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後編


■17


“はじまりはおわりのはじまりであるけれども、おわりはつぎのはじまりのはじまりです。”


最終日の言葉は、これだけであった。

ひとつひとつの文字の間隔が綺麗だな、と思った。

躊躇ったような書き方ではなかった。

それが彩世を微笑ませた。

すべてを平仮名で書いているところが、彼女を和ませた。


自分がどんな状況であったとしても、昼も夜も朝も規則的にやってくる。そして、彩世以外の者にとっては、今日は冬季講習の最終日であるという以外には変わりのない一日のはじまりであった。

・・・それでも、今日で終わる。


今日の彼女は、制服ではなかった。いつも彼女が訪れる時間に、いつもの通りにやって来たけれども・・・今日はいつも通りの自分の服を着ることにした。

質素すぎると妹に苦笑混じりに言われたけれども、これが普段の彼女の姿であった。

制服とあまり変わらなかった。ほつれのない膝下のスカートも綺麗に伸ばされたブラウスの衿も着ているだけでどこか安心した。着崩すことが流行していたけれども、彼女は納得できないことについては受け入れない主義であった。

そういったものに関しては、否定はしないが肯定もしなかった。


だから、今回のことも・・・納得しようと思っていた。納得するために用意したことであった。


彼女は、その文字を見て、そっと指先でそれを撫でた。

強く押し当てたわけではないのに、文字が滲んだので、彩世は慌てて指を離した。

柔らかい芯で書かれたそれは筆書きのようで、はらいがこの上なく美しかった。これほど綺麗な文字を書く人を彩世は知らなかった。

文字は人の心を表すと言うが、それは本当のことなのだろうと思った。

自分のためだけに・・・彩世に向けられて残された言葉の命が短いことが、ただ、残念であった。しかし誰かに無造作に徒書きとして消されてしまうには忍びなかった。

だから自分で消した。

・・・これは自分が病んでいるから、そんな暴挙を平然と実行できるのかもしれないとさえ思った。

誰かに消されてしまうくらいなら、自分で抹消した方が良いと考えるのは、浅はかな独占欲であることは承知の上だった。

これまでの歴史の中で、そのような拙い欲求のために消えていったものが、どれほど多かったのだろうかと思わざるを得なかった。


前日に彩世は考え抜いて・・・結局文字を書き直した。

相手が彩世の言葉を目にするのは、今回と・・・最終日の今日だけであった。

あと二回あったが、あと二回しかなかった。

回数を数えたことはなかったが、限られた回数だけに拘るつもりはなかった。

会話に制限があることについて・・・最初はまったく考えていなかった。

けれども、あと幾回この美しい文字と言葉を見られるのだろうか、という疑問が、彩世の憤りや哀しみを縮小させた。


昨日の講義が終わったあと、彩世は声をかけることができなかった。

連れ立って、退室していく後ろ姿だけを見つめていた。

最後まで、動けなかった。自分の動きによって、彼がこちらに気がついてしまったらいけないと思ったようであった。

なぜ、自分が後ろめたいと思うのか・・・自分が誠意に反する行動をとったわけではないのに、それでも、彼女は後ろめたいと思った。

なぜなら、彼のことをずっと変わらぬ気持ちで居続けることができたのであれば、彼を非難することもできたのに。

彩世の中では・・・・憧憬しか残っていなかったのだと思うと、それが彼女を切なくさせたのだ。

自分の中でも、何かが、変わってしまっていたことに対して、受け入れられなかったから。

だから・・・慥かめてみようと思ったのだ。


受け入れるために確かめるのか、受け入れられないことを確認するために確認するのか、どちらでももう良かった。


最終日ということもあって、受講生は少し早めに入室しているようであった。彩世が一人きりでいる時間は、ほとんどなかった。

なぜなら、今日は最初の日に提出してあった、論文添削の返却日であったからだ。ここが他の受講システムと異なっているものであった。

受講生が限られており、皆が欠席しない理由がここにあった。ひとつひとつに添削を入れ、その講評を最終日に発表する。思考経路の表し方や、陳述方法、それに帰結までに限られた文字数で表現する際の注意などが説明される。

・・・この講座の進行速度が他よりも速いのはそのためであった。最終日にこのような特別授業を設けるからだ。


そのことよりも、彩世は返事を書く言葉を考える一人きりの時間がなくなってしまったことに対して憂えていた。文字を紡ぐ瞬間が零れ落ちていくかのようであった。始まりと終わりは表裏一体であるという言葉に、彼女は笑みを漏らしてしまう。

■18


いつもと同じではなかった。少なくとも彩世にとってはそうではなかった。

隣に座っていた受講生が、彩世の姿を見て、おや、という顔をしていた。彼女は気がつかないふりをしたが、それはひとりやふたりではなかった。

制服と私服の区別がつかないように、できるだけ制服に近い服装でやってきたのに、何かが・・・彩世の雰囲気が少し違っていたのだろうか。相変わらず、机の上には場所を決めて設置してある文具や辞書などが並べられており、彩世だけしか知らない文字は隠れていたので彼女がその面に集中していることは、誰も気がつかないはずであったのに。


・・・確かに、彩世は昨日までの日常で欠けているものや変更されているものがあった。でも、総量は同じであったはずなのに。

・・・それなのに、彩世には明らかに変化があったので、それを彼女自身が気づく前に周囲が気配を察知したというのは、興味深いことだ、と他人事のように思っていた彩世は、やがて・・・いつも空席であるあの場所の隣に座る受講生が入ってくるのを見かけた。

最終日で課題が少なかったせいか、どこかリラックスした表情をしていた。制服を着崩しており、それほどくたびれていない鞄を持っていた。その日の気分やコートの風合いに合せて鞄を変更しているようだった。彩世にはまったくそういった気配りや洒落っ気がなかったので、自分にはとうてい摸倣できない気質だ、と思った。

丹念に髪を解いてきちんと肌の手入れも怠っていなかった。彼の姿を探していないのは、その前の時間に彼と話をしているからなのだろうな、と思った。今になって思った。確かに、その受講生は、華やかな外見に似合わずいつも遅刻する事無しに入室していたから・・・彩世は気がつかなかったのだ。

いつも空席であったその場所の隣に座るその人が・・・彼の知り合いなのだという想像すらしていなかった。

しかし、配付資料の余部も出なかったということはその人物が彼の分まで・・・欠席した分まで受け取っていたことを意味していた。この講座は欠席者がほとんど居ないし、途中退室もない。だから、気がつかなかった。

