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前編

はじめて投稿します。

どうぞよろしくお願いします。

・・・・戀に肩をたたかれた。(プラトン)


※精神的な恋愛を示す「プラトニック・ラブ」はプラトンの名前に由来する。


****


■01



その時期、私はとても苦しい戀をしていた。


後から振り返れば、それはとても・・・幼くて拙く戀と呼べるものではなかったのかもしれない。

でも「恋」ではなく「戀」だと思っていた。



でも。

今でも・・・その時のことを思い出すと・・・

胸に疼痛が走り、見上げる空の色が少しだけ鮮やかになるような気がする。


気がついたのは、冬期講習の最中のことだった。


予備校の冬期講習というのは開始が早い。

私立学校の冬期休暇に合わせて、講座を開始するからだ。

だから公立高校の生徒は、普段の授業を受けながら冬期講習を受けることになる。

最上級生となれば、もう、この頃にはほとんど授業などないに等しい。

常に10ヶ月ほど先の完了目標を達成している教職員達は、ほくそ笑んでいることだろう。

すべてのカリキュラムを終えるかどうか、というのが彼らの最大重要事項のひとつである。


・・・ここは予備校の教室の一角だった。


予備校と言うと、受験に成功するという目的のために集う同年齢の男子女子がひしめき合う場所だ。少なくとも彼女はそう定義している。

そして、同じクラスに所属するということは同レベルで同じ志望校を狙っており・・・仲間意識が湧くどころか、周囲は皆、敵手だと言う意識を植え付けられる。


それは彼女の所属の学校も同じであった。


進学校で、進学率は100パーセント。


誰もが必ず、この国か・・・若しくは他の国の要人になるという高い可能性を持った集団を教えるという自負を持った教師達の誇らしげな顔を毎日見ながら、その日一日を過ごしている群の中で生きている。


彩世さよはまだ誰もいない教室に着座すると、木製のベンチの背もたれに鞄を置いた。底に鋲が打ってある丈夫なもので、彼女が3年間使用してきたものだった。

経年によって深い色合いになっており、それがとても誇らしかった。

無理を言って買ってもらった入学祝いだった。

鞄の指定のない自由な校風に感謝したものだった。

彩世はコートを脱ごうとして・・そこで飾り釦にかけていた手を止めた。

まだ暖房が行き渡っていないので、少し肌寒かったからだ。

ここは自由席なので、狙った場所を確保したければ、早めに教室に入らないといけない。


彼女は最後尾の端に座った。

あと小一時間もすれば、この教室は熱気で暑いくらいになるだろう。

この時期、私学の生徒はすでに休みにはいっているので、彼らは開始ぎりぎりにしかやって来ない。

まだ他の棟でも授業を行っていることも影響していた。


今日も彩世が一番乗りだった。

がらんとした空洞のような箱の中に入ると、どうも気落ちした夏を思い出した。

しかし今は気持ちが軽い。


吐く息が白かった。

だから、コートはまだ着たままにしておく。

手袋だけは脱いでそのまま鞄に放り込んだ。


・・・今冬はよく冷えてしかも雪が多かった。


ここは午前中空き教室になっているが、誰も居なかった。

夏の時期には冷房が寒いくらいで、しかし暑さを逃れるために、自習室として解放されていたときの盛況ぶりをみると、まったく異質な空間に思えてくる。

昨今の経費削減対策とやらで、授業の直前になるまで暖房が入らない。


・・・彼女は鞄の中から教材と筆記用具を取りだした。


辞書は必需品だ。

今は電子辞書の携帯を赦されていたが、模試の時間は持ち込み使用が禁じられていたし、なにより画面で見ると記憶が薄れるのが早い気がする。

それは「探す」という行為がないからだ。

また前後の解釈について読み取ることができない。

必要なものを必要な時に得るというのは合理的ではあったが、その分、何かが得られていないような気がして仕方がない。

辞書は紙表紙がよれて、今にも剥がれそうになっている。


彩世は必要最小限しか持っていない。

文房具も素っ気ないくらいに何も持たない。

同年齢の友人達は皆、きらびやかなものを好んだが、彼女はあまりそういったものに興味がなかった。


「男の子といるみたい」


家族にもそう言われる。

確かに自分でもそう思う。


男女比が異常な値の学校に進学したからだろうか。

それとも・・彼女はやはり嫋やかさという文字とは縁がない人間なのだろうか。

興味の対象が世間一般的なそれとは違うような気がした。

女の子らしい、と言われるようなものに目が行かない。

幼い時にはだいぶこのことをからかわれた。

そして彼女は良くそのことで泣いたが、からかわれた事が悔しいのではなく、自分が多数に存在しないのだということを知るのは一度で良かったので、何度も繰り返し言われることに辟易していたからだ。いつの間にか泣くこともなくなった。

高校に進学して、それは緩和されたがそれでも敬遠されがちだった。

徒党を組むことを決してしなかったから。

人数が少ないから、同性の同級生達は皆、グループを作って群れたがる。

しかし同じ程度の学力レベルの者たちはそれほど品劣ではなかった。

彩世と距離を置いたが、それでも彼女は普通に過ごすことが出来た。


彼女は、長い黒髪を後ろで束ねる。

受講中には邪魔になるだけの髪を・・そろそろ切ろうと思った。


冬は寒いから髪を伸ばす、と言った友人に彩世は反論したことがあった。

冬は寒いから髪を切るのだ。渇きが早く手間もかからない。

そう言うと、呆れた顔をして、友人は次に納得したような顔をした。

「彩世は変わってる」

そうだろうか。

合理的思考であれという学校の指針に従っているだけだと思うが。



■02


木製のベンチは冷え切っていて、服の上からでもその冷たさが伝わってくるようだった。

暑くてぼんやりするよりかはましなのかもしれないが、それでも室内が快適な温度になるまではまだ少し時間がかかりそうだった。

・・・外から来たので、それでもだいぶあたたかく感じる。

しかしそれは錯覚なのだと言うことに気がついていた。まだ手がかじかんでいたから。

これほどの寒さを体験したのは、久方ぶりのことだった。

親の若い頃はこれが普通だということだったが、彩世はその時代を生きているわけではない。

だから、そうなんだ、と適当に受け流すことにしていたが、張り合いのない娘を持ってつまらないと言われた。

それなら、一体、どんな人間だった皆が満足するのだろうか。

迎合するつもりもなかったし同調するつもりもなかった。

そういう生き方しかできなかった。


彼女は周囲を見渡して、人の気配がないことを確認した。

正規の手続きを経て受講しているのに、後ろめたく感じるのは・・・彼女は自由席のこの場所を定席としているからだった。

縄張りのように主張するつもりはない。

けれどもこの席に座りたいために、開始時刻よりずっと前から教室に入り、空調が行き届かない時間をじっと耐えていた。

毎日、座る人間が違っている。

受講生は同じ顔ぶれなのに、彼女が一番後ろの席から眺める背中はいつも様々に違っていた。

これは、決められた配席しか知らない彩世にとってはとても新鮮なことだった。

どこに座っても良い、と言われると人は他者と距離を置こうとするためか、末席や端に座りたがる。

同じ講習料金を支払っているのに、一番後ろの、声が聴き取りにくく板書も容易ではない場所に座りたがる者の気持ちが理解できなかった。

しかし、今は、彩世は最後尾の席に座っている。

遮光用にフィルムを貼られた窓硝子は淡く曇っていた。

また外は冷え始めているらしかった。ここだって相当に寒いのに。

春先になれば、この席にも日差しが届いて、午後の授業は睡臥に心地好い魔法の呪文のように聞こえるだろう。

しかし今は窓硝子から漏れる冷気で凍えるほどだった。

・・・あたたかい缶コーヒーを道中買ってくるか、自宅からあたたかい飲み物を持参すれば良かった、と少し後悔する。

予備校内の自販機は一般のものより廉価であったが、それでも紙コップの中の液体が冷えてしまう前に飲みきってしまう自信がなかった。蓋付きの飲み物で保温性に優れたもの、となるとやはり自分で用意するしかなかった。

