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酒樽心中  作者: 兵藤晴佳
7/10

才平の教えに応える

 次の朝のことである。

 玄十郎は、夜が明ける頃から畑仕事をさせられていた。

 才平はろくに寝ていない玄十郎を叩き起こし、山奥に開かれた荒れ放題の畑に連れて行った。

 畑一面に、雑草が緑色の布団をかぶせたように生い茂っていた。

 才平は、必ず草をつまんでむしるように命じた。草を掴むことは許さなかった。玄十郎は、言われるままに従った。

 長く伸びた草を、指先だけでむしるのは大変な作業である。いかに狭い畑とはいえ、とても一日では片付くはずもなかった。

 更に、才平が命じたことがあった。

 草をむしったところに肥えたごを運び、大小便を畑に撒くことであった。

 肥たごは、抱えて運ばなければならなかった。

 夏場の大小便の臭いことときたら、半端なものではない。

 息がつまり、目にしみる。

 しかも、肥えたごは天秤棒の両端に下げて運ぶことはできなかった。

 腕を回して一つずつ抱え、指先に力を入れて運ばなければならない。

 さらに、運ぶのは山道である。

 その臭さ、重さをこらえながら坂を上っていこうとすると、腰を低く落としながら摺り足で歩くことになる。

 玄十郎は、空中に腰掛けるような姿勢で山道を歩き続けなければならなかった。

 才平はといえば、その様子を見ているわけではない。朝から昼まで寝ている。起きてくるのは、玄十郎が食事を作ったときだけだった。

 そして夕方になって起き出すと、玄十郎の仕事ぶりを確かめて呑みにいく。

 出て行った才平は、暗くなっても帰ってこなかった。玄十郎は寝てしまうしかなかった。

 一日二日は我慢できた。

 三日四日と続くと流石に疲れてくる。

 五日六日目には身体に無理が来る。

 七日八日目にはだんだん空しくなってくる。

 九日目にはとうとう怒りがこみ上げてきた。

 そして十日目。

 玄十郎の怒りは限界に達した。

 我慢できずに、才平を怒鳴りつけたのである。

「いい加減にしろ!」

 才平が、酒を飲みに山を下りようとしているときだった。

「浪人とはいえ、侍の端くれ、怠け百姓の顎で使われて、これ以上黙っていられるか!」

 才平は何も言わなかった。怒鳴り返しもしない。

 ただ、いきなり殴りかかった。

 畑仕事で疲れきった玄十郎は、逃げることができない。

 身体をのけぞらせるのが精一杯である。

 だが、才平の拳は届かなかった。

 そこでようやく才平は叫んだ。

「出て行け!」

 玄十郎は、そのまま刀を手に立ち去った。


 その夜、玄十郎はなづきの働く居酒屋にやってきた。

 座敷の畳の上に座り込んでいると、なづきが唇を一文字にきゅっと締めてやってきた。

「どこ行ってたのよ」

 なづきの問いに、玄十郎は答える気などない。ただ「酒」というばかりである。

 その注文に、なづきは応じなかった。

「ずっと長屋にいなかったじゃない、ここんところ」

 説明するのも腹立たしかった。

 自分の命がかかっているのに、百姓風情に侮られたのが悔しかった。

 不貞腐れてそっぽを向いていると、なづきは玄十郎の正面に回りこんで声を荒げる。

「来てほしかったのに!」

 あまりのしつこさに、つい怒鳴り返しそうになった玄十郎だったが、なづきの目に涙が光っているのを見て、喉まで出かかった声を呑みこんだ。

「どうしたんだ? 何があった?」

 なづきは悔しそうに唇をかみしめた。

「酔っ払いに目、つけられちゃって」

「男衆がいるだろ」

 なづきは首を振った。

「客と喧嘩したくないみたい。あたしも、この店に厄介になってる身だし……」

 そこまで話して、なづきは息を呑んだ。

「来た……」

 なづきの背後に、酒臭い息を吐きながら、大柄な客が迫っていた。

 細く白い腕を掴む。

「姉ちゃん、こっち来て酌をしてくれよ……」

 恐ろしさのためだろうか、なづきは声も出ない様子である。 

 男に腕をねじ上げられ、目で助けを求めている。

 その酒臭さと粗野な態度に、玄十郎は一人の百姓を思い出した。

 小駄良才平。

 技を教えてほしいと土下座までしたのに十日ばかりこき使われ、挙句の果てには怒鳴られて追い出された。

 あの荒れ放題の田畑、だらしなく開いた口元……。

 酒も入っていないのに、玄十郎の全身を熱いものが駆け巡った。

「手を離せ」

 何、と酔っ払いが据わった目で睨みつけた。玄十郎は座敷を下り、なづきの腕を捉えている酔っ払いの手首を掴んだ。

 酔っ払いはなづきの手を放した。

 玄十郎の手を振りほどき、殴りかかる。なづきが悲鳴をあげた。

 だが、拳は当たらなかった。

 逃げた玄十郎が身体をそらし、紙一重の差でかわしたのである。 

 丁度、肥えたごを抱えるときの、あの姿勢で。

「ええぞ、兄ちゃん!」

 店の客が冷やかす。

 酔っ払いはなおも拳を振るった。

 玄十郎は逃げる。逃げるといっても、店が狭いので、ただ後ろへ下がるしかない。

 それでも、拳は当たらない。玄十郎は、自分でも驚かずにはいられなかった。

 野次が飛んでくる。

「逃げてないでやり返せ!」

 酔っ払いはムキになって襲い掛かってくる。

 玄十郎は腰を落とし、摺り足になったまま逃げ続けた。

 なづきが立ちすくんで、玄十郎を見ていた。

 恐ろしさの余り、動くこともできないようである。

 それでいい、と玄十郎は思った。

 じりじりと下がっているうちに、背後の裏口から外へ出ることができた。そこは、狭い路地になっている。

 走って逃げられる……。

 そう思ったとき、ヨッパライはいらだたしげに懐から出刃包丁のような刃物を出した。

 玄十郎は焦った。

 刀を抜けないことはない。ここで闘っても、浪人が町人に危害を加えたことにはならないだろう。

 玄十郎は仕方なく、刀の柄に手をかけた。初めて抜く刀である。人を斬る自信などない。玄十郎はろくに刀を抜いたこともなければ、剣の稽古を受けたこともない。

 殺されるのは、玄十郎かもしれないのである。

 踊りのお囃子が聞こえてくる。表通りの方だ。

 お囃子に合わせて、高らかな歌声が聞こえてくる。美しい歌声であった。城下町のどこでも聞こえそうな、張りのある大きな声である。

 玄十郎は、その声に聞き覚えがあった。

「小駄良才平だ!」

 誰かが、店の中から叫んだ。

 裏口から、人がぞろぞろと出てくる。

 酔っ払いは急にふらつきだした。その場にばったり倒れる。

 店の中から長身の男が現れ、男を連れて行った。

 玄十郎は、その場にがっくりと膝をついた。

 歌声が近づいてくる。振り向くと、小駄良才平が玄十郎を見下ろして、にかっと笑っていた。

 そこへ突然、しがみついてくる者があった。玄十郎に抱きつくなり、わあわあ泣き出した。

 なづきであった。

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