黄昏の遊園地
とある閑静な住宅街の中を、少年が一人、夕日に照らされながら歩いていた。塾帰りの彼は学業に残してきたかすかな憂鬱感と、今日の義務を終えたことへの僅かな開放感を胸に抱いて、とぼとぼと道路脇を進んでいた。
ああ、今日はどうして先生に当てられた時、うまく答えられなかったのだろう――彼の心の内を取り巻くのは、そんな後悔の念であった。あのときこうしていれば……なんて都合のいい妄想に浸りながら、交差点を右に曲がる。いっそのこと、明日は台風が来て、学校も塾もなくなってしまえばいいのに。
道路の向かいに駄菓子屋が見える。吸い寄せられるように少年は駄菓子屋に入ると、それまでの不穏な考えを打ち消して商品の前で悩み始めた。今日はしょっぱい気分だから、とりあえずビッグカツ。それから一口カルパスも確定で、甘いものはどうしようか……。
いくつかの駄菓子を買い込んで、少年が店を出ると、夕日の刺すような光が目に入ってきた。思わず目を細めて、ゆっくりとまた目を開ける。黄昏時の住宅街は赤く染まりきって、普段通りだが普段通りではない様相を彼に見せていた。
不意に、少年の視界がぐらりと揺れる。気づけば、彼の目の前には一人の男が立っていた。その男は黒い燕尾服にシルクハットという格好で、異物のようにこの住宅街の中で浮いていた。顔には不気味な仮面を貼り付けており、不審がった少年が逃げようとすると音も立てずに近づいてその肩を掴んだ。少年の耳元で、男は囁く。
「ようこそ、黄昏の遊園地へ」
男は少年の正面に素早く回ると、彼の目の前でパンッと大きく手を叩いた。驚いて目を瞑った少年が次に目を開けた時……。
眩い光が少年の目に飛び込む。それは、沢山の電球の輝きであった。正面のアーチの上には「Welcome」の文字が瞬き、その奥では沢山の遊具がキラキラとした光を放っていて、中でも大きな観覧車は七色に変化しながら、花火のようにその存在を主張していた。そう、少年の目の前には遊園地が広がっていたのだ。
「ここは、黄昏の遊園地だよ」
といっても、もう夜だがね――いつの間にか少年の横に立っていた男がそう言った。
「本日は貸し切り。君はゲストだ。さあ、存分に楽しんでくるといい」
男はそう言い残すとたちまち少年の前から姿を消してしまった。残された少年は若干躊躇ったが、好奇心と光の誘惑に負けて、気づけば入り口のアーチをくぐり、遊園地へと足を踏み入れていた。
遊園地の中は、男の言う通り本当に貸し切り状態だった。少年が船のアトラクションに乗り込めば、すぐにジリリリリリという音が鳴り、船はひとりでに動き出した。少年は楽しくなって、いくつものアトラクションをそれから一人で楽しんだ。特にジェットコースターは何度も乗った。好きな席に何回乗っても、それを咎める大人はどこにもいないのだ。少年は夢中になって、貸し切り遊園地を存分に謳歌した。
幾度目かになるジェットコースターを降りた少年は、少し疲れを取ろうと近場のベンチへと向かった。が、そこには先客がいた。短く切り揃えた髪にワンピース姿の少女が、沈んだ顔をして座っていたのだ。
「君は遊ばないの?」
少年は少女に声を掛けた。どうして、この子はせっかく遊園地に来ているのに、こんな暗い顔をしているのだろう。少女は少年の問いかけに対し、ふるふると首を振った。
「ねえ君、名前は?」
なにか喋って欲しい。そう思っての質問だった。少女は唇を開くと、とても小さな声で「ミラ」と言った。
「ミラって言うんだ。僕はコウイチ。ねえミラ、どうしてそんな悲しそうな顔してるの?せっかく遊園地に来てるのに」
少年――幸一がそう尋ねると、ミラは突然泣き出した。
「どっ、どうしたんだよ……」
突然泣き出したミラに、幸一は困惑する。
