10 家出をするアリッサ
ラインとの温かなひとときを過ごした後では、アリッサにとってサミーは、もはや何の魅力も感じられなかった。確かに、サミーの容姿はいつ見ても美しかったが、今の彼女の目には心のない人形のようにしか映らない。中身のない美貌にはなんの価値もないのだ。
「サミー様のことを待っていたわけではありませんし、今さら戻ってこられても困りますわ。迷惑なんです。今の私は、ライン卿と結婚を前提にお付き合いしている立場です」
「アリッサ、余計なことを言うな!」ニッキーは焦ったように声を荒げ、続けた。
「まだライン卿とは婚約していないだろう? だからこそ、サミー卿との結婚を考えるべきなんだ。サミー卿はダイヤモンド鉱山の事業に、ギャロウェイ伯爵家の人脈や貿易ネットワークを活用し、その利益を折半してくださると約束してくださった。それは我が家にとって、これ以上ない好条件だ。わかるだろう?」
ニッキーがアリッサを叱りつけるように言った。
「アリッサ。サミー卿が戻ってきて良かったじゃないか? あれだけ好きだったサミー卿と結婚できるのだぞ? 早まって、ライン卿と婚約しなくて良かったな。もし、婚約していたら慰謝料が発生して大変なことになっていた」
ギャロウェイ伯爵はアリッサがまだサミーを好きだと思い込んでいたし、ギャロウェイ伯爵夫人も満面の笑みでサミーとの復縁を喜んだ。
「いろいろあったけれど、このように丸く収まって本当に良かったわね。やはり、当初の予定どおり長年婚約していたサミー様に嫁ぐのが一番だわ。お母様は安心しましたよ。アリッサ、おめでとう」
まったくおめでたい気分ではないアリッサは、両親に自分の気持ちを訴えた。
「お父様、お母様。私はライン様に嫁ぎたいです! サミー卿が好きだったのは遠い過去の話だわ。今はライン様が好きなの! 私はライン様の妻にしかなりません」
「アリッサ。そんな我が儘を言うものではありません。遠い過去って・・・・・・わずか数ヶ月前のことでしょうに・・・・・・これほどお金持ちで麗しいサミー卿が、アリッサを望んでくださっているのよ。感謝して嫁ぐのです。貴族の令嬢としての務めですよ」
「そうだぞ。これは親としての命令だ。サミー卿とよりを戻し、結婚するのだ。アリッサにとっても、ギャロウェイ伯爵家にとっても、それが一番いいことなのだよ」
「いつまでも拗ねていないで、私を許しておくれ。アリッサは私のことを、とても愛してくれていたはずだ。ほんの少しのボタンの掛け違いで、私たちの愛が冷めてしまったはずがないよね? 待たせてしまったことは謝るよ。すまなかったね」
確かにアリッサがサミーを待っていた時期もあったが、ラインと付き合うようになってからは、だんだんとサミーのことはどうでもいい存在になっていった。
(今更、サミー卿と結婚なんて考えられないわ)
ギャロウェイ伯爵夫妻とサミーはすっかり和解し、なにごともなかったかのように上機嫌で、両家の繁栄と今後の事業の協力を相談しあっていた。
「以前、アリッサは子供を三人欲しいと言っていたね? 私も子供が好きだから、たくさん生んでほしい。まずは男の子がいいな。きっと、私に似て麗しく、アリッサに似て賢い子供になるだろう。あぁ~~、私たちはきっと幸せになれるさ。遠回りしたけれど、これも神が私たちの愛を試した試練だったんだよ」
「神様の試練ですか? サミー卿がセリーナ様と起こした妊娠騒動は神様の仕業なのですか? 私のほうから婚約破棄できる状況だったのに、サミー卿が莫大な慰謝料で婚約解消にねじ伏せたことも、神様からの愛の試練だというおつもりですか?」
「そうだよ。時に神は意地悪だ。しかし、私たちの愛はその試練を乗り越えた。これで私たちは固く結ばれるんだ。もう誰にも、この幸せを邪魔させはしない。そうだろう、アリッサ?」
アリッサは、サミーとは永久にわかり合えないことを確信した。まったく、話が通じないのだ。おそらくサミーと一緒になれば、彼の優しさは結局のところ他の女性にも向けられ、再び自分を裏切るだろう。それに、自分はもう、サミーの子供を生む気になどなれない。今すでに感じている嫌悪感がそれを物語っていた。サミーの勝手な理屈を聞くだけで不快になるし、彼の子供を生むことを想像しただけで、身の毛がよだった。
(逃げなければ……。ここにいたら、サミー卿と無理やり結婚させられるわ。そんなこと、絶対に耐えられない……私はライン様のものよ)
客間の前の廊下で、プレシャスは息を潜めて立っていた。ほんのわずかに開いた扉に近づき、アリッサとサミーの声に耳を傾ける。アリッサのことが心配で、少しでも状況を把握しようと、廊下で息をひそめていたのだ。
二人の会話が漏れ聞こえるたびに、プレシャスの胸に怒りが込み上げてきた。サミーの自分勝手な言葉に、彼女はアリッサのために我慢できなくなっていた。アリッサは誰よりも賢く純粋で、幸せになるべき女性だ。それをサミーのような卑劣な人間に振り回されるのは、耐え難いことだった。