塾の講師が、授業中に暑がって腕まくりをしたり、冷たい水を求めたりすることが信じられないくらいに冷え込んでいた。

着脱可能な防寒具でもって調節しなければ、所狭しと不特定多数が集う場所であっというまに体調不良を引き起こしてしまう。

・・・そしてこの授業は、板書ノートでさえ入手したいという希望者が多く、受講も抽選になるという前代未聞の講座だった。

居眠りをする者が居ないという、予備校の冬期講習ではあり得ない授業だった。


しかし、彩世がこれを受講できたのは幸運ではない。

彼女の学校では優先枠があり、信じられない倍率の受講希望者よりずっと低い確率で抽選することができた。

模試もほとんど無料で受けることが出来る。

母集団のレベルを維持するための策であるが、少子化や教育指針の変更に伴う単校あたりの受験率の低下は防ぎきれない。

今はサテライト授業なども充実しているから、この教室に収容できる人数以外にも・・・他の地域で受講している者も居るだろう。


彩世は慣れ親しんだ筆記具を出した。そしてあたりを少しだけ・・・視線を周回させて、様子を窺う。

誰も見ていないことを確認してから、彼女はそっと・・・・それを隠すためにわざと不自然に置いた教材と筆記用具を手の平で机の上を右から左に滑らせた。

彼女が座っているのは、正面から右手の最奥の場所だった。

だから。

右側には座席がなく、狭い通路と昔は白かったであろう壁が立ちはだかっているだけだった。

一体、どれだけの者がここに座ったのだろう。

どれだけの者がこの通路を通りながら空席を探したことだろう。

人気のない空間に入る度に、そう思う。

以前はそうは思わなかった。

それなのに・・・今はこの空間がとても狭く感じた。

自分は、これほど狭い空間で何をしているのだろう、と思う。 

■03


彩世は溜め息を漏らした。

・・・吐息が白く濁って重力に逆らい、遠逝していく。

・・・人の生命については、文学作品でしか触れたことがないが。

淡い命というものは、こういうものなのかな、と思った。


この間、知人の母が亡くなったという話を聞いた。

しかしどことなく戯曲めいた出来事にしか思えない。

母が、そういう年代になったのね、と寂しそうに呟く様を見て、自分もいつか同じ言葉を口にするようになるのかな、と予感めいたものを感じた。

人の生命についてたったそれだけしか認識できないことも認識していたし、それ以上の物思いをいつか自分が体験するだろうということも覚悟というか予測はできていた・


彩世は机上を眺めた。


・・・また今日も「それ」はあった。


彼女が誰よりもここに早く来る理由がそこにあった。

この席に座らなければ意味がなかった。

それはここにしかなかったから。

一講座分くらいの時間、早くここに来ている。

「それ」に出会うために。


彼女は微笑んだ。


“おはよ”


それはそういう書き出しで始まっていた。

彩世も小さく「おはよ」と声を出す。

自然と、微笑みが浮かんでくる。

鉛筆で書かれていた。

彼女が読み終わった後、消去できるように。

それはその日、彩世が座っている間しか存在しない・・・雪のような儚い存在だった。

誰かが読んでも意味がわからないだろう。

毎日のように続いている、彩世しかわからない暗号のような・・・選び抜かれた言葉だったから。


“おはようございます”でもなく“おはよう”でもなく“おはよ”と書かれていた。

その部分だけが、この人物がとても若い人なのだと彩世に教える。

“おはよ”

彼女は微笑む。

彩世がそれを読む時間は朝ではなく昼下がりの時間であったが。

しかし、その挨拶から始まる言葉の後は、彼女が教科書の世界でしか見たことのないような、流れるような美しい言葉の数々だった。


“おはよ

今朝は寒いですね。

この教室の位置は、お昼を過ぎると西日が入ってくる位置にありますので、あなたの時間にはちょうどよい暖かさになるのでしょうか“


彩世がここにやって来る講義のことを、その人物は「あなたの時間」と言った。

それがどうにも・・・・古風であるのに、なぜかとても気に入っていた。


大変に知性のある人物だと思った。

男性か女性かはわからない。

それでもどちらでも良かった。

美しい語彙というものは、性別を選ばないのだと思った。

これほどまでに綺麗な日本語を操る人物が、予備校に通っていることと、ここに座って聴講しているのであれば、彩世ときっとほぼ同じ年齢であることに鑑みると・・・彼らの将来が自分と違うのだということが判る。


殺伐とした空気の中で、この文字はとても・・・彼女を穏やかにさせた。

競争してばかりの世界に生きてきた。どんなに親しくても、試験の時は誰もがライバルだった。

そんな環境にあって、それでも・・・その先があるのだと思った。


つまらない人生だとは思わない。

まだ始まったばかりの路に区切りをつけるつもりもない。

似たような価値観に、似たような将来像。

いずれこの国の中核を構成するような候補生たちと一緒に過ごすことは彩世の意欲を大変に刺激した。

でも、自分が至高の存在であるとは思えない。

だからこそ。ここに来ているのかも知れない。

自分の過ごす校舎に集う者たちだけにしか目を向けることができないという状態が怖かった。自分は・・・これからどこに行くのだろうか。すでに決めてしまった路の上がいやだと言っているのではない。けれども、不安定で、そして・・どこに行けば良いのか誰かに教えて欲しいと思わないのに、誰かにそれを認めて欲しいと思っているのだ。




■04


彩世がその書き込みに気が付いたのは、冬期講習会の翌々日のことだった。

机上に出しておかなければならない受講証の下にそれはあったので、しばらく気が付かなかったのだ。

授業が終わりに近づき、講師が次回の講義内容の説明と予習の範囲を説明し出すと、皆が開いていたテキストや辞書などと一斉に閉じ始めた。

彩世も同じだった。

各回、受講の範囲は予め決められており、人気の講師は毎回その範囲を越えた内容に着手することはない。これは彩世の通う学校でも同じだった。

不思議なもので、最初は予定通り進んでいながらも、定められた範囲が終了しないことを畏れて、その講師も次回の内容にまで及んだ講義をするが見通しが立つと、とたんに、内容の濃い話をしたがる。

それはこの予備校に限った話ではない。

本当に進学を意識する者は、教科によって予備校を変える。

授業の終わりも同じだった。

予習を義務づけることによって、たとえ、その回の内容が終わらなかったとしても模範解答さえ配れば免責されると思っている。


苦い笑いしか浮かばない。


彩世は、受講証を持ち上げて、いつものとおりに紛失防止にパスケースにしまおうとしている時に、受講証の裏面が汚れていることに気が付いた。


天井の照明に反射して、机上の一部か鈍く淡く光っていた。

指先が鉛筆の芯で汚したように灰色の鉛色が付着していた。

彼女は、しばらく鉛筆などを持ったことがないことに、気が付いて、まず指先を見て苦笑した。

小さい時にはそれらを持ち歩くことを常にしなさいと言われていたのに。

それなのに、今は製図用の標準より少し重い筆記用具を持ち歩いている。

柔らかい芯で、筆圧によって太さの変わるそれを、彩世はしばし見つめていた。


・・・綺麗な文字だな。


それが最初の感想だった。人の文字というのは、その時の感情であったり状況であったり、それまでの教育の程度がわかるのだから、文字というものは、配慮して残さなければならない、という話を教師から教えられたことがあった。

それを思い出す。

確かに、美しい文字というものは目につく。

そしてその文字が紡ぎ出す内容について興味を引かれる。

今では、文字を書くというよりタイプする事の方が圧倒的に多い世の中になっていったが、それでも、文字を書く行為というものは、人間が捨てることのできない習性なのかもしれないという説を否定する気になれないほど、その文字は綺麗だった。


そして、次に、彩世はその文字が載っている場所が・・・彩世の座って居る場所に居る者だけしかわからないように書かれていることに気が付いた。

受講カードには顔写真が張ってあり、ICカードによって受講管理が行われている。だから机上に出す必要もなかったのだが、先般、このカードを偽造した者が出たということで、顔写真のプリントされたカードを、受講中は机上に出す決め事が浸透されてきたところだった。

正規の申し込み手続きを経ないで、受講する者が後を絶たないという問題から解消されたが、管理されていることについて、あまり良い感情は持てなかった。

ホログラムシールが貼られたカードは特殊仕様であるので、講師や補助をする助手はいちいち名前を確認しない。それを持っていることに意味があるということらしいが、まったく意味があるとは思えなかった。