配付資料は一列で決められた人数分小分けにされていつも配布されており、欠席者の人数を引いてから配布するということはなかった。この時に受け取れなかった者はそれ以上の権利を主張することはできなかった。

高額の授業料を払っているものの、出席した者と欠席した者と同じだけの享受できる付加価値についてはまったく認められていなかった。

・・・受験と同じだ。

自分が寝坊したとか、欠席したとかいうことに対して、容赦してもらえるほど寛容ではなかった。

公共機関の乱れや影響以外には遅参は認められていない。

だから、皆が・・・遅刻して入室してきた彼に、眉を顰めて非難の眼差しを送ったのだ。そのことに関して、彼はやむを得ない事情だと言って庇護しようとするのは、空席の隣に座って事情を聞いているあの人だけなのだろうと思った。彩世も、彼でなければ、まったく考えようとしなかった。

彼女だって、空席のままの権利放棄者に対しては無関心でいたのだから。


それまではまったく気にならなかったその他大勢の背中のひとりであったのに・・・彼女の綺麗な髪の毛が見える背中だけが、やけに光って見えた。

後ろから見る彩世からは、実際よりもずっと遠い距離に感じた。

もう、手が届かないのだろうな、と思った。


今朝、いつもの通りに自習室の前を通ったし・・・早朝コースの講義の声を流しながら彼女は廊下を渡ってきた。でも、とうとう、最終日まで彼に出会うことはなかった。

講座が始まる前は、このあたりにこの時間にいるかも知れないな、と気のない返事をしていたけれども、本当に彩世がここに居るとは彼は考えていなかったのだろうと思った。

その場を取り繕うための、優しい嘘なのだと思えなかった自分を恥じ、そして幾度も・・・彼女は彼女のために宛てられた文字を思い返していた。

苦しいけれどもそれが戀であり、恋と違うところであり・・・これをどう受け入れるかによって彩世の目の前に広がる色が違ってくると教えてくれた言葉を思い返していた。


文字に色はないのに。香りも温度もないのに、どういうわけか、その文字はあたたかく、彩世の望んだ色が付されており・・・高雅な香りさえするようであった。なぜなのだろうか。自分の縋りがそんな風に思わせるのだろうか。そんなことを思いながら・・・最後の授業の予鈴が鳴ったので、彩世は顔を上げた。

・・・気がつけば、もう室内は満席で・・・あの席だけが空席であった。また、今日も来られなかったのだろう。今自習室や空き教室に行けば、彼の姿を見つけることができるのかもしれない。

この授業を放棄して、そんな風にして他を彷徨えば、案外呆気なく彼に会えたのかも知れなかった。でも、自分は席を立たなかったのだ。

これが、彩世の選択なのだ、と実感した。

何かを放棄してまで彼の姿を求めて、行動することができなかった。

その代わりに、憤りや哀しみを美化するために、机上の文字に向かって自分を嘆く作業に没頭していたのだから。


・・・彼を責められるわけはないだろうな、と思った。

どうしようもなく彼を求めて涙を流し、もっと積極的に彼のことを大事に思っていると伝えれば、もっと違っていたのかも知れない。けれども「あの時、もしそうしていれば」という仮定は、決して実行したり、取り戻すことが出来ないのだから。

でも、恋をしていたのよ、と伝えることができなかった彩世は・・・このことだけは悔やんでいた。恋をしているのよ、ではない。過去形でしか伝えられないから、それすら悔やまれた。



■19


魔法の言葉がそこにあったわけではなかった。とても冷静で静かな音楽のような言葉が紡がれていて、自分の頭の中で復唱することによってそれらは温度を持ったような気になった。

どういう知性や気品があればこんな風に・・・静かに言葉を出すことが出来る野だろうか、と思った。


今日、最後の言葉を書く。


この言葉を消すこともとても辛く感じた。明日には「続き」はやって来ない。

終わってしまったという始まりが始まるだけであった。

この人の言う通りだった。


そして、予鈴が鳴り終わると・・・いつもの通りの授業風景が広がってきた。

彼女は習慣で、背筋を正し背もたれから身体を離した。こうして居た方が集中できた。足に力を入れて少し身体を前に寄せる。

同じくらいのタイミングで、提出用紙を持った講師の助手と、アルバイトらしき者たちが数人入ってきた。

壇上まで受講生が答案を引き取りに来ると混雑が予想されるので、受講番号だけが見えるように三つ折りにされた答案を回付すると言った。

列ごとに人数が決まっており、受講番号順に配席が決められているので問題があるとは思えなかった。

簡単な説明があった。

スキャナー付きのホワイトボードに番号順に回付されるので、自分の採点済み答案かどうかを確認すること、未提出の者は番号の読み上げはないこと、本日の受講後に採点に疑義がある者は講師質問受付簿に受講番号と名前を記載することなどの簡単な説明書きを箇条書きにして説明していた。

これだけの受講生のひとりひとりを採点するのは大変であったろうと思われたが、講師には採点専門のスタッフや補助手が居るので、まったく問題ないらしい。それでも、他の講師が行っていないことを継続して行っているというのは素晴らしいことだと思うし、これが講座の人気のひとつなのだろうな、と思った。


・・・回ってきた答案を見るまでもなかったが、他の者の答案を受け取ってはいけないと思い、彼女は自分の提出した、一度は手を離れた答案を受け取った。

きっちりと三つ折りされており、上部の受講番号と名前の欄だけが視認できるようになっていた。答案の両脇に細い実線が施されていたのは、この折りを入れるためだったのだと知った。

・・・点数は見なくてもわかっていた。

満点ではなかったが、かなりの高得点であった。


これは過去、彩世の学校の模試で出題された問題で、昨年の大学入試の際にもいくつかの学校で出題された問題であった。

けれども、解釈であったり言葉の言い回しが曖昧であるなど、小論文や論述に必要不可欠なテクニックが足りていなかったり、結論事態が違っているなどとして、目の前のホワイトボードに記された平均点はかなり低かった。

試験は満点を必要としていなかったから、合格水準点までの差点と自分に不足している強化点について考えておくように、という説明があった。


彩世は騒めく教室の中で、自分の答案を広げてみた。

この答案を提出した時の自分と、今の自分は違っていた。なるほど、ところどころ修正された部分には細かく赤字でコメントが入っていて、時間をかけて受講生の傾向を推し量ろうとしている講師の姿勢が窺えた。

