独牙
夕焼け小焼けの音楽が防災行政無線から流れている。
僕は姉ちゃんの手を引っ張って、神社の境内に来ていた。
影の逃げ場がなくなってしまった本殿の軒下を差して、嬉しそうに声を上げる。
「ほら、あそこ!! 蛇がいるよ」
姉ちゃんは困ったように曖昧に笑うと「蛇は好き?」と聞いてきた。
うん、と大きく首を振る僕に、姉ちゃんが後ろから抱き着いてきた。
ドギマギしている僕に
「よかった」
そう言って、姉ちゃんがぐっと体を押し付けてくる。
服越しにでもわかる冷たくて、温かくて、柔らかい姉ちゃんの躯。
それまで意識したことのなかった感覚に戸惑っていると
「姉ちゃん……?」
ぐっと抱えるようにして僕の体を抱きしめる姉ちゃんの手に、更に力が入る。
首だけを動かして姉ちゃんの顔を見ようとしたけど、夕日の影がその顔を黒くしてしまっていて、表情が読めない。
「怖くないよ」
姉ちゃんの穏やかな声と同時に、痛みが走った。
赤く燃やされた蛇がぢっとこちらを睨みつけていた。
県外の大学へと進学すると、僕は一人暮らしを始めた。
その頃の僕は孤独を極めていた。
思うように大学では友人ができなくて、かといってサークルのような大勢の人が入り乱れるような場所も苦手でどこにも所属せずにいた。
田舎育ちというものはそれだけでコンプレックスになるもので、人と喋っていても自分におかしなところがないかが心のどこかで付きまとう。
結果、授業以外の時間のほとんどを、借り家で過ごすことになってしまった。
寂しい時間が多くなると、自然と昔のことを考えるもので――
僕の住んでいた田舎の方も、子どもは少なかったので、必然的に友だちも少なかった。
けど――だから、時折思い出すことがある。
僕には姉ちゃんがふたりいる。
ひとりは実の姉で、もうひとりは近所に住む上級生のお姉さんだった。
近所に住んでいると言っても、どこに住んでいるか知っているわけじゃなくて、
どこへ行っても彼女がいるものだから、勝手に近所に住んでいると思っていただけなんだけど。
学校でのイベントごとやお祭りや子供会など地域の行事、山や川なんてところにも、遊びに行くと必ずと言っていいほど彼女はいた。
その頃は特段不思議に思うこともなくて、僕はずっと姉ちゃんと遊ぶことが当たり前のように思っていた。
「いつからだろう」
懐かしい回想に浸っていると、ふと疑問がよぎる。
いつから彼女はいなくなってしまったのだろう。
僕が小学校高学年になると、彼女はセーラー服を着ていたように思う。
中学校に上がるころにはもう彼女と会っていなかったはずだ。
その頃には僕も思春期を迎えていて、女の子と遊ぶのが恥ずかしいことのように思っていたので、自然と会わなくなっていた。
そう、思っていた。
けど。
いつからか、ぽつんと彼女の存在そのものが消えてしまった。
引っ越しでもしたのかなと思ったけど、それはそれで寂しかったのを覚えている。
――ピンポン。
妙に間延びした音のドアベルが鳴らされる。
親からの仕送りかな、と応対するために玄関に向かいドアを開ける。
するとそこにセーラー服姿の少女が立っていた。
「やあ、久しぶりだね」
夕日が彼女の背中を焼いている。
ハレーションがまぶしくて顔を見ることができない。
けど、その声は。その佇まいは。
間違えようがなかった。
「ねえちゃん?」
驚いて、一歩下がってしまう。
だって、あの頃の姉ちゃんと一切変わってなかったから。
彼女は「上がってもいいかい?」と、小首をかしげる仕草をする。
懐かしい穏やかな声音に、思わずうんと首を縦に振る。
お邪魔します、と弾むような声音とともに彼女のロングヘア―が揺れた。
ドアが閉められると、ハレーションも消えて姉ちゃんの顔がよく見えた。
本当にあの頃と変わらない……。
「んっ?」僕の目線に気づいて、僕の目をまっすぐに見返してくる姉ちゃん。
恥ずかしくて、反射的に僕は目を反らす。
「姉ちゃんは変わらないね」
どう会話したものか悩みながら、僕は姉ちゃんを部屋に招き入れる。