「わ、私……一人でこんなところ……みんなは今も……」
「みんな?」
「うん……」
ミラはしゃくり上げながら幸一に話した。自分の故郷のこと、瓦礫と鉄に溢れた戦争の町のことを。そこに、ミラは家族や友人を残してきてしまったという。自分一人だけが黄昏の赤い空に惹かれて、この遊園地へ来てしまったと。
「だから……だから、悲しいの。こんな幸せなところにいるのは、私だけだから……」
「それって、いけないこと?」
幸一にはミラが何に悲しんでいるのか理解できなかった。だから、無邪気に、純粋に彼女に手を伸ばす。
「そうだ!」
幸一は下げていた鞄から変わり玉を取り出して、彼女の手に渡した。
「これ、舐めてる内に色が変わるんだよ。おいしいから、あげる」
ミラは幸一の勢いに押されて、不思議そうにしながらも変わり玉を口に含んだ。
「さあ行こう」
幸一はミラの手を引いて歩き出した。ミラは幸一に連れられるままに付いていった。二人の向かった先は、メリーゴーランドだ。
幸一はミラを馬車の中へエスコートすると、自分は馬の上に跨がった。馬車の中に案内された時、ミラはまた泣き出しそうになってしまった。やはり、自分はこんなきらびやかなところにいるべきではないと。幸一はそれを見て少し不満そうにしてしまう。
ジリリリリリ!
ガコンッという音がして、メリーゴーランドはゆっくりと回りだした。幸一の乗る馬も、軽快な音楽と共にふわふわと上下に動き始める。
馬車の中で、やはりミラは泣いていた。それを察したのか、段々と回転が速くなるメリーゴーランドの馬上から、幸一がミラに声を掛ける。
「見てごらん、ミラ!」
言われて、ミラはうっすらと目を開ける。涙で滲んだ視界は景色をそのまま映すことはなかったが、ぼやけて見えるミラの周りの世界は光に溢れていた。
「きれい……」
いつしか、ミラは小声でそう呟いていた。しかしそれが幸一の耳に届くことはない。彼は考えていた。もっと、もっと速く回ってくれと。いつかミラの涙が乾くように。
やがてメリーゴーランドは速度を落とし、音楽が止むと同時にその動きを止めた。ミラが馬車から降りようとすると、馬に跨がったままの幸一が言った。
「子供はさ、遊園地に来たら楽しまなきゃいけないんだ。だからきっと、君はここに連れて来られたんだよ」
ミラは幸一を見上げる。涙はもうすっかり乾いていた。
「何色だった?」
「え?」
「あめ玉」
「あ……ピンク色」
「じゃあハッピーだ」
それから二人は沢山遊んだ。片端からアトラクションを乗り回し、たった二人だけの、貸し切り遊園地を光に塗れながら存分に楽しんだ。ミラが泣くことはもうなかった。
最後に、二人は観覧車に乗り込んだ。幸一が鞄から取り出した粉ジュースを一パックずつ片手に持って、座りながら二人はそれをストローで啜った。
観覧車の窓から見える景色は絶景だった。夜の遊園地は、とてもキラキラしていて二人に時を忘れさせた。
やがて観覧車がてっぺんに上がる。二人で薄々感じていたことを、先に口にしたのは幸一だった。
「そろそろお別れだね」
「うん」
「寂しいなぁ」
「うん」
「楽しかった?」
「すごく……その、また来たい」
「そうだね」
「また、あえるかな?」
「きっと会えるよ」
「うん、きっと……」
二人はまた会おうと約束した。それからしばらくして観覧車は一番下に到着し、二人は手を繋ぎながら観覧車を降りた。
「またね」
「うん」
降りた途端、幸一の視界はまたぐらりと揺れて、気づけば彼は黄昏時の住宅街へと戻っていた。
「また……いつか……」
彼の鞄の中からは、変わり玉が一つと粉ジュースが二つ、確かに無くなっていた。
とある鉄煙が吹き荒れる町の中を、青年が一人、瓦礫を踏みしめながら歩いていた。
「……………」