(サミー卿、なんて身勝手な人なの・・・・・・アリッサ様を裏切りセリーヌ様と結婚しておいて、まるでなにごともなかったかのように、戻ってこようとするなんて。ギャロウェイ伯爵夫妻やニッキー様も、こんなことを許すなんてどうかしているわ)
プレシャスは心の中でそう呟き、眉をひそめた。サミーが一方的に話を進める様子に、アリッサがどれだけ困っているかを思うと、彼女の中で決意が固まった。
(アリッサ様を助けなければ……このままでは、アリッサ様がサミー卿と結婚させられてしまうわ)
プレシャスは深く息を吸い込み、心の中で行動に移す覚悟を決めた。アリッサを守るため、彼女は今、動くべき時だと強く感じたのだった。
夜が深まり、屋敷の静けさが一層際立つ頃、アリッサは心を決めた。これ以上ここに留まっていれば、父やニッキーの思惑通りにサミー卿との結婚を強要されるだろう。彼女は人生を自ら選ぶため、今しかないと感じていた。
クローゼットから、少しだけ大きな旅行用の鞄を取り出し、必要最低限の衣服や貴重品を詰め込む。屋敷の馬車を使えば、すぐに足がついてしまうだろうから、歩いてラインの屋敷へ向かうことを決めていた。貴族の屋敷は王都の一角に集中しており、距離もさほど離れていないため、それが最善策に思えた。
(ライン様の元に行けば、なんとかなるはずよ。お父様たちだって、家出してまで嫌がる私を、無理矢理連れ戻そうなんてできないわ)
アリッサは鞄をしっかりと持ち、静かに部屋の扉を開けた。夜の廊下はひんやりとして、わずかな足音さえも響き渡る。階段に差し掛かる頃、背後から声が聞こえた。
「アリッサ? どこへ行くの?」
母の声だった。驚きと焦りで体が固まり、アリッサは瞬時に答えられなかった。
(まずい……見つかったら、家を出るどころか、部屋に閉じ込められてしまうかもしれない)
その瞬間、背後からプレシャスが現れ、ギャロウェイ伯爵夫人にさっと近づくと、軽やかに笑みを浮かべて言った。
「お義母様、アリッサ様は少し気分転換をしたいだけですわ。私が一緒に付き添ってまいりますから、ご心配にはおよびませんよ。夜風に当たれば、きっと気持ちもすっきりするでしょう」
プレシャスの穏やかな声と笑顔にギャロウェイ伯爵夫人は一瞬戸惑いながらも、何も言わずに頷いた。プレシャスがそばにいることで安心したのだろう。
アリッサはホッと胸を撫で下ろし、プレシャスに感謝の眼差しを送った。その後、プレシャスはアリッサを屋敷の裏手へと導き、誰にも見つからないように、こっそりと準備していた馬車の方へ促した。
「実はアリッサ様とサミー卿の会話を客間の前で聞いていたのよ。だから、アリッサ様を逃がそうと、小さな貸し馬車を手配しておきました。これなら、ギャロウェイ伯爵家の人々にはばれませんわ。さあ、急いでライン様の屋敷まで行って。お金をすでに払ってあります」
アリッサは驚きつつも、プレシャスの素早い手際に感謝しながら、馬車に乗り込んだ。プレシャスは笑顔を見せながら、手を振った。
「どうか、ライン様の元へ無事に着いてくださいね。私はいつでもあなたの味方よ」
馬車は静かに出発し、夜の街を音もなく走り抜けた。アリッサの胸には感謝と安堵、そしてラインへの思いが膨らんでいった。プレシャスの協力がなければ、こうして自由になることは叶わなかっただろう。
(プレシャス様がいてくれてよかった。あの方はいつも優しくしてくれて、本当のお姉様のようだった)
ギャロウェイ伯爵家の屋敷が遠ざかっていく。生まれた時からずっと住んできた屋敷をこのような形で出て行くとは思わなかった。アリッサは少し涙が滲むのを感じながらも、決意を新たにしていた。もう後戻りはできない。これからは、自分の人生を自分の意志で切り開くのだ。
(もう、お父様やお母様、お兄様の言いなりにはならないわ。自分の生き方は自分で決めるし、夫となる男性も自分で決めるわ!)
ラインのタウンハウスは、他の貴族の住まいとは一線を画すほど壮麗で、独立した立地にある広大な敷地を誇っていた。そこには色とりどりの花々や木々が豊かに植えられ、自然と調和した美しい庭園が広がっていた。通常、貴族たちの多くは、壁を共有する縦長のタウンハウスに住んでいたが、ごく一部の裕福な貴族だけが、ラインのように独立した大邸宅を所有することができた。ギャロウェイ伯爵家の屋敷もまた独立していたが、ラインの屋敷はその倍もの広さを誇っていた。
「サミー卿のタウンハウスよりも広いわ。まさか、こんなにすごいお屋敷だなんて思わなかった。こんな夜更けにいきなり訪ねて、迷惑に思われたらどうしよう……でも、ライン様なら絶対私を受け入れてくださるはずよね」
親切な御者が馬車から降りるアリッサを手際よく手伝い、恭しくお辞儀をして立ち去る。アリッサは深呼吸し、豪華な外門に近づくと、少し緊張しながらもその呼び鈴を鳴らしたのだった。