第7話 見えない鎖
DISPELLERS(仮)の Ⅱ
7.第7話 見えない鎖
翌日。
一行は車で3時間程移動し、守東院地所の社長・守東院宗也に会う為、指定された場所へ向かっていた。
そこは、大きな都市部の一角の、高台に位置する高級住宅地だった。
全ての家が立派な門扉と塀に囲まれた広い敷地を持ち、街のあちこちには緑の公園がある。
一般的な市街地とは時間の流れが少し違うようにさえ錯覚する、いわゆる山の手と呼ばれるような所で、企業が事務所
や社屋を構えるには些か不釣り合いな場所でもある。
実は、守東院宗也は、澪菜達との面会に事務所ではなく自宅を指定していたのであった。
その自宅、常識離れした桐屋敷家の大豪邸とは比べるべくもないが、敷地は近隣の高級そうな屋敷よりも一段と広く、
白壁塗りの塀の中はマツやゲッケイジュなどの他にサクラの木まであって、外からでは建物が見えない。
門の前でインターホン越しに到着を伝え、中へ入って行くと、ようやく高級料亭を思わせる館に辿り着く。
それなりの資産家であるのはすぐ分かる。
館の脇に、10台前後停められる舗装された駐車場があった。
寿がそこに車を停めると、澪菜が同乗していたみんなに言った。
「大勢で押しかけるのも失礼ですので、お会いするのはわたくし一人で結構ですわ。
ここで暫く待っていて」
それに異議を唱えたのは、当然自分も行くものと思っていた彪冴。
「おいおい澪ちん、そりゃねぇぜ。
俺の方が主役だっての。
澪ちんはヘルパーだろ」
「わたくしは介護士などではなくてよ」
「介護ヘルパー違う」
「エスコートしたいと仰るなら止めはしませんけれど、余計な口出しは一切無用ですわよ。
どうせ貴方は大した事言えないんだから」
「やれやれ、お嬢様にも困ったもんだ。
何をするにも自分が仕切らねぇと気が済まねぇんだからな。
だがまあ、この家じゃ相手も相当インテリそうだし、話をするのは澪ちんに任せるさ」
玄関で応対に出たのは、エプロン姿の家政婦さんと見られる女性だった。
その人当たりの良い営業スマイルに導かれるまま、二人は応接間へと通された。
テラスルームを思わせる壁一面の大窓から、外のタケやカエデといった和の趣きを演出する木々をソファーに座って
望む設えの、広くはないが落ち着いた感じの部屋だった。
誰からも勧められていないのに勝手にソファーに座って寛ぐ彪冴と、それを諫める澪菜のところへ、程なくして館の
主が現れた。
守東院宗也は細身で背が高く、まだ四十代だろうか。
オールバックにした髪や、ダブルのスーツをさりげなく着こなすところなど、かなり身なりに気を遣うダンディーな
紳士といった印象だった。
「申し訳ありませんでした、わざわざこんな遠くまで。
ウチの会社は昨日が仕事納めでしてね、事務所の方にはもう誰もいないから自宅まで来てもらう事にしました」
「こちらこそ、わたくし達の為にわざわざお休みの日にお時間をいただいて感謝いたしますわ」
「いえいえ、それには及びませんよ。
僕もお会いするのを楽しみにしてましたから」
簡単な自己紹介を終えると、澪菜はすぐに質問を切り出した。
「さっそくですけれど、稲北不動産との間で売買交渉が進んでいる山林について、あの土地を手放す事にした理由を、
差し支えなければお教えいただきたいのですけれど」
「理由といっても特にはありませんよ、僕にとっては商品の一つだからね。
商品を売って利益を得るのは、商売人としては当然の行為でしょ。
とりわけ白眉という物でもありませんし、何も虎の子の如く渋る道理もない」
「という事は、貴方の方が旗振りと理解してよろしいんですのね。
では、なぜ今になって売却をお考えになられたんですの?」
「タイミングの問題かな。
あの山林は、随分以前から売却は考えていたんですよ。
ただ、手頃な相手がいなくてね。
あの土地自体には大した価値もないから。
確かに、近くに温泉と海水浴場があるから、立地的には悪くない場所だとは思ったんですけど、とはいえ、そこに
投資して、かつそれに見合うだけの利益が出ると判断する業者や投資家を見つけられなかった。
買い手がつかなかったんです。
そんな時、稲北さんを知ってね。
ウチは、会社といっても殆ど僕一人でやってる個人事業者みたいなもので、買った土地をそのまま売ったり業者間の
仲介をするのがせいぜいだから、転売屋とか地上げ屋といった謗りは免れませんが、あちらさんはデベロッパーです
からね。
建売住宅や商業施設も手掛けているから、一度声をかけてみようと思いまして」
「売買に条件をお付けになったのはなぜですの?」
「元々、ずっと放置してきた土地だからね。
特に規制している訳でもないのに地元の人も誰も入る事もないようですので、切り開いて整備しても誰も困らない、
むしろ、外部から人を呼べるならその方が地元の為にもいいんじゃないかという思いもあります。
ただ、これは僕の意見、私考であって、現地の人がどう考えるかはしっかり確認する必要がある。
だから、稲北さんには地元の同意を得た開発計画を以て、契約の成立要件を満たすものとすると申し伝えました。
まあ、売ってしまえば後はどうなろうと僕の知った事ではないのですが、それでは後味が悪いというか枕を高くして
眠れないというかね。
僕にとってはただの商品でも、不動産という言葉の如く土地というのは動かす事が出来ないものだから、そこに住む
人達の気持ちを無視していてはお互いに幸せにはなれないというのが理念としてあるんです。
偽善と思われるかも知れませんが、この会社を起ち上げた父親がそういう性分でしたし、僕もその考え方は間違って
いないと思ってます」
「地元の人は開発には後ろ向きだというのはご存知ですの?」
「それは知らないな、初耳だ。
僕が現地に行ったのは、自治会長の三鳥さんにご挨拶に行った一度きりですからね。
その時も、そんな話は出ませんでしたよ。
なぜ反対するのかな。
稲北さんが打ち出した計画は、そんなに地元の負担になるとは思わないけどな。
路線価の上昇に伴う相続税や、或いは固定資産税の増額を嫌っているとしか考えられませんが、そんなに著しく変動
するとも思わないし、人の往来が増えればそれだけビジネスチャンスも増える訳ですから、出費を補うに足る収入を
得る方法は幾らでも考える余地があるでしょう。
空き地を駐車場にしてもいいし、店舗を誘致してもいい。
休耕田や畑を転用するとなると、煩雑な手続きや初期投資も必要になりますが、確実に実入りは良くなるはずです。
もっと簡単でいいなら、自動販売機を設置するだけでもある程度の収入は期待出来ますよ」
「抜け目のない方であれば、そういう発想に至るのはごく自然な事なのでしょうし、住民の中にもそう考える方もいる
のかも知れませんけれど、多くの方々は手を着けずに今のままの状態で保存して欲しいと考えておいでなのですわ。
あそこは山神様の臥所であり、穢すべからざる禁忌の地であると言われているそうですの。
ですから、畏れ多くて誰も近寄らないし立ち入らない。
いわば、神聖な場所なのですわ」
「山神様・・・、信仰の地とか?」
「特に積極的に祀ったりはしていないようですけれど、言い換えれば、あの山自体が畏怖の対象なのですわ。
古い言い伝えなども沢山残っているそうですし」
「霊山的な?
山が御神体という神社もあるといいますからね」
「かも知れませんわね」
「なるほどな・・・、それはとても興味深いお話です。
そうか、そういう事情があったんですか。
つまり、彼等は物理的な満足よりも精神的な充足を望むという事ですね」
「いいえ、物理的な充足よりも精神的な満足を尊ぶのですわ。
軽蔑に値しますかしら、経済人としては」
「そんな事はありませんよ。
お金では手に入らないものがある事を、僕は知っていますからね。
地元の人の意見は最大限尊重されねばならないし、それが心の拠り所となっているなら尚更です。
ですが、それをあなたが僕に伝える事にどんな意図があるんですか?