そこまでして受講したい講座は、常に満席で、そもそも、偽造したカードを持ち歩いていても、配席の段階で判明してしまうことだから。


学びたい者は学べば良いし、それを放棄することの重大さについて悔やむ者は、その瞬間には悔やまないものだ。

彩世はそう思っていた。

自分も、学校の奨めで指定された予備校で、格安の料金でなければ、わざわざ受講しようとは思わなかっただろう。

しかし、どうしても、この期間に受講したかったのだ。

満員の部屋で、淡々と説明する講師の話をこっそり録音したりすることもしないし、テキストを違法にコピーするつもりもなかった。

普通に受講して、普通に学べば良いと思う。


だから、その机上の文というには短いものを見かけたとき。

彼女は眼を見開いて、しばしその筆跡に視線を注いでいた。


“おはよ 暖房が行き渡る前に手がかじかむので このように文字を残しています”

それはそんな書き出しだった。

細かいけれども等間隔で、絶妙の間隔で書かれているので、それが人によって書かれた文字であることに気が付かなかった。

彩世は一瞬、眉を顰めてその文字を主の意図を探ろうとした。手が止まって・・・周囲が帰り支度をしているというのに、彼女は鞄に入れかけた革巻きのペンケースを取り出した。

長いベンチシートで通路側に彩世は腰掛けているので、奥に座る者が通路に出ることが出来ないため、彩世は慌てて立ち上がった。しかし、視線はそこに注がれていく。

・・・・その言葉が自分に向けられた言葉であったからだ。


■05


“あなたの時間ではもうここは暖まりましたでしょうか。

あなたの書いた「苦しい恋が捨てきれない」という言葉に深い感銘を受けています。

そんな表現すら陳腐になるくらい、深く。

捨てられないからそれを戀と呼ぶのです。

それは、戀ですよ”


繊細な人物だと思った。

これほど難しい異体字を滲ませることなく書く人は、一体どんな人物なのだろうかと思って興味を持った。


それが、はじまりだった。


彩世は「戀」という文字に酷く共感した。

この文字を乱れや躊躇いなく書ける人物を多くは知らない。

彼女はゆっくりと返事を書いた。

そこに書いてある文字を消して、返信を書くことになったことをとても残念に思った。

このままこの文字すら残しておきたいと思う程に、染み入る言葉だった。

目に飛び込んで来る程の美しさを持つのに、それでいてとても読みやすい間隔を持ち合わせている不思議な文字に、彼女は夢中になった。

あなた、と呼ばれることにもくすぐったさを感じた。この机に書き込みをするのは、受講生しか存在しない。その中で、これほど知性に溢れた人物が彩世の言葉に耳を傾けて、書き込みをすることに対して、彼女は昂揚せざるを得なかった。

もちろん、受講内容についておろそかにするつもりはなかった。

でも、着席して真っ先にそれが更新されていることを確認し、休憩時間には再読し、そして次の休憩時にはそれらを抹消しなければならない心残りを堪能しながらも、彼女は次のメッセージを込めて上書きを始める。


“こんにちは”


彼女はいつもそこから始める。

拙い文章しか紡ぐことが出来ないが、それでも相手は彩世のことを“あなた”と言う。

それが嬉しい。

同じように、こんにちは、と囁くことで彼女そのものであることを訴えるような錯覚を味わっているだけなのかもしれない。

けれども。

ひとりの大人として呼ばれるような気がした。

現在数多あるデジタル化された通信手段ではとうてい考えられない文字の喜びをここで知るようになるとは思ってもみなかった。

人が記憶するときは、文字だけではなく、筆跡も大きく影響するのだと思った。


“どうしても諦めなければならない恋と、持続していることを主張しなければならない恋とでは、どちらが苦しいのでしょうか。

比べる恋などひとつもないのに。

比べること自体が誤りであると理解していますが、それでもより苦しくない方を選びたいと思っているのに、自分のその状況が、より苦しい方であれば良いのにと思うのは、なぜでしょうか”


今日のはじまりは、そう書いた。

あらかじめ考えてきた言葉と違う結果になったことに、彩世は少しばかり困惑し同時に同じくらい満足していた。

この人の筆跡はどこか和ませる。

自分を惨めに思わせる言葉はすべて洗い流されて、そして彼女はとても至純の世界に生きている者になったのかとさえ錯覚させる。


それでいて、自分の成さなければならないことを思い出させる。いつも、最後にはこう書かれてあった。

“自分の路を進むあなたを想像しています”

そうだった。確かに、自分には思い描いた将来があって、そこに進むために今を生きているのだと思うから。

だから、この奇妙な文字の集いに溺れることはしなかった。余興だとも思わなかったけれども。

自分の短い人生の中で、出会いについて何かを思うのはほんの数回だということを知った。

それだけでも、周囲の者たちよりだいぶ違う価値観と持つことになった。それは優越感とは違っていた。少しばかり・・・はやく大人になってしまったと思った。

喪失感と引き替えに得た奇特な喜びに対して、彼女は貪り読むように文字を追った。


きっと・・・隣の席の人物は、何があったのだろうかと思っていることだろう。

隣席の者と挨拶を交わすことを忘れて、彼女はひたすら、文字の相手に会いに来ているようなものなのだから。


また、今日も文字を追う。拙い彼女の文字に返される、美しい言葉に魅せられて、彼女は文字を目線で追う。聴覚より視覚が刺激される日々を送り、これほどまでに文字の魅力に取り憑かれて、それでもそこに沈むことができない自分を発見する。

彼女は目的があるから。

彼女は成さなければならないことがあるから。

彼女は・・・見極めなければならないことがあるから。 

■06


自分は風変わりであると思う。

彩世は認める。

しかしそれは「自分は他者と違う」という傲慢な優越感ではなかった。

誰かと比べても仕方のないことだ。

他人に勝つより自分に勝つ方が先だった。

そういう風に思っていたら、いつの間にか、誰も彩世を理解しなくなった。

彼女が「誰もと違う部分」を持っていることを敏感に察知したからだ。

彼女ではなく周囲が鋭敏だった。


確かに、ひとりで行動することが好きだ。

そして静寂が好きだ。

だが誰とも一緒に居たくないと言うことではなく、孤独さえ好むということであった。


そのことについて・・・周囲には理解しがたいと言われて久しかった。

だから、言わない。

それを声高に主張しないから、最近では誰も気がつかなかったけれども。

進学するときに、誓った。

友達が欲しいからそうしているのではない。

面倒だからだ。


それに・・・

自分一人だけが持つ、秘密という言葉に近い秘匿事項について甘い誘惑を感じていた。

だから彩世にはいくつか・・・どれほど近しい間柄の者であっても漏らしていない事実がいくつかあった。

声高に、親しいことは共有の程度に比例しないと傲然と言った。


この戀もそうだった。


誰にも何も言わなかった。

戀をしていると漏らすこともなかった。

相手が・・・・「どうして自分のことを公にしないのか」と言われて、戸惑った顔しかできなかった。

それに、浮かれた風情とは縁の無い淡々とした調子の彩世に、とうとう業を煮やして窘められたことが幾度かあった。

でも彼は辛抱強く待った。

彼女が彼に触れないのも。頬を合せるような近接さえ戸惑うことも。

すべてを待った。

彩世はそれを嬉しいと素直に知った。

それなのに。

彼女はそう言うのに、相手はただ哀しい顔をするばかりであった。


誰にも相談しなかった。

誰にも公言しなかった。


戀を詳らかすることが大事なことだとは思えなかったから。

密かにすることが彼女の最も大事なものであるという証だと思ったから。


ただ、彩世はそれを相手に伝える手段を知らなかった。

気がついた時には、手段がないのだということを知っただけだった。


“恋は苦しい 戀はもっと苦しい”

