わだいがない 23
後田さんの場合
「この書類、国民のことを天才だと思って作ってるからね!高齢者にわかるわけないじゃんねー。」
広い職場で奥から響く声をつい耳が拾ってしまう。そんな台詞を聞きながら、いや、理解できない国民が多いからこの国は平和なんじゃないか。と、ぼんやり思う。口調のきつい彼女のセリフに少し、眉が上がる。しかし、彼女は優秀なのだ。私のようなしたっぱではない。
彼女の前の人は静かにただ笑っただけだった。
そんな彼の横顔を見ながら、その会話には入れない自分の立場にため息をつく。あんなふうに笑った顔を私はみたことはない。
まず、あの人の視界に入ることから始めないといけないと思うと、あまり自分には時間が残されていない気がしている。
誰もがなにかを始めることに年齢的に遅いなんてことはないとよく言うけれど、恋愛とか出産にはやっぱり早いとか遅いとかがある気がしている。
私は今、遅めなのだろうか?それとも、もう手遅れなのだろうか?
あの人の視界に入るために、目立つにしても考えものだ。たくさんのライバルがいるなかで目立つように、孔雀のような派手な服でもきるか、逆に面積の少ない服をきるか。正直なところ、どっちも持っていなければ、似合いもしないことを知っている。いっそのこと、この冷えた思考さえもなければなりふり構わずに傍にいられたら苦労はしないとは思うけれど。
仕事の内容で大きな失敗でもしようものなら、目立つどころか、迷惑をかけ、なおかつ首になってしまう。実際のところ、最初のころに既に怒鳴られている。そしてもうしばらくして、もう一度怒られている。二回も怒らせれば十分すぎる。
香水も柔軟剤も相手を振り向かせる前に、私が倒れそうだ。
髪でも切ってみようかと思いつつ、髪が長いイメージさえも持たれていなかったら、切るだけ無駄というものだ。私はため息をつく。何もないというのに、なにを話せと言うのだろう。
こんな状況のなかで、私はぼんやりと小学校時代、好きだった先生のことを思い出していた。いっぱい自分を見てほしいけれど、周りには知られたたくない。迷惑をかけないように、それでいて優秀になれる頭もなく、ただただ時間は去って行った。
「私って、成長してないのかな?同じ教師になれば、側にいられると思って免許とったけど、向こうは昔に結婚したし。」
昼休み。同じ職場内の友人に愚痴る。
「いくつよ、先生?」
「こっちが小学生の時、向こうが三十代かな?」
「結婚して、当然です。ってゆーか、よくそんな理由で免許取ったね。」
彼女が呆れたほうに言った。
「今の人も、出社日数増やせばいっぱい会えると思って出かけてきてるけど、相手はもっと忙しくて、私ら、したっぱを相手している時間も無さそうだし。相手の眼中にはなさそうだし。顔だけで目立つほどの美人でもないしなー。まず、相手のスケジュール位、知りたいんだけどなぁ。」
「そしたらぴったり、出勤を合わせるのね。ごめん、あたしにはあの人のどこがいいのか、全然わかんないんだけど。」
「んー。真面目そうなところ。」
「あたしに言わせると、年齢不詳だし、神経質っぽそうで、几帳面そうで、気が短いし、そっけないし、どこがいいの?」
友人は辛らつだ。そこが気に入っている。ついでに、顔が穏やかそうで毒を吐くようには見えない。そこも気に入っている。年上だけど、そうは見えずになぜか気が合う。
「うーん……。そーいわれてもねぇ。雰囲気?」
「そんなことでいいの?」
「じゃあ、弥生ちゃんは旦那さんのどこが良かったのよー。よくケンカしているじゃーん。」
「あの人は再婚だもん。あたしも結婚遅かったし、お互いに子供はいらないよねって理解しあったところかな?」
「理解かぁー。ダメだろうなぁ、どっちかっていうと、お前の思考は理解できないって怒られそう。ついでに、がさつは嫌いとか言って、嫌われてそうな気もするし。」
「そんなことはないんじゃ……。」
「うん、嫌われるほどの材料もあの人の記憶の中にはないだろうな。こう、一瞬でコイツは嫌い!って思われない限りは。」
「ま、忙しいからねぇ、覚えている暇はないかもね。」
「そう。でもこっちは暇がある。あの人の気が短いのは知ってるんだ。あとねー、話の腰を折られるのも嫌いだしー、自分の頭の中で会話を自己完結してたりするところもあるんだよねぇ。」
「ねぇ、ホントにどこがいいのよ?見た目?」
友人は私のセリフに呆れたように聞いてきた。
「うーん……。見た目は特にハンサムってことないよね?」