最も、これらのコメント付けは皆、助手や補助者のものになるので、講師の発案ではあろうが、決して講師そのものからの言葉ではないのだとわかっていても嬉しいものであった。

世界でひとつしかない、自分だけの答案である。そしてこれ以降、受験に関して言えば、どんなに同じ問題を解いて回答したとしても一度提出してしまえば、それは決して自分の元には戻ってこないのだ。


今、もう一度問題を解いてみろと言われたら、彩世はもっと違う答えを書いているように思えた。


・・・これで最終日なのだな、と改めて感じた。

明日からは寒い朝に早起きすることもないし、制服に袖を通すこともないだろう。


受取人がいない答案は、後で講師室に受け取りに来るように掲示板に掲示している旨の説明があったが、居ない者に対するアナウンスをここで行っても仕方が無いのに、という声も聞こえてきて、彩世はなるほどな、と思った。けれどもそれが・・・本人でないから答案を代理で受け取ることはできないと断られている、空席の隣に座る彼女への説明であると思ったので、彩世は微笑むことができなかった。

答案の受け取りを託されているほど、その人物は信頼されているのだと思うと、少しばかり胸が疼いた。


・・・彩世の最後の一日が始まる。そして、この講座は終わる。

この人の言う通りだ。

始まりは終わりの始まりで、終わりは次の始まりの始まりだ。

そう思うと、この講座に来て良かったのかな、と思った。


誰にも何も相談しないで実行した。それが良かったのか悪かったのか・・・わからない。でも、コートの下に着ている制服を脱いで、今日はあの人からもらった筆記具を使わなかった。

捨てたり、持って来ないでいたりすることは、とうとうできなかったけれども、随分な進歩だと思った。

どんな結果になったとしても、あれは彼女の宝物であり、記念の品であることには変わりがないのだから。


・・・・彼女は、机上の文字をじっと見ていた。


そしてすぐに、講師が入ってきて、最後の講義を始める、と言うまで、その文字に対する返答をどうするべきか、考え続けていた。


いつもなら、冷え切った教室であったのに、今日はどういうわけか少しだけ温かいように感じた。



■20



・・・冷え切った教室には、もう誰も居なかった。

間もなく、この予備校全体の照明が落ちる。全員退室するようにアナウンスが聞こえてきた。

予備校の夜は遅い。朝も早いが、夜も遅かった。

夜間コースの生徒達がいるからだ。

現役生だけ、卒業生だけと区分けすることなく受講させることによって受講生の発奮を促す校風を重視しているので、致し方ないことではあったが、それでも予備校の一日は長いと思った。


今日は特に最終日であり、明日は全館点検日であったので誰も入館できなくなる。

だから忘れ物がないかどうか、翌朝の自習室を先取りしようとして帰りがけに自分の私物を自習室の自由席に設置していく者が居ないかどうかの見回りが入念に始まった。


そして、吐息が白くなるほど冷えた空気さえ見えない闇の教室の中で、人の気配がしたので、ぎくりとして一度だけ足を止めたが、あってはならない気配であったので、軽く首を振った。


けれども、それが気のせいではないことに気がついた。

かたり、と何かが落ちる音がしたのだ。

硬質の音だった。静かな教室に響き渡った。


・・・入り口の照明パネルに手を伸ばし、照明の電源を入れた。


「・・・・本当にいるとは思わなかった」

その人物は、声を漏らした。かなり、驚いていた。

彼女の姿を見つけて、口を噤んだ。

彩世は、寒さのために身を震わせながら、コートの中に身体を埋めて、座って居た。

彩世の顔色は青白かった。

一体、いつから待っていたのだろう。

少なくとも、受講生達がそのまま居残って騒がないようにするために不必要な場所での暖房を切ってから、相当時間経過して教室が冷え込むまで居たのだろうと思った。

「終わるまで待ちます、と伝言しました」

彼女の声は震えていた。

そして、足元に転がっている筆記具が、先ほどの音の主だと気がつくと・・・その人物は大股で通路を歩き、屈み込んでその冷たくなってしまった筆記具を取り上げた。・・・それも冷たかった。指先から自分の温度が抜けていくようだった。

彼女は機敏に立ち上がってそれを拾い上げることのできないほどに冷えてしまっているのだろうと思った。

「・・・医務室に行く?」

「いいえ」

彼女の声は固かった。

「いつからここに居たの?」

「最後の授業が終わってから、です」

かなりの時間、ここに居たことになる。相当寒かったはずだった。

彼女はその人物の顔を見て、少し笑った。

「大丈夫です。今日はそのつもりで・・・寒さ対策をしてきたんです」

それで制服ではなかったのか。その人物は納得したように頷いた。

それでも、かなりの冷え込みであったし、外はすでに真っ暗であった。

彩世が早朝のコースのみに出席しているのであれば、相当な時間をここで費やしていることになる。


その人は、拾い上げた筆記具を座って居る彼女の目の前の机上に置いた。

机の上には何も置いて居らず、書き込みされた文字は綺麗に消えていた。

その時に見えたが、机上の隅に書かれていた最後の彼女の言葉も消去されていた。


“本日、最終講座が終わった時に、教室でお待ちしております”


それが彼女の言葉だった。もっと早く最終講座が終わると思ったのだろう。それでも、彼女は来ると信じて待っていたのだ。


「本日」が「今日」であるかどうかを知っているのは、その人物と彩世だけである。しかも、その人物は彩世の言葉を消去しにここにやって来たのだから、疑いようがなかった。・・・この人が『あの人』なのだ。

