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邪馬台国東遷  作者: シロヒダ・ケイ
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洛陽

― 第四章 洛陽 ―


難升米の一行が洛陽に着いたのは既に十一月も末になっていた。

外交団は洛陽市内から洛水をまたいで橋のたもとにある、異民族が逗留する大きな宿舎、迎賓館に入った。

そこからは洛陽を取り囲む、頑丈でぶ厚い城壁、向うには壮大な建物群がどこまでも林立していた。倭国の都市とは次元の異なる別世界に来たと感じる。

その宿舎にはシルクロードを通ってやってきたペルシャ人、駱駝(らくだ)等、想像を超えるヒト、モノ、動物がいてトシ達を驚かせる。


翌日、洛陽の門をくぐり外交を管轄する大鴻臚(だいこうろ)という役所に案内された。係官がにこやかに出迎える。

「長旅でお疲れになったでしょう。日のいずる東方の彼方よりおいで頂いたこと、感激と同時に喜びにたえません。ここの長官であります鴻臚卿から挨拶が御座いますが、その前に確認させて頂く事がありますので、暫く私とお付き合い下さい。」

帯方郡・劉夏から送られてきた報告書の内容につき、改めて確認作業が行われた。

中でも女王卑弥呼に関する質問が多かった。卑弥呼については難升米に答えてもらうしかない。

「倭国の祭祀は、太陽をその中心に考えております。卑弥呼様は祭祀をつかさどり、国を導く存在であられます。円い鏡は太陽を表すものとして大切に扱われ、卑弥呼様のまつりごとには欠かせないものであります。」

「成程、倭国は太陽が昇る地。それゆえ、女王殿が、太陽を重くみられるのは、道理にかなっておられますな。」

「はい。卑弥呼様のおそばには、多数の銅鏡が置かれています。」

「女王であるからには、衣服やアクセサリー、化粧品の類もお好みでありましょうな。」

「はい、卑弥呼様の宮殿には多くの巫女や侍女が仕えています。貴国におかれてもそうでしょうが、女性であってそうした物を好まぬ者はおりません。」

係官とのやり取りでは、帯方郡でも聞かれたヤマタイ連合国の国名、その戸数など改めて聴取され、その戸数の数字には、やや驚きの表情が走った。確認作業が終り、鴻臚卿と対面する宴席が設けられた。

「詳しいことは司馬懿殿と帯方郡太守の書簡にて聞いております。堅い挨拶は抜きで友好を深めましょう。」早速、酒が注がれ、難升米の頬が緩む。

「皇帝も司馬懿殿の書簡を見られてからというもの、貴殿達が都に着かれるのを今か今かと心待ちにされておられました。明日にも奏上いたしますので二―三日後には皇帝謁見の運びになりましょう。」

もうすぐ皇帝にまみえる機会が訪れるのだ。そう思うとこの半年にわたる旅への感慨がこみ上げ、同時に謁見に向けた緊張が高まる。

「それまでの間、係官が洛陽宮殿内をご案内致しますので、ゆっくりご見学戴きたい。」

案内を受けて見学した宮殿は、やはり壮大そのものだ。中央の道幅はゆうに百メートル以上。西北には防備の要、金墉城が聳え立ち、それに守られるよう北側に皇帝関連施設、大極殿、昭陽殿等が限りなく建ち並ぶ。

総章観は高さ十丈もあり、屋上に飛翔する鳳凰の像があった。九龍殿には人工の川を配し、白玉で飾った美しい手すり、神秘の龍の彫像に水を吐き出させ、これまたヒキガエルの彫像に水を受けさせる趣向が凝らしてあった。芳林園には池に、築山、松や竹、山鳥や獣達も放って季節と自然が楽しめる。

これらの造営の為には、多くの民衆が膨大な時間、駆り出された筈だ。聞くと、皇帝自ら鍬を持ち、側近の高官達も工事を手伝わされたという。

一体、いくらの資金をこれらの工事の為に費やしたのか。とにかくため息が出るような、建物群には魏の国力の凄さが感じられる。

案内役の係官に対し説明を受けるたびにそれぞれの素晴らしさを褒めるのだがその顔色に笑顔がないのが気になる。ホメ方が足らないのかと、大げさに表現するが苦笑いが返ってくるだけなのはどうした事か。

洛陽見学も一通り済んだところで、いよいよ皇帝謁見の日取りの告知があると思われたが三日過ぎても四日過ぎても、その沙汰はなかった。

難升米達が宿泊する迎賓館に大鴻臚の役人が尋ねて来たので、勢いこんで迎えたが、使者の顔付は冴えない。

皇帝曹叡の体調がすぐれず、ここしばらくは謁見の儀式が行われる見通しはないという。難升米様も拍子抜けしたようだが、迎賓館の接待には満足している様子。トシは丁重にお断りしたが、難升米はあてがわれた遊女の踊りや、宴席でのお酌に気持ちが向かっている。

トシは難升米のご機嫌を確認して、一人で洛陽の町を見て回りたいと願い出た。勿論、快く許可が下りた。

「倭国に持ち帰るお土産が必要。そなた、洛陽の市場でめぼしを付けておいてくれ。」これで徐先生との約束を果たす事が出来そうだ。


トシは徐先生の書簡を取り出した。宛名には(げん)(せき)という名前と、その住所で洛陽郊外の地が記されていた。

尋ね歩いて近所の人に、その場所を教えてもらった。

その際「気難しい人だから気をつけなさい」と忠告を受けた。奇怪な顔の変わり者との事だ。先生もそれらしい事を言っていた。どんな人なんだろう?教えられた道を歩くと、目印の竹林が見えてきた。奥に屋敷があるはずだ。

向うから若い二人連れの男が歩いて来た。念のため聞いてみるか。

「阮籍殿のお住まいは此方ですか?」

「我々は今、お会いして帰るところだ。」

思い切って訊ねてみよう。

「阮籍という方はどんな方になりますか?」

「知らないでお会いなさるのですか?」

不審に思ったのか、一人の男が聞いて来る。「あなたはどなたです?私は王済、こちらは孫楚君です。」

「私は倭国から来たトシといいます。知り合いに頼まれて面会を希望する者ですが・・」「倭国?中国人ではないのですね。」

「帯方郡の南。海を渡ったところの国です。」

「それなら阮籍先生を知らないのは当たり前だな。」

「先生は当代一の詩人、知識人ですよ。」

二人によると、父君の(げん)㝢(う)も曹操にみこまれ、その側近として檄文を書いた名文家で、建安の七子として名高いという。だが、阮籍が幼い頃に亡くなっていた。いずれにしろ、洛陽では名家の家柄の人物のようだ。

「父君の文章力のDNAは確実に伝わっていますね。」

「気難しい人と聞きましたが。」

「いろいろ言う人もいるけど我々のような若輩者にも気さくに話してくれる、良い方ですよ。つむじを曲げると怖いけど・・なあ。」

大体、雰囲気は判った。

二人にお礼を述べて先に進むと、竹林に囲まれた広い庭のある家の門に出た。

誰が奏でているのか、琴の音色が聞こえて来た。緊張感がほぐれる、この自然と一体になった良い音色である。

家の前で二歳に満たないと思われる幼い女児が遊んでいた。小さな口元が愛らしい。

「お父さんは阮籍さんですかア?」

「アアア」まだ言葉も満足に出ない幼さ。この子に面会を申し出ても通じる訳はないな。

その時、人の声を聞きつけて家人が現れた。「阮籍先生の友人の徐さんから書簡を預かってきた者です。お取次ぎ願えませんか?」

しばらくして琴の音色が止まり、体格のよい大男が出てきた。いかつい顔だが決して奇怪とは言えぬ、むしろ見方によってはカッコイイ男だ。胸をはだけたゆったりの服に足元は靴ではなく下駄を履いている。

阮籍は訝しげに「そなたが徐さんかな?」と訊ねて来た。

「いえ、徐先生に頼まれて書簡をお持ちしました。徐先生は中国から倭国に渡られ、私は先生の教えを受けたものです。このほど外交団の一員として洛陽に訪れたのでおうかがいした次第です。」

書簡を渡すと筆跡を見るなり「おう。あの徐が生きていたか。」と大声をあげた。

「早く入りなさい。君に奴の事を聞きたい。」とにこやかな表情で招き入れられる。

「ほう。」読み終えた阮籍はトシに向き直った。

「君は、ここに記載されている書物がどんな内容のものかご存知かな?」

トシは困った顔になる。

「徐はピンピンしているのであろう。これには余命ナシとあるが、これらの書物は徐の好きな物ばかり。自分が読む為と違うか?」

言い当てられて当惑するトシに、阮籍は笑顔で続けた。「あいつには全て承知したと伝えてくれ。ちゃんと徐州の母殿には元気に暮らしていると伝えると・・」

トシはもう(はばか)ることもないと、事実を話すことにした。

そして、先生に関する疑問をぶつけることにした。

「「私にはわからないことがあります。何故、倭国に来られたのか。ただの漂流民とは思えないのですが・・」

「あいつは魏を捨てたのだ。私は国事に背を向けて暮らしているが、あいつは国の体制に思う事があったらしい。もともと蜀のファンだったからな。見限って倭国を目指したのだろう。」

阮籍の話では徐先生は、曹叡の事は当初評価していたらしい。だが、孔明亡き後、宮殿造営工事にのぼせ、民の苦しみを顧みない政治に失望した。仕官に誘われたが断って徐州の実家に戻っていたという。

曹叡の宮殿オタクは、皆にひんしゅくをかっているらしい。誰が諌めても態度を変えることはないのだ。

トシは宮殿見学の折、案内役がいい顔をしなかったのを思い出した。あの建物群を見て豪華さに圧倒される思いだったが、実は国内的には批判の方が多いのだと感じた。

「それに、もう一つ理由がある。秦時代の方士に徐福がいたが、あいつは自分の祖先が徐福だと考えていた。」

「「そういえばそんな事を言われてました。」

「徐福は始皇帝に不老不死の妙薬が東方にある・・と信じ込ませ、探検に必要として膨大な財を引き出した。そして童男童女、職人、五穀の種と共に海中にわたり新天地で暮らしたと言われている。徐は始皇帝をたぶらかして向かった、その国は倭国ではないかと推定していた。わざと海難事故を装い漂流民として倭国に到達したのではないかな。」

そうか、それで徐福伝説に興奮していたのだ。目的は徐福の足跡をたどることにあるのか?

