婚約破棄の慰謝料は油田でした
新作短編です。
「シャーロット・バスカヴィル! 貴様との婚約を破棄する!」
王宮の舞踏会場に、第一王子ジェラール・ヴィンセントの声が響き渡った。
その隣で男爵令嬢のマリー・ウィンスレットが震え、涙を拭っている。
「殿下、わたし、もう怖くて……」
「マリー、もう大丈夫だ。私が守るから安心しろ」
ジェラールはシャーロットを指さす。
「貴様はマリーをいじめ、階段から突き落とそうとしたそうだな!」
「……証拠はございますの?」
「マリーがそう証言している! 彼女の清らかな涙が何よりの証拠だ!」
「わ、わたし……」
「マリー、無理をしなくていい。ここは私に任せろ」
「いえ、殿下。言わないと……また……」
「な、何をされたのだ、マリー!」
「廊下で呼び止められて……『平民あがりの分際で』って……それから階段の前で背中を押されました……っ。怖くて声も出なくて……」
「……ゆ、許さんぞ!」
「わたし、本当は争いなんて望んでいません……ただ、謝ってほしくて……」
「聞いたか、シャーロット! この純真な心を踏みにじった罪は重い!」
シャーロットは扇子で口元を隠したまま、王子を見た。
(根拠も確認もなく、この女の涙と言葉を真実と決めつける……私が支える相手ではありませんわ)
「承知いたしました。婚約破棄を謹んでお受けいたします」
「ふん。強がりを! だが、ただで済むと思うなよ。貴様は罪人だ!」
ジェラールはニヤつき、地図を広げる。
指を止めたのは、王国最北端の領地ノースエンド。
「ここは一年中雪で作物も育たず、ただ黒くて臭い水が湧くだけの呪われた土地だ! 貴様にくれてやる! 一生泥水にまみれて暮らすがよい!」
会場から笑いが起きた時、シャーロットの瞳がわずかに細くなる。
「……殿下、黒くて臭い水が湧くと?」
「そうだ! 燃やせば黒煙を上げる厄介な泥水だ!」
「その土地の所有権と地下資源の採掘権も、すべて私にいただけると?」
「あんな不毛な大地は欲しければくれてやる! 早く書類にサインしろ!」
差し出された羊皮紙に、シャーロットは迷いなく署名する。
昔、古文書で見た一節が頭の奥で噛み合う。
黒き燃える水、神の血にして、魔法を凌ぐ火の源。
「ありがとうございます、殿下。素晴らしい贈り物ですわ」
「なんだと? あまりのショックで気でも狂ったか?」
「いいえ、心から感謝しております。では、失礼いたします」
シャーロットは優雅に一礼し、舞踏会場を後にした。背中に、誰よりも軽い足音を残して。
◇
一年後。
隣国の帝国との戦争が長引き、薪と魔石は高騰。王都は凍え、王宮すら火を惜しんでいた。
「……寒い! どうなっているのだ!? 魔石の配給はまだか!」
毛布にくるまったジェラールが怒鳴る。
「申し訳ありません、殿下。市場から魔石が消えておりまして……」
「消えているだと? そんな馬鹿なことが……!」
「ただ……北から奇妙な噂が聞こえました」
「北だと? あの女のノースエンドか?」
「はい。なんでも黒い水を精製し、『灯油』という燃料を作ったと。王都より暖かい部屋で暮らしているとか……」
その時、窓の外から轟音が響き渡る。
ジェラールがバルコニーから見上げると、上空に巨大な飛行船が浮かんでいた。
船体にはバスカヴィル家の紋章があり、横断幕が王都の空を堂々と横切る。
『バスカヴィル・エネルギー社 王都支店オープン記念! 灯油1リットル無料配布!』
「な、なんだ、あれはッ!?」
甲板にドレスを着た女が、ワイングラスを傾け、こちらを見下ろしていた。
「あら、殿下。まだ薪を燃やしていらっしゃるの?」
「シャーロット……!」
「時代は『石油』ですわよ?」
王都の広場はかつてない熱気に包まれる。
無料配布の灯油ランプと携帯ストーブに、市民が我先に手を伸ばす。
「なんて暖かいんだ!」
「こっちの『プラスチック』とかいう素材の容器、軽くて割れないぞ!」
「火が強いのに煙が少ない!?」
「バスカヴィル商会万歳!」
「女神様だ! いや、石油の女王様だ!」
そこへ近衛兵を引き連れ、ジェラールが駆け込んだ。隣には、毛皮を重ね着したマリーもいた。
「シャーロット! これはどういうつもりだ!」
「見ての通り、特産品の紹介ですわ」
「特産品だと!? まさか、あの臭い泥水が!?」
「殿下、難しい言葉でごまかしているだけです。近づかないでください。あの人、また何をするか……」
「マリー、下がっていろ。私が止める」
「殿下、泥水ではなく、精製したものです。原油は蒸留すれば、灯油にも、ガソリンにも、アスファルトにもなりますの」
「ほ、ほら……やっぱり難しい言葉でごまかして……」
「ふ、ふざけやがって……。ノースエンドは王家の領土だ! 国家の安全保障に関わる! ただちに返還するのだ!」