彩世は唇を横に引いた。

血の気の失せた顔をしていたが、具合が悪いということではなさそうだった。


彼女の理知的な額が見えた。彩世は座ったまま、その人物を見上げた。

「あなただったのですね」

「その様子だと、予想していたようだけれども」

彩世は小さく頷いた。

「最初から、ではありません。確信は持てなかった」

彼女は呟くようにそう言った。

そしてじっとすべてが消された机の上を見て、眩しさにまだ慣れないように少し目を細めて、彼女は俯きながらもう一度、言った。

「・・・あなただったのですね」


■21


「二度目だね、あなたの筆記具を拾うのは」

そう言って笑った。

彩世はぼそぼそと小さい声で頬を染めて答える。

膝の上で拳を握り、肩を持ち上げていた。


「私は私を『あなた』と言う人を、ふたりしか知りませんでした。ひとりは『あなた』。それから・・・この机の上に文字を残して私を励ましてくれた人です」

「よく覚えていたね」

はい、と彩世は頷いた。

「もっと早く気がつけば良かった」

気がつかなくて当然だよ、とその人は言った。

「数字しか書いていなかったのだから」

そうであった。

板上に書かれた時間配分の数字や、受講番号の割り振りの数字しか見ていなかったから、気がつかなかったのだ。


『これ、あなたの大事な物でしょう?』

忘れるわけはなかった。

そう言って彼女が試験中に落としてしまった筆記具を拾ったのが、その人であったのだから。

試験中は不審な行動は慎むようにと言われていた。大事な・・・あの人から貰った筆記具をうっかり落としてしまったのだ。答案を見直している最中のことであり、書き直しがなければ、終時の合図を待ってから床を眺めればどこかにあることはわかっていたが、それでも・・・いつも一緒に傍置いていた物が手元から急に消え失せてしまったので、不安顔をしていたところに、その人が拾い上げてくれたのだ。

気がつかないように、できるだけ落ち着いているつもりだったのに。

それなのに、その人は気がついて・・・拾ってくれたのだ。そして彩世に渡した。

あなたの大事なものなのでしょう?と尋ねた。

持ち物なのでしょう?とは尋ねなかった。それがいかに大切なものなのか、瞬時に悟ったのだ。表情乏しい彩世の不安を読み取ってくれた人だった。


「どこで確信したのか聞いてもよいでしょうか」

そう尋ねられて、彩世は少し言葉に詰まった。

「答案です。・・・私の名前が修正してありました」

今日、配られた答案には受講番号と名前を記入する。その時の名前が、赤字で修正してあったのだ。しかも、彩世が今まで見詰め続けた・・・・あの、美しい文字が乗っていたので、彼女は愕然としたのだ。

「私がこの教室をその日一番に使うことを知っている人しか、この文字は書けないと思いました。今日、確認したのですけれども・・・最後の授業まで、この席には誰も座らない。後ろの席からではなく、前の席から受講生を埋めていくからです。

・・・あの講座だけが、定員ぎりぎりのために、後ろの席を使う。

そうなると、受講生がこれを書いているのではないとわかりました。でも、そうなると私の受講時間を知っていて、ここに文字を書く事ができて、自由に出入りできる人というのは限られて来る・・・」


彼女はそこでその人を見上げた。

決して会話することのなかった人物が・・・微笑んでいた。

確かに、彼女は受講生では一番に教室に入っていた。


けれども、受講生以外では、他にも居たのだ。

・・・そう、授業を準備するための助手が、居たのだ。

スライド投影のためのスクリーン設置や、サテライト通信の回線接続テストを行うために、その人物は・・・彩世が入るか入らないかの頃から、そこに出入りしていたではないか。


彩世は溜息をついた。


なぜ、気がつかなかったのだろう。

なぜ、思い出さなかったのだろう。


この人とは初対面ではなかったのだ。


「・・・僕も気がつかなかったよ。最初は」

その人はそう言って含み笑いを漏らした。


「答案を採点している時、高得点の受講生が幾人か居て、すでに解いたことのある過去問題なのだな、と思いました。その中の一人に、あなたが居て・・・名前を見てみると、僕が一度見たことのある答案の名前と同じだった」


・・・答案は講座が始まる前に提出しなければいけないものであった。彼女はその時に・・・うっかり、本名を書いてしまっていたのだ。しかし、提出した後になって気がついたものの、受講番号で管理されているこの予備校で氏名の誤記は見逃されるだろう、と思ったのだ。気がつく人物が居るとは思わなかった。それを本来の申し込んだ時の名前に修正された答案が戻って来たので・・・彼女はそれで確信したのだ。


そして、最後の文字を決めた。決して会うことはないだろうと思っていたのに。いつもと違う手順で、強引かもしれないし押し付けがましい申し出故に会ってくれないかもしれないと思ったけれども。彼女は、賭けてみることにしたのだ。

■22


「ここは人気講座なので、申し込みを代理で行うことができないように、受講番号と名前の確認は必須なので」

彼はそのように言った。

綺麗な立ち方をする人で、きちんとした格好をしていた。アルバイトと言えどもスーツを着用することになっているので、雰囲気が違っていた。

・・・それで最初は気がつかなかったのだ。


「身分を偽って受講したとなると、途中で、不正受講者として、以後受講不可になりますよ。・・・・まあ、あなたの場合にはそうであったとしてもまったく問題ないのでしょうけれども」

「私の受講しているものは、これだけです。・・・だからもう今日で終わりです」

彼はまったく怒っている様子ではなかった。最初から・・・彩世の身分を知っていたのだ。


「・・・あれは、妹の名前です」

答案で修正されていた名前は、彩世のひとつ下の妹の名前であった。彼女は彩世と同じ高校で、今年受験を控えているが、推薦入学が決まっていて、今は家でのんびりアルバイトを楽しみながら、寛いでいる。

「制服を着ていなければ、わからなかった。・・・あの日も、あなたは制服を着ていたから」

恥ずかしそうに、彼女はまた俯いた。


「・・・高得点だったのは、高校時代に一度、そして入試の時に一度、その問題を解いているからです」

彩世にとって、それは三度目であったから。

何が問われているのか、何を回答すればよいのか、わかっていたのだ。

「試験の時の要領で、自分の本名を書いてしまったわけですね」

すみません、と彩世が申し訳なさそうに言った。

「謝る必要はないですよ。学科変更の為に、大学在籍者でもここに通う者が居ないわけではないのだから」

「でも、私が受けなければ、もうひとり、別の人が受けられたはずなのです」

「そう思うからこそ、律儀に最後まで通い、予習を怠らなかったのでしょう?」


彼に出会ったのは、大学入試の時だった。

入試の時間の些細な接触であった。試験監督補助は皆若かった。

そして、試験監督は大学の助教授や講師であることが多く、補助者は大学の学生であることを知ったのは、大学に入学して、今冬のことであった。

学内で、そういったアルバイトがあるのを知ったが、その時はあの時のあの人達は皆、上級生だったのだと思っただけであった。

その彼が、なぜここに居るのか・・不思議そうな顔をしていた彩世に、彼は説明した。

「大学院進学も、卒論の提出も卒業も見通しがついて・・・僕はこの予備校でアルバイトで助手をすることになりました。今が稼ぎ時だと言っている予備校は人使いが荒くて・・・こうして朝から晩までここに入り浸っている生活を年明け少しくらいまで続けることになって、少し憂鬱でした。あなたを見つけるまでは」