土地を売らないで欲しいと、地元の意見を代弁しに来たと理解していいんでしょうか」
「お考え直しいただけるのであれば、それに越した事はありませんわ」
「ストレートなお方ですね。
あなたは地元とは無関係なのに、三鳥さんを差し置いて僭越とお考えにはなりませんか」
「地元の意見を代弁するのは自治会長さんのお役目ですけれど、それは稲北不動産との交渉の席に於ける立場であると
考えますわ」
「フム・・・、あなたの主張は分かりました。
向こうの交渉はそんなに不調なのですか?」
「いいえ、正式に交渉が始まるのは年明け以降になるそうですわ。
現在はまだ、稲北不動産の計画が実現可能かどうかの測量調査の段階ですの」
「そうですか、そうですね、まだ早いですよね。
しかし、今の僕の立場としては、あなたのご希望には添えないとしかお答え出来ません。
僕もこれで妻子や事務所の職員を養っている訳だし、この件は僕の方から持ちかけた話ですから、稲北さんの側から
断念する旨の意思表示がない限り、僕の方としては取り下げる理由がない。
そこはご理解いただけますか」
「もちろんですわ。
わたくしも、今回はご挨拶にお伺いしただけですので、初めから満額回答をいただけるとは思っておりませんわ」
「そう言っていただけると助かります。
実に有意義な時間でした、色々と知らない事も聞けましたし。
またお目にかかりたいですね、あなたはとても聡明なお嬢さんだ。
僕にも年頃の娘がいますが、あなたには遠く及ばない」
「こちらこそ、お会いいただいてお礼申し上げますわ」
会見を終え、退席した澪菜と彪冴は、玄関までの廊下を歩きながら意見し合った。
「どうも、売るのをやめる気はねぇっぽいな」
「予想の範囲内ですわね、幾つか目新しい情報はあったけれど」
「あのセドラー野郎、相当いやらしい目で澪ちん見てたな」
「あらそう?
時々鋭い目つきは見せたけれど、悪い印象は受けませんでしたわよ」
「いや、あれは腹黒いね、策士の顔だ」
「貴方の目が曇ってるんじゃなくて?
だいたい、貴方はずっと窓の外を見ながらコーヒー飲んでただけじゃありませんの。
そんな不真面目な観察に信憑性はなくてよ」
「口を出すなっつったのはそっちだろ。
でも、さすが澪ちんだ、世の男共は老いも若きも釘付けだもんな」
「貴方のお世辞はひねりがなくてつまりませんわ」
「お世辞じゃねぇ、心の叫びだ。
で、次は稲北に行くんか?」
「うーん・・、今はその必要はありませんわね。
まだ、その前にするべき事があるはずですわ」
☆
玄関を出るとすぐに、駐車場へ続く舗装路の上で、散り散りになって各々神妙な顔つきで周囲をキョロキョロ見渡して
いる明月達の姿が目に入った。
何をしているのか分からないが、宗也との会見の結果よりも気になる事があるらしい。
「どうしましたの?、浮かない顔で。
季節外れのツバメでも飛んでますの?」
「なんか感じるんだ、この辺」
明月がボソッと答える。
彼が普通とは違う雰囲気を感じる時は必ず何かある。
澪菜は、これまでの経験から瞬間的に判断した。
「なにかって、妖気ですの?」
「分からん・・、けど普通じゃねぇ」
次いで、近付いてきた薺に聞いてみると、とんでもない言葉が返ってきた。
「薺は?、感じます?」
「・・・・たぶん、呪い」
「呪い!?、呪いですの?」
「なにか、呪われてる」
呪いとは聞き捨てならない。
新たな展開を予感させるのに十分過ぎる答えだった。
「なにかって、なんですの?」
「御台所は気付かなかったの?、でごさいますか?」
「誰が大奥ですの!
妖気とは違いますの?」
「雰囲気が違うざます。
前にお祓いに行った家もこんな感じだったですよ」
「垣根神社にいた頃にですのね」
「はいです」
「祓える?」
「無理」
「なぜですの?」
「何が呪われてるのか分からない。
そこが一番気が強いから、そこが分からないと祓う方法が決められない」
「どこなのかしら、明月には分かりますの?」
「いや、たぶん家の中だとは思うんだが、微か過ぎてはっきりしねーな」
この、微妙な気配だけで呪いと分かってしまう薺の感覚の鋭敏さは、持って生まれた感性と数々の経験を積み重ねた者
だけが持ち得る類い希なる特殊技能と言っていい。
逆に、時折口にする緊張感に欠ける言葉遣いは、彼女の単なる甘えん坊な幼児性の表れであり、注目して欲しい時か、
または注目されて嬉しい時にわざとやっているだけで、能力とは全く関係ない。
(紛らわしい事すんな)
付近にいた曄と寿にも聞いてみたが、二人ともよく分からないと言う。
当の澪菜ですら、何も感じないばかりか、館の中にいたにも関わらず全く気付かなかったのだから、明月と薺の人並み
を遙かに超える敏感さを再認識せずにはいられない。
その事を最も感じていたのは他ならぬ彪冴だった。
「すげぇな二人共。
アッキーは八百神の親父さんの息子だからなんとなく分かるが、ナズっちは結界の専門家なんだろ。
さすが巫女だな、巫女ってみんなそうなんか?」
「ナズっち違う、整ってないし」
「そりゃねづっちだろ。
悪かったよ、変な事言って。
ナズちゃんでいいか?」
「分かればよろしい」
自分の認識の甘さを素直に詫びる彪冴を見て、薺は、さも当然と言わんばかりに淡々と言い返す。
顔には出さなかったが、結構に自尊心をくすぐられたらしく、その直後に曄の方を見てスッとVサインを出して見せた
ところに、彼女の心境が鮮明に見えた。
「しかし、呪いたぁ穏やかじゃねぇな。
どうするよ澪ちん、もっぺん戻ってあのダンディーおやじに聞いてみっか?」
「それをするには、もっとはっきりした根拠が必要ですわ。
どこかに、呪いの正体を知る手がかりはないかしら」
「ほんじゃ、とりあえず家の周りをぐるっと一周してみるか。
なんか分かるかも知れねぇぜ」
「そうですわね・・・」
その時だった。
再び、明月が何かを探すように空を見上げた。
彼がその目で追っているものは、澪菜をはじめそこにいる全員にも明確に感じる事の出来る妖気。
薺の言った呪いとは全くの別物であり、新たな妖怪の出現を意味していた。
暫く上空に目を凝らしていると、薄曇りの中を一羽のトリが接近して来るのが見えた。
黒っぽく、カラスのようにも見える。
「あ、あれか?、澪ちん・・・、でもあれただのカラスじゃね?」
「いいえ、あれに間違いないですわ」
澪菜と彪冴がその姿を確認するが早いか、曄が動いた。
「オッタン!、落っことして!」
久々に発動したそれは、文字通り地対空迎撃ミサイルだった。
曄の肩から、一陣の突風を起こして発射と同時に姿を消し、あれよあれよのうちに強風と共に一撃で鳥妖怪を仕留めて
しまうのだ。
トリの姿をした妖怪は、空中で銃に射貫かれたかのように不自然に羽根を散らして、真っ逆様に館の敷地の木々の中に
落ちてきた。
「す、すっげー!
曄っちのペットはスティンガーかよ。
スターストリークでもいいけど」
「なんですかそれ、意味分かんないですよ」
「いやいや、鎌鼬を飼い馴らす方が分からん。
そんな殄魔師聞いた事ねぇぞ」
固有名詞を出されても、門外漢の曄には全く分からないが、彪冴の例えは実に正確に特徴を捉えている。
草むらの中で見つけたそれは、落ちたショックで気を失っているのか、鎌鼬の一撃が致命傷だったのか、指先で突いて
みてもピクリとも動かなかった。
近くで見ると、カラスより一回りか二回り程大きく、羽毛の色は黒ではなく濃い焦げ茶色で、鋭い鉤爪のついた頑丈な
足を持ち、一見してトビかタカに似ているものの、猛禽類特有の鉤型のくちばしはない。
どちらかといえば、一番近いのはシャモだろうか。
明らかな妖気を放つ妖怪なのだから、どの鳥類図鑑でも百科事典でもこの鳥は載っていまい。
妖怪に詳しい寿も、見当は付けられるが正確には断定出来ないと言う。
彼女の実家の寺にある妖怪関係の古い蔵書になら手がかりを見つけられるかも知れないが、今調べる事も不可能だ。
明月が、その鳥を両手で捕まえて持ち上げようとしたところ、にわかに目を覚まして騒ぎ出したので、暴れないように
少し気を送って弱らせてやった。
「痛たたたた、何をするかうぬ等、放さんか」
「あらら、しゃべったよこいつ」
「黙れ虚け者、とっとと放さんか!」
言葉を話す妖怪はもはや珍しくもなく、それだけでは驚きも恐れもしない。
ただ、その耳障りな甲高いしゃがれ声は、聞いているだけで気分が損なわれるものだった。
夜中に暗闇の中でこれを聞いたら、さぞや気味の悪い思いをする事になるだろう。
それでも澪菜は躊躇わず質問した。
「そうはいきませんわ、貴方は一体何者ですの?」
「やかましいわ!