「俺からすれば、共に酒を飲む友達を倭国に取られたってところだ。」と笑った。

「まあ、元気ならそれで良い。友の友、遠方より来る。また、楽しからずやだ。今日は君と飲み、語ろうではないか。」

トシは、洛陽に来たからには、儒教をはじめとして、諸子百家の教えを学び、書籍を購入して倭国に持ち帰りたいと希望を述べた。

「学ぶ事は大事だ。だが、儒教はあまりお勧めはせんぞ。今の中国、いや昔から、この国では教えを学んでも自分の生き方の為には使わない。出世や自分の利益の為に利用する輩ばかりだ。巧言(こうげん)令色(れいしょく)の巧言ツールにしている。特に礼は好かんな。」

「はあ。」

「権力者が反抗する者を抑え込んだり、邪魔者を粛清するのに、口実として使う。礼に反する奴だとな。・・出世を求める人間、こざかしい事を考える。立派な教えを、裏に廻って相手を陥れる道具として告げ口するのを何度も見てきたよ。哀しい事よ。」

「はあ。」

「君は、儒教だけでなく、いろんな教えを学んで帰る事だな。例えば、最近のものには仏教と言うものもある。老子が西方の国に行き、化身となってシャカという人物になった。そのシャカの教えが仏教と言われるのだ。ホントかウソか判らん話だが・・」

「老子がシャカですか?」

「戒律や難しい修行があって俺の肌には合わんが、今までにない教えと言うイミで注目している。人を傷つけず、自分で悟りを開く教えだからな。」

「何処にその教えを広めているところがあるのですか?」

「俺が仙人を探して長江あたりをウロついていた時は寺がアチコチにあった。洛陽には・・おお、白馬寺というのがあるぞ。」

仙人の話がでた。その後は阮籍先生の仙人談義とあいなった。こちらの方が面白い。


なお、本日出会った孫楚(そんそ)君。後に夏目漱石が漱石と号し、流石(さすが)の語源となった人物である。父は曹叡の側近孫資。

なお、本日出会った阮籍先生。後に竹林の七賢人のリーダー格として清談の第一人者になる。

なお、本日出会った阮籍の娘。後に司馬昭(司馬懿の二男)の息子、炎(後に魏に代わって晋の初代皇帝となる)との結婚話を持ち掛けられる。権力争いを好む司馬家との姻戚関係を望まぬ阮籍は、ワザと大酒を飲みグデングデンになって、その話に取り合わなかったという。


昨日の宿題が残っていた。

阮籍に付き合って酒を飲み、難升米様から言われた土産探しが出来なかった。今日は洛陽の市場を見てみようと街中をブラブラしていた。

と、向うから、やけに白い顔をした男が高歯の下駄を鳴らしてヘンな歩き方でやってくる。

年は既に五十を超えているかも知れないのにハデな男だ。ピョンと跳ねるような歩き方。顔には白粉をつけて化粧している。しかも神経質で警戒心の強そうなタイプ。

洛陽にはホント、様々な人が居ると思ったが、インネンをつけられてはたまらない。スタスタ足早に通り過ぎようとした瞬間、甲高い声が飛んできた。

「チョット待て。お前は俺の影を踏みつけにしているぞ。」

影?ヤバイ。影を踏みつけたと文句を言われるとは。ヘンな奴に捕まってしまった。どう、遣り過ごしたものかと思案する。

「お前は・・お前はこの地の人間ではないな。ど、何処から来た?」

甲高い声が追い打ちをかける。言葉は少しロレツが回っていない。酒を飲んでいるのか?

「倭国から参りましたが。」

相手の着衣を見ると、いかにも高級なシルク製のハデハデ。身分の高さが窺えるので答えないわけにはいかない。しかもその服から良い芳香が漂って来る。しかし、酔っ払いにしては酒臭さが無いのが不思議だ。

「ほーほっほ。倭国?女王国から来たものがいると聞いたが、お前か?」その時、背後を誰かの影が通り過ぎた。

この男、女王国という事を知っている。ナニモノだ?・・

相手がどう出るかわからず、顔色をうかがっていると男はニタッと笑った。

「異民族ではとがめだてしても詮方ないのう。」やれやれ、なんとか無事に収まり、解放されそうだ。

と思うまもなく「少し、話が聞きたい。ついて来てくれ。なに、この家が俺の屋敷だからな。スグだから。」困ったことになった。

が、この屋敷はどこまで続くのか・・というほど広くて、門や塀には装飾だらけ。かなりの身分であることは明白だ。相手の素性が判るまで、低姿勢で応じるのが無難だろう。

「先程は足がご不自由な事を知らず、失礼致しました。」

ところが大声。「失礼な!」と一喝される。

「これはウホだ。足が不自由ではないぞ。」

引き摺るように、飛び跳ねるように歩くのがウホ?

「ウホも知らんのか。これだから異民族は困る。我が中夏(中華)の創始者を。」

中華の創始者は「㝢(う)」である。徐先生の中国歴史講座で学んだ。

卑弥呼の時代を遡ること二千二百年ほど前、禅譲により帝の位を受け夏王朝を打ち立てた伝説の人物である。治水事業で国を豊かにした徳の高い帝と言われている。

「夏王朝の㝢の事ですか?」

「その事は知っているのか。ならば教えてしんぜよう。」

㝢は自ら先頭に立って土を運び治水事業に取り組んだ。手足はヒビ、アカギレだらけになったばかりか、頑張りすぎて半身不随の身になり、不自然な足の運びにならざるを得なくなった。・・と解説する。

「それがマサにウホなのだ。だから㝢の徳をしのぶと共に、国家が災難を避け、万事上手く(うまく)行くよう、こうしてワシがマネをしておる。影を踏まれると、その効果が薄れるのじゃ。」

咎め立てされた理由が判った。

それにしても、この人の服装は治水の作業着とは無縁の高級品。化粧した白い顔も㝢とはかけ離れているように思える。

が、面と向かって言える事ではなく「わかりました。ならば影を踏まぬようついてまいります。」と応じた。

立派な門をくぐり、これまた立派な屋敷に入る。

何人もの家人が駆け寄り「ご主人様、お帰りなさいまし。」と声を掛けてくる。

客間に案内されると超豪華調度品がそこら中に配置されている。応接テーブルの中心に香炉が置かれ、あの服から漂っていた香りが部屋中に充満していた。

「ワシは何晏(かあん)という者じゃ。お前は名を何という?」何晏と名乗る男はハタキのような払子(ほっす)を振りながら口を開いた。

都市(とし)()()と言います。」

「それでは都市牛利殿。倭国は東海の海中にあると聞いたが、それは真か?」トシが肯いてテーブル上に地図を作り、ここが洛陽、ここが帯方郡、ここが邪馬台国と説明した。

「ほう、ワシは未だ海を見た事がない。都を離れた事がないのでな。一度は見たいが、なんせ遠く離れておる。」

「倭国は四方を海に囲まれております。もっとも離れた内陸部からでも数日歩けば海に出ます。」羨ましい様子でトシを見る。

「今から七百年以上も昔、孔子という偉人がおってな。山東半島にある連雲港の孔望山に登り、東の海をあかず眺めていたという。東の彼方に君子国あり。自分も筏に乗ってそこに住みたい。・・中国の政治に絶望していた孔子は、その国ならば徳による政治という自分の理想が実現出来ると憧れておった。君子の国とは倭国の事ではないのか?わしはそう推察するがのう・・」

おっと。君子国ときた。七百年前となると我等の先祖が韓半島から渡来する前の原倭国人かもしれないが、ちょっとは嬉しい誤解だ。

「君子国と持ち上げられると恥ずかしくなります。中国の豊な文化と比べれば、何事も足元に及ばない国ですのに。」

「文明の発展具合と君子国は関係ない。孔子は春秋で、我これを聞く、天子、官を失すれば学は四夷に在りと言っている。中国国内に徳や礼に基づかない政治が行われた時には、周辺の異民族に立派な政治をする国があれば、それをマネて立て直せと言う事だ。」

「孔子はそんな事も言われていたのですか?」

「孔子を知っているのだな。結構、結構。」孔子の言葉でどんな事を知っているかと尋ねられ、答えていくうち、何晏はニッコリし始めた。

「実はな。私は孔子を研究する学者なのだ。」

「ホントですか?学者先生なら本も沢山お持ちでしょうね。」

「当たり前だ。孔子だけではない。様々のジャンルの先人の書いた書籍がうなっておる。俺の書いた孔子の研究書も幾つもあるぞ。」

「エッ。本を出しておられるのですか?」・・うーん。門の外で出会った印象がえらく違ってきた。

「後で自慢の書庫に案内してやるから見てビックリするなよ。いまから食事でもしよう。と、そうだ。妻も紹介しておこう。」通りがかった夫人を呼び止めトシを紹介した。

「今、魏国と倭国の民間親善外交をしておるのだ。」

何晏夫人は「あら。お若い外交官でいらっしゃること。」と興味を示してきた。

「あなた。このお方はお若いんだから五石散を勧めちゃダメですよ。」

「五石散?」

「そのクスリはな。不老不死とまではいかんが、それに近い効果が見込める妙薬だ。飲むと、こう、体中が敏感になる。頭も冴えわたってくる。但し、身体に籠ったままだと毒になるのが厄介でな。身体から発散させるため歩く必要がある。まさにその時お前と会ったのだ。ホッホッホッ。ものは試し、飲んでみるか?」

五石散とは水晶など五種類の鉱物を調合したもので麻薬の効果があり、中毒するリスクもある。しかし、当時は神仙薬の一つとして体質改善・不老不死が謳われていた。

なお、散歩と言う言葉はこの事が語源。このクスリを使った後の、歩く必要性から出てきたのだっだ。

「ダメですよ。私はアヤシイ薬だと思っているんです。それなのにこの人は妙薬と言い触らして勧めまくっている。年寄ならともかく若い人にはダ・メ・デ・ス。」

夫人は倭国が女王国である事にもいたく関心を寄せた。

「その点、中国より進んでいるじゃありませんか。中国にも女王がいたって良いと思いますよ。冗談ですけど、私が魏の女王になったら、あなたは何と呼ばれるんでしょうね。ホホホ。」オッ、大胆な発言をする奥様だ。

「妻は曹操の娘でな。金郷公主というんだ。ワシも曹操の息子には違いないが養子だからな。実の娘にはとても敵わん。」

曹操の実子に養子?・・・何か大変な家に来てしまったようだ。

食事が終わり、「そろそろ書庫に案内するか。」と何晏が促した。

なんと図書館並の蔵書の量である。孔子、老子、自ら執筆した研究書と並んで目立つ場所に立派に飾られた書籍があった。

「これは、父曹操が書いた孫子の注釈本だ。」

曹操は孫子の研究書以外にも漢詩を沢山残していた。徐先生の講話では冷徹、非情、力任せのイメージだったが、曹操の子供に歓待を受けた今、そのイメージも少し変わっていく。

「これだけの本があるとは。時々、お邪魔して読ませていただいても宜しいですか?」「結構、結構。毎日にでも来て、好きなだけ読むと良い。屋敷の番人にはお前をフリーパスにするよう言って置く。」