そう書き記した。

どこかに何かを残さないと、あまりにも苦しかったから。

だから、自分に共感してもらえるような打算を含んだ言葉は刻まないことにした。

いつも呼んで貰っている以外の者の目に入るかもしれない。

いつか、誰かの目にとまって、これは消去されるべき文言なのかもしれないと考えながら、ここに訪れる。

何時も・・・・翌日に訪れる彩世に必ず届けられる丁寧な筆跡に、彼女は微笑む。

他の者と違うのだ、と知ったことがあった。

恋と戀についてこうやって述べることを繰り返すうちに、彼女は単一のことだけを考える性質の者ではないのだと己を分析することができた。

・・・だから恋愛によって勉学がおろそかになることもなった。

自分の時間が摩耗していると思うこともなかった。

ただ、これまでのひとりきりであった時間に、誰か自分ではない別の者と過ごす時間が増えただけ。

それだけであった。


・・・こんな風に感じることそのものが、もう、恋ではないのだと指摘されたことがあったが。


それもどこか映画や舞台のように、遠い声のように聞こえていた。

だから、彩世は自分が冷たい人間なのだと言われれば「そんなことはない」と否定する材料はないのだろうな、と思っていた。

「そんなことはない」と根拠のない否定ほど強い肯定はない。

そう思わざるを得ない。


彩世はまたひとつ、文字を刻むことにする。備品を汚損することは禁じられている。でも、ここに書くことなしには居られないのだ。自分の苦しみを。


■07


それは日々更新される奇妙なやり取りであった。

夢中にはなりきれなかったけれど、それでも楽しみになった。

目的のひとつになった。

今日も、ここに来ようと思った。

勉学を疎かにするつもりはなかった。

けれども、何とも言えない物思いが彼女を幽なる世に誘うのだ。

いつも同じ様に、乱れることのない文字は彩世を出迎えた。


机の上にテキストや筆記用具を並べるふりをして、こっそり鞄で隠しながら眺めてから、鞄を机下の物入れにしまい込む。

そしてまたもう一度読む。

・・・短い文面であるのに、幾度も読み返すという行為を彩世は楽しんだ。

古来この国に伝わる歌のように読む都度、意味が違ってくるような気がした。

その文字を被う分厚いテキストのどんな長文より魅惑的だった。


“恋は目の前にない実体のないものを対象にすることもありました。戀はどうでしょうか。戀は、「心」と音を表す「䜌」が重なっています。どうしようもなく音が出てしまいそうなほどに心が惹かれる対象は、あなたの目に見えないものかもしれません。”


彩世は返事を書いた。

“違うと反論できない言葉です。私は、本当は戀の対象である人物ではなく、相手との目に見えない何かを信じて惹かれているのかもしれません”


彼女は少しばかり気落ちしていた。

相手の言っていることに妙に納得できてしまったからだ。

恋を失いそうになった時は、これが恋であったと否定しがちになる。

本当の本物の恋はどこかにある、と信じてしまいたくなる。

でも、すでに彩世は自分のことを客観的に眺めることができた。

なるほど、と頷いてしまったのだ。

我を失うほどの恋情を感じて、数多聞く恋の苦悶に自分は居るのだと思っていたけれども。こうして、誰かに冷静に問われると果たしてそうだったのだろうかと考え込んでしまう。


戀は、疑ったらそこで終わりなのだ。

相手を疑うのではなく自分を疑った時にそれは音もなく消えてしまうのだと思った。

この人の言うことをそのまま信じれば、音引くほどに心惹かれるのが戀であるというのに。


確かに、心が惹かれた。

苦しくて、相手が目の前に居ないのに哀しくなったり心躍ったりした。

しかし、彩世は決してその文面を書き写すことはなかった。

忘れても、良いのだと思った。

文字のひとつひとつに彩世にとっては響き渡る深い意味があったが、その文字そのものを写すことは出来ないからだ。

髪が肩からこぼれ落ちて、机の上に広がった。

そして慌てて自分の髪を払った。

その文字が、彩世によって汚されるような気がしたから。


そうだった。

彼女はちょっとだけ溜息を落とす。

その吐息すら、その文字の上に乗るのが躊躇われた。


・・・こんな風に恋とか戀とかについて語れるほど自分は達観しきれていない。


そして筆記用具の中の、やや太めのシャープペンシルを取り出した。

かなり丈夫で使い込まれたそれは、彼女の手には余るほどの重さであった。

あの人と交換した品だった。

揃いのものを持つのは気が進まない、と言ったら、それを交換しようと言われて、それには応じる気になった。


『彩世は変わっているなあ、何も欲しがらない。』


そう笑われたけれども、ただ静かに微笑むだけしかできなかった。

でも、言葉が足りなかった。

共有するより、独占したかったのだ、と伝えられなかった。


同じものを持っていることを誰かに気がつかれるかもしれないという密やかな危険より、誰も知らなくてもその人の持ち物を持っているというささやかな秘密を持ちたかったのだ。


その筆記具で、終わりゆく戀への憧憬を書くのはどれほど愚かしいことなのか、わかっていたはずなのに。

ひとつひとつ、確認していく。

一日に、一文ずつだ。

世の中の流行のように、もの凄い速度で行き交う会話ではない。

そして、限りがあった。

この講習期間が終われば、問答も終わる。


“目に見えないからこそ、それなのに音を立てて引き寄せられるからこそ、それを戀というのだと思います。”


彩世はその言葉を目にしたとき。次に書く言葉を決めた。

■08


『最近、楽しそうね』

普段から寡黙であった彩世の口数がますます少なくなっていったことに、家族は気がついていた。

年の近い妹は陽気でお喋り好きだ。

だから、何かと比較されがちであったが、不思議とうまが合った。

そんな妹でさえ、彩世の様子がおかしいことに心を痛めていたようであった。

家族にも内緒の密やかな恋愛とまでもいかない人間関係に、彼女が憂いを感じていることまではわからない。

けれども、何かがあったのだ、と思ったらしい。

その彩世が、どんなに寒い朝でも定刻通りに起き出し、身支度をして出掛けていく。

だから、浮かれていると指摘されて、彼女は振り返らずに、極力素っ気なく「そう?」と答えにならない短い言葉を発して家を出た。


彩世は静かに、コツコツと鳴り響く書き込みの音に気を配りながら、ひとつひとつを丁寧に書いた。


“目に見えないけれど、何も見えなくなるのが怖いと思ったとき。戀は静かに消えゆく瞬間を待つだけになるのだと思うのです”