なにやらいつもと違う気配がするので気になって来てみれば、うぬ等こそ何者じゃ」
「その言いぐさ、ただの通りすがりではなさそうですわね。
貴方が呪いの張本人ですの?」
「呪い?、呪いじゃと?
ははぁん、さてはうぬ等、館の主に頼まれて娘の呪いを解きに来た術者じゃな。
ただの小童ではなかろう。
言っておくが、ここの娘に呪いをかけたのはワシではないぞ」
娘が呪われている。
確かに、守東院宗也は自分にも年頃の娘がいると話していた。
その娘が呪われているのか、だとすれば、一体どんな呪いだろう。
澪菜の質問を機に、興味深い事実が浮かび上がってきた。
「では、その呪いの主とは誰ですの?」
「どこかの妖者が娘に呪いをかけたのじゃ。
ワシはそれを見ておった。
通りがかりに空の上から見ただけなので詳しくは知らんが、なにせ禍々しい邪気を放つ奴でな。
それ以降、あの妖者が再び現れて娘を食うのを待っておって、そのおこぼれに与ろうと時々様子を窺いに立ち寄るの
じゃが、これがなかなかに現れん」
「どんな妖ですの?」
「良くは知らん。
ワシと同じようなトリの姿をした奴じゃった」
彪冴が加わった。
「トリ?、やっぱてめぇじゃねぇか」
「断じて違う。
彼奴は人の生き肝を食らう種の妖じゃ、禍々しい上にも生臭い妖気じゃった」
「それはいつの事ですの?」
「さて、いつじゃったかな・・、娘が生まれてそう年もいかん頃じゃったはずじゃが・・・」
「そんな前ですの!」
「親父は年頃って言ってたけどよ、娘は今何歳だよ」
「分かりませんけれど、恐らく10年から15年、20年くらいは経っていると考えられますわね」
「じゃあ、てめぇはそんなに長い間待ってたってのか。
とっとと先に食っちまえばいいってのに。
嘘ついてんじゃねぇのか」
「偽りなどではないわ。
そんな事をしたら、今度はワシがあの妖者に襲われてしまうではないか。
それだけはご免被りたいものじゃ」
「要するに、てめぇはただの小者って事なんだな」
「黙れ小童。
お前もええ加減に放せ!」
鳥は、自分を掴まえる明月の手を突こうともがく。
「おっと、動くな、焼き鳥にすんぞ」
(誰も食わねーけど)
ちょっと強めに気を込めてやると、すぐに項垂れた。
「うぅぅ、や、やめれ・・・」
澪菜は質問を続ける。
「どんな呪いをかけたんですの?」
「知らぬわ。
どうせうぬ等は呪いを解く気なのであろう。
うぬ等の周りに嫌な気配が漂っておるわ。
もう放せ、ワシは無関係なのじゃ」
「その妖怪は、それ以降姿を見せてないんですのね?」
「娘がまだ生きとるという事は、そういう事なんじゃろうな」
呪いをかけておいて何年も放置したままとは、こんな話は聞いた事がない。
「一体これはどういう事なのかしら・・・」
「そいつ、もう死んでんじゃねぇの?
だったら辻褄が合うってもんだぜ」
「いいえ、呪いの主が死んだのなら、呪いは既に解けていていいはずですわ。
それがまだ残ってるという事は、その仮説は説得力に欠けますわね」
「じゃあ、やっぱりこの鳥が嘘ついてんだ」
「ならば殺すが良かろう。
たとえワシを殺しても、呪いは解けんぞ」
「言い逃れじゃねぇんだな」
「違うと何度も言うておる!」
この話が真実なら、娘は幼少期からずっと呪いに苦しめられ続けている事になる。
だとすれば、これはただ事ではない。
曄が立ち上がった。
「こうしちゃいらんないわね」
呪われた娘の事を思って、同情と哀憫と使命感に突き動かされ、居ても立ってもいられなくなった。
「焦るのは禁物ですわよ曄。
とはいえ、今はここの娘さんの状態を確認する方が優先ですわね」
澪菜は曄を抑えたが、彼女自身もこの件には並々ならぬ好奇心をそそられたのも事実。
結果、再び玄関の呼び鈴を鳴らす事になった。
彪冴の止めるのも聞かずに。
「おいおい澪ちん、いいんかいそれで。
俺等には関係ねぇ話だぜ」
「承知してますわ。
貴方はなんとも思いませんの?、すぐそこに呪いをかけられた人がいるというのに」
「気持ちは分かるが出しゃばり過ぎだって」
「わたくしは、知ってしまった以上は放ってはおけないし、それは曄も同じ気持ちのはずですわ。
それに、必要とあらば呪いを解く専門家を紹介する事だって吝かではありませんのよ」
「なんだ商売かよ。
だったら自分でやった方が手っ取り早いだろ、こんだけのメンツが揃ってんだぜ」
「それが出来れば苦労はしませんわ」
☆
出迎えた家政婦さんに取り次いでもらって、エントランスに現れた守東院宗也と再び対面する。
「どうしました、まだ何か聞きたい事でもあるんですか?」
「ええ、その通りですわ、再びの失礼をご容赦ただけますかしら。
ただし、今回はこちらのご息女に関する事なのですけれど」
「娘?
ウチの娘がなにか?」
「一度お目にかかりたいのですけれど、お会い出来ますかしら」
「残念ですが、娘は朝から学校の友人と買い物に出かけておりまして、今は家にはおりません」
「そうですの・・・。
お幾つでいらっしゃいますの?」
「15ですが、高校生」
「お元気ですの?、健康状態に異変があるとかはありませんの?」
頻りに娘の事を聞きたがる澪菜に、宗也は眉間に皺を寄せて訝った。
「一体何をしたいんですか、娘がどうだと言うんですか」
その反応を待っていたかのように、澪菜の顔から愛想笑いが消え、目が厳しくなった。
「わたくし共も、つい今し方知ったばかりですので、非礼がありましたらお詫びいたしますけれど、火急に確認したい
事があるのですわ。
率直に申しますと、お嬢さんは呪われているのではありませんの?」
「の、呪われ・・・」
宗也の顔色が急変した。
「な、何を急に言い出すんですか、あなたは・・」
「申し遅れましたけれど、わたくしは白泰山会に籍を置く陰陽師ですわ。
先程、玄関先で通りがかりの妖怪に聞きましたの、こちらのお嬢さんが呪われていると」
「お、陰陽師?
・・な、なぜそんな人がここへ・・・」
明らかに動揺の色が濃くなった。
澪菜の事を、環境調査に熱心なただの高校生と思っていたのだから当然か。
陰陽師と聞いて驚きたじろいでしまうのは、世間一般のごく普通の人にはよくある反応だ。
ただし、その時の宗也を、澪菜は別の感想を抱きながら見ていた。
彼は確実に何かを知っている、そう確信した。
「そのご説明は後程いたしますので、今は一刻も早くご息女にかけられた呪いの正体を知り、その対策を講じる準備を
しなければなりませんわ」
「で、ですから、娘は今はいないと・・」
「ご主人には、何か心当たりがあるのではありませんの?」
宗也の顔色が冴えず、一段と曇ってしまった。
沈痛な面持ちで視線を俯角にし、なにか思い煩っているのは間違いないのに口が重い。
暫くの沈黙の後、搾り出すように一言発し、次いではっきりした口調で言い直した。
「帰って・・・、帰っていただけませんか」
突然、陰陽師という専門職が登場して、知りもしないはずの家の内情を暴露し、更に娘の不在を理由にお茶を濁そうと
したのを見透かされてしまっては、どう対処してよいものか迷い倦ねてしまった。
そして開き直った。
「ああそうです。
確かに娘は呪われている。
だが、その件は既に解決に向かっている、もう手配済みなんです。
だから、あなた方の出る幕はない。
お引き取り願いましょう」
宗也は、鋭く厳しい目つきで澪菜を見据え、きっぱりと申し出を断った。
開き直ったせいなのか、その目には強い意志のようなものを滲ませている。
決意なのか、覚悟なのか・・・。
そんな気迫に押し返される程に小胆な澪菜ではないにしろ、既に他の祓い人を用立てているとなると、いかに弁の立つ
彼女といえども、これ以上は立ち入る根拠を失ってしまう。
営業妨害になる事を考慮すれば如何ともし難く、事情はどうあれ引き際は弁えねばならない。
彼女は、満たされぬ欲求を抱えたまま、渋々頭を下げて玄関を出た。
☆
意気消沈気味に、ため息をつきながら玄関扉を閉めた澪菜。
何も発せず、下を向いて深く考え込む。
このまま引き下がってよいのか、それで事態は快方に進むのか。
仮にそうでも、外部の人間の介在によって得られる果実を、ただ甘んじて食すのでは胸が晴れない。
僅か数分で戻ってきた彼女の沈んだ顔を見ても、戸外で漏れ聞こえる会話を聞きながら待っていた者達には、かける
言葉を持たなかった。
慰めは無意味だし、別の妙案がある訳でもない。
この状況をどうするかは、彼女の判断を待つのみだ。
重々しい空気が、時計の進みまで鈍くしてしまったかのようだった。
明月も、ただ黙って立っているだけだったのだが、その手に掴まれていた鳥妖怪が奇妙な事を言い出した。
「もしや、あの主、あの時のいかがわしい占いじじいの事を言うておるのではなかろうな」
「はあ?