何晏は帰りしな「市場で買い物をすると言ってたな。買うなら良い物を買えよ。」と小さな袋を渡してくれた。後で、開けてみると、そこには金や銀の塊が・・。神経質に見えた男は、うちとけてみると気の好いオジサンだった。


何晏の屋敷を出て、本来の目的地、市場に赴く。今日は買い求めるのではなく、あくまで下調べである。

まず、西側にある大市だが伊都国市場とは全然比較にならない賑わいだ。店舗面積も店舗数も品物の数も種類も人通りの多さもケタ違いもケタ違い。それも、どこまで行っても店が続いている。

さすが洛陽、さすが中国だ。衣服、陶器、工芸品、鉄や銅の金属製品。全てが目を見張るモノばかり。宝石店では(ぎょく)と呼ばれるヒスイに似た石が売られていた。大きく精緻な彫りの技術が素晴らしい。

しかし、石そのものから出るパワーは大将に作ってもらった、あの勾玉に軍配が上がると思われた。チクシへの土産は何が良かろうかと表通りをザッと見回るだけでもかなりの時間を要した。

裏通りに入ると日用品、食料品、飲食店の外、品質の劣る衣料品を売る小さな店や露店が並んでいる。ここにも人の波、波だ。

さらに路地に入ったところに骨董を扱うリサイクルショップを見つけた。ここなら安い掘り出し物があるかもしれない。

店内をグルリと巡ってはみたものの、余り惹かれるモノは無い。商品に埃をかぶっているものが多く、主人の眼つきも怪しい。買いたいモノがあっても吹っかけられそうだ。

唯一、気になったのは隅に大きな鉄くずや、ガラクタと一緒に無造作に置かれている薄汚れた()(せん)

羽扇といえば孔明。こんなものを使っていたのか、と思いながら主人の顔を見た。

主人は「これは売り物じゃないヨ。今仕入れたばかりだから・・」こちらの顔を窺いながらダメの手振りをした。

ところが脈があると思ったか、欲に歪んだ笑いを浮かべて言い直す。

「なんだったら千文、いや八百文なら特別に譲ってもいいがね。」

その時、何時の間に背後にいたのか、汚れた身なりの男が言葉を発した。

「それらは盗品だろう。さっきおかしな連中がこの店にそれを持ち込み、何も持たずに出ていくところを俺は見てた。」

「何を言い出す。ヘンな言いがかりつけやがって。叩き出すぞ。」主人が怖い顔をして傍の棍棒(こんぼう)に手を伸ばした。

「場合によっちゃお上に投書してやってもいいんだがね。この店と盗賊シンジケートがつるんでいると。」

「なにを!」

主人が顔を紅潮させたところで「まま、まあ。ものは相談だ。盗品とわかって売るのは罪。盗品とわかって買うのも罪だ。だから俺が罪人になろうじゃないか。俺が買えばあんたと同じ罪人仲間。お互い、秘め事にして公にならない方を俺なら選ぶがね。」

「いくら出すんだ。」主人が計算するように男を見つめる。

「鉄くず含めた全部で二百文だね。」

「冗談じゃない。錆を取り、キレイに仕上げりゃ、売れる骨董品になるかも知れないのに。」

「話をややこしくするのか?」

「五百文出せ。」

「わかった。三百文だ。それで罪も買うんだ。決めなよ。」

「いまいましい奴らだ。お前等、グルで脅しやがって。」

だが、商談は成立したようだ。

男は金を投げ出し、羽扇と鉄くずを取り上げ、大きな麻袋に放り込んだ。

「オイ、引き揚げようぜ。」とトシの脇腹を突いて外に連れ出した。

いつのまにかグルにされてる訳だが、この場に残るのもマズイ。羽扇の事も気になって男の後を追う。

店から遠く離れ、東側の小市の裏通り、古ぼけた飲食街までやって来た。人けのないところで腰を下ろし、男はやはり切り出してきた。

「この羽扇、気になるだろ。こいつは汚いが値打ちモンだぜ。俺は孔明が使っていた(しろ)(もの)と踏んでいるんだが・・」と耳元で囁く。

博識老人に化身して、孔明に勉学を教えていた知恵の権化たる鷹がいた。その鷹が死ぬ前に、自分の羽で扇を作るよう孔明に遺言した。こいつは、まさにその羽扇なのだと男は言う。

「羽扇をくゆらせば名案が浮かぶ・・特別な御利益(ごりやく)があるんだよ。」ニタリとウインクした。

この男も高く売りつけようとしているのだ。

「孔明の物なら墓の中か諸葛(しょかつ)家の家宝として蜀にあるに決まっているだろう。」

「お前。追えば追うほど遠ざかる四輪車に座る孔明・・を知っているか?」

孔明は多数の影武者を使い、予め一定距離にそれぞれを配置、敵に近い孔明が見えなくなったところで、その先にいる孔明を敵に見せた。それを繰り返すと、敵の目には孔明が凄いスピードで遠ざかるように見える。鬼神と思わせるマジックだ。

「あの時、同じ羽扇の模造品を幾つも用意したんだ。これが孔明が手にしていたモノとは断定できんが、汚い手垢がついたのが本物、蜀にあるキレイな品が模造品ってことも考えられるんだぜ。」

羽扇をくゆらせ「コイツに何か感じないか?」トシの鼻先をくすぐる。

そう言われると何か引き寄せられる感じがする。それでもアヤシイアヤシイ。

「自分がそう思うんだったら、何で自分で使わない?名案が浮かぶんだろ?」

「ところがコレ、正しい心と志を持つ者でなければ効果が得られないのだ。孔明みたいにな・・。生憎と、俺は邪心が多くてな・・」

自分の事を邪心があるとは正直な事をいう。ただ、これを買ったとしてだ。効果が無ければお前の志が薄かった、正しい心の持ち主になるまで修行する事だ・・とケムにまくような弁解をしそうな気がする。

「そうやって作り話で高く売りつけるつもりだろ?」

「俺が欲しいのはこの鉄くず。錆びた剣だろうが、磨くとスゴそうだ。だから四百文でいいよ。さっき払った三百文にこれから食うメシ代百文。」

こいつはタダで鉄くずとメシを手に入れようとしているのだ。

が、作り話をするにしては良心的?な値段を言う。孔明のお宝が四百文とは安すぎる。こいつも由緒あるモノとは信じてないのだ。ヤッパリ。しかしこの値段なら・・。

「お前、八百文で迷っていただろ。半額にしてやったんだぜ。」

中国に来た記念品として自分用の土産にしよう、と考えたトシの思いを見透かしたように「商談成立。一緒にメシ食おう。」トシの肩を叩き、或る店に入った。 


「ところでお前の国は女王国だそうだな。」

急に言葉を突きつけられて「どうしてそれを?」と危うく食べたものを、咽喉に詰まらせそうになる。

「お前が何晏と会った時、その会話を聞いていたんだ。」

あの場面に、この男がいたんだろうか?

そういえば、人影がいたような、いないような・・改めて男の顔を見る。

奇妙な顔立ち。ケモノ、そう、猿顔なのだ。警戒心が湧き上がる中、男はわけのわからん話を持ち出してきた。

「クレオパトラのような女王か?」

「クレオパトラ・・」

「エジプトの女王でな。三百年前の絶世の美女と言われる女王さ。」

「エジプト?」

男は食事の器と食べ物を地図に見立てて並べ、ここが魏。ここがローマ、ここがエジプトと説明する。

ローマという新しい地名も登場させた。

ローマ帝国がエジプトに進攻した折、クレオパトラは国を守る為、その美貌と色仕掛けでローマの将軍を次々籠絡(ろうらく)したと言う。最後は、それが叶わず毒蛇に身を咬ませて自害したと・・。

トシは中国より西があるなど夢にも思わなかったのでビックリ仰天。事実なら世界は驚くべき広さだ。

地図で示されたローマ帝国は魏・呉・蜀を合わせた中国より大きいように見えた。

「ウソでしょ。」

「嘘?市場を見て廻ったんじゃないのか?駱駝を連れてターバン巻いた商人が一人や二人は居たハズだ。そいつらは中国の絹を買っては西に戻って交易で儲けているんだぞ。」

確かに洛陽には倭国では想像もつかない異民族が行きかっていた。

「そのローマとかエジプトには実際に、行かれた事があるんですか?」

「ローマには行った。その話聞きたいか?」

「ハイ。」

「俺の先祖。といっても何百年も昔の話だが、西方に旅立って行方不明になったという言い伝えがあった。その先祖は乱暴者だが特殊な能力を持っていたと云う。俺も西に行けば何か痕跡や手がかりが見つかるかもと思って旅に出た・・・」

男の旅の話はこうだった。

中国の西の果て、レイケン城という国境警備隊の居る所までやってきたが、何の手掛かりも得られない。しかし、そこで出会った人々はなんと青い眼の中国人だったんだ。付近の村には髪の毛が赤や金色の者がいて、これもビックリ。

聞くと祖先はローマの軍人ではるか西にいたところを匈奴の連中の捕虜になった。後の漢代の頃、中国の警備兵として雇われ、ここに定住するに至ったという。そこでローマという名前を初めて知ったという。連中も祖先が住み始めたのは三百年前というからローマについて聞いても何もわからない。こうなったらご先祖様よりローマ人はどんな奴か、どんな国かと、行ってみたいと考えた。

「関所は通れたのですか?」金色の髪など作り話にしても奇抜な発想だ。

「ほら、ターバン巻いた商人がいるだろ。商隊の一員となって、駱駝と共にペルシャの市場に、そこからローマに向かう商隊に潜り込んで目的地に着いたんだ。」

道はなく、見渡す限り砂漠が広がっていて、炎天を避け夜に移動すると言う。全く想像が出来ない・・・砂といえば、倭国にはせいぜい海に面した砂浜しかないのだ。


「ローマってどんな所?」面白ついでに作り話に付き合うことにした。

男によるとローマには壮大な建物が幾つもある。土木・建設技術は中国を上回り、洛陽を上回る大きな建物があるのだ。

ローマにも皇帝が居るが、多くの建物は皇帝の為のものではなく市民の為のものという。

そんな国があるのかと、トシにも興味が湧く話である。

市民が元老院議員を選び、元老院が皇帝を選ぶ。選挙権がある市民に人気がないと政権の座が危なくなるから市民への人気取り政策が必要だ。

コロッセウムという闘技場や劇場、公衆浴場がアチコチにある。穀物から作ったパンという食べ物も市民に無償で配給されるというのだ。

エッ?一般の民衆には食料が保証され、遊ぶ施設が提供される?おまけに、徐福の湯のような温泉三昧に日々を送るとは?夢みたいな話だ。

「カラクリはあるさ。奴隷制度と属国による朝貢品がその経済を支えているのだ。もっとも、他国を侵略する事で成り立つ仕組みだから、限界はあるな。侵略の自転車操業が止まればコケて当然。侵略対象が少なくなり、むしろ帝国防衛コストが嵩んで、もう翳りが見えてきている・・」ただ、面白いのは侵略して属国をイジメるだけでは無い仕組みもある事。デキル人間はローマ市民になれるのだ。