しばらく受験で忙しいので、会えなくなる。


そう言われた時に、彼女は、「そう」とだけしか言えなかった。

それが体の良い拒絶の言葉だと知っていたからだ。

傍観者であった頃は、こんなやり取りに胸を痛める者達を眺めながら、なぜ、はっきりと断裁してやらないのだろう、と思ったものだった。

先を期待させる言葉や、自分は悪くなくて、環境や状況という外的要因にすべて責任があるという言い方は相手への思いやりがないと思った。

相手より別の何かを選んだのだから、と言えないのであるならば。

残酷な仕打ちだと思う。


終わらせることが出来ない戀ほど、苦しいものはなく、ずっと後にまで残るものなのだろう。

まだ、「ずっと後」を経験していないから、わからないけれども。

それでも、もう、元には戻らないということはわかっている。


どんなに声を聞きたいと思っていても。

どんなに顔を見たいと思っていても。

それを、相手に伝えることはもうできないのだということだけは理解できた。


はじまりは至って普通であった。

彩世の学校では、受験対策の補講が二年生のころから始まる。

すでに、この学年ですべての教育課程が終了していた。

学年全体の合同授業であったので、大講義室での授業となり、そこで一緒になった。そして、次にグループ毎の演習授業で同じ班になった。

至って簡単な経路であったけれども、彩世はしばらくの間、彼の名前すら覚えようとしなかった。

必要ないからだ。

実習では、課題の答え合わせをする際に、グループ内で答案を交換し、採点する。

決まった答えを書くのではなく、どのようにしてその答えを導き出したのかという過程を重視する授業であった。

つまり、相手の思考を辿る作業だ。

人によっては、このような時間は無駄であるから、過去問題や予想問題に多く接していたいと言うが、彩世はこの時間が好きであった。

誰かの思考を読み取ることではなく、自分の思考を客観的に見つめられるからだ。

そして、誰もが彼女の答案を見て、何を考えているのか言い当てられなかった。

答えが合っているから、それで及第点だと言うばかりであった。

導いた過程を読む者はいない。

己のことだけで精一杯だったからだ。

未来が決まっていない状況は、酷く不安定だ。

特に、これからしばらくは自分との闘いになる。

加えて他者との闘いになる。


そんな中で、ひとりだけ、彼女の過程論述に目を留めた人物がいた。

それが、彼だった。


『綺麗な字だね』 

今でも覚えている。最初の会話はそこから始まった。

そこに特別があったわけではない。

特別でないから、だからこそ、記憶を取り除くことが出来ない。


この学校では、互いにライバルにはならない。

皆、最高クラスの偏差値を維持し続けて居る。

切磋琢磨を励行されたけれども、ここの生徒達と競うのではなく、その他大勢の者達と競うのだと教えられた。


未来を約束された空間。

ランクに拘らなければ、どこにでも進学できる環境が備わっている場所。

彩世はそこに居ながら、淡々と過ごした。

答えが同じであれば、文字の美醜は問題ない。

それなのに、彩世の字を美しいと言った人がいた。

■09


だからかもしれない。

だから、この文字に拘るのかもしれない。


書き写すことはしなかった。

書き連ねることはできないから、これらを消去しなくてはならない。

本当に短い時間だけの命の文字だとわかっているのに返信を書いてくれるその人のことを考えると、無為に雑に消去することはできなかった。

じっと数分眺める。

文字の形を記憶し、意味を記憶する。

それらは脳の別の分野で各々保存される。

一日のうちで、一番集中するときだ。

これほど短い言葉なのに、その意味は深い。

彩世は思い返す度に、もっと違った言葉を書けば良かったと思ってしまう。

そうしたら、どんな賢答が戻ってくるのだろうか。

それを想像するだけでも楽しかった。


決して・・・あの人の文字と似通っているわけではないから、まったくの第三者であった。

この文字は、彩世の知らない人であった。

こんなに綺麗な文字を書く人を見たことがなかった。


しかし、その相手を探すことはしなかった。

おそらく、夜間授業でここに座って居るのだろう。

調べればわかることなのかもしれない。けれども、そうしなかった。

根拠はないが、この人はそれを望んでいないような気がした。

夜間コースはすでに高等学校を卒業した者・・・つまり、浪人生の受講率が高い応用コースがほとんどであった。しかし、これほど綺麗な文字を書き、教養と言っては惜しいほどの文字を紡ぐ人物が浪人生であると言うのは納得できなかった。

そして、彩世はそこで思考を止める。

詮索は好まない。

相手も好んでいないと思う。

なぜなら、相手も彼女を探さないし、どのコースを受講しているかが一目瞭然であるアルファベットと現役生と浪人生を区別する末尾の籍番号を明かしてしまえば、彩世の身元は判明してしまう。

でも、そういったことは書かれていなかった。


だからこそ、こんな風に素直に気持ちを落とすことが出来たのだろうと思う。

文字を落とすことの意味について、考える。

大人になれば、筆跡は個人を表すことになる。

でも、彩世はまだ大人になりきれていない。

だから、彩世の表す紋様が責任を持つことはなかった。

それが良いことではなく、寂しいことなのだと、彼女はわかっていたのだけれども。

それでも、この人の言霊に耳を傾ける衝動を無視することは出来ない。


知らない相手だから、勝手気侭に意見することができる。


彩世は、それを承知していた。

だからこそ、彼女はその文字に浸れるのだと思った。

純粋に、文字の造形や意味に浸ることが出来るから。

だから、その文字は特別なのだと思った。


“離れた場所に居るからこそ、戀の利害得失について感じることがあるのかと思います。すべてではないのですが”

残り少ない時間の中で、彼女はそう書いた。


あと、数日でこの講習は終わる。


朝の寒気も、構内の静けさも。

皆、終わる。

年が明ければ、試験対策でここは賑わう。

彩世はその賑わいを受け入れることができずに、この講習でこの場所に来ることを終える。

未来を信じて、現役もそうでない者も一斉に集う場所の気配を感じるのは、これで最後だった。


自分は・・・何を求めてここにやって来たのだろうか。


彼女の在籍の学校であれば、ここで受講することに問題はなかった。

進学校の生徒に低額で受講させたり偏差のために模擬試験を受験させたりするのは、予備校の常套手段であった。

すでに学び終えてしまった内容であったけれども。

それでも、彼女はここを選んだ。

朝に出掛けられなくなるほど鬱屈した空気を漂わせたまま一日を過ごすより、自習室が完備された、個別ブースの充実した場所に来た方がより効果的だと思ったからだ。

しかし最近では寒さとこの月特有の気忙しさのためなのか、自宅近くの図書館の自習室を利用することが多かった。

家族が皆、大らかで、細かいことを彩世に問うたりしないところが彼女の救いになった。


そして彼女は筆記具を握る。これは永遠に続かない。だから、書く。

■10


“戀の結末はひとつしかありません。最後はどういう形であっても終わるのですから。愚かしいこととはわかっていても、引延してしまいます”


ここまで書いて、彼女はそれらを消去するかどうか躊躇った。

知性美あふれる文字の持ち主に、彼女は否定的なことばかり書いており、それに対して実に謙虚に実直に言葉を返すその人は、常に彼女を励ます言葉を書いていたからだ。

小さく細かく書くと、戀という文字が潰れてしまう。

でも、他の誰にも気がつかないほどの密やかなやり取りのために、彼女はそれまで遣っていた文具よりずっと細かく書くことの出来る先端の細い筆記具を使用するようになっていた。

あの人と交換したものではなかった。

告文(神仏に祈願の意を告げ奉る文のこと)のようであった。誰かに知られたり、漏らしたりすれば、終わりの見えているやり取りが中断されてしまう可能性があった。

・・・それでなくても、毎日、返答があるとは限らないというのに。


間もなく最終日を迎える。


誰も居ない冷えた教室で、彼女がひとり書くことに没頭できる時間は僅かであった。


相手が、自分と同じだけの時間を割いているとは限らないのだが。

それでも、同じ様に受け取った言葉を咀嚼し、次に紡ぐ言葉を組み立てる喜びを、その人は知っていると思った。


彼女が受講している時間、そのことだけを考えることはできなかった。

長い時間そうしてきた習慣であるのかもしれない。既に聞き覚えた内容であっても、新しい発見と人の思考の過程を知ることができる時間を貴重だと思っていた。


このことの為だけに費やす瞬間は短い。

それでも彼女はこの時間のために、厭わずにやって来ることが出来る。


だから。書き直すことを躊躇った。

前日から考えた言葉を返すことが出来ないから。

何度も書き直して推敲すればもっと気の利いた言葉を書くことが出来るのかもしれなかった。

でも、それは望んでいないのだろうと思った。

大規模な教室の片隅に残される文字を書いている人も、彼女と同じ様に、未来に向かって歩こうとしている人だからだ。目標は同じだろう。

でも、それでも何気なく書いた彩世の言葉に反応し、言葉を残していく人に真摯でありたかった。

講義室は皆が熱心であるとは限らない。温度差がある。けれども、共通していることがある。

皆、後ろを振り向かないのだ。

講師の話に耳を傾け、板書を写す。

最近では、サテライト授業やスクリーン投影のプレゼンテーション型の授業も多い。

正面に向かっているから、誰もが彩世の残す小さな文には気がつかない。


使用しているテキストの使用ベージが進んだ。間もなく、この日々は終わる。

テキストへの書き込みでびっしりと埋められているテキストは、美しくない。

反復学習を推奨されているので、こういった書き込みは良くないこともわかっていた。

しかし、俯いて話だけを聞いていることもできなかった。幾つか、同じ問題を学校の実習で扱ったが、その時の説明と違う部分を思い返してはメモを取った。

人の解釈とは、教える側でもこんなに違うものなのだと知る。嫌ではなかった。そういうものなのだ、と思っていたからだ。

そう。

人の感じ方は、同じではない。

けれども、数学も英語も国語も物理も・・・彼女が高等学校で受けた教育は答えが決まっているものばかりであった。


ひとり、またひとりと受講生達が入ってきた。

一様に、室温に顔を顰めていた。

今朝、一段と冷えたからだ。

講義開始直前の自習室は満席であることが多い。

だから皆、早めに来て、空いた時間を自習にあてるのだ。混雑しているので、遅れると奥まった席に座りづらいということもあったが。


それが頽廃的な主観的価値観だとわかっていたけれども。

結局、消去しようと思い切ることができなかった。

タイミングを失ってしまった彩世は、今日の返信をそのままにすることにした。


・・・顔を上げると、いつの間にかかなりの人数がすでに集合していた。壁に掛けられた時計を見ると、開始時刻にはまだ余裕があった。しかし、既に授業の準備を始めている講師や助手が入室していて、受講生達の質問に応じていた。