なに言ってんだおめぇ、訳分かんねー事言うんじゃねーよ」
「やれやれ、手に負えぬ愚か者じゃな。
あの占い爺も妖者じゃというのに、まんまと嵌められおって。
まあ、ワシには関係のない事じゃ」
明月の文句も我関せずで独り言のように呟く鳥の言葉は、事態を打開すべく思案する澪菜の関心を強く引き寄せた。
「どういう事ですの?、それは」
「うむ。
いつぞや、占い師を名乗るじじいがここを訪れた事があったのじゃ。
いつものように、ワシがここら辺りに獲物を漁りに来た時じゃった。
見つけたのはただの偶然じゃが、不穏な気を感じたワシは暫し様子を窺う事にした。
その時、ここの主と其奴がどのような話をしたのかはワシは知らん。
ただ、帰り際にそのじじいが玄関前で主に対して念を押すように言うたのじゃ。
“くれぐれも、それがしの申す通り処分されよ、さすれば災厄はたちどころに霧消に帰すであろう”とな」
鳥は、澪菜の言葉には素直に従った。
不埒な欲望でもその内に秘めているのか、或いは澪菜の真剣な気持ちがそうさせるのか。
果たして信用に足る発言なのかも怪しく思うべきところを、澪菜は疑う素振りも見せず質問を続けた。
「それはいつの事ですの?」
「そんなに古い話ではないぞ。
一冬前じゃったかな、ワシが冬籠もりから明けて獲物漁りを始めた矢先の頃の事じゃった」
「約1年前、ですのね・・・。
その占い師というのは、本当に物の怪なんですの?」
「紛う方無き妖じゃ。
ワシとて人と物の怪の別くらい見分けがつくわい、いくら化けておってもな」
「確かですのね」
「其方に嘘は言わん」
話を聞くうち、澪菜の頭脳が閃きを持って何かを囁き、彼女はすぐさま取って返して三度呼び鈴を鳴らす。
立て続けに3回も押しかけるのは、誰が考えても恥知らずで失礼極まりない行為であるのは重々承知しているし、彼女
も極めて格好が悪く無様だと思いながらも、そうせずにはいられなかった。
澪菜が扉の向こうに消えた後、明月は鳥に向かってボヤいた。
「おめぇ、澪菜さんには素直だな」
「当然じゃ。
あの娘は妖者を身に纏っておるのが気配で分かった。
忌々しいが、ああいう人間にはむやみに逆らわぬのが、ワシ等にとっては長生きの秘訣のようなものじゃて」
(身に纏う?、式神の事か・・・)
鳥の妖怪は、陰陽師という名は知らなくとも、その手の人間が自分達のような妖怪に対抗し得る特殊で危険な存在なの
だと認知すればこそ、敢えて従順に従う道を選んだ。
そうやって、これまでもその見た目からでは全く分からない長い年月を生き長らえてきたのだろう。
世渡りに長けた妖怪という事か。
一方、エントランスから退こうとしていたところをまたしてもベルで呼び戻された宗也は、呆れ返ると同時に苛立ち、
ドアを開けるなり些か強い口調で文句を言った。
「まだ何かあるんですか、もうあなたに話す事はないと言ったはずですが」
澪菜は臆する事なく一歩前に出る。
「ご迷惑なのは重々承知していますけれど、一つだけ確認したい事がありますの。
貴方がご息女にかけられた呪いに対して講じたという対策は、占い師による指南を受けての事ではありませんの?」
彼女があまりにも単刀直入に、しかも真実を言い当ててしまったものだから、宗也は驚き怯んでしまった。
「な、なんでそんな事まで分かるんですか・・・」
その反応を見て、澪菜は畳み掛ける。
「この際ですから申し上げますと、その占い師とやらも妖怪ですわよ」
「な、なんですと!!」
「しかも、お嬢さんに呪いをかけた妖怪とは別の。
つまり、この件には2匹の妖怪が関与しているのですわ。
このままですと、お嬢さんの命が永遠に失われるのは確実、残念ながら時間の問題と言わざるを得ませんわ」
突然に最愛の娘に向けて告げられた最後通告。
この時点では、若干信頼性に疑問が残ると思われた情報も、宗也に与えた衝撃は計り知れないものがあった。
その残酷な言葉に、宗也は抑えていた感情を爆発させる。
「なぜそんな事が言い切れるんですか、あなたは一体何者ですか!
人の娘の命をなんだと思ってるんですか!
僕だって娘を救う為に必死なんだ!」
その答えを、澪菜は冷静に落ち着いて、しかも感情を更に煽るような言葉で返した。
「わたくしは陰陽師ですわ。
あいにくと土地の売買や環境保護については素人同然ですけれど、こちらの分野に於いては専門業ですので、自信を
持って何度でも申し上げますわ。
お嬢さんは助からないと。
言うなれば、お嬢さんは首に見えない縄を巻き付けられているも同じ。
その縄を引けばどうなるか・・。
わたくしは、妖怪がその縄を引くのを黙って見過ごすなんて出来ませんわ」
専門家を自称する澪菜の断言に、さすがに宗也は力を落として俯いてしまった。
「そ、そんなバカな・・・」
「どうしてそうなったのか、お話しいただけますかしら」
「・・話すもなにも・・・。
あなたの仰る事が事実という保証もないし、信用も出来ない・・・」
宗也はかなり動揺している。
澪菜は更に脅しをかけた。
「信じていただく必要はありませんわ、ご存知の事実のみを語っていただくだけですもの。
先程、貴方は娘は呪われていると仰いましたけれど、何者に呪われているかについては触れませんでしたわ。
それは、知らないからではなく、知っていて敢えて避けたのではありませんの?