彼は笑った。

彩世のかじかんだ指がまた強く握られたので、彼は申し訳なさそうに言った。

「こんな時間まで待たせてしまって申し訳ない」

「いいんです。・・・来てくれましたから」

彼女は首を振った。


彼は彩世を軽蔑しているだろうか。

高校を卒業し、大学に入った彩世と浪人してしまった彼の距離は開くばかりであった。新しい生活の話をすることもなく、彼のことを気遣って会わない努力をした。

予備校で忙しいから、と言われた。

冬季講習は、人気の講座ばかりを受講するので、彩世と会っている時間はないと言われた。

けれども・・・彼から連絡がほとんどなくなってしまったことに対して・・・・彼女は、彼の通う予備校に居れば、彼に会えるのではないのかと思ったのだ。

愚かな考えであった。

受験学年である妹の名前を騙り、選抜試験を受けた。

一度学んだことであったので、あっさりと受講許可が下りて・・・かつ進学校でもある彩世の出身校であるということが、人気講座を受講する許可証になった。

本当は、彩世が受講しなければ、希望する本当にこの講座が必要な人がひとり、受講できたのに。

彩世は特別受講枠であるので、一般の受講者の三分の一程度の受講料でよく、彼女の蓄えから出すことのできる金額の範囲内であった。その代わりに、後ろの席をあてがわれ、前の席・・・つまりもっとも文字がよく見える位置に座る者とは差をつけられる。それは仕方の無いことであったし、そのことによって・・・目の前の人物の書く文字になかなか気がつかなかった。


彩世が制服で現れたのは、彼がこの制服に・・・自分の母校の制服に気がついてくれるだろうかという期待があったからだ。私服の彩世を、彼はほとんど知らなかったから。教室内があたたまるまでの時間、どんなに寒くてもコートを着込むことがなかったのは、彼女に気がついて欲しかったからだ。・・・でも、彼はとうとう・・一度きりしか入室しなかった。そして座った先は・・・彩世の知らない世界の席であった。前の方の・・・一般枠であった。


■23


彼女が自分の学習スタイルを変更しなかったのは、それで合格していたからだった。方法を変更することで未来が変わらない立場にあったから。


「あなたが、誰かを探しているらしいというのは、すぐにわかりました。毎日欠かさずに一番にやってきて、予習はすでに終わっている。それなのに、入って来る人々の顔を見てばかりいる。誰かを、探しているのだろうな、と思いました」

彼はそう言って笑った。

男性なのに、美しい文字を書く人は、こうして近くで見ると、彩世が気後れするくらい素敵な人だった。

遠く離れた場所からでしか見ていなかったが・・・一年経過して、覚えている彼の姿よりももっと・・・大人の男性を感じた。

彼は笑った。

「見たことのある名前の答案を採点していて、筆跡に見覚えがあった。そして、名前にも。次に、どの席に座っている人だろうと思って見てみると、同じ大学に通っているはずなのに、制服を着ている。・・・そしてその人は、苦しい顔をして机に・・・僕が以前拾った筆記具を使いながら、なにやら書き込んでいる。興味を持たないでいろ、という方が無理だよ」


それで皆が居なくなる時間を見はからい、彩世の文字を見て、そしてその返事を書くようになったと言った。

その時には、気恥ずかしそうに彼は自分の髪に指を入れた。

「・・・他の人に見せたくなかったんだ」

授業が終わると、片付けを装ってすぐに読みに行き、文字を消して・・・夜、最後の見回りの時間に文字を連ねた。

彼は、種明かしをした。

誰も座っていないとわかっていたが、それでも・・・慌てていたんだ、と言った。


「・・・その人と話をしてきました。つい、先ほど」

彩世は告解めいた口調で言った。

欠席者の答案を返却するには、講師控え室の窓口で受け取らなければならない。

明日からはしばし休講であるので、貰い受けるには今日であろうと思っていたので、彩世は講師控え室の前で・・・待っていたのだ。彼が現れるのを。


彼は彩世の姿を見かけると、一瞬、ぎょっとしたように目を見開いた。けれども、隣に並んで歩いていた人物に、先に行ってくれと声をかけると・・・彩世の前に立った。そして少し話をしようと言った。


彩世にとっては、それで十分であった。答案を先に貰い受けてよいかと、彼は聞かなかったからだ。先に、彩世との問題を解決しようとした。

だから、もう、良いよ、と言ったのだ。


彼が、隣に並んで歩く彼女が不安そうな顔をしたのにこたえて、彼女の肩を、ぽんと軽く叩いた時に・・・・彩世はそれで終わったと思ったのだ。


『プラトンの言葉を知っている?“戀に肩を叩かれる”って言葉』

『プラトニックの語源だね』

そんな会話を思い出していた。


・・・・彼は彩世ではない者の肩を叩いたのだ。


一緒に過ごす時間が長くそれを共有するだけが戀ではない。


でも。彩世と彼の共有する時間はもう、更新されないのだと思った。


彩世は自分の答案を彼に差し出した。そして、彼女が取ったノートも渡した。

「これ、もう、私はいらないから。受験対策に使って」

模範解答を書き込んでおいた。それを使ってくれ、と言った。

・・・彩世がいる大学ではその問題は二度と使われることはない。

そして、彼女にはもう予習も復習も必要のない教科であった。

それは決別の言葉であった。


彼は、彼女の様子から悟ったようだった。

一言だけ言った。

「・・・ありがとう」

その言葉だけでよかった。ごめん、と言わなかった。どちらが悪い話ではない。ただ・・・彼の肩を叩き続けることができなかったのだ。他の人が、彼の肩を叩いてしまったのだ。それだけのことだ。