支配された地域からもローマ市民に抜擢され、皇帝になる者もいるという。そんなことがと、信じられない話に、つい引き込まれる。

「何でそんなローマに居続けず、帰国されたのですか?」

「人間が傲慢なのだ。欲望に忠実と言えばそうだが、恥も無ければ高貴な思想もない。人間同士に殺し合いさせたり猛獣と戦わせたり、それをショーにしている。中国も自己中だがローマも自己中心的だな。」

「殺し合いのショーですか?」

「ああ。皆が熱狂して観てる。民主主義の発想、技術力は面白いが、知恵をコントロールする文化が無いのは残念だ。これでは遠からず衰退の道を辿るだろう。だから、他の文化を探究しようとローマを去ったということさ。」

ヘンな国だが、それでも夢みたいなところもある国だ。何かいい所があるだろう。

「それでも、取り入れたい文化はあったでしょう。」

「図書館でむさぼり読んだギリシャ哲学かな。向うにも中国でいう諸子百家が居て、色んな事を考えている。それに浴場と水洗トイレだな。浴場は心地良いし、用を足した時に下水道の水が汚物を流してくれて清潔だ。後はローマの食事。海が近く鯛のマリネは絶品だ。洛陽では食えないからな。うーむ。喋っているともう一度食べたくなってきた。」

「鯛なら倭国にはドッサリいますよ。」

「倭国は海に面しているのか。鯛が食べれるんだな。」と想像を働かせている様子。

「おっと。俺の最初の質問に答えてないぞ。」

そういえば、男の質問は女王が美女かというものだった。

トシはチクシの祖母の巫女頭を思い浮かべた。

とても色仕掛けで男を惑わすタイプではない。むしろ刺すような視線で萎縮させるタイプだった。そんなおばあ様が仕える卑弥呼。輪をかけた老婆に違いない。少なくともニッコリ愛想は想像出来なかった。

「倭国では女王卑弥呼を見た者は殆ど皆無です。私もみた事は有りません。高齢者につきクレオパトラとは似ても似つかないでしょう。」

「ふむ。人前で演説したり、パレードする事はないのか?」

「考えられません。」

「若い頃は美人だったのだろう?」あくまで美人に拘る奴だ。まあしかし、ミクモ姫と血縁関係があるのだから美人じゃなかったとも言い切れない。

「ひょっとしたらそうかも知れません。が、見た人が居ない以上何とも・・」

「じゃあ行って確かめるしかないな。久し振りに鯛も食べタイし・・。お前が帰国する時連れていってくれ。」

「できっこないでしょう。こっちは正式な外交団だし、第一、あなたの名前すら判ってない。」

「俺はソンゴエン。皆はおれのサル顔を見て孫猿と言うがな。孫円か孫縁と言って貰いたい。」

「私はトシと言う。」

「また会おう。」とソンエンは町の中に消えて行った。つくづくヘンな奴だ。


 それから数日後。再び大鴻臚の係官が顔を見せた。何故か疲労困憊の様子である。

「現在、宮殿内はゴタゴタしております。お待たせして申し訳御座いません。帝の体調の改善が見られず、むしろだんだん弱られていく一方なので、我々も心配しているところなのです。」

「私共はどうなりますか。謁見予定はキャンセルになるんでしょうか?」

「既に貴国の朝貢に対する詔書は下されています。ただ、肝心の天子様の容態が回復しなければ謁見の予定が立ちません。その場合代理の者が詔書を読み上げる事になるでしょう。ま、ここ一週間程様子を見て下さい。」

難升米とトシは顔を見合わせたが如何ともし難い。

「判りました。何か進展があればご連絡下さい。」と答えるしかなかった。

「朝貢に対して何の返礼も無いならともかく、詔書が既に発行されておれば、我々の役目に問題は無いと思われます。」トシの言葉に難升米も安心はしたようだった。

「今回、想定外の連続じゃな。ま、待たされる間は洛陽を堪能しよう。お前も町に出かけて学んで来い。」


 トシにとって時間潰しは何晏宅である。

書庫を見て、良い書物があればメモして市場の本屋で買って帰ろうとせっせと通った。門番も顔を覚えていてくれてフリーパス。いい人に出会ったものだ。

或る日。書庫で書物を漁っていると隣の客間から話声が聞こえてくる。それは驚くべき内容だった。

「聞いてるか?曹叡様はもうダメだって。」

「ダメ?」

「もうご自身で判断する力を失っているそうだ。」

「ほう、病状はそこまで悪化しているのか?」

「ああ。側近の言いなりだって。」

「側近と云うと孫資殿か劉放殿?」

「いや、曹一族が、次の帝の後見人選びで攻勢をかけているらしい。」

「次の帝というと太子の曹芳様のことか。八歳の少年だからな。後見人がいる訳だ。」

「秦朗や曹筆、夏候献らが後見人は燕王の曹宇殿が最適と、口を揃えて曹叡様に推薦しているそうだ。」

「曹字殿は人格者だし、曹操様が後継にと期待をかけながら夭折した俊才、曹沖の全弟でいらっしゃる。・・。しかし待てよ。今、曹叡様を支えておられるのは司馬懿殿と曹爽殿ではないのか?」

「司馬懿をこれ以上のさばらせては魏が乗っ取られると心配した曹一族が自分達の新体制を作るチャンスと動き始めたのだ。」

「曹操様は司馬懿には狼顧(ろうこ)の相がある。臣下で満足する輩ではない。乗っ取られぬよう警戒せよと息子の曹丕に言い残したと言うのは有名なウワサだ。その為、司馬懿は何回も、曹叡様にも一度、遠ざけられた過去がある。」

「蜀や呉の脅威を考えれば司馬懿の能力は不可欠。しかし、曹一派は公孫が滅んで、司馬懿の役目は終わったと考えたんだ。むしろ戦地から戻っていない今がチャンス。宮廷を固めて、戻った時には隠居いただく算段だ。曹一派の動きはその戦略に沿った動きをしているのだ。勿論、そうなれば孫資や劉放の側近も排除するだろう。曹叡様が帝の座を譲られる機会を利用した、身内によるクーデターだな。これは。」

「ヒャー。そんな動きが・・。」

「怖い噂もあるぞ。聞くか?」

「何だ?」

「曹叡様は毒を盛られている・・。とのウワサ。あれだけ賢明だった帝が短期間に判断力を失うに至ったのはどう見てもヘンだ。謎は誰が何の目的で毒を盛ったかだ。」

「そういう事ならタタリのせいかな。あの毛皇后の亡霊が・・。」

曹叡は昨年237年9月、母丘倹が公孫討伐に失敗してイラついていた。そのせいか、皇帝になる前から寵愛していた皇后に手を掛けた。郭夫人に愛情が移り、その事を嫉妬した皇后に激怒、お付の女官達ごと(くび)り殺したのだった。

「毛皇后の息がかかった者が恨みを晴らす為に・・というのが第一の説。」

「しかし公孫滅亡のこの時期に急に弱られたのは何故か?との疑問が残るがな・・。」

「そうだ。第二の説は先の曹一派が毒を盛ったとの説。クーデターを起こすには今しかない、司馬懿が凱旋する前の・・との計算がある。新皇帝擁立を急がねばならないのだ。廷臣達が、諫言に耳を貸さぬ曹叡への不支持を口に出し始めたのも大きな背景だ。それで自分達に都合のいい新皇帝、その後見人を担ごうと画策する動機がある。」

「第三の説は司馬懿の一派。曹叡殿は何と言っても先を読む力がある。操り人形にはなり難い。幼帝を迎えれば司馬懿は更に力を蓄えることが出来る。」

「うむ。第二説がちょっとだけ有利かな?」

「まだある。第四の説が曹爽一派だ。」

「チョット待てよ、曹爽も曹一族だろうに。」

「曹一族のリーダーは曹字殿だ。この方が後見役から外れれば、候補は曹爽、司馬懿に絞られる。曹字殿がはずれた段階で、曹一族の支援を取り付ければ曹爽殿に天下が転がり込む。そう計算してもおかしくない。」

「そうか。曹爽殿の側近には丁謐(ていしつ)鄧颺(とうよう)、晃軌、季勝の面々が揃っているからなあ。いずれ劣らぬ策士集団だ。」

「ハハハ」

「ちょっと待て。曹爽一派の中には、ここの何晏様もいるぞ。あの人は策士じゃないがな。ここで話するのは(はばか)られる。」

「ハハハ、そうだった。」

「いずれにしろ宮廷には魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)跋扈(ばっこ)しておるなあ。」

「違いない。魏の先行き、見極めが肝要だなあ。我々にとっても・・」


 トシはうめいた。魏は安定した大国と思っていたが、真偽は別に、こんなウワサが飛び交っているとは・・・。大国の権力中枢には想像以上のモノがうごめいている・・。 


 気を取り直して書庫をチェックする最中に何晏が戻ってきた。

「おう都市牛利殿。来ておったか。ワシの部屋に来てくれんか」何晏と共に居間に座った。「曹叡が弱っているそうだ。知ってるか?」

「ハイ。我々との謁見予定が延び延びになって心配しているところです。早く回復なさると良いのですが・・。」

「詔書は用意されてる筈なのだが。」

「既に下りていると聞きました。」

「それなら心配ない。誰かが代読すれば良いだけの事だ。」ホォーホッホと笑い出した。

「曹叡め。バチが当たったのだ。」

「そんな言い方されて良いのですか?」

「俺は曹叡に干されていたのだ。少しは悪口を言ってよかろう。そなたは告げ口する輩とは違うし、外国人だ。他にこういう事を言える相手はいないのだから付き合ってくれよ。」「ハァ。」

「あいつは俺の事をうわべだけの中味のない人間と評しよった。」

「ハァ。」

「だが自分はどうだ。宮殿造営に血道をあげて国家の金庫はカラッポ。不足分を民から巻き上げていてばかりでは国は滅び、民は飢え、苦しむ。」

徐先生も同じ思いで魏に見切りをつけた・・と阮籍殿が言ってた事を思い出した。

「㝢は戦争を止め、宮殿造営を中止して、行政を簡素化した。農耕を盛んにして国を富ませた。曹叡は真逆の策を採っている。」

「あいつはケインジアンを自認し、公共事業は景気浮揚を生むと唱えるだけだ。不要な経費が国政の足かせになる事に目をつむっている。」

「儒教を弾圧した始皇帝に自分を重ねている。魏の阿房宮を作ろうとしているのだ。」何晏の熱弁が続き・・ああスッキリした、と息を入れた。

トシは思う。この人はヘンな人だが、吐きだしてスッキリするだけの人だ。魑魅魍魎の策士でない事が救いだった。

それにしても、中国の政権中枢には恐ろしい魔物が住み着いている。見習うべき事とそうでない事を見分ける必要がありそうだ。一大率で中国を学んでいた時には文化レベルから見習うべき第一等国と考えていたが、どうもそうでない部分もあるようだ。