お話しいただけないのであれば、わたくしとしても本意ではないのですけれど、最後の手段を執らせていただかねば
ならなくなりますわ」
「何をするおつもりですか」
「わたくしの式神を貴方に取り憑かせて、お屋敷の中の妖気を探ります。
貴方がお嬢さんとお会いになれば、その目を通して呪いの正体も自ずと見えてくるでしょうね」
「式神?」
「使い魔と言えば、一般の方にも分かりますかしら」
「そ、そんな野蛮な・・・。
それが陰陽師という人のする事なのですか」
「卑劣とお思いになって結構ですわ。
今は人の命が懸かっておりますので、自身の評価を気にして手を拱いている訳にはまいりませんの。
可能な手段は全て使いますわ」
この一言を、宗也は目が覚める思いで聞いた。
自分の対外的評価を下げる結果を招く事が分かっていても、やらねばならぬ事があるというのか。
保身を顧みず、赤の他人を救う為に力を尽くそうとするその姿勢は、私利私欲という観点からでは説明出来ない。
その行動原理は、物欲でも名利欲でもなく、人を救いたいという一点のみに集約されている。
そんな厚い義侠心を持つ人を自分は他に知らないし、その人を欺く事に大義はない。
思いを改めた宗也は、澪菜を応接間に招き入れ、ようやく真実を語り始めた。
☆
我が守東院家は、その珍しい名前の通り、元来は貴族です。
堂上家ではない地下家の新家ですので、一般的な意味での公家とは呼べないまでも、いわゆる院家と呼ばれる寺院とも
浅からぬ縁があってこの名を頂戴したと聞いていますし、江戸時代には禁中並公家諸法度の適用対象となるような家柄
だったんです。
それが、明治になると、政府により華族ではなく士族とされ、その後は没落の一途です。
士族の身分というのは、実はあってないようなもので、年を追う事に政府により特権が剥奪され、最終的には士族の名
を名乗る事は許されてもなんら実体を伴わない、名誉だけの存在になりました。
それでも、まだ識字率も低かった平民の中にあっては高い教育水準を保っていた為、地方行政や軍務、教育等の分野で
社会の近代化に貢献したとは言えるでしょう。
ただ、維新前までの生活水準と程遠くなるのは自明で、経済的に困窮する家は後を断たず、それを解消する為に商才も
ないのに商売に手を出して、更に自らの首を絞める結果を作り出してしまうなんて事もあったそうです。
ウチの家もまさにそれで、一時は食うや食わずの状況にまで追い込まれたそうで、とてもじゃありませんが元貴族とか
士族とか名乗るのも憚られるような有り様だったそうです。
赤貧洗うが如しです。
その後、父親の代になって不動産業を始めて、土地売買の仲介等をしていたのですが、収入は捗々しくないばかりか、
買い手のつかない売れ残りの土地を買い取りさせられるような事もしばしばあったようです。
当然、山の中の箸にも棒にもかからない土地ばかりで、そんな売れもしない物件ばかりいくら抱え込んでも生活が改善
するはずもなく、暮らしぶりは世間並み程度を越えるには至りませんでした。
当時子供だった僕は、貴族を先祖に持つ自分が、なぜ野球のグラブ一つ買ってもらえないのか不思議でならなかった。
理不尽だと思ったし、用具を友達に借りながら遊ばなくてはならない事に恥ずかしさを覚えたものです。
本来であれば、その逆の立場であらねばならないはずだと思っていたのですから。
それなのに、父は全くの無頓着で、生活態度や身なりなども普通の家庭の父親と変わらない、毎日の晩酌だけを楽しみ
にしているような男でした。
中学生くらいの時、僕は父に対し元貴族というプライドはないのかと聞いた事がありました。
父は、貴族のプライドは富ではない、豪華な生活でもない、高潔なる理念と精神にこそあるのだぞと答えたのですが、
その時の僕にはその真意は理解出来ませんでした。
父は儲けよりも仁道を重んじる人でした。
ボロは着てても心は錦、という言葉をよく口にしていたのを憶えています。
僕は、自分の代になったら絶対元貴族としての尊厳や威厳を取り戻し、それに相応しい素封家たらんと望むようになり
ました。
父が病死した後、僕は29歳で後を継いだのですが、別に好き好んで継いだ訳ではありません。
大して儲かる仕事でないのは分かっていましたし、もっと高い収入を得られる仕事がしたかった。
ただ、父の死があまりに急でしたので、不動産業を辞めるにしてもその後始末は必要で、その整理の為に一時的に仕事
を引き継がねばならなかったのです。
ちょうど娘が生まれたばかりの頃で、今後は今まで以上にお金がかかると思っていた矢先の事でした。
初めは戸惑いました。
不動産業の事もよく知らなかったし、書類の作成や法的な手続きなどは全て父の代から働いてもらっている事務員さん
任せでした。
唯一の救いは、借入金が思った程多額ではなかった事くらいです。
僕は、どうやったら借金を残さずにこの仕事を終わらせる事が出来るか、その事ばかり毎日考えていました。
続けるつもりもなかったし、早く清算を終えて、もっと稼げる仕事を見つけて優雅な人生を送りたい。
だから、真っ先に今のこの土地を買って家を建てました。
どうせ借金が出来てしまったのなら、多少その額が増えても変わらないだろうという楽観的な判断でした。
しかし、ズブの素人が、しかも片手間な感覚で仕事をやって、そんなにすんなり事が運ぶ訳がない。
借入金は減るどころか逆に膨らみ続け、家計を圧迫し、次第に憂鬱な日が増えて行きました。
理由もなく苛立ち、妻に当たり散らした事もありましたし、先の見えない不安から夜は悪夢で目を覚ます。
どうすれば打開出来るのか思案に暮れていたある日、それは突然現れました。
考え事をしながら庭を散歩している時、敷地の塀の上に一羽のトリが留まっているのを見つけました。
黒い、カラスのようなトリでした。
そのトリと目が合った時、驚いた事に僕に話しかけてきたのです。
お前はここの主か、と人の言葉で。
とても不思議で、異様な光景でした。
僕は、思わず周囲を見回しました。
聞き違いか空耳か、誰か他の人が近くにいるのではと思ったからです。
トリは悠然と言いました。
“どこを見ておる、ワシじゃ”
声を聞くと、なぜだか気持ちが落ち着きました。
超自然的な出来事のはずだったのに、意外と僕は恐れたり慌てたりはしませんでした。
言葉が理解出来るのだから、外国人と話すより余程コミュニケーションが取り易いと感じたのです。
図体の大きい九官鳥くらいに思っていたのかも知れません。
どういう存在なのか、深く詮索する気も消えました。
なぜそこにいるのかと問いかけると、トリは、どういう訳か僕が抱えていた悩み事を言い当てたのです。
借りた物を返せずに思い煩っておるな、と。
なぜ分かったのかと問うと、人の心の隙を衝いてその内を探るなど造作もない事だと答えました。
まあ、悩み事のない人間なんていませんから、適当にありそうな事を言えば偶然でも当てはまる人もいるでしょうが、
こんな山の手の高級住宅地に住んでいながら借金に苦しんでいるなんて、普通なら考えませんから、当てずっぽうで
言っているのではないとすぐに気付きました。
とはいえ、にわかには信じられる事でもありません。
すると、そのトリが驚くべき事を言い出しました。
“お前が望むなら、その厄介事ワシが片を付けて進ぜよう”
始めは、その言葉の意味が分からずに聞き返したのですが、僕が抱える問題を解決しようと申し出たのだと分かると、
それが唐突に過ぎたせいか笑いが込み上げてきました。
たとえ、そのトリが人智の及ばぬ不思議な力を持っているとしても、借金を帳消しにするなんて、そんな事が出来る
訳がないのだから、どうせただの戯れ言かからかっているだけだと思うのが普通です。
もっとも、言った本人がその言葉の意味をきちんと理解していればの話ですけど。
僕も相手にしないつもりでしたが、なぜそんな事を言い出すのか興味があたので聞いてみました。
“もちろん、タダではない。
お前に娘がいるだろう、その娘を所望する。
それが条件だ”
との答えでした。
そのあまりにバカげた申し出に、僕は笑うしかなかった。
絶対に有り得ない。
いくら借金の為とはいえ、大切な娘を交換条件に差し出すなんて、悪魔の如き人の道に悖る行為です。
そもそも、なぜ娘の存在を知っているのか。
その時、娘は家の中で昼寝していたはずですが、僕が散歩に出る少し前までは庭で妻と遊んでいましたから、どこかで
その様子を見ていたのでしょう。
そして言いました。
“すぐにとは言わん。
そうさな、芳紀妙齢とでも言おうか、頃合いにて迎えに参るとしよう”
トリがなんと言おうと、徳政令じゃあるまいし、冷静に考えるまでもなく無謀で不可能なのは分かりきっている。
僕は、軽はずみにもその申し出を受けてしまったのです。
“約定、違えるでないぞ”
そう言うと、トリは一瞬でその姿を消してどこかへ行ってしまいました。
以来、そのトリとは一度も会っていません。
数ヶ月後、すっかりその事を忘れていた僕に、思わぬ話が持ち込まれました。
持っていた土地の中に、一部道路を新設する計画案が浮上したのです。
観光地へ続く道路の慢性的な渋滞対策なのですが、おかげで二束三文だった荒れ地が驚く程高値で売れました。
その後も、大手飲料メーカーが天然水の安定採取の為に、保安林に指定された山林のすぐ隣りに位置していた僕の所有
する山に採水施設を作りたいという事で売買契約を結びました。
ご存知でしょうか、国によって保安林の指定を受けた山林は、たとえ私有地であっても自由に伐採が出来ないんです。