「だから、私の用事は終わりました」

涙も出なかった。

ああ、そうなのか、という覚悟が事前にあったからだと思う。

「いえ・・・私の疑問がもうひとつだけ残っている」

彩世は言った。顔を上げて、その人を見た。近くでちゃんとその人を見るのは初めてのことかもしれない。朝からスーツを着ているのに少しもくたびれたかんじがしなかった。よく磨かれた革靴を履き、細身のスーツであったけれども下卑た印象はまったくない。衿の高いボタンダウンに品のよいタイを締めていた。

「あなたがそんなに綺麗な文字を書けるのはどうしてなのかな、ということです」

彼はそれを聞いて笑った。頬を緩めて・・・青年特有の微笑みを見せた。



■24


「書道を習っていたからかな。文字は形であり音であり温であるという意味が今になってわかった。

確かに・・・あなたの文字には温度があった」


彩世は顔を上げて、怪訝な顔をした。彼は笑った。

成人した男性の顔だった。

・・・どこか不安そうなあの人の顔と違っていた。どうしてなのだろう。この人の顔を見ていると、どこか落ち着く。

「形の美醜は問題ではなく・・・ひとつひとつを考え抜いている文字は、すぐにわかる。あなたの答案はまさしくそれだった。誰が自分の考えを読むのか想定していた」


・・・それはあの人から学んだことだった。綺麗な文字だね、綺麗な文章だね、と褒めてくれた人が居たから。だから、彼女は誰かに見せる文字について意識するようになったのだ。


どうか、次の春こそは、彼の上に桜が舞い散るように、と思った。

隣の席の彼女と同じ大学であれば、なおさら良いのに・・・そんなことも思った。優位に考えることで哀しみを紛らわしているのかもしれない。

でも、今は本当にそう思っているので、素直にそれを願うことにした。


「男で文字が綺麗だって、誉め言葉にならないと感じる時が殆どだよ」

彼は肩を竦めた。

「・・・私も、かなりの確率で女性だろうと思っていました」

彩世は正直に話した。

「・・・気がつかないと思ったから、気恥ずかしい内容だって書けたけれども・・・」

彼の言葉に、彩世は軽く頷いた。

彼女は表情に乏しいので、彼の動揺した様子と対象的であった。

しかし、彼女は小さく・・・ようやく、言いたかった言葉を言うことができた。

あの人と同じ様に。ただ、出てくるのはこの言葉しかなかった。

「・・・ありがとうございます」

彼はその言葉を聞いて、大きく息を吸った。

そして、彩世に言った。

「文字の往来がこれほど染み入るものだと、僕は感じたことがなかった。お礼を言いたいのは、僕の方です」

それから、遠くで聞こえる消灯前の警告音を聞いて、彩世に言った。

「もうここは締まりますので・・・送って行きますから、部屋を出る準備をしてください」

彩世は頷いた。寒さで身体の感覚が失われていた。

でも、知りたいという欲求が彼女の中で生まれていた。


あなたの朝はどんな朝なのでしょうか、


おはよ、と書いてくれたあなたの朝は、どんな朝なのでしょうか。


目の前の人は知らない人ではなかったけれども、知らないに等しい人だった。

名前も・・・どの学部学科にいるのかも知らない。


身分を偽って受講した彩世を咎めることもしない。

きっと・・・誰を探していたのかも知っているのだろうと思った。


時を過ぎても色褪せない想い出にできそうな気がするのは、この人が残してくれた言葉が彩世の胸を打ったからだ。


「・・・・私は、あなたの文字を待って毎日休まずにここに来ることができました」


寒い朝を迎えても、自分はとうに、受験生ではなくなったのだけれども。

それでも挫けずにやって来ることができたのは・・・あの人への思いを気紛れと片付けることなく終わらせることができたのは・・・やはり、毎日見守って毎日言葉を残してくれた人が居たからなのだと実感する。


もう、制服を着ることはないだろう。コートの下に制服を隠して、こそこそと家を出発することもない。・・・彼女は年が明けて夏を迎える頃になれば大人の年齢になる。

この予備校にも、毎日怯えながら受講席に座ることもないと思った。


彼女は彼が差し出してくれた筆記具を、机上に置いた。忘れ物と扱ってくれても良い、と言った。

「もう、私には必要のないものです。でも・・・私が合格した時に使っていたものなので、縁起が良いと思ってくれた人に使ってもらえると嬉しい」

彼はそれを眺めて、短く整えられた指先で取り上げると・・・自分の胸ポケットにしまった。

「僕が貰い受けても良いでしょうか。大変に縁起が良いのでしょう?・・・それにあなたがずっと使っていたものであるなら、僕の論文執筆時の御守りにしたい」

彩世が断る理由はなかった。それは本当は彩世の持ち物ではなかったけれども・・・そう・・あの歴史上高名なプラトンの話をした、大事な想い出の筆記具であったから、自分が持ち続けることはできなかったけれども、それの行方がわかる場所にあれば、安堵できると思った。

「・・・御守りとは、随分古い言い方ですね」

「なぜ?・・・大変に効力があると思いますよ。何しろ、僕はあなたに再会できたのだから」


彩世は口籠もった。

何時間も待った相手が自分の想定した相手であったことにも驚愕していたけれども・・・

あの美しい文字を書く人が男性で・・・自分の大学の先輩で・・・もっと昔から知っていた人物であったと知って・・・どうにも落ち着かない気分になってしまっていた。


卒業したのに、制服を捨てられない自分に腹が立った。そして制服を着て仮面を被ったような状態でなければ平然としていられない自分を憐れんだ。

誰も自分を見つけることができないだろうと思ったのだ。

彼が見つけてくれれば良いのにと思ったのに、その一方で、彼は決してここに彩世が来ないだろうと思っているのだろうなと予想していた。その通りであった。


それなら、彩世はどこにいるのだろうかという疑問が湧き・・・どうにも堪えられなくなって、規律違反を承知のうえで、悶えを書き記し、それに呼応してくれた人物がいた・・・

彩世の在籍する大学に入れば、その先は前途洋々であった。何をしても何をどうしても許される自由な校風であったけれども、それでも、彼女は解決できない憂いについて、考え続けた。春も、夏も、秋も、冬も・・・もう一度春が訪れる前に、もう一度確認しようと思った。


