第二十九話「亡国の姫」
マスティマの手が、横になったヒルダの額に重ねられる。
触れ合った場所から血紋の力が流れ込む。
それは彼女の体に小さな活力を与え、わずかに血色をよくした。
マスティマから与えられる力は、彼の精神とヒルダの精神をわずかに感応させる。
「師範……本当に、一年も眠っていて……?」
「エメリッヒやグリゼルダだけじゃない、ヴォルフやアンネにも感謝しないとな」
貸与されたブラッドによる精神感応は、ごく限られたものでしか起こらない。
本当に心を許したものでなければ、魂が触れ合うことはない。
「エメリッヒやグリには、病気だとは伝えていないの。体調が悪いとは伝えてるけど、血を吐くほどとは、二人とも思っていないはず……」
「自分たちの皇女殿下がそんな状態だと知ったら、あの子たち泣くぞ」
「今泣かれるより、あとで怒られるほうがいいわ。死んでからなら、エメリッヒのあの目に睨まれる心配がないもの……ごほっ、ごふっ……」
冗談か、それとも本気か。
理由が理由だけにマスティマには後者に思えてしまう。
ただ、やはり彼女の言葉に同意することはできなかった。
「心配されるのが嫌なのは理解できる。けれど、君がいなくなったらあの二人が何のために戦えばいいのか、わからなくなるだろう」
「……それは、そうだけど」
「君は彼らの旗印であり、希望でもあるんだ。死なないように戦っているのもわかる。
だけど、生きようとしない生き方も、やめたほうがいい」
彼女の戦いは、自分たちの生存に重きを置いている。
だが、同時に彼女自身が生きる気力を失いつつあるのだ。
それはきっと――
「だって、師範がいなかったから……」
その言葉に、マスティマは喉を詰まらせる。
彼女がそんな思考に至った原因が、少なからず自分にあるのだ。
「……そういわれると、反論のしようがないだろう」
「苦しかった。怖くて、寂しくて、エメリッヒやグリを心配させたくなくて……。
でも、あなたがいないのが……何より辛かった」
額に乗っていたマスティマの手を、ヒルダはぎゅっと握る。
「でも、よかった。生きていてくれて。ずっとそれだけが、気がかりだった」
「俺も、君たちのところに帰ってこられてよかったよ。けど今は、しばらく眠ったらいい」
「……はい、そうさせてもらいます」
目を閉じたヒルダの呼吸は、少しずつ安定した。
手を握る力が弱まったところで、マスティマは彼女の体に毛布をかけた。
立ち上がったマスティマが幕営の外に立つと、入り口の脇に立つ男と、座り込む少女を見つける。
「中に入らないのか。エメリッヒ、グリゼルダ」
「それをヒルデガルト様がお望みではないのならば、私は立ち入りません」
「あだじも、ぎゃまんしばず……」
侍従として、主の体調管理は彼らの仕事でもある。
その手を煩わせたくないと言う主の言葉を尊重し、二人とも知らぬふりをしているのだ。
「泣くほど心配しているんだな。あまり袖で擦るな。痕になるぞ」
「だって、センセーがいない間、あだしたち、ずっと、殿下といっじょでぇぇぇ……」
「ヒルデガルト様の苦しみも、悲しみも、最もよく知っていると自負しております」
「本当に、一年以上も、待たせてすまなかったな」
一番近くで見守っていたからこそ、二人がどれだけ力になれない自身を責めたか。
申し訳なさに、謝罪が口から飛び出す。
「二人がそばにいただけでも、ヒルダは幸福だな。よく、仲間を守った」
「はいぃぃぃ」
「当然のことですから」
もしも誰も彼女のそばにいなかったら、きっとヒルダはそもそも生きていない。
ヴォルフやアンネが軍を貸していたとしても、その忠誠を誓われているわけではない。
急増軍を統一するには、全員の意識をまとめる、絶対的指揮官か、多数の指揮官がいる。
小さく隊を分けても、統一感のある指揮ができる個別の指揮官がいれば、バラバラの軍でもまとまった行動ができる。
「大将であるヒルダを支える複数の部隊があった。近衛、エメリッヒ、グリゼルダ、ヴォルフやアンネの肝いり部隊、それぞれが左右中央部隊にいたんだろう」
「ええ。ヴォルフガング殿、アンネリーゼ殿、双方から託された部隊のおかげで、ヒルデガルト様をお支えできました」
エメリッヒは何でもないように言うが、それも相当な苦労が伴う。
一人の指揮官が指揮を出せる範囲は限られる。
まして他国の兵たちも含めた布陣なのだ。
本来なら、軍として成立すること自体稀だ。
「よくがんばった。本当にな」
ポスン、とエメリッヒの肩に手を置く。
グリゼルダが膝にしがみつくので、その頭を撫でる。
声を出さないように震える少女に対し、青年は微動だにしない。
ただほんのわずかに、鼻先が揺れているのを、教師は見落としていない。
だからこそ、恥ずかしがっているにも関わらず生徒を褒めるのをやめなかった、
***
ヒルダは目を開けると周囲を見渡す。
自分が幕営の寝床にいるのだと気づいた。
傍らの器を見ると、そこに冷えてはいるが、エメリッヒの淹れたであろうお茶があった。
「……気づかれているわね、これ」
自分はもう長くない気がする。
それがヒルダの、自分への判断だった。
今からでも医者にまともに診てもらえば薬や治療やらを受けられるかもしれないが、そのつもりはなかった。
もしここで皇族の血脈が絶えたとしても、彼女は構わなかった。
「復讐さえ遂げられればって、思っていたのに……」
帝国を取り戻す、その気持ちを失ってはいない。
だが、意味を見出せなくなりつつあることを自覚していた。
何のために、誰のために帝国を取り戻すのか。
大切な臣下二人を無謀な戦いに付き合わせてまですることなのか。
病魔に蝕まれた体に鞭打ってまでなすべきことなのか。
「師範が帰ってきたら、復讐の意味が半分なくなっちゃった」
自嘲するように呟く。
恩師がいなくなった原因は反皇帝派にある。
それが、彼女が復讐の戦いを続ける理由だった。
その師が、何事もなかったかのように戻ってきた。
盛大な肩透かしを食らった気分だ。
「これから、どうしよう」
戦いの号令を発する者には理由が必要だ。
この先戦いを続ける理由を、ヒルダは持ち合わせていない。
エメリッヒやグリゼルダのためにも戦い続ける――などと簡単に言えればよかったのだが、本当にそんな理由で戦おうとすれば、二人のほうから反対してくる。
「私は結局、何のために……」
ふと、天幕の外に目を向ける。
差し込んでくる月明り、静かに吹き抜ける夜風。
何を思い立ったのか、天幕の外に出た時、晴れ渡った夜に浮かぶ、巨大な満月に目を見開いた。
「うわぁ」
この一年、月の輝きに感動したことなどなかった。
心に余裕はなく、敵をどう殺すかだけを考えて過ごしてきた。
その反動なのか、妙に涙が零れそうになる。
月に向けて伸ばす手は、何か掴むことのできないものと手に入れようとするようで――。
「眠れないのか。ヒルダ」
入り口の脇に、座り込んで眠る二人の従者と、その隣で月を見上げる教師がいた。
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