それから数日して曹叡による謁見が絶望との最終判断が下り、代わりに鴻臚卿による天子詔書の代読の儀式が行われた。

「親魏倭王の卑弥呼に詔書を下す・・・・」「皇帝が汝らに深く心を注いでいる事を知らしめる為・・・汝に良き品々を下賜(かし)するのである。」

卑弥呼には金印紫綬が授けられ、朝貢の見返りの品に加えて絹、錦の布地多数、金塊、刀剣、真珠、鉛丹の外、銅鏡が百枚も与えられることになった。

この下賜品の多さは異例な事である。授ける相手が、当時珍しい女王である事、司馬懿の添え状に応えるイミがあったのだろう。

それにも増して、トシがビックリしたのは自分にも中国の官位が与えられた事だった。大夫の難升米が(そつ)(ぜん)中郎将になり、銀印青綬が与えられたのは当然だが、自分にも率善校尉の位が授けられ、銀印青綬を与えられたのだ。

二人は与えられた銀印青綬を身に着け、宴席に臨むことになる。

これは服の腰部分に巻き付け、自分の身分を明らかにしながら歩くもの。宮中において周囲の者が一目でその位が判るようにする為だ。自分が難升米と同色の帯というのは如何(いかが)なものか・・。

「いかにも畏れ多いのですが・・。」難升米に気を使いチラリと視線を向ける。

「まあそうだが、向うが勝手に決めた事だからな。仕方あるまい。」やや不服そうに返した。

係官に聞くと、中国の軍制で将は千六百―三千二百を束ねる。校尉は八百人を指揮する大隊長の立場になる。難升米は相応だが、自分は明らかな身分違い。

ヤマタイの新入社員が中国で破格の出世となった訳だ。

「私如きが、大それた官位を頂戴していいものでしょうか?」

「ウム。良くない。が、辞退する訳にもいくまい。成り行きとはいえ、困った事になった。後で考えるしかないな。」


「思いもよらず多数の下賜品を頂く事になり恐縮しております。我が国の女王卑弥呼も感激致すことでしょう。誠に有難う御座います。」宴で難升米が感謝の意を表した。

鴻臚卿も「本来は、ここに多数の高官が列席して歓待すべきところです。天子様の容態がすぐれぬゆえ、宮殿内が落ち着きません。こちらこそ失礼をお詫びする言葉もありませぬ。」と返した。

宴が進み、卿が帰途のスケジュールに言及してきた。

「難升米殿に相談ですが、副使の方を暫く洛陽にとどめておく事は可能ですかな?」

理由は卑弥呼への下賜品がすぐに整わず、特に百枚の銅鏡が出来上がるのに時間がかなり掛かる見通しという。

「副使殿が残る事が出来れば、難升米殿をすぐに帯方郡までお送りできます。そうでなければお二方とも、品々が出来上るまで洛陽でお待ち頂く事になりますが・・。」

難升米は二者択一を考えた。この半年の中国滞在でカタコトの日常会話は出来るようになっている。トシがいなくても帰路の旅に大きな支障はなかろう・・。

「私には国元の仕事が有りますので、なるべく早く帰る必要が御座います。副使をこちらに滞在させることにしますので、その間貴国の文化、政務等を学ばせてやっていただけませんか?一年帰国が遅れることになっても構いません。」

「そうですか。そう言っていただいて有難う御座います。職人に時間をかけても良いモノを作るよう指示しておきましょう。」

「それと、難升米殿にはお国に持ち帰られる土産類が必要でしょう。率善中郎将の官位に見合った俸給を用意させますので、市場にて気に入った物を手当されたら宜しいでしょう。」

トシの洛陽滞在延長、難升米の早期帰国が決まった。


難升米の洛陽最後の夜。トシを呼んで二人だけのお別れ会を催した。

「倭国の米が食べたいのう。」

「そうですねえ。」

黄河流域の中国内陸部では米のある食卓にはありつけなかった。穀物といえば粟や稗、麦などの粉ものだった。

「俺はもうすぐ食べられようが、お前は一年待たされることになる。辛抱してくれな。」いつものおどけた調子ではなく真顔で難升米が切り出した。

「おぬしが倭国に戻った時の事だが・・」

「ハイ。」

「処遇の事だ。魏から率善校尉の官位を授かったからにはヤマタイ国内でもそれなりの地位につけねばならなくなる。」

「その事なら、以前に話しました通り、いかなる処遇でも構いません。チョッピリ期待はしますが、あくまで方便としての仮の副使。校尉の位は中国だけの事と存じております。」

「俺もそう考えていたのだが、魏の正式の官位を受けたとなれば、もはや形だけの副使と言えなくなった。俺の責任で副使にしたのだから、ヤマタイに戻れば何が何でもお前をそれなりの地位に取り立てるよう働きかけるまでだが、問題はその後だ。」

「はあ。」

「貴人の家柄でもない者が異例の出世を遂げると大変だ。やっかみだけでなく引きずりおろしたり、窮地に追い込もうと画策する輩が出てきたりする。未だ、ヤマタイの行政組織にうといお前だ。上手く対応出来なければ、追い込まれて将来を失くす。」

確かにそうだろう。

「お前が帰国して処世して行く方法は一つ。洛陽で出来る限り学ぶことだ。倭国に持ち帰れそうな技術や行政ノウハウを叩き込んでおけ。まあ、まずは俺の配下として軍の事務を担当してもらうことになるだろう。俺が後ろ盾になれば、なんとかなるだろう。」

「有難う御座います。」

難升米が親身になって心配してくれているのが嬉しかった。

難升米は酒を注ぎ、笑顔を見せ始めた。

「まあ、用心は必要だが、前向きに考える事の方がもっと大事だ。俺たちは仲間。今回の外交成果で手にしたのは品物だけではなくて俺たちの運だ。俺は運を取り戻し引退の時期は延びた。お前は運を手に入れ飛躍のチャンスを得た。運は最大限活用しないと手にした運に申し訳ないのだ。用心を怠らずに利用すべき時だぞ。」フーッと飲み干して、難升米の目がキラリと光る。

「俺はヤマタイ連合国を解体し、中央集権の強いヤマタイ国に作り替える。」

「ハイ。」

「お前は洛陽で中央集権の仕組みを学び、倭国に合った体制作りを考えろ。」威勢が良くなってきた。

「そして、狗奴国を撃破し東方の倭国も組み込んで名実共にヤマタイを全倭統一国といたすのだ。」狗奴国撃破は違和感があるが、統一国家を作るの事自体は必要な事だ。

「それでは、統一国家の大将軍難升米様、私は鴻臚卿になりますので未来に乾杯といきますか。」

「おう。ただ中央集権体制には反対論者が多いのだ。奴国や伊都国、ヤマタイ本部にも今の体制にしがみつく保守派の輩が多い。どうしたらこの壁を突き崩せるかだな・・」難升米様は本気で考えているようだ。


難升米は警護の兵と共に帯方郡経由、ヤマタイ目指して出発した。難升米は自分用に魏の武具一式、土産用に中国製の靴、倭国にはない堅く締まった陶器、妻や愛人向けのアクセサリーを買い込んでいた。

トシは阮籍から届けられた徐先生に渡す書籍も難升米に預けた。無事の旅を祈った。もうすぐ年号が変わる年の暮れである。


時間を少し巻き戻す。

倭国朝貢団への授与式が行われる前。洛陽の宮殿ではいろんな動きが渦巻いていた。

曹叡亡き後を想定した、幼帝の後見人選びが二転、三転する。

当初、曹叡は曹字に後見役を依頼していた。当然、曹字は断る。それが古来からの礼儀であり、直ぐに受諾すればあらぬ疑いを持たれるからである。二度目の依頼を断った時点で曹叡は側近に相談した。孫資と劉放である。

この二人は公孫討伐時、他の廷臣達が慎重策を唱えた中で曹叡の意見を支持、遼東平定に貢献したとして侍中、光緑大夫に昇進していた。

ところで劉放は、相談を受けるのに先立ち、丁謐(ていしつ)からこんな話を聞かされていた。

「曹筆や秦郎に気を付けなされ。彼らは曹字殿をかつぎあげて宮廷の中枢を我がものにしようとたくらんでいる。曹叡殿が宮殿造営を強行し、国を疲弊させた。その責任を側近のお二人に負わせるつもりですぞ。帝が亡くなられた時には身の安全を図るべきでしょう。」

それを聞かされた劉放は孫資に耳打ちする。

「後見役としては曹字殿は適任でしょうが、取り巻きが危ない。宮廷が彼等の手中に入れば、我等は罪をきせられて放逐されるか、悪くするとコレモンですぞ。ここは我々に近い曹爽殿を推した方が良いかと・・」クビに手を当てられて、この話を吹き込まれると孫資も身構えざるを得ない。

「しかし、曹爽では能力的に心配なところがある。魏の運営を安心して任せられるかな?」

「そんな事を言っている場合ではないでしょう。我々の命運が掛かっているのですぞ。曹爽の足らないところは司馬懿に補うようさせれば宜しい。」

「司馬懿は野心家だぞ。」

「司馬懿も既に年です。野心家でも老いには勝てますまい。それより我等もはや六十代半ば。ここを乗り切って天寿を全うする事を図りましょう。」


曹叡は孫資と劉放に問うた「こ、後見役を叔父が承知してくれぬ。どうしたらよいものか?」

「曹字殿は自らの不才を知り、仰せをお断りになっておられるのでしょう。」「だが、ほかに誰がいる。誰か適任者がいるかな?」

「ここは曹爽殿をおいて他におられませんでしょう。今現在、陛下の体制を助けられているのですから。」

「そ、曹爽か。ちと不安があるが・・」

「足らぬ所は司馬懿に補佐させれば宜しいでしょう。」

「そうか、司馬懿がバックアップすればなんとかなるか。」

「曹爽殿を用いるなら、曹字殿を洛陽から本国へ帰らせた後でなければなりません。」「そ、そうか。わかった。」と一件落着にしたかに見えた。


しかし、その直後に曹字派の巻き返しが起きる。

曹筆らが曹叡の寝室に入り込み「やはり曹字殿にお願いすべし」と懇願し「曹爽では力不足、曹字殿のもとで修行させてからになさいませ」と説得した。

皆が野心家の司馬懿を中枢に入れるのは太祖曹操様の遺言に反します・・と脅すと、判断力が弱まっていた曹叡は、その言葉に肯いた。

孫資と劉放を再び呼び「司馬懿を呼ぶのは待て」と心変わりしたのだ。

慌てた二人は最後の手段に出た。

「お気を確かに」と既に用意していた詔勅に曹叡の手を介添えしながらサインさせたのだ。

その詔勅には曹字一派を免官させる旨も書かれてあった。さらに二人は曹叡の寝室まわりの通路をブロック、一派が近づけないように計らった。

その後、詔勅を公開、曹字・曹筆・秦郎・夏貢献の免官と郷里への即時帰国を言い渡したのである。

一方、二人は曹爽を宮殿に呼び寄せ、曹叡に謁見させた。曹爽は大役を受ける緊張から萎縮した様子を見せたが、劉放はすかさず曹爽の足を踏みつけた。

先に言い含めた如く「お受けなされ」と促し、ようやく後見人問題は決着をみたのである。かくして司馬懿を召し出す伝令が走ることになった。


正月。詔をいただき、司馬懿が洛陽に到着した。

これより先、曹叡は「西方の関中の情勢が不穏につき都に立ち寄らず向かうように」との詔書を司馬懿宛てに送っていた。曹字一派が進言し、そのような詔書をしたためさせたのだ。それが「直ぐに参内せよ」との詔書に変わった。「何かある」司馬懿は馬を走らせ、予定より早く到着したのだ。

