プロローグ「その拳法家の名は」
「孤王」と呼ばれる魔物達が存在する。
ただ一体のみにて一国にも比肩する力を持つ特異個体の魔物をそう呼ぶ。否。ある意味では孤王はどんな大国をも凌駕する脅威である。
何しろ「個」なのだ。例えば孤王を討つため万の軍勢を差し向けるとしよう。戦力の上では孤王を倒せるとしても、この規模の軍はただ行軍することすらも至難である。
一方の孤王は単騎ゆえ身軽だ。討伐軍がのろのろとやって来るのに気付いたなら奇襲を仕掛けることもできるし、身を引いて面倒をやり過ごすことも出来る。それゆえ、孤王の討伐は実質的に不可能であった。
ただ唯一救いがある。孤王は己の縄張りからほとんど出てこないのである。孤王封鎖領域と呼称されるその縄張りを避けることで、人類は存続と不自由な繁栄を許されていた。
しかし今この森、サンデ大陸第三孤王封鎖領域、『晦冥の森』には人の姿があった。
手付かずの木々の合間を一人の青年がするすると抜けるように歩いている。上背がある割には細身だったが、華奢では断じてない。長い胴体、長い手足の上を強靭な筋肉が這っており、少しも弛んだ部分がなかった。シルエットは狼に似ているかもしれない。
そうだ。狼だ。青年があまりにも軽装だから、あのような流線的なシルエットになる。
青年の荷物は片肩掛けの背嚢ぐらいのもので、武器の一つも携えていない。
ところで孤王封鎖領域は孤王の根城であると同時に、その他の魔物達のすみかでもある。どんなに武装を固めたところで孤王には無意味であるが、かといって徒手空拳では森から生還することは出来ない。ゆえに訳あって封鎖領域に立ち入るものは誰もが武器を携えている。――自殺志願者を除いて。
だが青年の表情は自殺志願者からはほど遠く、散歩でも楽しんでいるかのような穏やかさだ。
「この森とももう少しでおさらばか」
青年の歩みに迷いはない。自分の住んでいる町を歩くかのようだ。
事実、青年にとって『晦冥の森』は住み慣れた町も同然だった。封鎖領域への立ち入りを許可された存在……「冒険者」として、もう五年近くこの森の探索を続けてきたのだ。
だからこの先で誰かが魔物と交戦していると言うことにも気付いている。
「ダスクベアか。一頭、おそらくはメス」
森の中は見通しが効かないが、わずかでも音が聞こえれば青年には十分だ。
「相手してる人間の方は……あ? 一人? おいおい、ここは単独で来て良い場所じゃねぇぜ」
同じく一人で森を歩く自身のことは完全に棚に上げているが、青年の呟きも正しい。ダスクベアの好物は熟練の冒険者であるとされている。
青年は逡巡した。捨て置くか、様子を見に行くか。
「自業自得、なんだがな」
青年は舌打ちを残してその場からかき消えた。
ダスクベア。黒色の剛毛で全身を覆った四足の魔物。興奮して毛が逆立つと、赤みのかかった表皮が見えるようになる。
そして今、血の色をしたダスクベアが一人の冒険者を襲っていた。
「――! ――――!」
唸り声とともにダスクベアが冒険者に向けて爪を振るう。
「ひ、ひぃっ!」
冒険者は剣と盾で武装していたが、彼はそれらを放り捨てて地面に伏せる。
先ほどまで冒険者の頭があった場所を、ダスクベアの太腕が当たり前のように通り過ぎ、そして勢い余って側の木にぶつかる……爆散。木を爆ぜ散らしてもまだ止まらず、さらにもう一本なぎ倒してそれでようやくダスクベアの「一撃」である。
こんな攻撃を薄っぺらい盾などで防げるはずがない。盾を捨てた冒険者の判断は正しかった。ただ、一人でこの場所まで立ち入ったこと自体が間違いなので無意味な正しさだ。
地に伏せた冒険者に向けてダスクベアの二撃目が振り下ろされる。冒険者は死を覚悟、そんなのできるわけない、でももう死ぬしかないと身を縮こまらせ……
「手間かけさせやがって」
ダスクベアの腕が、誰かによって受け止められているのを見た。
「……は?」
冒険者の口から間の抜けた声が漏れた。
ダスクベアを止めているのはあの青年だ。先ほどまで森をのんきに歩いていた彼は結局、この冒険者を助けることにしたのだ。
己の胴ほどもあろうかというダスクベアの腕を、青年は上段受けの形で受け止めていた。
ダスクベアの鋭い爪に触れることだけは避けているものの、それでも真正面から受け止めている。それも平然と。
あまつさえ、こんな台詞まで吐く。
「こんなに非力だったか? 熊公」
青年がダスクベアの腕を押し退ける。蜘蛛の巣を払うような軽い動きだ。しかしダスクベアはバランスを崩して仰け反り、どしんと尻餅をついた。
