20 ワイマーク伯爵邸の使用人たち
アリッサたちを乗せた馬車は村を抜けると再び森の中を走り続け、しばらくしてようやくワイマーク伯爵邸に到着した。広大な領地にあるマナーハウスは、まるで時が止まったかのような静けさと荘厳さをたたえている。石造りの屋敷は周囲を取り囲む深い森と調和し、長い歴史を感じさせる重厚な雰囲気を放っていた。アリッサたちが馬車から降りると、一人の男性が静かに一歩前に出て、低く優雅に頭を下げた。
「お帰りなさいませ、旦那様。長旅お疲れ様でございました。奥様、私は執事のエドウィンと申します。ワイマーク領にお越しいただき、心より歓迎申し上げます。屋敷の者一同、お二人のご到着を大変楽しみにしておりました」
エドウィンの声は穏やかでありながら、確固たる敬意が込められていた。
エドウィンは60代後半の男性で背筋がピンと伸び、年齢を感じさせない堂々とした立ち姿が印象的である。髪は銀髪に近い白髪で短く整えられており、口元には薄くて整った白い口ひげがある。彼の瞳はまるで全てを見通すかのように鋭く、知識と経験が詰まっていた。顔には深いシワが刻まれており、その一つ一つが彼の長い人生と豊かな経験を物語っているかのようだった。
エドウィンがアリッサたちを屋敷内に導いた後、厨房から現れた女性は明るい笑顔とともに豊かな香辛料の香りを漂わせて来た。彼女はアリッサを見て、温かい眼差しとともに深くお辞儀をした。50代半ばの女性で、少しふっくらとした体型をしている。丸い顔に紅潮した頬、そしていつも温かく微笑んでいる口元が特徴的だった。
「旦那様、お帰りなさいませ。奥様、私は料理長のマルタです。何日も続いた移動で、さぞお疲れでしょう。今晩のお食事は地元の新鮮な素材を使用したお料理です。もしご希望があれば、どんなことでもお申し付けくださいね。私の料理を気に入ってくださると嬉しいです」
親しみやすい態度とアリッサを気遣う言葉には、料理長としての誇りと温かい心遣いが感じられ、アリッサはホッとした気持ちになった。
「ありがとうございます。食べ物の好き嫌いはないし、ちょうどお腹がペコペコだったから楽しみだわ」
「マルタの料理は絶品だよ。若い頃の彼女は王宮で腕を振るっていた経験もあるのさ」
「ますます楽しみです。ですが、ライン様。食事の前に軽く汗を流したいのですけれど、ドレスも着替えたいですし・・・・・・」
「奥様の専属侍女はこのソフィアになります。奥様の日常の身の回りの世話や衣装の管理、髪の手入れを担当させますので。ソフィア、さぁ、奥様にご挨拶して」
エドウィンに促されて、アリッサより少し年下に見える侍女が慌てて、アリッサに頭を下げた。
「奥様、私はソフィアです。奥様の専属侍女を務めさせていただきます。奥様のような清楚で美しい方にお仕えできて、光栄です。ここは温泉がでますので、いつでも入浴ができますよ。早速、お手伝いさせていただきますね」
ソフィアは心臓が早鐘のように鳴り、手のひらに汗が滲むのを感じながら、アリッサの前に立っていた。
「よろしくお願いしますね。清楚で美しいなんて・・・・・・照れてしまうわ。では、早速お風呂に――」
「ちょっと待って。アリッサ、私と一緒に温泉へ入ろうよ。君の髪や身体は私が洗ってあげるから」
「え? それは・・・・・・ちょっと、なんというか・・・・・・恥ずかしいです」
「夫婦になったのだから恥ずかしがらないで。アリッサのことはなんでもしてあげたいんだ。中庭にある温泉へ案内するよ」
ワイマーク伯爵家の中庭にある温泉は、プライバシーをしっかりと守るために精巧に設計されていた。温泉は美しい庭園に囲まれており、周りには背の高い白樺やツゲが植えられており、自然な形でプライバシーを確保する工夫がされていた。