当然、施設を作る事も出来ないから、幸運にもその指定から外れていた僕の山が売れたんです。
おかげで、なんの価値もなかったただの山が、我が家に高級ドイツ車をプレゼントしてくれました。
運が向いてきたと思い、試しに株式に投資したらこれが当たりで、借入金の返済にも目処が立つまでに至りました。
まあ、さすがになんでも上手く行くという訳ではありませんで、損を出す時もあるし、宝クジは一つも当たらない。
それでも、仕事が上手く回り始めると、それを補って余りある収益が入るようになる。
僕は、この仕事を続ける事を決意しました。
その後もいい事が続き、僕も不動産鑑定士の資格が取れましたし、冬梨も大病もせず事故にも遭わず元気にすくすくと
成長した。
あ、冬梨というのは娘の名です。
とにもかくにも、なに不自由なく生活が出来るようになったのです。
これは、もしかしてあのトリのおかげなのかと頭を過ぎりもしましたが、まさかそんな事がある訳がない。
思い過ごしに違いないと、強引に自分を納得させました。
ただね、こうして自分の思い描いていた夢が現実となり、なにもかも順調に進むようになって幸福感に浸っていると、
どんどんと、あの時のトリの言葉が現実味を帯び足音を立てながら接近してくるように感じて怖くなってくるんです。
あのトリが再び現れて、冬梨を奪い去ってしまうのではないか。
娘が年頃になるにつれ不安は増すばかりで、ボディーガードを付けようかとも考えましたが、不思議な力を持つトリに
対してどの程度役に立つか想像もつきませんし、冬梨自身を怯えさせはしないかと思うとそれも出来ない。
まさか、こんな事になるなんて。
自分の浅はかさ故に招いた事とはいえ、途方に暮れました。
妻にも誰にも言えず、ただただ戦いて娘の無事だけを祈っていました。
そんな時、ちょうど今年の春先の事です、僕が仕事を終えて帰宅すると、家の門の前に一人の見知らぬ男が立っている
のが見えました。
薄汚れた黒衣と網代笠という、まるで旅の僧のような出で立ちで無精髭の、見るからに見窄らしい感じの老人でした。
今の世の中、旅の僧というのも変な感じですが、ずっと僕の家を見つめていたので、何か用か尋ねてみました。
すると、その老僧はいきなり“主の家は呪われている”と言い出したのです。
正確には家ではなく家の住人なのですが、老僧は、自分は占い師であるが悪い気を感じる能力があると言い、呪われて
いるのは若い娘だと指摘しました。
驚いた僕は、もっと詳しく話が聞きたいと思い家に招きました。
事情を話すと、老僧は、そのトリの姿をした妖者は初めから娘を狙っておった、まんまと罠に嵌められたのだと説き、
なぜ娘が呪われねばならなかったのかを教えてくれました。
僕の所有する土地に原因があると言うのです。
その土地に悪しき物の怪が棲みつき、凶患を及ぼしているからである。
土地を手放す事で悪しき者達と縁を切れば、たちどころに禍は消えるであろう。
僕は、藁をも掴む思いでそれに従いました。
☆
ここで、澪菜は口を挟まずにはいられなくなった。
「その土地というのは・・」
「ええ、稲北さんに売買を持ちかけたあの山林です」
「やっぱり、そうですの・・・」
「あそこは父の代に手に入れた土地ですから、僕の代になってから影響が出るのもおかしな話だとは思ったんですが、
人と物の怪では時間の感覚が違うという占い師の言葉で納得しました」
予期した通りだった。
遂に、というか、とうとう、守東院冬梨にかけられた呪いと自分達の任務が結び付いた。
守東院宗也は山林に妖怪が棲んでいると知っていたのだ。
「そういう事情だったんですのね」
「あそこを手放さなければ、娘が連れ去られてしまうんです。
出来れば一刻も早く処分してしまいたいのですが、地域住民の民意は無視出来ないし、それだけは守り通したい。
仮に、稲北さんとの売買が不成立に終わったとしても、僕はどうしてもあの山林を売らなければならないんです。
だから、また新たな買い手を探します」
「つまり、あの山林の売却を考えるようになったのは、その占い師に出会って以降という事ですのね」
「申し訳ありません。
随分以前からとは言いましたが、実は仰る通りです。
ただ、すぐに買い手が見つからなかったというのは本当です」
澪菜は考えた。
娘に呪いをかけた鳥の妖怪と、その後現れた占い師とはどういう関係なのだろうか。
同一の妖怪との憶測も成立するが、家の外で捕まえた鳥妖怪は別物と言っていた。
それに、なぜ占い師に扮した妖怪は山を売れと指図したのか。
あの山林と占い師は、或いはあの山林と鳥妖怪は、どんな繋がりがあるのだろう。
謎は深まるばかりだった。
しかしながら、彼女には一つの朧気な予想に近い見通しがあった。
「これはわたくしの私見なのですけれど、たとえ土地を手放しても、お嬢さんの呪いは解けませんわよ」
澪菜の勘は、これが娘を救う唯一の解決法と信じて疑わなかった宗也の困惑を誘った。
「そ、そうなんですか?」
「未だ判然としない点が多々ありますので、あくまで現時点での推測ですし、2匹の妖怪が結託しているのかどうかに
よっても話は変わってくるのですけれど、家族に呪いをかけてまで格好の棲み処であるはずの山林を開発業者へ売り
渡すよう強制するというのは理解に苦しみますわ。
理屈が通りませんもの」
「確かに、言われてみればそうかも知れません」
「それに、呪いをかけてから次の行動を起こすまでの時間が長過ぎるのも奇妙ですしね。
そもそも、その呪いというのはどんなものですの?」
「分からないんです。
占い師は娘に印が付けられているはずだと言っていたんですが、娘の体には何もないし、健康だし・・」
「お話を聞いていて気が付いたのですけれど、呪いをかけたと言うよりも、目星を付けたという風に捉えた方が表現と
しては適当な気がしますわね。
年頃になるのを待って迎えに来るとは、妻として娶るつもりなのだと解釈すれば合点が行きますわ」
「そ、そんな事が現実にあるんですか?」
「予め予告するというのは珍しい事例と言えると思いますわ。
もしそうなら、お嬢さんの生死は山林の妖怪とは無関係と考えて差し支えないでしょうね」
敢えて妖怪の食性に触れる事を避け、特段に不安を煽る事のないよう努めたつもりだったのだが、澪菜の言葉は宗也を
戦かせるに過不足はなかった。
それでも、いつものように落ち着き払って話す彼女の姿は、非常に頼もしく安心感を与えてくれるものに映った。
ただのお気楽お嬢様ではない。
「けれど、逆に言えば、お嬢さんにかけられた呪いが解ければ、山林は売らずに済むという事でもありますのね」
「まあ、僕の気持ちとしてはそうなりますが、現在進行中の案件は継続されるでしょう。
それに、どうやって呪いを解くのか・・・」
「呪いを解く事自体は、そう難しい事ではないと思いますわよ。
わたくしにはその専門家も一緒におりますし、結界でこのお宅を難攻不落の要塞と化す事も可能ですわ。
ただし、呪いをかけた張本人がそれを以て諦めるかどうかは、定かではありませんけれど。
とりあえず、わたくしの方で出来る限りの事はさせていただきますわ。
白泰山会を通しますので、それなりに費用が必要になりますけれど、ご承知していただけますわよね」
「願ってもない事です。
娘が救われるなら糸目は付けません」
宗也は、祈るような表情で同意した。
承諾を得た澪菜は、その場で自宅で留守を守る葵に電話し、事の次第を告げ緊急に総本山の許可を取るよう要請した。
次いで、電話を替わった宗也は、これが正式な依頼であると告げ、契約の詳細に関する情報をFAXやメールを使って
交換する事を確認した。
総本山の対応を待つ間、澪菜は一度席を外し、屋外で待っていた明月達の元へ戻って事情を話した。
守東院冬梨の呪いの件と自分達の仕事が関係する事を知った彪冴は、じわじわと身中の血が騒ぎ出すのを感じた。
「へへ、そうか、そりゃ面白くなってきたな。
ただの調査だと思ってたのが、こうなってくるとワクワクするじゃねぇか」
「不謹慎な事を言うものではありませんわ、人の命が危険に晒されているんですのよ」
「でもよ、ここの親父の運が上向いたのはホントにその妖怪の仕業なんか?
ただの偶然かも知んねぇし、そんな事出来る奴がいるのかよ」
「それは分かりませんわね。
でも、ここのご主人はそう考えているようですので、そうではないと確実に証明出来ない以上は、それを前提に話を
進めるしかありませんわ」
曄も、同様に拳に力が入る感覚を覚えたが、人に害為す妖怪を退治するという明確な目標を得て気合いが入ったという
方が正しく、あくまで冷静に修行通りに対応しようと考えた。
「それじゃあ、呪いをかけた方を片付けるのが先なんでしょ。
今やるの?」
「総本山の許可が下り次第作業にかかるつもりですけれど、貴女の出番はありませんわよ、きっと」
「なんでよ」
「呪いの張本人の鳥が現れたら話は別ですけれどね」
「鳥を退治するんじゃないの?」
「今の段階では無理ですわ。
どこにいるかもいつ現れるかも分からないものを、悠長に待ち構える時間の余裕はなくてよ」
「じゃあ何すんの」
「主役は薺よ。
呪いを解くにしろ家を結界で保護するにしろ、薺の力なくしては不可能ですわ。
期待してますわよ、薺」
「かしこまりま」
相変わらず、緩いふざけた返事をする薺だ。
ともあれ、呪われた守東院家の娘を救うという新たな事態に対処する準備は必要になりそうだ。
明月は、自分の掌中にいる情報提供者の処遇をどうすべきか、澪菜に判断を請うた。
「こいつはどーすんだ?