ダスクベアは呆然と青年を見上げている。ダスクベアは巨体だが、地面に転がった状態から長身の青年を見下ろせるほどではないのだ。
今、見下ろす側は青年の方だ。その青年はダスクベアに向かってあっちに行けと追い払う仕草をした。
「とっとと失せな。今日は毛皮は要らないんだよ。持って帰れねぇし」
面倒がるようなやる気のない声だ。青年は少しも殺気立ってなどいない。にもかかわらず、助けられた冒険者は身動き一つできずにうずくまったままでいる。
青年から発せられる生物としての『格』の違いが、冒険者を凍り付かせたのだった。本能がこの青年に屈服している。青年は冒険者の方を見てすらいないというのに。
だがダスクベアの方は違った。人間ごときに、餌ごときに、このような屈辱を受けて逃げ帰るなど出来ないのだとばかりに立ち上がり、青年を威嚇した。
その様子を見た青年は、
「なるほどね。そうか。そりゃあ悪かった」
と詫びて、腰を落とした。地面をしかと踏みしめるようにも、宙に浮かんでいるようにも見える構え。練達の武人の立ち姿だ。
「そういうことなら殺してやるよ」
一方のダスクベアは四足でざりざりと地面を引っ掻いている。ただ引っ掻いているのではなく、じわじわと間合いを詰めているのだ。
「――」
「もういい」のか、ダスクベアの動きが止まる。全身の筋肉が膨張し、放たれる時を待っている。
それを見ても青年の構えは一分も揺るがない。ただ、両の手を握って拳を作った。徒手空拳で魔物に挑む。それは遠回りな自殺か、それとも。
「――!!」
直後、ダスクベアが青年に向けて猛然と突進する。その速度は放たれた矢の如し。しかしそれよりもなお速く、青年が疾駆する。
「『中天槌』」
鉄槌打ち、というものがある。握った拳の小指側の肉が厚い部分。その部位を使って振り下ろしたり、振り抜いたりする打撃だ。文字通り、拳をハンマーに見立てて振るうのだ。
青年はそのハンマーを水平に振り抜く。だが、それは横薙ぎを意味するものではなかった。
青年の体は神速の踏み込みにより加速されている。このまま正拳突きでも放てばそれだけで一つの技となるだろう。
だが青年はそれに満足しない。ただ真っ直ぐ殴るのではなく、拳を水平に円弧を描くようにして振って遠心力を乗せる。
そうして踏み込みの加速と拳の遠心力を相乗させて放つ、相手の体を真っ直ぐに打ち抜く鉄槌打ち。青年が『中天槌』と呼ぶ技だった。
「――――――――!」
轟音が鳴り響いた。
破城槌で城門を打てばこんな音がするだろうか。だがこの音は人間の拳と、ダスクベアの土手っ腹から発せられた音だ。
その生身の肉体同士の激突とは思えぬ音と同時にダスクベアの腹部が陥没した。青年の鉄槌打ちが命中した場所である。
奇妙な形に体を歪ませたダスクベアは一瞬宙を舞い、落ちた。そしてそのまま二度と立ち上がることはなかった。絶命直後で痙攣しているが、じきにそれも止まるだろう。
「『雷勁』を込めるまでもなかったか。だがまぁ、根性は立派だったぜ」
そう言って青年はダスクベアに背を向ける。全くの無傷。僅かも消耗が見られない。
「す、素手でダスクベアを一撃で……?」
ここでようやくよろよろ立ち上がった冒険者だったが、ほとんど放心状態だった。
それ程までにこの光景が信じられなかった。ダスクベアといえば、熟練の冒険者が四、五人で掛かってようやく互角かという『格』の魔物だ。それを一撃でこうもあっさりと屠れる人間などいるはずがない。いるはずがないのだが――冒険者には心当たりがあった。
「まさかあなたは――孤王殺しなのか!?」
ここ『晦冥の森』は第三孤王封鎖領域である。しかし、その僭主たる孤王、『明けぬ夜』は、実は既に倒されている。二ヶ月前のことだ。
数をいくら集めても倒せず、大国ですら討伐を諦めた圧倒的な「個」の暴力をいかにして倒すか。
――単純な話だ。こちらも圧倒的な「個」をぶつければよい。
七人の冒険者からなるパーティー『射干玉狩る七曜』。そのメンバーは一人一人が『明けぬ夜』にさえ通じる絶技を持っていた。彼らが死闘の末に『明けぬ夜』を討ったのだ。
そのうちの一人に「拳法家」なる者がいたという。
冒険者でありながら武器を一切持たず、防具もろくに着込まない。
しかし一度戦いになれば音すらも置き去りにして戦場を駆け回り、魔物すらも絶命させる打撃を一瞬の内に百度放つ。
その拳法家の名をシラハという。孤王を撃破した彼にとって、ダスクベアなどただの木偶でしかない。
2026/03/03 空行追加