だからだろうか。

この講座が非常に人気があるというのは、こういう姿勢が好ましいと評判になったからだろう。

教育の側も、日々努力しなければ生き残れないと歎いていた講師が居たことを思い出した。彩世は、そっとテキストで机上の文言を覆った。


■11


忙しいから、時間が取れない。


あの人がそんな風に言うようになったのは、いつの頃からだろう。

最初を思い出すといつもの自分から逸脱することを認めざるを得ないので、彼女は最初を忘れることにした。

本当は、最初から最後まで覚えていたのに。

忘れたふりをすることにした。

それを彼が望んでいるとわかったから。


終わりが見えたから、秘匿を望んだのだろうか。

それとも。

終わりたくないから、緘黙を誓ったのだろうか。


最後、というものを認めるのが辛かった。

怖かった。

受け入れたくなかった。


忙しいけれども、時間を作るから。


そう言っていた台詞が、いつの間にか変わっていった。

溺れるような関係ではなかった。

互いに、誰にも打ち明けていなかった。

彼の方は、どうだったのか、結局のところはわからないが。

確認する必要もなかった。

そうする間もなく、彼が彩世と会わなくなったからだ。

電話が来るわけでもない。

尋ねに来るわけではない。

ふたりだけしか知らない方法で、連絡するわけでもない。


ここしばらくの共有空間は、図書館であった。

しかし自習室は個別ブースとなっており、彼女と顔を合わせながら同じ空気を楽しむという余裕はなかった。

空間を共有するだけだった。

はかどっているのか余裕が持てているのか聞きあうことさえしなかった。

ただ、来ているなと確認するだけ。

そして、帰りにさり気なく通りがかった軽く肩をたたいて帰る。

彼の方が先に帰っていく。

図書館で時間まで学習した後は、次の場所に向かっているからだ。


帰り道も別々であった。

並んで歩くこともできない。

会話することもできない。

それなら、同じ空間に居る必要はないのではないのか、とさえ思う。


けれども、そうできなかった。

最善の策を知っていながら、そうできない。

これこそ、戀なのではないのだろうか。

それを伝えることもできなかった。


彼が彩世と帰り道を一緒にしなかった理由は聞かされていた。

この予備校に通っているからである。彼女と違う路を行くから、彼は彼女と行動を伴にしない。


だから、彩世はここに来ることに決めた。

同じ講座でなくても、ここに来て、受講すれば終わりの時間が同じであるからだ。

彼と彩世の進学希望コースは同じであったから。

ひょっとすると同じ講座を受講できるかもしれない、という微かな期待があった。


しかし膨大な受講者数を宣伝とするこの場所で、彼の姿を探すのは至難の業だった。

直前対策コースのうち、何を受講するつもりなのか尋ねれば良いだけの話なのに。

彼女は、彼に問うことができなかった。

特別だから、何もかもを免除されるのではないと思い知った。

特別だと意識しているから・・・何も聞けないのだと思った。


だから、自分で確認しようと思った。

確認したかったから。

彩世も同じタイムスケジュールを過ごすことで、確かめたかった。

・・・本当に時間が取れないかどうかの是非について。


恋はすべてを凌駕するとは聞いていた。

どんな本を読んでも、誰に聞いても。皆がそう答える。

だから、彩世の恋は恋でも戀でもないのだと思わざるを得なかった。


でも、彼女には適用できなかった。

皆に訪れる感情について、彼女が他者とかけ離れた結果しか持たないことを、誰も責めない。

けれども、誰も問わない。

それだけのことなのに。


■12


始まりは単純だ。


嬉しかったら。


ただ・・・嬉しかった。

それが、始まりだった。

話しかけられたことが嬉しかった。

彩世のことについて、誰も興味を持たなかったのに。

深く知ることと詳しく知ることは違う。


“戀と文字は似ています。

形を変えるところ。形を持たないところ。

そして人によって得るものが違うところ。

文字と戀は似ています。“


彩世はこの文字を見た時。

人目を憚らず、大きな溜息を漏らした。


この空間では、こうして時折溜息を漏らす者に遭遇する確率が、街中のそれより非常に高い。

見通せない未来への歎息だと、周囲の者は思っただろう。

不安定な時期にさしかかっていた。

彩世が漏らした呼吸の循環過程から逸脱した呼気を気にする者は居ない。

誰もが進路への不安と吐息と思ったに違いない。

でも実際には違っていた。苦しくなって・・・この文字を読むと苦しくなって、溜息を吐き出さずにはいられない。

絶え間なく不定期に訪れる嘆きに、彩世は戸惑った。


この人とのやり取りの中で、負の感情を連想させる言葉を書いたが、それでも具体的に、誰かの不幸を願う言葉を綴ることは躊躇われた。

けれども。

誰かが恋しいのか、とか。

誰かを哀しく思うのか、とか。

尋ねて欲しい布石を残している自分の浅ましさに辟易していたのは真実だった。

自分の心を見透かしたような言葉に、彼女は言葉を失った。


・・・生涯、忘れることはないだろう。


彩世の年齢で、生涯、という言葉は遠い未来や永遠を表す。

・・・・叶わない夢想について、いつか・・・彩世は胸を痛くすることも忘れてしまうのかもしれない。

でも、今は忘れないでおこうと思った。

形に残らないけれども。

形に残してはいけないのだろうけれども。


彩世はテキストを取り出した。

乱暴に机上に重ねてしまうことで、文字が薄れることが怖かったので、あえてそこには乗せなかった。

しかし、誰からも見えない位置になるように、人工的に積み上げていく彼女の私物がひどく空虚であるな、と思えて仕方が無かった。

でも。

彼女がこの席で受講している間は、この文字は生きている。消えることは無い。


・・・この文字を読むことの愉しみに待つようになった。

この文字を消さなければいけないということが、彼女に大変な煩悶となったことを伝える術はなかった。

だから誰よりもはやく来て、できるだけ長い時間その文字が永らえるようにする。誰かが気がついてしまうかもしれない。必ず次の返事が書かれているとは限らない。

誰が書いているのかもわからない文字に、心が躍る。戀の疼きや喘ぎを書いているというのに。


あの人と会わなくなって、苦しくなっても文字にすることはしなかった。

残せば、もっと苦しくなると思ったからだ。

だからいつにも増して、勉学に打ち込んだ。

それ以外のことに没入することによって、湧き起こる虚無感と不安と焦燥を払いのけようとした。そしてそれは成功した。

ほんのひとときでも忘れている瞬間が頻繁に増えた。

次に、その瞬間を継続できるようになった。

それができるようになると、どんどん長く続けることが出来るようになった。

ひとつずつ越えていくことすら普通になった時に、彼女は彼の文字を思い浮かべることが出来なくなっていた。

彼の書いた答案を見たし、ノートに書かれた文字をあれほど頻繁に見ていたというのに。

彼の文字が、思い出せなくなった。


そんな風に、目の前の文字も忘れてしまうのだろうか。

いいや。それはない。忘れようと努力しても心の痛みが消えないのと同じ様に、形は忘れても、美しいと感じたことは忘れない。

家族にも言えない小さな嘆きを拾った相手の言葉に、今は和んでいる。


濁点のつけ方や、ひらがなのバランスが絶妙だった。これは書を学んだ者なのだろうと思われた。彩世はそれをじっと見つめた。

■13


“戀は苦しい。切ない。難しい。でも、理解できないと向き合うのをやめたら、本当に理解できなくなる。確かに、似ています”


満たされずにやりきれない思いが彼女を覆う。


それだけ書くと、彼女は壁掛けの時計を見上げた。

この文字を追っている時にはまったく周囲の気配に気がつかない。

それほど集中して見つめているのだ。

気がつけば、周囲の席はほとんど埋まっており、間もなく予鈴が天井に埋め込まれたスピーカーから流れ出てくるはずであった。

彩世が一点を凝視している様は自分で想像しても滑稽で奇妙であると承知していたので、彼女は問題編の文章を繰り返し読んでいる様子を装っていた。

びっしり問題が詰まったページを眺めているのであれば、手や体が動いていないのに机を見つめていても、おかしくない姿勢を用意した。

こめかみから頬にかかる髪が、彼女の目の動きを外に漏らすことを妨げて役に立った。

そして自分に対して嗤った。

ここまで来て、自分は愚かしくも他人から見られることに対策を立てるのだろうか。もう、誰にどう見られても良いのだと思いながらも、自分が誰にも見咎められないための方策を講じている矮小な行為を正当化したいだけではないのだろうか。そんな風に考えると、滑稽さが強調された。