家の中には連れて入れねーぞ」
「そうですわね・・・」
少し考えた澪菜は、徐に枇杷と通草を呼び出した。
「枇杷、その鳥を掴まえて車の中で待機していてちょうだい。
もし抵抗するようなら、手荒な事をしても構いませんわ。
通草も、気を吸うなら死なない程度にね、まだ聞きたい事があるんだから」
明月から手渡しで受け取った枇杷が答える。
「かしこまりました、澪菜様。
この鳥は、明月の気のせいで相当疲弊しているようですので、暴れる事もないでしょう」
「この鳥、不味そうだよ」
指先で突いて素直な感想を言う通草は、当然のように鳥の反感を買った。
「黙れ小娘、人に使われるに身を落とした小者に言われとうないわ」
「ねぇねぇ枇杷ちゃん、こいつ失礼だよ。
焼き鳥?、丸焼き?、照り焼き?」
「駄目よ通草、澪菜様のお許しが出てからよ」
「じゃあ、バンバンジンだ」
「素揚げにして獣の餌にでもしときなさい。
どうせ、どんな料理にしたって不味いんだから」
(こいつら、同じ妖怪だってのに容赦ねーな)
☆
澪菜に葵から電話が入った。
「総本山のお許しが出ましたわ。
ただし、対象者と接触したら、かけられた呪いの状態から相手の妖怪のレベルを探り、自分達の能力では対応不能と
判断した時は即座に報告し指示を仰ぐ事。
以後は対象者を結界で守護する事のみに努め、増援と合流するまでは決して独断で行動しない事。
増援に引き継ぎの後は速やかに本来の任務に戻る事、以上ですわ」
祓除の許可を得た澪菜は、一行を連れ意気揚々と家の中へ戻り、宗也に尋ねた。
「お嬢さんはいつご帰宅されますの?」
「聞いてみます」
父親が娘に電話し、帰宅する時間を聞くと、夜7時から8時くらいになるという事だった。
「困りましたわね、それではわたくし達が旅館に戻るのは深夜になってしまいますわ。
祓除自体は小一時間程度で終わるはずですけれど、もっと早く帰っていただく事は出来ませんの?」
「僕もそう言ったんですが、娘はまだ用があると言いますし・・・。
よろしければ我が家の客間を使っていただけませんか。
わざわざ帰らずとも、僕の方は一向に構いません、むしろお願いしたいくらいです。
ささやかでも歓待させていただきます」
どうせ、映画だカラオケだスイーツだと、ショッピングとは関係ないところでグダグダ遊び歩いているに違いないのは
分かっているのに、澪菜は、自分の娘を制御出来ない父親の心中を忖度した。
「子煩悩でいらっしゃいますのね」
(あんたの親父にゃ負けるけどな)
まあ、冬梨本人は自分が呪われている事を知らないし、自覚もないのだから無理強いは出来まい。
「せっかくのお申し出ですけれど、わたくし達は一度宿に戻りますわ。
元々、お話を伺うだけが目的でしたので、こういう事態は想定しておりませんの。
その方が万全な準備が出来るというものですわ。
とりあえず、今日のところはこの家に結界を張って、仮に妖怪が来ても侵入を阻止出来るようにしておきますわ」
そう言うと、薺の方を見て命じた。
「薺、お任せしていいかしら」
一任された薺は、ボソッと一言呟いた後、曄を見て援助を求めた。
「依代が欲しい・・、曄ちゃん手伝って」
「依代って何?」
「・・・人の形をしたのがいい。
広い家だから、一番強く気を込め易いのを使う」
「人の形?、人形の事?、人形を探してくればいいの?」
曄は、宗也の助言に従って2階にある冬梨の部屋へ行ってみた。
ドアを開けるなり、重くジトッと湿った纏わり付くような空気を感じ、それが呪いの影響なのだとすぐに分かった。
ここが、家の中でこの部屋だけが、微弱ながら異様な気配を漂わせている。
身に覚えのある、思い出したくもない忌まわしい感覚に似ていた。
見た目は至って普通の少女趣味の部屋で、入室を阻む程に強い邪気ではないものの、これで、部屋の住人である冬梨が
呪われている事実の確証を得た。
曄は、部屋の中の至る所にたくさん転がる動物などのぬいぐるみを拾い集めて、薺の元へ持って行った。
ペンギン、子グマ、ネコ、フクロウ、ウサギ、何のキャラクターか分からない2頭身の剣士の男の子・・・。
「こんなのでいいの?」
「・・・可愛い。
わたしもフクロウさん欲しい」
「あんたね、ちょっとは空気読みなさい」
「御意」
薺は、宗也に用意してもらった白い紙に筆でなにやら印のような紋様を何枚か書き、ぬいぐるみの一つ一つにテープで
貼り付けながら呪文を唱えていった。
「じゃあ、これを家の角部屋の隅っこに置いてきて」
「角部屋ね、分かった」
指示を受けて、曄は明月と彪冴と手分けして駆けずり回り、広い守東院家の1階と2階それぞれの角部屋にぬいぐるみ
を配置した。
「終わったわよ、次はなにすんの?」
「いざ出陣」
作業終了の報を受け、徐に立ち上がった薺は、曄達を伴って冬梨の部屋へ向かった。
部屋に着き、ドアを開けて覗きこんだ彪冴が言う。
「うへ、ここだけメルヘンだよ、真っ白だ。
なんか、やたらと青いトリっぽいのが目立つな」
俗に言う、ロリータ趣味のゴテゴテした装飾過多なものとは少し違うにせよ、白一色で統一された室内と天蓋付きの
ベッド、あちこちに転がる大小様々なぬいぐるみを見れば、多少なりとも引いてしまう男もいるだろう。
その中に、青い小鳥をモチーフにしたガラス製、木製、クッション素材のオブジェやオーナメント、壁飾りなどがそこ
かしこに見受けられた。
大きい物でも拳大程度で、一つ一つは小粒な物ばかりも、白を基調にした部屋の中ではよく目立つ。
どうやらお気に入りらしいが、トリというところに妖怪との関連性を疑いたくなる。
その因果関係は不明ながら、空間に薄らと蔓延する邪気は、そこにいる能力者達にはすぐに分かった。
「やはりここでしたのね。
呪われた本人がいない割りには、弱いながらもはっきりとした邪気ですわ。
本当に、この邪気は呪いのせいですの?」
「この邪気は、呪われた本人のものじゃない」
答えた薺が指差した先に、邪気の発生源があった。
「本体いた」
勉強机の横の本棚に置いてあった小物入れの中に、小動物を象った根付や携帯用マスコットと共に入っていた小さな
丸い石がそれだった。
すぐさま彪冴が取り出す。
「ああ、確かにこれだな。
ちっぽけな小石のくせに、持ってるだけで気持ち悪りいや」
一見、3〜4Cmの楕円に近い青みがかった石で、宝石のような透明度はないが、綺麗に成形して丹念に研磨すれば、
ラピスラズリのような深い光沢の神秘的な輝きを見せてくれる可能性もなくはないのかも知れない。
ただ、これには黄鉄鉱などの混合物はなく、所詮はどこにでもある、なんの価値もないただの川石に過ぎない。
澪菜がその手を覗き込む。
「なぜこんな物がここにあるのかしら」
「ただの石ころだもんな、飾り物にもなりゃしねぇ。
恐らく、鳥の妖怪が邪気を込めてここの子に持たせたんだろうな」
「なんの為にですの?」
「居場所を知らせる目印とか、邪気で呪いの効果を維持する為とかかな。
それか、他の奴等に手ぇ出すなってアピールしてんのかもよ。
意外と頭の切れる妖怪かも知んねぇぜ」
「なるほど、貴方にしては的を射た考察ですわ。
つまり、この石の邪気を祓ったら、妖怪がなにかしらのリアクションを起こす可能性も有り得るという事ね。
では、貴方はこの石をどうしたらいいと思いまして?、参考までに」
「結界で囲っちまうんだったら別にどうでもいいんじゃね?、このままだろうが祓おうが。
ただ、もしこれが妖怪を誘き出す道具に使えるってんなら、俺が預かってもいいぜ」
「薺はどう思いまして?」
「祓っちまえばいいんじゃないかなーって希望もありやなしや」
薺のふざけた答え。
これに澪菜が文句を言おうとするところを、曄が横から口を挟んだ。
「妖怪の手がかりになるかも知れないわ、あたしが預かる」
そう言って、彪冴に向かって右手を差し出し、その小石を要求した。
「貴女が持っていて大丈夫ですの?
ちょっと心配ですわね」
澪菜に難癖をつけられてムッとした曄は、彪冴から受け取った石を、そのまま今度は明月に向かって少し乱暴に押し
付けた。
「じゃあ明月。
無くしたら罰金よ」
(お、俺?
