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酒樽心中  作者: 兵藤晴佳
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才平を追う

 夜が明けても、才平はやってこなかった。

 玄十郎は待ち伏せを諦め、山道を下りた。

 眠い目をこすりこすり、里に出て田んぼの間のあぜ道を歩くと、もう起きて働く百姓たちの姿があちこちに見えた。

 玄十郎は、その一人に声をかけてみた。

 だが、才平を見なかったかという問いには、なづきから聞いたのと同じ答しか返ってこなかった。

 怠け者なので、滅多に働かないというのである。

 そこで玄十郎は試しに、田のあるところを聞いてみた。百姓は怪訝な顔をしたが、すぐに教えてくれた。

 言われたとおりに行ってみて、玄十郎はその百姓が首をかしげた訳がようやく分かった。

 田んぼは、ひどい荒れようだったのである。

 とりあえず稲は植わっているが、伸びているのは稲穂よりも犬稗の方である。

 玄十郎は呆れた。

 たいした広さの田んぼでもないのに、これはあまりにひどすぎた。怠け者にも程がある。

 しばらく呆然としていた玄十郎だったが、やがて意を決したように草鞋を脱いだ。

 稲穂を掻き分け、田んぼの中に入る。

 犬稗を全部抜いてやることにしたのである。

 思いのままに生え、伸び放題に伸びた犬稗を抜くのは、一日がかりの仕事となった。

 一睡もしていない上に真夏の陽は頭から照りつける。

 日が暮れる頃には、玄十郎も疲れ果て、あぜ道にへたり込んだ。

 百姓たちは家路についたが、玄十郎はそうはいかなかった。

 もとの山道に戻り、再び才平を待ち伏せる。

 だが、昼間の疲れはいかんともしがたく、玄十郎は刀を抱いたまま眠ってしまった。

 そして、夜も更けようとした頃である。

 高らかな歌声に、玄十郎は目を覚ました

 見れば、山道を才平がやってくる。玄十郎は息を殺し、後を追った。


 玄十郎が去った後の闇の中から、囁き声が聞こえる。

「追わなくても宜しいのですか?」

「やめておけ」

 答えたのは、あの長身の男の声だった。

「この山はあの男の庭よ」

 そういう声は、ちっとも悔しそうには聞こえない。

 むしろ、難しい手を指された将棋指しが勝負を楽しんでいるときのような物言いだった。


 足元の暗さに、何度となく石に蹴つまづいて転びながら、今度ばかりは見失うまいとむきになっているうちに、やがて才平が山奥の小さな掘っ立て小屋に入っていくのが見えた。

 玄十郎は駆け寄って戸を叩いた。返事はない。ただ、いびきが聞こえるばかりである。

 そこで、外で夜を明かすことにした玄十郎は、戸の前にどっかりと胡坐をかいた。何があっても動かないつもりである。

 だが、さすがに眠気には勝てなかった。うとうととしているうちに夜が明け、はっとして目を覚ますと、まだいびきが聞こえる。

 玄十郎はそれでも待った。日が高く昇り、昼になっても、才平は出てこない。

 やがて日が傾き、夕方になってからのことである。

 才平はやっと現れた。

 戸を開けて出てきた才平は、継ぎの当たった野良着の中に手を突っ込んであちこちぼりぼり掻きながら、眠たげに玄十郎を見下ろす。

 玄十郎は意地も見栄も捨てて平伏し、身の上を洗いざらい喋って、才平の技を授けてほしいと頼みこんだ。

 一揆で幼い頃に父を失った生い立ち。

 母の病と死。

 形見の守り袋の他には何一つ残らなかったこと。

 自分に起こった命の危険……。

 だが、才平は知らぬ顔である。何一つ答えることもなく、そのまま、ふらりと出て行ってしまった。

 玄十郎は後を追わなかった。

 そのまま横になって寝てしまうことにしたのである。

 才平が酒の臭いを漂わせて帰ってきたのは、夜中のことであった。

 小屋の戸が閉ざされる音で、玄十郎は目が覚めた。

 そのまま寝たふりをしてて待っていると、才平が起きだしてきた。

 のそのそと山奥へ歩いていくのを確かめて、玄十郎は後を追った。

 才平の居場所はすぐに知れた。

 木を打つ音が聞こえてきたので、それを頼りに探してみると、もろ肌脱いだ才平が大木を突いたり蹴ったりしているのが見えてきたのである。

 才平の力は、凄まじいものだった。

 平手で打つ。足を上げて蹴る。くるりと回って足裏で蹴る。

 身体は小さいのに、その一打ち一蹴りは、一抱えほどもある大木を揺るがせる。玄十郎は、その姿をじっと見て待った。

 しばらく経ってからのことである。

 辺りに酒の臭いを撒き散らし、汗まみれになった才平が口を開いた。

「お前、命を狙われたと言ったな」

 玄十郎は、雷にでも打たれたように、ただ「はい」とだけ答えた。

「あの店の前でワシが張り倒した男だな」

 玄十郎は再び「はい」と答えるなり、思わずふらふらと歩み寄って、膝をついた。

「殺されるような心あたりはあるかい」

 玄十郎は言い切った。

「ありません」

 そうかい、と言った才平は尋ねた。

「形見のお守りがあるんだってな」

「はい」

 才平は再び押し黙った。大木を打ち続ける。 玄十郎は、母親の形見の守り袋を取り出して眺めた。

 息を引き取る少し前に、自分の身体から離して玄十郎にしっかりと握らせてくれた守り袋である。

 美しい二羽の白鷺が、端正な姿で向かい合っている。

 貧しい捕り方の女房が持つにしては不釣合いとも思われる飾りだったが、父親も無理をして母親に贈ったのかもしれない。

 やがて口を開いた才平は、一言だけ答えた。

「捨てちまえ、そんなもん」

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