・・・それが今回の動機だった。


■25


「ここは寒い。送って行くから準備をしてください」

彼はそう言った。そして顔をあげて・・・スクリーンが巻き上げられている場所を見つめた。

「そうか、あなたはこれで終わりなのですね」

4年生と1年生では、おとなとこどもほどに違いがある。学舎も違うし、彼は来年からは大学院に進むらしい。そうなれば、もっと違う世界の人になる。

彩世の通う大学では、大学院に進学希望者が多かったが、受験の時より倍率が高かった。そこに進めば、世界の学術研究者と交流することができて、将来が約束されているも同然だからだ。


「・・・考え込むあなたの様子はとても興味深かった。・・・こんな風に真摯に学ぶことについて、忘れていたと思い、反省したものです」

彩世は顔を赤くした。首を勢いよく振る。自分はそんな風に表してもらえるほど、善い人ではなかった。

彼は笑った。

「・・・こんな風に短い期間であったかもしれないけれども。時間数にしてみれば僕は誰よりも長い時間を、あなたを見ていたことになる。・・・気味悪いと思わないで欲しいのだけれども・・・」

端整な貌をした、清潔感のある人物だった。講座の女生徒が噂していたのを覚えている。彩世は、後方の席であったのでその会話に加わることはなかったのだが、確かに・・目の前の人物は、目を引く人物であった。

授業の準備がいつも完璧で、時間通りに始まり、時間通りに終わるのは、きっとこういう有能な助手がいるからなのだろう。

それを考えると、答案提出の発案や採点の基準決定者は、彼なのかもしれないとさえ思った。


彩世は掠れた声で言った。

荷物はすべて鞄の中だった。ここではただ・・・じっと、彼の来訪を待っていただけであった。

「私のことを軽蔑しないのですか」

「どうして自分が低評価されることを確認するのですか?」

彼は不思議そうに言った。

「あなたは現役で合格し、事情があったとは言えども予備校の授業で優秀な成績をおさめている。・・・どうか、その小さなひとつひとつを大事にしてください。・・・僕はあなたを尊敬していますよ。・・・途中で放置することができたのに、あなたは最後までここにやって来た。だから、僕はあなたの言葉を待って・・・毎日が楽しかった」

「私もです。あなたの言葉があったから、救われました」

彩世は正直に告白した。もし、彼が大人でなかったのなら、気恥ずかしくてとても言うことができないと思っていた言葉ばかりであった。

「どこかで・・・私を肯定してくれる人を探していたのだと思います。私のすることや私の確認したいことを遂行するために、自分がしていることの愚かさを非難するのではなく・・・それでいいよ、と言ってくれる人を探していました。

けれども、あなたはわかっていたのに・・・私の言葉だけに回答した」

彼は肩を竦めた。どうかな、と言った。

「僕にも下心はありましたよ。・・・この文字の主を知っているという優越感と・・・そして、この人の悩みを知っているのは僕だけだと思って得意になった。不安も希望も捨てて・・・もっと違う外の世界を見てくれれば良いのに、と思った」

「外の世界?」

彼は唇を引いて、しまったというような顔をしたけれども・・・誰も聞いていないという開放感からか、そっと・・自分の思いを言葉にした。

彼の言葉は、文字と同じであった。

色と香と温があった。

あたたかく、高雅な香りがして・・・そして色鮮やかであった。

彩世にはそう思えた。

最初に、彼女を見かけた時に声をかければ良かったのに、彼はそうしなかった。彩世が何か・・・目的があると察したからだ。

そして知らないふりを続けた。

最終日まで。

そして彼女の答案の氏名記入欄を職権で修正し、彼女の受講権利を守ってくれた。


「そう。・・・本来、あなたの居るべき世界。・・・大学は享楽の世界ではなく、本当に学びたい人にはそうすることのできる環境が整っていることをあなたにははっきり見えていないように思いました」

彩世は黙った。

確かに、大学には様々な文献や図書館の充実や・・・上級生との交流や、季節折々の行事に留学制度など様々な学生への配慮が充実していた。

重ねた想い出に憂えて居る暇はないほどに。

「ありがとうございます」

「あなたの未来が、あなたを照らすように」

彼はそれだけ言うと、ゆっくりと立ち上がった彩世の肩を軽く叩いたので、彼女は小さな悲鳴を上げた。

彼は、慌てて謝った。

「ごめん・・・痛むか?」

いいえ、と彩世は首を振った。


痛いのではない。

・・・・肩をたたかれたからだ。


『戀に、肩をたたかれた』

その瞬間が・・・彼女にいまひとたび、訪れたから。




■26


最終退館時間のアナウンスが流れた。間もなくこの建物に完全なる静寂が訪れる。

・・・それよりもっと前に、この講座は終了していたのに。

業務連絡のような素っ気ないアナウンスだけが流れていた。


「・・・送らせてもらえますか」

「いえ、そんなご面倒は・・・」

「あなたの今までと違うかもしれないけれども、これが僕の・・・気になる人を見送る礼儀なのです」

彩世は言葉に詰まってしまった。そう、困ってしまった。

こういう扱いは慣れていなかった。

「何も考えていないと言ったら、嘘になる。僕は君との会話が声の会話よりもっと濃密だと思っているけれども、それを声にすると・・・とても奇異な関係を声高に重要だと言っているような気がする。でも、今日で最後と思うと、あの広い構内であなたを探すのは、大変だなと思うばかりなのです」

正直な言葉であった。

彼と彩世は出会うようで行き会うことのない空間で交差する関係でしかない。

あの人とも同じであった。

この予備校の中で・・・・行き会うことのない日々を過ごしたので、彩世は彼の言っていることの意味を信じようと思った。

「・・・また、本当に必要があれば、会うでしょう」

彩世はそう言った。

彼が、この出会いを運命だと思っても・・・彩世は今日、先ほど・・・ある人物と決別してきたばかりであった。

その人を忘れるために、新しい人を迎え入れるという器用さは、彩世には存在しなかった。

そして、目の前の相手はそれをよく承知していた。だから・・・言葉を選んだのだろうと思った。

「・・・明日以降はどんな風に思っても良いけれども。とにかく遅い時間だ。・・・責任を持ちたいから、送らせてもらえませんか」

「・・・駅までなら」

彩世はそっと言った。その人が自分を待たせてしまったことに対して恐縮しているのだとしたら、それは過剰な心配であった。

ここにいたいから、彩世は残ったのだ。

朝早くここに来ることを望んだように。彩世は・・・あの人との決別に苦悶する時間を設けるより、机上の文字を送り続けた主を捜し求めることを優先したのだから。


「それなら、僕も間もなく終業時刻ですので・・・少しだけ・・・待ってもらえますか」

彼はそれだけを言うと次に困惑したように顔を顰めた。

彩世が待つことに対してどんな風に何を思っているのか・・・想像したからである。

彼女は笑った。

「大学の先輩に送って貰うことに、誰も意義は唱えないでしょう。私もそうして貰えると心強いです」

その人は笑った。

「僕が・・・あなたに偶然ではないものを求めているかもしれないと思っているのに、それを利用するの?」

彩世は首を振って笑った。寒い・・・凍えるほどの時間をそこで過ごしたのに、どういうわけか清々しかった。なぜなのだろう。

「私、肩をたたかれなかったのです」

その言葉に補足が必要であったので、彩世はすぐに説明した。立ち上がり、脇に置いた鞄を持ち上げた。その鞄は冷気でひやりとしたが、それでも・・・彼女はそれを持って肩に置いた。