まあ、いいけど、なんで俺だけペナルティー付きだよ)
そんなに強力な邪気ではないから、明月は、拳の中で簡単に浄化出来てしまうとすぐに分かったのだが、曄の意見にも
一理あるので仕方なくズボンのポケットに入れた。
澪菜が部屋のドアの所で見守っていた宗也に確認を取った。
「とりあえず、石はこちらでお預かりさせていただきます。
所有者が不在ですので些か心苦しいのですけれど、この石が妖怪と深く関係しているのは間違いないものと考えられ
ますので、近くには置かない方が賢明ですわ。
ご了承していただけます?」
「分かりました、娘には僕の方から伝えておきます」
石の件が一段落すると、薺は、部屋一面に敷かれた白いカーペットの中央でちょこんと正座し、その膝の前に用意して
おいた方陣を描いた紙を置いた。
「曄ちゃんは家の外に出て。
じゃないとオッタンが家から出られなくなる」
その一言が、いよいよ本題に入った事を知らせ、鎌鼬を連れた曄は言われるままに部屋を後にした。
曄が屋外に出るのを確認してもらい、薺は両手でパンと柏手を打ち、目を閉じ徐々に集中し始める。
すると、ミントキャンディーを頬張った時のように、みるみるうちにスーっと部屋の中の澱みが晴れていく。
そこに爽やかな香りが広がる事はないが、清涼感で満たされるのに時間はかからなかった。
約3分後、薺は、深く大きく静かに息を吐いて仕事を終えた。
「首尾はどうですの?」
「邪気祓除完了。
防御結界構築完了。
真田丸完成」
「この結界、貴女が離れても明日まで持続出来ますの?」
「依代が可愛いから大丈夫。
真田丸は鉄壁」
彪冴は、自分には真似すら出来ない薺の特殊能力に改めて目を見張った。
「へぇー、すげぇな、さすが巫女だ。
見事な腕前だぜ、白い部屋が純白になっちまった。
まるで漂白剤ぶっかけたみてぇだな」
「例え下手、クリーニング屋さんじゃない」
「じゃあペンキ屋だ」
「アルプス工業違う」
「冗談じゃないよーって、そりゃ鬼瓦権造だろ。
よくそんな古いの知ってんな、ナズちゃん」
「ピヨコ隊が好き、吉田君のお父さんも知ってる」
「一体何歳だよ」
お笑い好きの二人の遣り取りについて行けない澪菜は宗也に話しかけた。
「これで、一通りの応急的な作業は終了いたしましたわ。
このお宅は結界で覆われましたので、家の中は安全とお考えになって結構ですけれど、決してぬいぐるみにはお手を
触れない事をお約束いただかねばなりませんわ。
見た目は甚だ頼りないのですけれど、あれが要ですので、動かすと結界が崩れて消失してしまいますわよ」
「は、はい。
僕には何がどう変わったのかさっぱり分かりませんが、承知しました、ありがとうございます」
「結界は目に見えないものですし、一般の方には感じる事も出来ませんものね」
「いや助かりました。
偶然とはいえ、あなた方のような人達にお会い出来て本当に良かった」
娘の危機を回避する目処が立った事で、宗也は初めてと言っていいくらいの笑顔を見せて澪菜に感謝する。
「いいえ、これは必然なのかも知れませんわよ」
澪菜は、自分達がここを来訪するに至った経緯を説明した。
「なるほど、稲北さんの依頼だったんですか」
「稲北不動産の方々も、地権者があそこに妖怪が棲息していると知っていながら売買を持ちかけたとは、露程も思って
いなかったでしょうしね」
「そう言われると耳が痛いですね。
僕だって、たかだか測量調査くらいで騒動が起こるとは夢にも思ってませんでしたよ。
契約が成立したら、お祓いは念入りにするよう助言と支援はするつもりではいたのですがね」
「失礼ながら、わたくしに言わせればそれこそ素人の浅知恵ですわ。
あそこには、山神様と称される程の強大な力を持つ妖怪と、その影響下で暮らす諸々の物の怪達がいるんですのよ。
並大抵のお祓いでは浄化すら出来ませんわ」
「では、その山神様を退治するんですか?」
「依頼は調査のみですので、具体的に退治となりますと、また別の様式の契約が必要になりますわ。
ただ、わたくし達は、妖怪とは知らないまでも、彼等と共存していこうとする地元の方々の姿勢に共感します。
ですので、あそこはあのまま何も触れずに存続させたいと思っておりますの」
「それで僕の所に来た訳ですね、売買契約を結ばないように」
「仰る通りですわ。
それが、地元の方々にとっても妖怪にとっても最善の方法であると考えますので、その実現が可能であるとするなら
ば、それに向けて力を尽くすのが、わたくし達陰陽師のお仕事なのですわ」
「陰陽師というのは妖怪退治が専門なのではないのですか?
僕も仕事柄、土地の方位や日取りなどの吉凶が、陰陽五行や八卦といった陰陽道に由来するという程度の知識はあり
ますが、陰陽師というと占いからはかけ離れたイメージになってしまいます」
「一般にはそう誤認されている方が多いようですわね。
占いは既に陰陽師の専権事項ではなくなっていますし、それに、妖怪退治の専門職は他にもおりますのよ。
退治せずに収めるよう努めるのが、わたくし達陰陽師の第一優先事項なのですわ」
最後に、澪菜は宗也に、娘が帰宅したら絶対に外出させず、自分達が再び訪れるまでは家の中に留め置くよう指示して
守東院家を後にした。
玄関を出てすぐ、彪冴が感想を口にした。
彼にとっても、今日の出来事は今まで経験した事のない新鮮な驚きに満ちていた。
「いやぁ面白かったなぁ。
ところで澪ちん、あの鳥はどうするよ」
「そうですわね。
もう聞くべき情報もないでしょうね、解き放ってもいいのではなくて」
「いいのか?、あんなのをこのまま逃がしちまって。
人の肉を食らう妖怪のおこぼれに与ろうっちゅう太ぇ野郎だぜ。
もっと痛めつけてやってもいいんじゃねぇの?
足の2、3本折っても罰は当たらねぇ、って足は2本か」
「無益な力の浪費はすべきではありませんわ、それより・・・」
澪菜達が車の方へむかって歩いて行くと、それを見つけて枇杷と通草が車から降りてきた。
「枇杷、なにか分かりまして?」
「この、人の死肉を食らうゲス鬼畜野郎の事ですか。
嘘だけは言ってないようです」
澪菜は、枇杷の接触した相手の妖気から思念を感受する能力を使って、鳥の真偽を確認させていたのだ。
その、枇杷が両手で掴まえている鳥妖怪に向かって、不躾に質問した。
「貴方の棲み処はどこですの?」
「この先の寺の裏山じゃが、それがどうした」
「では、貴方にこのお宅の見張り役を命じますわ。
貴方の言う鳥の妖怪が現れるかも知れませんし、貴方が一番通勤が楽そうですものね」
「ワ、ワシを使いっ走りにするじゃと!?」
「どう対処するかはお任せしますわ。
ただし、こちらのお宅の方に危害を加えるような事があれば許しませんわよ」
「な、なんという身勝手な娘じゃ!、ワシは何もしとらんというのに。
むしろ恩義すら感じるべきであろう」
澪菜はその反論を無視して枇杷に命じた。
「枇杷、もう結構よ」
「はい、澪菜様」
枇杷が手の力を緩めると、鳥は捨て台詞を残して一目散に飛び去って行った。
「憶えとれ、小娘ェェェ・・・」
曇天の中に姿を消した鳥の残像を目で追いつつ愚痴る彪冴。
「ありゃ絶対戻らねぇぜ」
「構いませんわ、初めから当てになどしてませんもの。
二度と近寄らなければそれで十分ですわ」
澪菜の手緩いとも思われる措置に不満を感じた彪冴は、他のメンバーがどう思っているのか聞いてみた。
「いつもこんな調子なんか?、なぁアッキー」
「まあ、こんなもんす」
「曄っちは納得してねぇだろ、殄魔師としては」
「別に構わないわ。
雑魚に用はないから」
「ナズちゃんはどうだ?」
「鳥なのに雑魚・・・、雑魚ってシシャモ?、ワカサギ?」
答えは様々でも、全員が澪菜の決定を肯定しているのが分かった。
中でも、殄魔師の曄が全く異論を唱えないのが、これまでの彼女の経緯を知らない彪冴には不思議だったし、興味深く
もあった。
しかしまあ、澪菜が組頭としてしっかり支持され認められているというのは確かなようだ。
その澪菜は、何事もなかったように澄まし顔で車のドアを開けた。
「では、旅館に戻るといたしましょうか」
第7話 了