最初。この文字の人にも言外に責められているような気がした。

お前は何をしているのだと叱られたのなら、それも受容できたのだろうと思う。


すでに何度も読み返した文字列であった。

印刷されたそれらを眺めることは嫌いではない。

しかし、目の前に広がっている手書きの暖まる言葉の紡ぎには温度を感じる。


確かに、そうだった。理解できないと向かいあうのをやめてしまったら・・・彼女はずっと、大人になってもずっと後悔するのだろうと思った。あの時にああしておけば良かったという気持ちは後悔と言う。後悔については、後から悔やむものだから存在を認めている。幾度も経験したことがあったからだ。

しかし、後悔するとわかっていることについて何もしないで居ることが彩世はできないのだろうと自分を分析していた。

何もしないで通り過ぎることができなかった。


だから。

そして、ほぼ満席になった席に並ぶ受講生達の中に自分も埋まっているのだと改めて気がついた。

皆、私語は一切発していないのに、人の気配というものはひしめき合うだけで騒がしかった。


顔を上げてみれば、すでに講師が助手と伴に本日の追加テキストを配っていた。この授業は進度が速い。

授業の後半では前日に課された独自の演習問題を使った解説が盛り込まれていた。

大変によくできた教材で、毎年同じ内容を使い回す傾向がある講師たちのそれらとは違っていて、前年度の傾向と対策が分析されて、解説を読むだけでも読み応えのあるボリュームのある小冊子であった。

そのテキスト欲しさに受講する生徒に複写を求める者が続出するくらいであった。


開始直前のマイクテストであったり紙の擦れる音であったり・・・奇妙な空間に立ち上る緊張感が彩世には身に染みた。


・・・彼女は居住まいを正して、授業に入る準備を整えようとした。電子辞書の使用が認められているが、彩世の学校では辞書の携帯以外は認められていなかった。だから、使い込んだ辞書を取り出してノートの白紙のページのひとつ前に目を落とす。前回何をやったか、その続きから始めることが常であるからだ。

毎回授業に出てこない者には理解できないから、脱落して出席してこなくなる者が出るかと思ったが、この講座は違っていた。


この文字の人も、この後の講義を受けているのだろうが・・・同じ様に溜息を漏らしテキストを受け取り、ノートを広げているのだろうか。

座席指定制であるので、おそらく同じ席に座っているのだろう。

そう考えると何だか面映ゆかった。体を僅かに揺すって、ひだのついたスカートを伸ばして膝を整えた。姿勢悪く座って居ることが気恥ずかしく思えた。


そして、いつものとおり・・・彼女は彼女が習得した方法で授業を迎えることにする。

集中するための入り口に自らを立たせる。

そのために、決まった位置に決まった文具を置く。

辞書を授業中に使うことはほとんど無いが、長年の習慣で机上に出しておくと落ち着いた。

その分、彩世の目の前のスペースが少なくなるので、工夫して、極力多くのものを出しっ放しにしないように整頓を心がけていた。


彼女は書かれた文字を消去しても、その上に自分の言葉を書き潰すことはしなかった。文字のあった場所の少し下方に自分の文字を書くことにした。

何となく、神聖視していたのかもしれない。

痴がましく図々しい者だと思われたくない、と自分に理由を作った。

動機は作れないが理由は作れるのだ。



■14


その時。

慌ただしく室内に駆け込む音がしたので、彩世は顔を上げた。


入り口は講師の立つ壇上の両脇に設置されている。

授業開始まではそこは開かれており、閉められているということは入室を不可としているからで、出ることはできても入ることはできない。

施錠こそされていないが、それは暗黙のルールだった。


この講座は途中入室が許可されていない。

こちらが費用を払って受講しているのだから、それは不当であると誰かが漏らしていたが、他の受講者の集中力が欠けるのであれば、それは適正な指示であるという判断が下された。

だから誰もが時間に余裕をもって入室する。

ざわりとした騒がしさの波が一瞬だけ湧き起こった。同時に始まりのブザーが鳴り響き、遅参者は時間内に入室するというただひとつの課題を乗り越えたのだ。

走って来たのだろう。

彼は、厚手のダッフルコートを着ていたが、長身のために酷く目立った。

外は寒いのに、暑そうに胸元を緩めて、大股で自分に割り当てられた席に向かって行く姿には、間に合ったという安堵が浮かんでいた。

そして軽く頭を下げながら、一列に並んだ席のうち、自分の席に座るために他の受講生の移動を小声で依頼していた。

毎日同じ席に座っていれば、同じ列であれば自然と顔くらいは覚えるものだ。けれども、見慣れない顔に、皆が怪訝そうな顔をしていたのが後ろの席から見えた。

そして、直前に配布されるテキストを受け取ることができなかったので、講師助手が席の近くまで行き、手渡しされていたが、それはいつ使用するものであるのか、要領を得ていないようだった。

そして、彩世の近くで小さな揶揄が飛び交った。

「女連れかよ・・・余裕だね」

皆が言葉は違えども、同じようなことを言った。

この場の雰囲気を読み込めていないその人物に向かって、刺すような、笑罵の視線を向けていることに気がついていない様子だった。

上着を脱ぐために肩を大きく揺らしているが、その上着の裾を持ち、狭い席で介助している華奢な手首を眺めながら、彩世は黙ってその様子を見つめていた。

ここの受講番号は、受付番号順に採番されていく。

つまり、彼らは前後で申し込みを行い、そして知り合いなのだ。

一緒に申し込んだ仲であるということはすぐにわかった。

テキストのページを指定して、今日はここからだと教える彼女の二の腕は、彼に近い場所にあった。

それほど窮屈な席ではなかったのに。

彼は胸元から受講証を出して・・・机に置いた。大きな鞄には、参考書や問題集や辞書が入っているのだろう。重そうに肩からおろすと、彼は周囲の視線を無視しながら必要なものを取り出し始めていた。真新しいテキストや教材が見えた。彩世のそれと明らかに違っていた。

彼女のテキストは何度も読み込み、おまけに書き込みもしてあるので、既に真新しい整った形をしていない。


・・・それで事情がわかった。

彩世は後ろの席に座っているが、一度も姿を見かけたことがなかったのは、彼がこの講座に出席していないからであった。ずっと空席だったので、気がつかなかっただけであった。今日、初めて出席したのだろう。

理由もわかっていた。

この時間の一つ前の講座に、同じ様に受講申し込みが抽選になるほどの人気の講座があった。現役生だけではなく、浪人生も多くその講座を希望するからだ。その講座は延長するのが有名な講師によるもので、毎回必ずといって良い程、終了時間を越える。

だから、連続してこちらの講座を受講することはできても、入室できないために今まで出席できなかったのだろう。

今日は駆け込んでようやく間に合ったということなのだろう。


彼が取り出した筆記具には見覚えがあった。彼女が差し出したものであったから。機能性を重視した重みのあるそれをたいそう気に入って、彩世が苦笑するほどの使用頻度であった。

