第三十話「繋がる想い」
「師範も、眠らなくていいんですか」
振り返ったヒルダは、驚きを抑えつつ問いかけた。
もし入り口の脇にいたのがマスティマではなく暗殺者だったら。
そんな考えを隠しながら、驚きで爆ぜそうな胸を押さえて問いかけた。
「エメリッヒもグリゼルダも疲れていてな。代わりに君の天幕の見張りをしていた。
途中で起こして、見張りに失敗したっていう罪悪感を消してやらないと」
「近衛の者も、二人の部下も、みんな戦闘に出ていて、披露しているから。
わざわざ自分たちで私の護衛に就いたのね」
それなら天幕の内側にいればいいのにと思うのだが、二人はあくまで臣下。
学生でもないのに主と床を同じくすることなどできないのだろう。
「久しぶりに見たのか、月を」
「……はい。ちゃんと月を見たのは、ずいぶんと久しぶりでした」
心の余裕もなく、夜襲を仕掛けるにしろ恐れるにしろ、月はないほうがいい。
まともに月を見て心を動かされることなど詩の中でしか知らない話だった。
冬よりはっきり見えづらいはずの月が、今日に限ってよく見えた。
「先の戦いで、師範が空の雲を引き裂いたことで、月がよく見えます」
「春にここまできれいな月も、珍しいものだ」
「ええ、疲れているはずなのに、この月を見ると、ずっと見ていたい気分です」
「それなら――」
立ち上がったマスティマは、そう言いながらマントを外す。
それをそっと、ヒルダの肩にかける。
「体を冷やさないようにしないといけないな」
「ありがとうございます」
傭兵のころから使っているマントはいくつもの補修痕があるが、風を通すことはない。
マントにぎゅっとくるまったヒルダは、そのまま空を見上げる。
「月の大きい夜は、特に魔物が多いと言うが、ここら辺は大丈夫なのか」
「帝国領では、以前に比べて魔洞の出現量が増えたと聞いています。
魔物を操る術を手に入れた帝国ですが、実は逆じゃないかと噂を耳にしています」
「つまり……魔物を操っているのではなく、魔物に操られているってことか」
マスティマの言葉にヒルダは肯いた。
貴族連合の突拍子もないクーデターに、魔物を使役する帝国軍。
それが人間の考えによって生まれた行動ではないと思えば、そのような疑いを抱くのもわかる。
カリタス教会が対帝国戦に加勢してくれるのも、帝国が魔物を使役するからに他ならない。
今や帝国は、諸外国からは人の国ではなく、魔物の国と畏れられていた。
「こんな帝国を取り戻して、意味があるのかな」
ふいの呟きは、問いかけとは言い難い、独り言のようなものだ。
それでも、教師として聞かれたからには答えないわけにはいかない。
「大多数の人にとって、玉座にいるのが誰かなんて興味はないが、君が玉座に帰ることを待つ人がいる。そして、君が玉座にあることで、救われる者はきっといる」
前皇帝フェルディナントの治世では、兵役に調印される農民の数は極端に少なく、前年比の税収が格段に上昇した。
結果潤った財源で各地の治水・舗装工事が格段に進み、より高い収入を実現した。
くしくも、その財源が新帝国の戦線を支えているのは皮肉としか言いようがない。
だが、戦争を求める新帝国では、フェルディナントのころのような発展は望めない。
「君が父親と同じ道を行く必要はない。だけど、エメリッヒたちは君が玉座に座ることを望んでいるんだ。君が帝国を取り戻す理由は、それだけでいい」
「二人には、反対されそうですけど」
「でも、二人のためだと思うと、やる気がわくだろう」
教師の指摘に、生徒は肩をすくめながら頷く。
何のために戦うか、なんて悩みを、彼は簡単に看破して答えて見せる。
「改めて、師範は師範のままなんだなって、思いました」
「一年間眠っていたからな。君はこの一年で大きく変わったかもしれないが、俺は何も変わっていない。いや。こいつの使い方だけなら、あのパーティーの日より良くなったか」
そう言って、彼は左手を掲げると、そこに鎖と、繋がった短剣を顕現させる。
「それが、師範の顕現武装、鎖龍儺ですね」
「ああ。君がくれた短剣を使っている。おかげで、激流に飲まれた中でも、なくさずに済んだんだ」
血紋に宿る武器である顕現武装は、本来無から有を生み出す秘儀だ。
それが現実の武器を取り込むなどという事例を聞いたことはないが、二十二番目、最後の聖定二十二紋は、何か特別なのかもしれない。
「あ、その、短剣……そうですか、ずっと、先生のもとにあったんですね」
「鎖龍儺の力は、時間と空間を繋ぎとめる。もしかしたら、この短剣が繋ぎとめてくれたのかもしれない。君たちの元に、俺の存在ごと」
その言葉に、ヒルダは顔を赤く、熱くする。
王侯貴族の女性には、とある習慣があった。
婚約者や求婚相手に、自ら用意した短剣を贈る。
武功を立てた者への剣の授与とは意味性が違う。
――この剣で、私を守って。
そんな意味合いを持って、装飾品という形で短剣が贈られる。
むろん、正式な婚約表明ではないため、一般には知られていない慣習だ。
なのに、マスティマは短剣をさも二人の繋がりのように語る。
グリゼルダ辺りが聞いていたら、またからかいの種にするに違いない。
「眠っている間に、ブラッドに宿った母さんの魂と話した」
唐突な話の切り出しに、何のことだと思うヒルダへマスティマは顔を向ける。
「守りたいものを見つけることが、戦士としてのさらなる一歩なんだ」
傭兵ではなく教師となったことで見出したもの。
それが、今のマスティマを支える力になっている。
「この戦いを終わらせるために、約束通り、君と一緒に戦う」
「……覚悟は、できているんですね。ヴァルヘルムのような、かつての生徒とも、戦うことになるかもしれませんよ」
「できうる限り助ける。大聖堂士官学校の教師としても、魔物に操られた人や国を、放っておくわけにはいかないからな」
いまだにマスティマは自らを教師と考える。
それは戦場に立つ人間としては相応しい姿ではない。
だとしても、彼はその姿勢を崩すことはないだろう。
守りたいものを得た彼は、もう傭兵ではいられないのだから。
「救って見せるさ。この鎖龍儺の血紋にかけて」
掲げた短剣を月光に照らせるマスティマの言葉は、今はヒルダにだけ聞かされる。
皇女から贈られた短剣――その意味を彼が知ったらどう思うか。
期待と不安のまぜこぜになった感情を、ヒルダは口にできずにいた。
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