曹叡は郭皇后、太子の斉王・(そう)(ほう)、大将軍となった曹爽(そうそう)や孫資、劉放らを枕元に呼び、司馬懿の手を取った。

「もう会えぬと思っていたが、このまま死んでは死にきれぬと待っていた。後事を託したい。曹爽と共にこの幼い太子を補佐して盛り立ててくれ。こうしておぬしと会えたからにはもはや思い残す事はない。」と曹芳を傍に呼ぶ。

司馬(しば)(ちゅう)(たつ)のことをワシと同じく敬うように。」と諭した。曹芳はそのまま司馬懿に抱き着いたまま離れなかった。

「この子を見守り、間違いないようにしてくれ。」と太子を指差したまま曹叡はこと切れた。司馬懿はひれ伏し、涙に(むせ)た。嘉福殿にて崩御。齢三十六歳、位にあること十三年の皇帝の最後だった。曹叡は明帝との称号を贈られた。


これらの知らせは何晏宅にも届けられた。何晏は曹爽と親しくしていたからである。

曹叡の事はあれだけ悪口を言ってたにも拘わらず、その死を深く悼んだ。

ただ、秦郎の免官のニュースには小躍りして喜んだ。何晏と秦郎、二人は同じく曹操の妾の連れ子でありながら共に養子として育つという、境遇が同じライバルだった。無能で媚びへつらう事で明帝に愛された秦郎、才能はあるが中味がないと遠ざけられた何晏。二人の人生が逆転したのだ。

「これは運が巡って来そうだ。」トシは聞かなくてもいい話に付き合わされる事になりそうだった。

難升米が帰国の旅立ちの後、トシは、将来、帯方郡で韓半島・倭国を担当する事になるであろう若い官吏に倭語を教えながら、魏の政治体制や文化を学んでいた。

ヒマな時は何晏宅に行き、書籍をめくるのを楽しみにしている。


その日も何晏宅に立ち寄ると、顔見知りになった門番が「この頃は連日お出かけで忙しくしておられます。何か若返ったようにキビキビされて別人かと思いますよ。」と話かけてくる。

いつものように書庫に行くと、一人の男の子、年の頃十一―二才が熱心に書物を読み耽っている。少年の目の前の書籍が閉じられ、一段落したようなので話かけてみることにした。

「よく来るの?」

「はい、一週間前から毎日数時間、ここで勉強する事にしました。」「名前は?」「(おう)(ひつ)と言います」

「何を読んでいるの?」

「私は老子が好きなのですが、孔子は官吏になって出世する為には必須項目ですから、孔子を読んでいます。ここの何晏先生は孔子の専門家で蔵書が揃っていますから。」

「若いのに偉いねえ。でも孔子は難しくない?」少年は何を聞いているんだという目付きになった。

「あのー。あなたに時間があるなら、この書籍を全部覚えられたか確認したいのですけど、手伝ってもらえますか?」

王弼が暗誦し、トシが本を見ながら間違いをチェックする。ところがビックリ。間違える事無くスラスラ・・というよりトシが目で追う以上のスピードで暗誦するのだ。

「もっとゆっくり言葉を出してもらいたい。」と頼むと「それなら結構です。」と言い捨てる。

「スゴイね。今迄は全部正解だったよ。この本何回読んだの?」

「今、初めてですよ。」面倒臭そうに答えた。スゴク可愛げの無い奴だ。だが、この子の頭の構造はどうなっているのだ?

呆気に取られている時、何晏がヒョッコリ顔を出した。パリッとした身なりはこれまでの先生とは大違い。「おや、トシ。来てたのか。王弼も熱心だな。そうだ、トシに話があるんだ。」と別室に誘われた。

「やはり、運が巡って来た。ようやく俺が持つべき、本来の官位を貰えそうだ.」おめでとうございますと応じると、払子(ほっす)を振り振り喋りだす。

「それでな。任官採用の権限を持つ事になりそうだ。人事責任者に。」ニンマリ笑った。

「お前は登竜門という言葉を存じておるかな?黄河上流にある滝を、鯉が逆登る事が出来ると龍に化身するという。ワシはその登竜門になるのだ。・・言いたい事が判るかな。即ち、ワシに認められると立身出世が約束されたも同然なのだ。フォーホッホ。」

「はあ。」

「トシ。中国は懐が大きい国だ。優秀な者は異国の者でも官僚として取り立てる。お前、この魏で仕事をして、中国の全てを学ぼうという気持ちはないか?この何晏という登竜門をくぐってみんかな?」トシに魏の官僚になれと勧めているのだ。

「とんでもない。私は倭国の外交団の一員です。明帝が下賜された品々が整い次第、持ち帰る役目がありますので・・」

「そんな事はワシが掛け合えば何とでもなる。挑戦する気にならんかのう。」

トシは先の少年の頭脳に度肝を抜かれたばかり。あのような人材が中国にはおそらくゴロゴロしているのだ。その中で揉まれるなど、とても出来そうにない。ここは笑いで誤魔化すしかない。

「冗談にでもお誘いいただき光栄で御座います。学びたい気持ちはありますが、それは中国の文化を倭国に持ち帰って役立たせたいからです。こちらで仕事など思いもよらぬ事。それに、そんな実力は持ち合わせておりません・・ご勘弁下さい。」というのが精一杯だった。

「ただ、何晏先生にお願いしたい件があります。」

倭国にはない公共事業の技術を学びたい事を伝え、協力を依頼した。また、難升米から与えられた宿題、中央集権に関する情報を得たいとの要望を申し出、アドバイスを求めた。

「おう、それなら管轄の役所を紹介しよう。工事現場を実際に見て学ぶが良かろう。それから中央集権に関しては秦帝国や前漢あたりの歴史書を見る事だな。例えば、司馬遷の史記を見るがいい。」

それを聞いて図書室に赴き、史記を探した。全百三十巻の大著である。早速、数巻を借り受け、帰ることにした。

その帰り。トシは倭国にもあの少年のような頭脳を持つ者が何処かに隠れているのでは?と思った。

倭国統一がなれば全国の優秀な人材を発掘する制度を作らねばならない。

たとえ、それで育った彼らが、自分を追い越し、自分がはじかれることになっても・・。対外勢力と伍して行くには軍事力のみならず学問や文化・技術の面も強化していかねばならないだろう。


その後、何晏の口利きで担当官を紹介してもらい、洛陽周辺の工事現場を見学したり、歴史書を読み漁って、日々を過ごした。歴史書を読むと、中央集権に関するヒントが得られた。特に、高祖劉邦の手で漢帝国が成立した以降の統治過程は興味をそそられた。


漢は秦のガチガチの中央集権に抗した勢力を結集して政権を奪取した国家である。秦打倒に協力した諸侯や、功績を挙げた重臣達に領土を与え、秦とは異なるゆるやかな支配体制でスタートしたハズ。それが何時の間にか劉一族による中央集権に変貌していったのは何故か?どこに秘密があるのか?

漢王朝が、手掛けたのは建国にあたっての中枢で活躍した側近や功臣達の粛清。まずは、将軍職や参謀としてヤリ手だった韓信がターゲットになった。

韓信は謀反の嫌疑をかけられ、先人の諺を引用して「狡兎死して走狗煮られる。」と憤慨した。獲物のウサギを獲りつくせば、頑張ったはずの猟犬は、もはや不要、簡単に捨てられるとの例えだ。それ以降、理由を見つけては功臣達を次々に殺して、後には劉一族を王にあてたのである。

更に諸侯の領土の分割も狙った。相続が発生すれば長兄だけでなく弟達にも分け与えて国を細分化していく。世代が代われば、親族同士、お互いがライバルになる関係ができるよう、誘導する。結果的に帝国の基盤が固まり、対抗出来るだけの大国がなくなるように仕向けた巧妙な政策だった。このやり方は、倭国を中央集権化するにあたっても、使えると思えた。

中国の歴史書は面白い。特に、歴史家、司馬遷は同じ漢の世を生きながら、劉王家のスキャンダルを、臆することなく記録する、漢王朝の視点・視線より、事実を大切にするのだ。

例えば高祖の妻呂太后。高祖が亡くなるや、かねてから因縁関係のある高祖の愛妾、戚夫人を抹殺する。それも、手足を切断するだけでなく、眼も耳も声も潰して便所に置き、「人豚」と呼ばせたというからオソロシイ。夫を皇帝にのしあげたヤリ手の女傑でもあったが、実権を握るとえげつない悪女と変貌した。自ら後見をしていた幼い皇帝も暗殺、その悪魔の所業は枚挙にいとまがない。それを漢代に書き記す度胸は、素晴らしいとしか言いようがない。


かくして、月日が過ぎ、トシに帰国の時が迫ってきた。もうすぐ明帝崩御から一年。喪があけると、新皇帝曹芳の即位を、改めてお披露目するお祝いのパレードが行われる。それに参列した後、洛陽をたち、帯方郡経由で倭国に戻る段取りになった。

帰国を前に、その準備を済ませておかねばならない。何晏殿と阮籍先生には挨拶に伺う必要がある。が、何晏は人事責任者になってからというもの、忙しくて顔を合わせる事も少なく、ましてや話を交わす事も稀であった。面会のアポと取らねばなるまい・・。それから阮籍先生・・。そういえば先生に勧められていた、白馬寺に行きそびれていた。・・のを思い出す。