無神経な人だな、と思った。隣の席に座る彼女は気がつかないのかもしれないが、気がついたらどうするつもりであるのだろう。

制服を着た彼女は、薄く化粧をしていて、彩世とはまるで違う雰囲気を持っていた。

小さく何かを囁いて、屈託無く笑う横顔が見えた。

きっと、明るくて朗らかで・・・彩世のように陰鬱で言葉が少ないと窘められることはないくらい、話し好きなのだろう。


講座を多く取ったから、会えないんだ。


そう言っていたのに。

確かに、彼は嘘を言っていなかった。

けれども、それを聞いたのは最近のことではなく・・・一体、いつのことだったのだろうか。それすら、思い返せなくなってしまっていた。

その場をすぐに離れるということもできなかった。

ただ、座って居るだけであった。


想像していたことを打ち消すために、彼の取っている講座と同じものを申し込んだ。

それなのに、彼女はそれを肯定する瞬間を見て、それほど自分が落胆していないことに落胆した。

彩世は、寄り添うふたつの背中をじっと見つめたままでいた。

遠くで、講師の流れるような声が聞こえてきた。

彼女はいつも通りに集中しようとして、机上に目を落とした。

でも、彩世が見つめていたのは教材の文字ではなかった。

机の端に書かれた文字を見つめているばかりであった。


■15


彩世が受講している講座は、この予備校では最も早い時間の講座であることは事実であった。

しかし、それは彩世が受講できる講座中、開始時間が最初のものであった。

・・・この予備校には、夜間のコースの他に、早朝コースがある。

生徒が多く集う理由がここにあった。

深夜の受講では効率が悪かった。

それに、青少年にかかる条例に抵触する時間帯を中心講座とすることはできないのが、現代の教育機関の悩ましい点であった。

苦肉の策として、早朝のコースを設けた。これが思ったより受講希望者が多く、抽選になるほどの希望者が出てしまったのだ。

受験生になる学年になると、1時限目は休講が多い。午後近い授業から開始されることが多かった。

これは、午前中に進路指導を行ったり、個別に補習を希望したりする者が多いからだ。午後の放課では、こういった大手の予備校に生徒が集まってしまう。

進学校は、補講を行うのは放課後と決まっていた。

教師の勤務体系がそれしか許されないからだ。

彩世の受けた、通常カリキュラムとしての補講とは違う。希望者だけを募る講座は必然的に午後に集中していた。だから、早朝の授業がもてはやされる。

最近の保護者は、夜遅くまで外出するより、朝早く出発する受験生を迎合する傾向にあった。

・・・だから、彩世の受ける講座は、朝一番ではないのだ。だから、この講座を受講する気になったのだが。


彼が、早朝コースを受講するので、彩世と会えないと言った時。

彩世は、同じ様に自分が申し込むことのできる講座で一番早い時間を希望する旨の申請書を出した。

時間が空けば、自習室や空いているスペースで待機すれば良いと考えていた。

そしてその通りに実行したのだ。

たまたま、彼女の受講する授業の使用教室が、その日の最初に使用する教室であった。


だから。

・・・どこで会えるのか、彼女は実験してみたのだ。

自習室かもしれない。

この人気講座かもしれない。

・・・それとも、早朝コースが終わった時間の人混みの中での再会かもしれない。

とにかく、彼女は賭けてみることにした。

忙しくて会えないという彼の言葉を覆すために。

時間が合わないのではなくて、合わそうとしないということを証明するために。彼女は、ここにやって来たのだ。


・・・・待ってくれと言われれば、待てた。しかし、彼はそう言わなかった。

彩世の淡々とした態度が、彼の心を蝕んだ。遠くに追いやってしまった。

世の中の恋愛道がわからない。理解できない。

妹や周囲の者に聞けば、わかったかもしれない。でも、秘密にしようと彼と誓ったから、彼女は誰にも聞けなかった。

こんな時に・・・どうやって戀を温め続けるのかという方法を知らなかった。


そうかもしれないな、と思った事が現実になった時。

人は、衝撃を受けて信じたくないと思うのかと想像していた。でも違った。

・・・やっぱりね、と思うのだ。

それは人の心が乱されることを回避するための、防御のひとつであった。

思わぬ事に無防備でいるより、どこかでそうなるかもしれないと予防策を講じていたという形式であれば、人は自分を繕うことができる。


彼女が受講することのできなかった講座を受けるからと彼は言い訳をした。

そして、彩世は・・・黙ってそれを受け入れたのだ。

終わりが近い戀の言葉は、酷く虚しかった。

それなのに、それに縋り付こうとする自分が惨めで卑しく感じられた。

だから。

終わりにするのではなく、終えられないからここに居る。

恋のためだけではない。

彩世には、この授業を受ける意義があった。彩世の高校は進学校だ。受講するだけで、この予備校にも利益がある。

受講生の統計偏差値が、彩世が居るだけで少し上がる。

彼女の成績であれば、模試も無料であったし、この受講コースも割安で受けることができた。


朝早く来ていた。空気の張り詰めた空間に入り込むことについてまったく違和感を覚えなかった。

彩世はいつも・・・混雑を避けて、時間をずらして登校していたから。

それを知っていた彼は、彼女のことを勤勉だと褒めたから。


少し深く掘り下げて考えれば、矛盾に気がついたのに。

彩世は、それの存在を知りながら無視したのだ。


・・・彼女の思い通りにならない結末に導かれるからだ。


事実は目の前に提示されていたのに、彩世はそのことを受け入れなかった。・・・・それがいけないとは言わない。

誰も言わない。なぜなら、彩世の人生について誰も関与しないという環境に生息しているからだ。


■16


彼が、別の人を好きになったというのは、何となく感じていたことだった。

誰か他の人を好きになったということではなくて、彩世に感じていた感情が、薄らいでしまったのだと思った。だから彼は彩世を遠ざけていたのだ。

まだ、この年齢では面と向かってはっきりと嫌悪を表すことも、表されることにも慣れていなかった。けれども、それは、本当は話さなければならないことや通知しなければならないことを先送りにして良い理由にならなかった。


どうせなら、嫌いになってくれれば良かったのに。

大きく派手に喧嘩して、そのままわかり合えないわね、とお互いに納得できれば良かったのに。


でも、違った。


嫌いになったのではなくて、厭わしくなったのだと感じる瞬間が、幾度かあった。

そして、その次に、彼女に無関心になったのだ。

終わりを告げることなく、次の始まりに足を踏み入れた彼のことを不実と詰ることもできなかった。

・・・会ってくれなかったから。

なぜ、そんな風に変わってしまったのか、彩世は理由を知っていた。

でも、それは自分ではどうにもならないことだった。

何かできたとしても、彩世がそうすることで、彼は益々・・・彩世から離れて行ってしまうだろう。


何をしても何もしなくても、彼の心は離れて行くばかりなのだ。


だからと言って事の成り行きを傍観していることができるほどの高みにいるわけではなかった。感情を上手に最適の瞬間に表出することは得手ではなかったが、それでも彼女の中でははっきりとした意識があった。彼は特別だった。彼女の中では・・・特別だったのだ。


他を意識できないくらいに。

他を意識しないといけないくらいに。


消滅してしまえるほどの淡さであるのなら、自分はこれほどの計画は実行しなかっただろう、と思った。

普段何事にも淡泊な彩世がこれほどのことをするということについて、彼はまったく・・・彩世のことを理解していなかったのだ。

あれほど近い場所にいたのに、今も近い場所に着座しているのに、彼はまったく彩世に気がついて居なかった。

彼と彼女の学校の制服は派手やかしさはなかったので、他の者たちに埋もれていたとしても・・・それでも、何かしら違和感を覚えることはなかったのだろうか。

・・・一度きりしか入室していなかったのだとしたら、仕方の無いことなのかもしれない。そう思うことにしたが、何とも言えない、やりきれなさだけが残った。


声も聞かせてくれなかった。顔を見せるだけでも良いからという努力もなかった。これは彼だけを責めるわけにはいかないと思ったが、それなら何にぶつければこれは怒りにも哀しみにもならないのだろうか、と考え続けた。



・・・彼女は、机の上で、ぎゅっと拳を握った。


自分が貪欲になっていることに気がついた。

何かに期待しなければ、何も感じることはなかったのに。

何かに期待してしまっているから、彼女は何かを感じているのだ。


皆、高額な受講料を支払い、懸命に前を向いている姿は、とても奇妙だった。

こういった場所では、皆が・・・前だけしか向いていないのだ。横も後ろも視線を移らせない。

もし、彼が散漫な人間であったのなら、後方に座る彩世の姿や視線に気がついたのかもしれない。

けれども、それはなかった。

彼が気にしているのは・・・隣席の者から伝わる温度だけであった。


勉学の場所での行為ではないと、眉を顰める者が居るだろうからという配慮を感じる程度であった。彼の配慮は彼の周囲だけにしか及んでいなかったのだ。

隣席の者と彼との間には・・・そこには確かに彼の席の反対側に座る者とは違う、とても近い距離だけしかなかった。


彼女の中に虚無だけしか残らないか、と言ったら・・・実際はそうでなかったことに驚愕していた。これは、机上で言葉を交わすあの人に対して、自分の日頃の覚悟や予感をしたためていたからなのだ、と気がつくまでにはそれほど長い時間はかからなかった。

今、思い返してみると、相手の言葉は別れの予感を察知していた彩世への励ましの言葉そのものであった。

おそらく、相手も苦笑していたことだろうと思う。具体的に相談することを決してしない高慢な者が、本人は遠回しに自分の傷心をそれとわかならいような曖昧な文字にして書き殴っているようにしか思えない拙い叫びを見て・・・何と答えて良いのか、きっと困っていたのだろうと思った。

今の目の前に座って居る彼と、同じであった。周囲に配慮しているようで、手元しか見えていなかったのだ。彩世は溜息をついた。ひとつだけ。静かに。


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