「まぁ、普通よね。」
友人はとても素直だ。
そして昼休みが終わり、仕事へと戻る。昼休み時間もずれているせいか、何が好みなのか、どこで食べているのか知らない。知っているのは好みの飲料くらいだろうか。机に乗っている同じ紅茶を見ながら、好きなんだろうなぁと勝手に推測する程度だが。
友人に言われて、やっぱり先生のことを思い出す。あの時も、あの時の友人に言われたことがある。
「どこがいいの?」
どうも自分の好みと自分が友人になる相手の好みはだいぶ、かけ離れているようだ。そしていつも的確には答えられない。
まぁ、先生はともかく、それから後も好きになる人がいても、どこがいいのと問われ、自分ではいいと思いつつも、結局ここ!というところを表現できずに終わる。
片思いだけではなく、交際にもいたるが、別れもついて回る。いつも私が振られるのだ。やっぱり、嫌われる原因は自分にあるのだろうか。
世間手的にハンサムだと言われる人に興味がないのは、昔から自覚している。ハンサムと好みは関係ない。好きなものは好きだ、ただちょっと人とずれているらしいのだが。
「だからさー!上に言ったのよ?こうしたらいいじゃんって!でも、だめだって。馬鹿じゃんって思うんだけど。」
優秀な彼の同僚の彼女の響く声をやっぱり無意識に拾い、ついそちらを見てしまう。
そして、同僚相手に微笑む彼を見て、いいなぁと思うのだが、なぜだろう。自分に向けて微笑まれたら、なんとなく恐い気がする……。最初が怒鳴り顔だったせいだろうか。それとも、何度話しかけても声のトーンが低いせいだろうか。にこやかに対応されることになんとなく恐怖を感じそうな気がしている。
まぁ、そんな日はいまのところ、いやもしかすると永遠に来ないような気もしている。
出会いにも早いとか遅いとかあるけれど、もし自分が優秀な人間だったならここにはおらず、きっと彼とも出会うまい。出会えたことは嬉しいけれど、優秀な状態で会えたならきっと有意義な会話ができたのではないかと、悩む。
かといって、いまから優秀になれば仲良くなれるという保証もなければ、優秀になる自信もまったくない。元気溌剌なきつめのセリフの優秀な彼女を見ていると、やっぱりため息をつきたくなるのは、嫉妬だろうか、それともただの妬みだろうか。
「せめて、何時に帰るのかくらい知りたいんだよねぇー。もうちょっと言うとどこに住んでいるのかも知りたいなぁ。」
帰り道、途中まで一緒の道を歩きながら友人に夢を言う。
「お願い、ストーカーはやめて。女のストーカーって珍しくはないような気はするけど、怖いから。」
「やらないわよ。向いてないから。」
そう。たとえ、帰宅時間や住んでいる場所を知っていたとしても、偶然を装ってみたり、見つからないように後をつけていくことは性格上難しいことを自分で自覚している。
「どうして、へんなところで冷めているのかしらねぇ。根性を出せば、個人情報なんか手に入るような気がしてるんだけど。」
もしかしたら、振られる原因はこれだろうか?
「データだけで人を好きにはならないからね。データに旦那の常識のなさは載ってなかった!」
友人はケンカの原因を言う。それを聞きながら、彼女にも私が優秀だったら、ここで会ってないだろうなぁと思いついた。
誰もがなにかを始めることに年齢的に遅いなんてことはないとよく言うけれど、それは恋愛に当てはまらない、友人と出会うにはそうなのかもしれない。
今更、新しい友人なんかいらないと、面倒にさえ思わなければ、自分の世界は広がっていくのだろう。
彼の目の前で微笑む日も、それどころか普通に挨拶したり、それどころか、毎日見かけられる日が来なくなるかもしれないけれど、出会えたことには文句はない。
近づけないことにため息は出るけれど、姿を見ただけで嬉しい。それだけでもいい出会いだ。もちろん、もっと知り合いにはなりたいけれど。
「あたしね。わかった。後田ちゃんに足りないもの。」
「何?良縁ならもうあるよ。」
「違う。ガツガツさよ!」
「何を言ってるのよ!怒鳴られても話しかけようって根性があるじゃん!これだけじゃ、だめ?」
「だって、あの人の視界に入ってないよ!仕事しか見てないんじゃない?後田ちゃんの好意に気づかなきゃ意味ないじゃん!」
「いや。気づかれて、拒否されたらへこむからこのままでいい。」
「そんなの恋じゃない!」
「ええええ?」
友人は今日も辛辣だ。そしてそのことに幸せをこっそり感じている自分がいた。