何晏宅に行くと、表門にはいつものように行列ができていた。猟官の為、何晏に取入ろうとの考えを持って、手土産とみられる包みを持った人たちの群れ・・。

権限を持つと、蜜に集まるアリのように、人々がそこに行列する。列の順番を巡っていさかいも起こって騒がしいことこのうえない。

そこで裏門の門番に面会のアポを依頼した。そこにも何やら運び込まれた荷物が積まれている。

「人の世はゲンキンなもの。もう倉庫も一杯になってね。権力のもつ凄さ、いや有難さがよくわかるよ。」と、ニッと笑った。以前の、来客も少なく手持無沙汰だった頃が懐かしいねえ・・・。

さあ、お次は白馬寺だ。

どう行けば良いものか・・と歩き始めた向うに、見知った顔がやってくる。例の古物商で出会った男、孫だった。

行き先を告げると「仏教寺の白馬寺だな。俺が連れてってやるよ。詳しいんだ。仏教は。」と言う。案内役が現れるとは渡りに船だった。


白馬寺に向かう途中休憩の時。詳しいという孫に、仏教に関する事前知識を仕入れておく事にした。

「仏教は天竺インドに渡った老子が、シャカという化身になって始めた教えと聞いたが・・」少しは、知ってる所を見せようと切り出した。

「それは違うね。」とあっさり否定される。

孫によると祖はシャカ、ゴウタマ・シッダルタという男。元々シャカ族の王子だった。妻もおり子供もいた。シャカは後継となる息子が生まれたことから、王子として最低限の義務を果たしたとして、念願だったバラモン教に出家し修行の旅にでる。世知辛い現世を生きるのがイヤで、この世の真理を探究しようとしたわけだ。結果、悟りを開くと、その教えを乞う信者が多く現われて、仏教が誕生した・・という。いまから六百年以上前、紀元前、紀元前五、六世紀頃の話と言う。

倭国では王子が国を捨て、家族を捨て旅に出るなど考えられない事だ。天竺ではそうした事例が多くあった・・とはいえだ。おまけにその後、シャカ族は他国に滅ぼされたというから、そんな人物の教えが広く受け入れられるというのが不思議千万である。


再び歩く事しばし、ようやく白馬寺が見えてきた。北に邙山(ぼうざん)、南に洛川が流れる広大な敷地に伽藍がのぞき見える。大木がそびえ、静寂につつまれた参道の先に朱塗りの山門が待ち受けていた。金剛崖寺と号してある。

後漢時代、今から百七十年前に建立されたもので、当時の皇帝が使いを出し、天竺から修行僧と共に、経典、仏像を白馬に積んで持ち帰ったことから、通称を白馬寺というらしい。魏の時代になっても一部の知識人の庇護を受けて寺は存続していた。曹操の息子で後継候補とも言われた曹植も援助者の一人であるという・・。

山門の入口から、御影石造りのトンネル状の石壁を抜けると、お堂や石塔が建ち並ぶ境内となる。その一つ、大仏殿には倭人とも中国人とも思えぬ彫りの深い人物像がシャカ仏像として安置されていた。孫が「ギリシャ彫刻のようだな。フウム。」と眺めている。

トシの目からも、この人物が老子とは思えなかった。孫が言うようにシャカというのは天竺という異国の人間に間違いないのだろう。

丁度、その時、法衣を(まと)った僧が歩み寄ってきた。自己紹介をおこない「評判を聞いて訪問させていただきました。」と挨拶をする。

「ほう。倭人の方ですか。仏教は良い教えでござるよ。ゆっくり、見て廻られるがよかろう。」僧が、応じてきたので仏教、とはどのような教えか聞いてみることにした。

「諸行無常。一切は(くう)であるとの実相真理を理解し、悟りを得ることですな。」空?またもや難しい単語がでてくる・・。

「空をわかりやすく説明するのは難しいのですが、まあ、水中の月の如し・・とでもいいますかな・・。」

(そら)の月ではなくて?」トシが川面に映る月を想像しながらキョトンとする。

「いかにも。空の月を知らない者にとっては、水中の月が月でございましょう。」と説明した。ウーム。難しい話のようだ。

僧は、荘子の有名な一文を引用した。荘子が蝶になった夢を見た。覚めた後、自分が蝶になったのか、それとも蝶が自分になったのか判らなくなった・・という例え話である。実体があると思っていても、見方を変えればその実体の存在の確実性があやしくなる・・ということか?

「現世で実体あると思われるものも、全て仮の姿。皆、空でござるよ。ハハハ」僧が破顔一笑した。

なおもキョトンとしていると「仏の教えは一日にして会得できるものではござらぬ。入門されるのであれば喜んでうけいれますぞ。倭人の方も、今度来られる時は数年の修行をお覚悟して参られるのが良かろう。」と言い残して立ち去って行った。

ちなみに、倭人が修行の為にこの地を訪れる事になるのは、六百年近く後、804年に空海が唐に渡った時であった。


「やっぱりわからん。空とか無常とかを理解して豊作祈願になるというのか?」

倭国の宗教といえるのはヒミコ様を頂点とする神道である。倭人のトシには人として神の御意思に沿った生き方をするのが神の教えであり、神を信じる者は神に守られる・・それが宗教であると素朴に理解してきた。

このお寺の教えは、そうしたものと異なるものであるようだ。

「仏教は一種の哲学とも言えるからな・・。」孫が解説を始めた。

ローマに先立つ文化にギリシャ有り。そのギリシャ哲学の中にも空の概念があるという。世界はそれ以上細かく出来ぬ単位、見る事もできぬ原子(素粒子から成り立っていて、今存在する実体も原子のカタマリ)いずれ原子に戻ることになる。仏教は宗教の観点から、ギリシャ哲学・原子論は科学の観点から「空」を哲学しているのだという。

しかし、トシには「空」を理解するイミがピンと来なかった。たとえそれが真実だとしても、それを知ってどうなるのだ?・・ただ倭人がこれまで考えもしなかった考え方が他の大国、天竺やギリシャ・ローマにはあると知ったのは驚きだった。

世界は倭国と韓半島、中国しかないと思っていたが、世界はもっと、もっとはるかに大きいのだ。

関心をもっても実利はなさそうな事に、この男、孫が関心を抱いている事も不思議だ。こやつ、意外とたいした奴なのかもしれない・・。それと共にチクシの話も思い出された。気のエネルギーとか言ってたやつ。先ほどの空の話と関連するのかも・・。


「所詮、現世は空なのだからと、欲を貪る事の無意味さを知り、克服する事の喜びを教えた。・・それが仏教だな。」孫が説明を続けた。

「もっとも、シャカは修行により、欲を封じる事を成し遂げただけさ。生活に追われて修行出来ない人々にとっては救いにならない教えであるのが欠点だな。弟子たちの中にはシャカの教えにあやかるだけで救われる・・と民衆向けに広めて始めてはいるが、基本的には哲学を楽しめる特権階層の為の教えでしかない。自分だけ、自滅の連鎖の流から抜け出せたとして、人類全体の動きを止める事は出来ないだろう。」

ウーン。これ以上説明を聞いても、頭に入りそうにない。話題を変えるか。

「孫は博識だなあ。見直したよ。なんでそんなに宗教や哲学に興味をもつんだ?」ほめるでもなく感想を述べると孫が答えた。

「人間は自滅に向かってひたはしる動物ではないのか。そして、それを回避する手段を手にできるかどうか?・・それが俺の研究テーマだからな。」

「えっ。自滅?」

「ま、それは数千年先のことだろうがな。」

数千年?この男、自分が生きても居ないハズの未来を考えているのか。一体、何の為に考える?


孫は、人間とは己が自滅に向かって進んでいる事を、昔から予感しつづけている動物だという。それは人間が知恵を持っているからだ。

人間が知恵を持ち、それを進化させていく過程で、己の知恵の悪しき部分(悪知恵)が悪魔的である事に気が付く。他の動物と違い自分の欲の為に無制限に他を利用する。其の習性は同類の人間にも及び、利用するばかりか、(おとしい)れ、抹殺することも厭わぬ行動に連なる。そして、自らを豊かにする善き知恵を上回るスピードで、いつのまにか悪知恵は増殖する。また、善き知恵はいつの間にか、いとも簡単に悪知恵に転化するものだ。

その結果、人類は自らを育んでくれたハズの大自然を破壊、人間同士の戦いは集団が大きくなるにつれ大量虐殺モードになり、それがだんだんエスカレートしていく事になる。

他の動物が自然環境の変化により滅亡するに対し、人類はそれ以前に己の悪知恵に滅んで行く。そうした「醜い将来」が現実になる事を予想したのだ。だからこそ、自分達を戒め、予想される滅亡を回避する為に、宗教、神の概念を作り、思想家、哲学者も人間のあるべき姿に言及してきた。

ところがその目論見は上手く行っているとは言い難い。

孔子ら儒者の説く人倫は有名無実化。権力に組み込まれた支配の道具に成り下がっている。

ローマの民主主義。実質的に市民による選挙で選ばれる皇帝制度は、従来の王による支配と異なり、ナンバーワンの指導者の叡智に未来を託すという新しい統治システム。その者が良い世界に導く力があれば良し、不安な世界を作り出すならば、皇帝を殺すか、新たな皇帝を選出して交替させる・・との発想から来たものだ。

ところが現実の皇帝は、叡智の政治とは程遠いもの。選挙民への人気取りで政権を維持するだけ。前にも話したが帝国の基盤にも翳りが見え、人心は荒廃してきている。政治や将来に希望が持てず、最近流行の宗教に、人生の救いを求める者が急増しているそうだ。

「それは仏教なのですか?」


「いや、キリスト教という奴だ。」

世界には、まだ新しい宗教があるのか。ややウンザリしながら、トシは再び孫の講義を受ける羽目に陥った。

キリスト教はユダヤ教をベースに二百年前に始まった新興宗教。神の前の平等を謳って、虐げられている民衆を中心に信徒を増やしてきた。

「隣人愛」を唱え、慈悲の心を大切にするから自滅回避の宗教としては有力なんだが、問題は一神教である事・・と孫は指摘した。

他の宗教や神にたいして攻撃的で、排除しようとするところ。信仰の自由を原則とするローマ帝国にとって、様々な神をいだく帝国諸国の和を乱しかねない。下層階級の反乱を招きかねない点も、招かれざる新興宗教としてマークされ、弾圧の対象になっている。

「もっとも、キリスト教のいわんとする内容は人倫にとって良い事なので上流階級のなかでも心情的なシンパはいるみたいだ。中にはキリスト教を取り込めばローマ帝国の武器になると考える策謀家もいる。異教徒から守るといえば帝国の防衛で人心をまとめる事が出来るし、他国の異教徒を邪宗から救う・・との名目で他国に進攻すれば新たな植民地を手に出来るしね。一神教は道具として、使い方次第という訳だ。」