狭い部屋なので僕はベッドに座り、姉ちゃんにはクッションを渡したのだけれど、
姉ちゃんは僕のすぐ隣に腰掛けた。
「君も全然変わらないね」
姉ちゃんの手が僕の手を握る。
冷たくて、柔らかくて、温かい。
あの頃はそんな言葉知らなかった。
けど、今ならわかる。
――姉ちゃんは、僕の初恋だった。
「なぁに、緊張しているの?」
僕の手を弄びながら、姉ちゃんが意地悪く笑う。
僕の心臓は頭が痛くなるくらいドキドキしっぱなしで、やたらと喉の飢えを感じる。
「あの日の続きをしようと思ったのよ」
姉ちゃんが、そっと僕の胸を押して、仰向けに倒す。
「あぁ、でも君が誰のものにもなってなくてよかった」
そう言って慈しむように目を細めた。
細い指が、僕の体を責める。
その指が彼女の不在を責める。
僕の匂いを確認するように、彼女が鼻を鳴らす。
顔が近づいてくると、僕は堪えきれず彼女の唇を貪った。
何度も濃厚なキスを交わすものの、長い髪が鼻に当たってくすぐったい。
そう不満を言うと我慢しなさいと唇を塞がれる。
「でも、姉ちゃんの長い髪、好きだよ」
「知ってる」
姉ちゃんの髪はバニラエッセンスの匂いがして、口に含んでみると甘くて瑞々しい菓子のようだった。
少し蒸気した頬に、優しい笑顔が浮かび上がる。
「美味しくないよ」
「姉ちゃんの匂いがする」
姉ちゃんは少し湿った手で僕を撫でて、
「大好きだよ」と耳元で囁くと口づけをして、僕を受け入れた。
僕は姉ちゃんとひとつになった。
あの日と同じ姉ちゃんの匂い、姉ちゃんの柔らかさに、胸が打ち震える。
泣いてしまいそうな感情を抑え込んで、あの頃のように姉ちゃんに甘える。
叶うなら、このままドロドロになって溶けてしまいたい。
乳房を抱きしめるようにして回した腕に、力が入る。
姉ちゃんがあの日のように、僕の首筋に嚙みついた。
愛し合う。
僕たちはお互いの空白を埋めるように愛し合った。
永遠に続くかと思われた幸せな時間も、終わってみれば刹那の夢のようでもあった。
姉ちゃんの手を握る。
その指が、シーツに移った熱が、僕の首筋から流れる血が、これが夢じゃないことを証明してくれている。
「私のこと、覚えてた?」
僕の頭を撫でて、姉ちゃんが問う。
「忘れるもんか」
僕が答える。
「私のこと、忘れないでね」
「忘れないよ」
まるでどこかへ行ってしまいそうな口ぶりの彼女を抱き寄せる。
「私のこと……」
愛らしい唇に、僕から口をつけて
「姉ちゃん。ずっと大好きだったよ」
僕の胸に顔を埋めて
「嬉しい」と姉ちゃんがつぶやいた。
「ずっと会いたかったんだよ」
そう言う僕の頭を、姉ちゃんが安心させるように、少し強い力で撫でてくれる。
姉ちゃんの肩越しにあの日の蛇が、僕らを睨んでいる。
「お姉ちゃんと一緒に来てくれる?」
いつか同じ質問をされたことがある。
そうだ、あの時、僕は……。
ミンミンとセミがけたたましく鳴いている。
夕暮れの境内で、僕たちは蛇を見ていた。
「お姉ちゃんと一緒に来てくれる?」
ギュッと僕を背中から抱きしめた姉ちゃんが、僕の体を大事そうに撫でる。
瑞々しい身体が、僕の心と体を束縛している。
「どこに行くの?」
その時の僕はそう聞いたはずだ。
境内に住む白蛇が、僕らの幼い情事を静かに眺めている。
「神様のところよ」
姉ちゃんの表情が見えない。そのことが僕を酷く不安にさせた。
「……怖いよ」
思わずつぶやくと、姉ちゃんの体から力が抜けて、僕の体が解放された。
思い出した。
あの日から、僕が姉ちゃんに会うことはなかった。
暗闇が彼女の表情を隠している。
愛情と興奮が冷めると、あの日の恐怖が鎌首をもたげる。
――僕は
姉ちゃんを喪ってからの日々を想う。
初恋の成就した喜びを想う。
柔らかくも瑞々しい肌を、姉ちゃんの体を想う。
――僕はさ
姉ちゃんの手を握る。
今度は僕が彼女の体をしっかりと抱き寄せて誓う。
――ずっと一緒。大好きだよ、姉ちゃん。
翌朝、震えながら目を覚ます。
ひとりぼっちのベッドは冷たくて、硬くて。
夢、だったのだろうか。
姉ちゃんを想って、少しだけ泣いた。




