ」

「気を付けておきましょう」


 山に近いこの庵にとっても他人事ではない。

 命を糧とすることへ、三人は熊への祈りと感謝をささげた。


「炬様にお怪我はありませんか?」

「ない」

「そうですか」


 即答した炬に、すずなはほっと息をつく。

 炬が強い武人であることは、すずなも知っている。戦場と化した村の中でさまよっていたすずなを拾ってくれたのが、炬だからだ。そのあと怪我をしていたすずなは理の元に預けられ、治療を受けた。


 すずながこうして健やかにいられるのは、二人の恩人のおかげ。気にしなくていいと言われても、恩はそのまま好意と憧れと感謝になって、すでにすずなの芯となっていた。そして温かなそれをすずなも誇りに思っている。


「我よりも、()れこそ傷付いている」

「え?」


 炬に手を取られ、手巾でそっと土を拭われてみれば、葉で切ってしまったらしき浅い切り傷ができていた。

 鋭利な傷口を見やって、炬は忌々しげに息をつく。


「まったく、世話をされておきながら、太々しいものどもよ」

「それだけ元気ということですね。彼らもすずなを愛しているのですよ」

「じゃれつきすぎだ」

「否定はできません。――さあ、すずな。手を洗ってきなさい。手当てをしなくては」

「はい、お師様」


 たかが浅い切り傷、とは侮れない。大袈裟にする必要はないが、適切な処置を怠る理由もなかった。


 まずは綺麗な水で手を洗う。それから、傷薬を適量塗布する。

 使うのは紫清膏(しせいこう)。外用薬として広く応用される薬だ。原料はシコン、トウキ、ニノコロ、ゴマ油、ミツロウ、豚脂。解毒、解熱、殺菌の効能を持つ。

 赤紫の軟膏を患部に塗り、清潔な布を巻いて傷口を保護しておく。

 そうしてすずなが自身の手当てを終えたとき、急に外の鳥たちが騒がしく飛び立っていくのが聞こえた。


「来客でしょうかね」


 理が薬師を営むこの庵は、人里から大分離れた場所にある。住人も炬、理、すずなだけで、鳥たちが彼らに警戒することはない。鳥が逃げるのは、見知らぬ訪問者が来たときだけだ。


 真っ先に動いた炬に続いて、理、すずなも表に出る。

 人里を離れ、看板も掲げていない理の庵だが、それでもそれなりの頻度で来客がある。多くは町で医者にかかれない貧民たちで、理の噂を聞きつけやって来るのだ。


 理は相手が払えるだけの治療費しかもらわない。商売としての薬師をやっていないのだ。

 三人で暮らすなら山の幸、川の幸だけで充分賄えたし、時折炬が村や町に下りて金銭を稼いできてくれるので、買わねば手にするのが難しい物にも、そう困りはしなかった。


 今回もきっと、助けを求めに来た貧しい人だろう。過去の経験からそう思っていたすずなは、表に出るなり固まってしまう。


 ――濃い、血の臭い。


 知覚と同時に、ざわりと全身に鳥肌が立つ。


(怖、い)


 幼少期の恐怖を呼び起こすそれに、一瞬、目の前が暗くなる。


「すずな」

「!」

「怖れるな。汝れの側には、常に我がいる故」


 後ろから柔らかく炬の腕に包まれて、冷えた熱が戻ってくる。硬くなった体からも力が抜け、意識して呼吸を繰り返し、平時の状態へと戻す。


「はい、炬様」


 落ち着けば臭いの元が気にかかった。これだけ濃厚に漂ってくるのだ。ただ事ではない。


「――さま、理様! 在らせられませぬか!? どうか、お力をお貸しくださいッ!!」

「ぬ……?」


 三人は切羽詰まった声を張り上げている主の元へと、やや駆け足でなだらかな坂道を上っていく。


「あ……!」


 声の主は理を見るなり、焦燥と苦悶に歪んでいた表情に希望の光を取り戻す。

 訪問者は二人。


 一人は二十の半ばを少し越えたほどに見える、声を張り上げていた青年。

 もう一人はその青年に背負われ、か細く息を継ぐ若者だった。

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