「戀は肩を叩くのだそうです。・・・私は彼の肩を確かに叩き、彼は私の肩を叩いた。けれども、恋は一度のそうしてしまったら継続するものではないということを知らなかったのです。常に、肩を叩き続ける。・・・それが戀なのだろうと思いました。・・・あなたの仰る『戀』なのでしょう。でも、私は恋のたたき方しか知らなかった」


彩世は笑った。

「そのことよりも、こうして文通めいた言葉のやりとりの方が気になっていたのですから、仕方の無いことだろうと思っています。・・・もう少し、自分なりに考えます」

しかし、彼女は次の瞬間・・・身を固くした。

自分の言葉が言い終わる前に・・・・・

・・・目の前の人物が、彼女の肩を軽く、叩いたからだ。


「・・・」

彩世は何も言えなかった。肩を叩く、という意味が、今の会話のなかでわからなかったという相手ではない。

・・・軽く・・・決して卑猥にならない程度に、とんとん、と軽やかに彼女の肩を叩いたのだ。

「・・・プラトンの言葉、だね」

彼は静かにそう言った。彩世ははい、と言って静かに頷き、そして自分の荷物を肩に持った。これまでは、荷物しか彼女の肩に触れなかった。

あの人は・・・あの人の肩に触れた人は自分ではなかったけれどもその人のことを大事に思っているのだろうと思った。

恋をしたら・・・世界が変わって・・世界が煌くのだろうと思った。でも、違った。彼女の肩は、彼に叩かれたものの・・・その次はなかったのだ。

そこで彼女はようやく気がついたのだ。

恋が肩を叩くのは最初の一度であるが、それは恋のはじまりでしかない。

はじまりは、おわりのはじまりであった。それを継続させるには、何度も・・・何度も相手の心を叩かなければいけないのだ。


・・・彼女と彼にはそれがなかった。だから、終わったのだ。


そして・・・目の前の人物は、彼女に毎日・・・彼女の心の扉を叩き続けた。


「・・・これも何かの予兆だと思うことにしたいと、思っているのだけれども・・・」


毎日、むっつりとした表情で皆に資料を配っていた人は、彩世の前で顔を赤らめながら伏し目になってそう言った。

どうしたら良いのかわからないけれども・・・彩世は、目の前の人の見たことのない表情を嫌だな、とは思わなかった。

自分より年上で、進路も決まっているから故の安定感が彩世を安心させているのかもしれない。

でも、それだけではないと思いたかった。

彼女の心を打ったのは・・・彼の人柄もさることながら、文字が・・・彩世に対する返信が彼女の心を叩いたのだ。


「戀は肩を叩く・・・文字は肩を叩き続ける・・・」

彩世が呟くと、目の前の人物は笑った。

「ああ、プラトンの言葉だね」

彩世は頷いた。夜も更けて・・・今から家に帰れば、妹も親も心配していたのだと言うのであろう。予め連絡してあったのに。それでも、彩世が今までまったくそうしたことのなかった行動を遂行したので驚くのだろうと思った。

そして、目の前の人は・・・彩世が恋していた人のことを何となくではあるが知っており、そして彩世の先輩にあたる。これで関係が切れるとは思えない相手であったが・・・それでも、最初から・・・今までの経緯を話してみようかという気になった。

しかし、それは今日はやめておこうと思った。

長い話になるし・・・一度に語って、それで終わりにしたくなかったからだ。

その人の文字が好きだった。綺麗な文字だった。なぜそんな風に綺麗な・・・染み入る文字が描けるのか、彩世はその人を知りたくなったからだ。

「ああ、僕の自己紹介がまだでした・・・」

彼は見上げてばかりいる彩世の顔を見て、そこで初めて気がついたように、言った。講座の最初に、紹介されたはずであったのに。・・・今、きちんと彼の名前を聞くことになって、彩世は耳を傾けた。彼の紡ぐ文字ではなく・・・彼の話す声に耳を欹てた。


そして、その声が・・・彼女の肩を、とん、と押したのだ。

叩く、と言っても良かった。

人の肩は、後ろから押したり、上から押さえつけるだけではないのだと知る。


彩世は立ち上がった。

寒さと怠さで、明日は起き上がれないかもしれないと思った。

でも、それでも良かった。

今日という日を、彼女はまっとうしたからだ。


そして・・・あたりまえのように更新されているはずだと思っていた、あの美しい文字の書き手を見つけ出した。

これが、彼女のもっとも嬉しい収穫であったと・・・誰に言えば良いのだろうかと思った。


名前を貸した妹だろうか。

何も言わずに朝早く送り出してくれた親だろうか。

それとも・・・ただ、彼女に謝ることもなく、他の恋に興じた不誠実な彼に対する憤りを回避した自分への褒美なのだろうか。


違うと思った。


彩世が強くなれたのは・・・


彩世を見つめて、それでもそっと文字にしたためるだけであった、

彼の優しさが彩世を強くしたのだ。


「あなたの名前・・もう一度教えてください」

彩世はそう言った。立ち上がって・・・彼を見上げながら。


こういう出会いも悪くはない。そう思った。いつか、きっと・・・自分が後悔しないように、今度こそ、自分の戀を言葉にできるようにしようと心に誓った。


・・・彩世の肩を、彼の声が、押したから。


流麗な文字の音や色や温度が彼女を包むのと同じ様にして。



彼の名前が・・・

彼の声が・・・・



彼女の肩を、戀が、たたいた。


(FIN)


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