温泉自体はふたつのエリアに分かれており、それぞれ男女別の入り口がある。広々とした脱衣所は木製の壁で囲まれ、風通しが良い一方で外から見えないようになっていた。
「ライン様、やはり今日のところはソフィアに手伝ってもらい、別々に入りますわ。だって、一緒にお風呂なんてハードルが高すぎますっ」
後ろに控えていたソフィアもうなずいて、アリッサの気持ちに寄り添うような意見をする。
「旦那様、奥様のおっしゃるとおりですよ。女性は男性にあまり裸を見られたくないものなのですわ。一緒にお風呂にはいって、洗ってもらうなんて・・・・・・奥様が恥ずかしがるのも当たり前です」
「夫婦になったのにそこまで恥ずかしいものなのかい? ただ、アリッサの髪や身体を洗ってあげたい、と思っただけなのだが・・・・・・。アリッサ、すまない」
「ライン様、そのお気持ちだけで充分ですわ。私は緊張しながら入るより、リラックスして入浴を楽しみたいのですもの」
少しばかり寂しそうな表情のラインにアリッサは申し訳なく思ったが、お風呂はゆっくりとリラックスして入りたい。
そんなわけで、二人はそれぞれ入浴することになった。広々とした脱衣所にアリッサが入ると、ソフィアは手際よくアリッサのドレスを脱がせる。アリッサは石造りの湯船にゆったりと身を沈め、その温かさに心身を解きほぐされていた。湯の中に漂う湯気とともに、森の静かなささやきが聞こえる気がした。
「奥様、髪をお流しいたしますね」
ソフィアは優しく声をかけながら、アリッサの後ろに控えていた。
「ありがとう、ソフィア」
アリッサは微笑んで返事をし、湯の中でリラックスした表情を見せた。ソフィアはアリッサの豊かな髪をそっとすくい上げ、丁寧に湯をかけて流していく。彼女の手は慣れた動きで、滑らかだった。
「お湯の温度は大丈夫ですか? 熱すぎませんか?」
ソフィアは心配そうに尋ねた。
「ええ、とても気持ちいいわ。この温泉はちょうどいい温度ね」
アリッサは目を閉じ、ソフィアの手の動きに身を委ねた。
「ここに来る途中、とても面白いことがあったのよ。子ウサギが七匹もいたわ」
「ワイマーク伯爵領の森では、私も子ウサギをよく見かけます。可愛いですよね」
「えぇ、とても可愛かったわ。しかも、狼の群れから襲われた時に助けてくれたのよ」
「え? 子ウサギが? いったい、どのようにして助けてくれたのですか?」
興味津々で質問するソフィアに、アリッサは子ウサギが巨大化して狼たちを撃退した様子を説明した。
「狼たちは怪我もしていなかったわ。子ウサギたちは狼を傷つけないように気をつけていたみたいなのよ。不思議でしょう?」
「それは精霊の化身で間違いありません。ワイマーク伯爵領の森を守る精霊が、悪さをする動物たちにお仕置きをしたのでしょう。庭師のグスタフさんが森のことに詳しいです。きっと、精霊についてもなにか聞けるかもしれません」
「庭師のグスタフね。明日にでも聞いてみるわね。ここに来て、ほんとうに良かった。きっと、楽しい毎日になるわ」
アリッサは温泉の湯に包まれながら、ふと独り言のようにつぶやいた。ソフィアは微笑みながら、静かにその言葉を聞いている。とても嬉しそうだ。
「奥様がこの地で幸せに過ごしていただけることが、私たちにとっても何よりの喜びです」
アリッサはその言葉に答えるように、振り返ってソフィアに微笑んだ。
「ワイマーク伯爵家の使用人たちはいい人ばかりで、本当に良かったわ。ソフィア。これからよろしくお願いね」
「もちろんです、奥様。私はいつでも、奥様のおそばにおります」
ソフィアはやわらかく答えたのだった。