「殿下、そんなこと言ったら民の皆さんが……」
「黙れ、マリー。これは王家の問題だ!」
マリーだけでなく、周囲の民衆まで顔をこわばらせる。だが、その場の空気をよそに、シャーロットは微笑み、従者に合図を送った。従者が差し出したのは一年前の契約書である、古びた羊皮紙。
「殿下、第5条をお読みくださいませ」
「どれだ……?」
ジェラールが乱暴に目を走らせる。
「甲は、乙に慰謝料としてノースエンド領の全権を譲渡する。本契約は不可逆であり、資源発見、地価高騰等の事後変動を理由とした返還請求権を放棄する」
「なっ……!?」
「ご丁寧に殿下の署名と国璽まで。王族の言葉に二言はない。そう教わりましたわ」
「ぐ、ぐぬぬ……お、王命で没収する!」
「それは契約破りですわね。では、こちらも対抗措置を取らせていただきます」
シャーロットが指を鳴らすと、飛行船の船倉が開き、黒い筒を持った男たちが一斉に並んだ。
「あれは武器か……? 剣でも杖でもないが……」
「ライフル銃ですわ」
さらに広場から地面を削るような低い駆動音が響くと、蒸気戦車が姿を見せた。
「今度はなんだ……!?」
「我が工業地帯の自衛団です。王国の鎧は紙のように貫通しますわ」
「私を脅す気か!?」
「いいえ、商談ですわ」
シャーロットは新しい書類を差し出す。
「土地は返せません。ですが、この国が凍え死ぬのも本意ではありませんの」
「……なんだと?」
「独占輸入契約を結びましょう。灯油、ガソリン、アスファルト。特別価格で供給します」
「い、いくらだ……?」
「市場価格の3倍です」
「ふざけるな!」
「嫌なら結構です。隣の帝国からは5倍でも買うと」
ジェラールの顔が歪む。
だが、背に腹は代えられない。
「わ、分かった……。契約する……」
「ありがとうございます。お支払いは前払いで。王家の金貨の備蓄をすべて頂戴します」
◇
一ヶ月後。
王国の経済は目に見えて崩れ始めていた。
「パン一つが銅貨50枚だと!? 昨日は30枚だっただろ!」
「こっちも燃料代が上がってんだ! 嫌なら買わなくていい!」
そして王城、財務大臣室。
「殿下、もう限界です。近衛騎士団の給金が払えません」
「税収はどうなっている!? もっと搾ればよいのだ!」
「それが、国民が王国の硬貨を使っておりません……。使っているのは、これです」
差し出されたのは、一枚の美しい紙だった。
透かしの入った精密な札に、油田の風景と微笑むシャーロットの肖像。そして中央に大きく、『100ヴィル』と印刷されている。
「こんなものはただの紙屑だろう!」
「引換券ですわ。商会に持参すれば灯油と交換できます。民は価値の落ちた王国硬貨より、燃料になる紙を信用しているのです」
「私的な通貨は重罪だぞ! ……処刑してやる!」
「あら、人聞きの悪い。偽造通貨ではありませんわ。『商品引換券』です」
その時、扉が静かに開き、かつて王国の財務官僚だった秘書が姿を見せた。
「貴様……!」
「殿下、お久しぶりでございます。バスカヴィル商会、財務担当秘書官のエリシアです。債権回収に参りました。先月の灯油代、未払いですね?」
「い、今はまだ金策中だ!」
「今? もう待てませんわ。勘定は期日が命です。払えないのであれば、担保の手続きに移ります」
「担保だと? もう土地はない!」
「では土地は結構ですので、差し押さえ対象は『王立造幣局』の運営権となります」
造幣局は主権の象徴。すなわち国家の心臓だ。
「ふざけるな! 王の顔が刻まれた硬貨こそ国の魂だ!」
「承りました。では規定に従い、差し押さえの手続きを進めます」
エリシアが一歩下がり、書類を閉じて主人に視線を送ると、シャーロットは小さく頷いた。
「殿下、魂で暖炉は燃えませんし、民のお腹も膨れません」
シャーロットは窓の外を指した。
中庭で近衛騎士たちが集まり、手に引換券を握っている。
ジェラールの顔から血の気が引いた。騎士たちの忠誠心は、すでに王家ではなく、灯油の供給を握る商会に移っていた。
「見えますか? 騎士は王家の給金より、私の暖房手当を喜んでいます。もし私が、『敵対者には引換を禁ずる』と言えば、彼らは誰に剣を向けるでしょうね?」
「く、くそッ……!」
「造幣局を渡していただければ、借金は帳消しにします。さらに殿下には名誉顧問として、毎月年金も支給いたしますわ。もちろん、バスカヴィル引換券で」
「ッ……!? ぐぬぬぬ……!」
「これで成立ですわ。これより、王家の硬貨はただの重たい金属片になります。これからは、私のサインが入った紙切れが世界を回すのです」
ジェラールは屈辱に震えながら、ペンを握る。
インクの滲みは、まるで王国の落日の涙のようだった。
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