またキリスト教の、人間を他の動物より上位に置く発想は、人間は何をしてもいい、自然を破壊してもそれに合理的理由付けをすれば許される・・というギリシャ・ローマの考え方に合う。仏教や自然との共生を根幹にしているアニミズムはローマには根付かない。キリスト教は受け入れ可能な宗教だとも語った。


孫はなおも独り言のように話を続けた。

「実は人類は既に一度、自滅している。いやそのような昔話が残っている。ギリシャの伝説に傲慢な人間の振舞に怒った神がアトランティス大陸を海に沈めた。ユダヤ教には神が大洪水で人間を戒めた・・とある。既にイエローカードをもらっているのに、レッドカード欲しさに同じ過ちを繰り返すのだろうか?欲や思い上がりにつけるクスリはないのかな?」

「自滅回避システムだった思想や宗教さえ利己的な目的達成の道具に変質させる狡猾さ・・ん?お前、聞いてないな。」

トシが浮かぬ顔で黙っているのを見て喋るのをやめた孫。やめてくれて有りがたかった。もう頭は飽和状態なのだから。

トシにとってこれらの話は初めて聞く話で、消化するのが困難だった。理解できたのは、とにかく世界は広い。様々な国、宗教、思想、文化、考え方があると言う事だけだ。自分の知らない事が世界に満ち満ちている。

孫は自滅という奇妙な言葉を使って、それらの否定的側面を提示しているが、問題は倭国にとって何を取り入れ国の根幹に据えるかだ。民主主義というのも面白そうだし、仏教も深く知れば何か役にたつかもしれない。今、学んでいる儒教だって、倭国の国づくりには有益な筈だ。

「シャカの書いた書物はないのだろうか。」あれば帰国してゆっくり理解を深める事ができるかもしれない。

「経典は寺で何年も修行しないと理解は難しいだろうな。それに第一、シャカのしるした経典自体もない。いまある経典は全部、弟子が書いたものだからな。」

「エッ」

「何も驚く事はない。キリスト教の書物もキリストは残してないし、儒教の孔子だって自身が書いたのは殆どない。自身で一杯、書き残す奴は、後世に残る偉人にはなれないってことだ。お前も教祖になりたかったら書き残すんじゃないぞ。神格化してくれる弟子を競わせて、あれこれ書かせりゃいいんだ。」

そう言えば孔子の本は、子曰く(先生が言われた)で始まる。しかし、孫の話はいつもナナメに見た言い方だ・・。


「ところで、女王国の宗教は何なのだ?神はいるのか?自滅回避の秘策はあるのか?」孫が聞いて来た。

また、人類自滅の論議の戻るのかと鬱陶しくなった。

「そんな自滅回避システムなんて・・考えてもラチ明かないんじゃないのかな?」

トシは思う。確かに人間は他を否定的に扱う事もある。自分だって一大率に入るまでは、イジメられたりで疎外感を味わい、人間不信に陥っていた過去もあるのだ。いや、チクシに会うまでと言った方がいいかも知れない。

チクシは自分の中に悪がある事を認めた上で、それと戦う事を主張していた。先輩も「あいつは自分を目的とせず手段として考えている。」と評価していた。自分もチクシに会って、こんな面白い人間がいるのだ・・そして、そう思う事で自分が変わって行ったという事実。他人から得たもので、人が生きる価値を見出すのなら、自分本位だけではない生き方が出来るハズ。

「人間は一人で生きられない社会的動物なんだから、基本はヒトとの出会いじゃないかな。いい出会いがあれば、それが拠り(よりどころ)になって、最終的に自らの悪なるものに打ち克つ事が出来るのではないか。であれば、自滅を回避出来るのではないか?」とチクシの話を交えて反論した。

「そんな個人的な話は反論にならん。いかに人類が種として自滅を・・」孫がバカにした目でトシを一瞥したが「俺は文化人類学者として、女王国の宗教を聞いているのだから答えてくれ。」とうながした。

「神道だから神は八百万(やおよろず)の神がおられる。山、海、川、各村落の守り神、食料の神などなど。中で頂点におられるのがヒミコ様の太陽神だ。皆がそれぞれの神を敬い、悪い行いをしないよう自分達を戒めている。」

「ああ、アニミズムの国か。だが、クレオパトラと同じ太陽神が頂点というのは面白い。」孫の眼がキラリと光る。

またクレオパトラか。美人談議になってはかなわない。


「倭国はたいしたものだな。女王を擁立(ようりつ)したり、お前もチクシとかいう小娘に影響をうけている。男尊女卑の世界にあって女性上位とは。中国でもローマでも仏教もキリスト教も女性を下位に見下しているのに、倭国で女性が政権を担うとは驚きだ。」

「それは買い被りだ。ヒミコ様は巫女として国の祭礼をつかさどっておられる。政治は別に男の高官達が取り仕切っている。判断が付かない時など、ヒミコ様にお伺いをたてたり、国同士で調整がつかない時には調停役になられるだけだ。」

「なんだ、そうか。ウーン残念。しかし、国のシンボルというのは大したものじゃないか。」いろんな文化に接している孫から言われると、悪い気はしなかった。

「女性には男性とは違ったパワーがあるからな。それを尊重しているってことかな」

答えながら、ついチクシの顔が浮かんだ。いや、さっきから浮かんでいた。俺なんか、チクシのパワーでこの洛陽にこれたようなもんだ・・と思った。そのチクシとももうすぐ会える。倭国、一大率が懐かしく思い起こされた。

「やっぱり倭国に行かなきゃナア。クレオパトラを見なきゃ」

なんだ、孫は。結局そこにいくのか、難しい話を延々した割に・・・。


次の日、阮籍先生に会って、夕方にはアポをとった何晏宅に行くスケジュールを組んだ。

阮籍の屋敷に向かって歩いていると、門から狂ったような形相の男二人が、ころぶように出てきた。目が定まっていないので、危うくトシにぶつかりそうになる。

「おう、これは失礼。あんた、あの家に行くのか?やめた方がいい。奴は鬼だ、妖怪だ。」

もう一人の男が「何晏殿への紹介状を頼んだだけなのに。」「お礼の金塊が少なかったのかな?奮発したつもりなのに・・。」ブツブツ言いながら逃げるように立ち去った。


玄関に入って声を掛けると「お前ら!許さん!。まだいるのか!」と怒鳴りながらドタドタと現れる妖怪。

大きな目がすべて白、白、白眼の妖怪・・ならぬ阮籍先生だ。見た!これが「白眼視(はくがんし)」の語源となった先生の姿だ。

トシを認めて「やあ、君か。スマン、スマン。上がってくれ。」と言った時には、先とは別人の、端整な顔立ちに変わっていた。

帰国の挨拶をすると「堅い挨拶は抜きだ。」と座る間もなく酒を勧められた。酔いが進むと阮籍の琴が始まる。その眼は「青眼(せいがん)」そのものだ。

話題がトシの洛陽での出来事に移り、白馬寺、仏教の難しい教義・・そして何晏との出会いになると、途端に先程の件を思い返したのか、目が厳しく、いや悲しみが浮かんだ。

「人間、浅ましいものよ。司馬懿が勢力を拡大すると聞けば、司馬一族にすり寄り、何晏殿が人事を握れば、金を積んで紹介を依頼する。自分の利益になる事ばかり、クンクン嗅ぎまわっておるとは・・・。志なく、金と権力の亡者に成り下がっては、生きる意味が無かろう。」

阮籍は司馬一族の司馬昭と友人関係にある。何晏とも知己であるため、その亡者達が政権の風向きが変わるたびに訪れることになるみたいだった。

帰りしな、阮籍は奥から酒瓶を持って来た。

「とっておきの老酒(らおちゅう)だ。荷物になって申し訳ないが、徐に渡してくれ。これを俺と思って清談してくれないかと伝えて欲しい。」


洛陽市街に戻って何晏宅に立ち寄った。久々に通された何晏の書斎には、うずたかく荷物類が積み上げられ、手狭になった感がある。何晏が入ってきて「ああ、お前とも別れの時が来たのか。」と抱擁を求めてきた。

「お世話になりました。何晏先生は私の洛陽における父です。いい思い出を有難うございました。」トシの外交辞令も少しは上達したようだ。

だがそれだけではない。何晏のおかげで良い経験と勉強をさせて貰ったのは紛れもない事実であった。

「お前と会ってから、ワシの運気が急上昇。お礼を言わねばならんのはこっちの方だ。役職もさることながら、ワシの著作が人気でな。ベストセラーになっとる。ようやくワシの考え方が世間に認められてきたのだ。フォッフォッホ・・」

それは違うと思った。人事の責任者だから、猟官を考える求職者が何晏の著作集を読み漁り、オベンチャラを言おうとしているだけなのだろうが、まあ、今はイヤミな事を言う場ではない。

「お前はワシに幸運をもたらした者に間違いない。餞別を渡さなければならないな。」上機嫌の何晏は傍にある包みを取り上げた。中には金塊が入っている。

「これは・・。」おそらくこれは何晏宅を訪れる猟官者の貢物に違いない。

「これはお前に渡すにふさわしくないな。失礼、失礼。」

トシが逡巡しているのを見て、何晏は奥に引っ込んだかと思う間もなく、古い布切れでくるんだ包みを差し出した。

「これは俺が無役の時に蓄えたものだ。これなら貰ってくれるよな。倭国に帰る土産でも買ってくれ。金に区別の色は付いていないが、気持ちの問題だな。」先の包みにあるものと同じまばゆい品が入っていた。

「金に困ってはいないんだが、付き合い上受け取らねばならぬものもあるんでな。」

夕食を御馳走になり、別れの時「俺も年だからな。また、会えるかどうか。また、倭国の使いとして洛陽に来てくれ。」名残惜しい時空が流れた。


倭国に持ち帰る土産類も手当済みとなり、皇帝曹芳のお披露目パレードの日になった。即位式の式典に倭国代表代理として出席したトシは、パレードを待つ街頭の来賓用桟敷席(さじきせき)に居た。

中国のパレードは派手の一言に尽きる。賑やかな楽隊行進に始まり、駱駝(らくだ)や像など異国の動物が続き、軽業師の踊りやパフォーマンス、火を吐き出す大男、数々の大道芸人が見物人の眼を惹きつける。ついで正装の高官達。最後に、ものものしい武官の列に囲まれて皇帝の馬車が近付いてくる。みせる儀式。一般市民、国内の支配階層だけでなく、外国の外交団、全員に皇帝の権威を見せ付けている。


即位パレードが終るといよいよ帰国。鴻臚卿の見送りを受けて、明帝の下賜品と共に洛陽を出発した。めざすはチクシの待つ倭国。凍てつく寒さの洛陽だったが、心はなぜか暖かく、チクシが自分のことを何と言ってくれるのかと、浮わついた気分が心地よかった。



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