第二十五話「舞い降りる刃」
戦場から少し下がった場所に移動した陣営に、ヒルダが姿を見せた。
「状況はどうか」
「はっ! 左翼は敵後背を攻撃するため移動を開始。順調にいけば、一時間後に攻撃開始可能であります」
「敵左翼の突破はまもなくです。中央に基礎型血紋保有者を多く配置、迎撃態勢を整えております」
「先陣を切ってくるのは、敵の切り込み隊長よ。奴の刃に何人のブラッド保有者が倒されたか。確実に包囲して仕留める。エメリッヒたちを激突までに休ませておきなさい」
先ほど血を吐いた人とは思えないほど、毅然とした態度で指揮を出す。
口紅を付けない彼女の唇の端が、わずかに赤くなっていることに気づく者は、ここにはいない。
気づけるのは、それこそエメリッヒとグリゼルダくらいだ。
「脅威になるのはリンノルムくらいで、あとの地上型魔物はさほど脅威とは言えない。こちらにバリスタ用意は十分。あと四時間耐えきれば、魔物たちの活動限界……」
「伝令! 敵陣営より新たな魔物が出撃、その数二十!」
もうすぐ勝てる。
そう思っていた矢先の報告に、ヒルダは立ち上がって問う。
「形状は!?」
「全高三百、四足歩行のゾウのようですが、牙が長く直線、槍のように突き出ており、ゴンフォテルかと思われます! 背中に人が乗る形で制御し横陣形にて突撃してきます!」
「……ッ! 左翼へ後退伝令!中央を右翼と合流する形で後退させなさい!」
ゴンフォテル――ゾウのような形の魔物だが、その牙は鋭く長く、まっすぐ前に伸びている。
突撃で要塞の厚い石壁を破壊するほどであり、学生時代にも遭遇したことがあった。
あの時はマスティマが仕掛けた罠で足を攻撃して転ばせた――。
「師範は、もういないんだから……」
「殿下、ですがここで中央が退却するのも、まず至難の業かと――」
「ゴンフォテルの突撃に現在の陣形では対応できない。敵右翼を引き込もうとしている以上、教会騎士たちとは分断されかけているように見せなくちゃいけないのに、迎撃の余裕はない。いっそのこと、教会騎士はここで切り捨てる?」
「う、状況を急ぎ伝えます!」
鋭い眼差しが、部下を早急に動かした。
ここで迷っている暇はない。
二十体ものゴンフォテルは、いうなれば全速力で突撃してくる戦車部隊を、さらに強固にしたようなものだ。
今の陣形で突撃を受ければ、左翼が蹂躙されるのはもちろんだが、教会騎士たちと完全に分断されてしまう。
ただでさえ数で劣る即席的な抵抗軍なのだ。
さらに数を減らされては、壊走やむを得ない。
「我々も撤退する。遅れたものは置いていく。急げ」
後退していく仲間とともに、彼女も馬に乗る。
かつての自分なら、ここで殿に協力しただろう。
けれど、今は学生ではない。
かつて近衛兵と呼ばれた彼らをまとめ、王国と都市連合から派遣され、教会の騎士団を併合してできた軍隊をまとめなくてはならない。
「た、助けて!」
「逃げろ、早く味方に置いて行かれるぞ!」
「くそ、なんで、魔物がこんな――」
ゴンフォテルの突撃が始まる。
人が潰れ、引き裂かれ、砕け散る。
耳を塞いでも響いてくる音は、まるで訴えているかのようだ。
『お前のせいで、大陸の平和が壊れたんだ』
アマルテア帝国は、貴族の暴挙を止めることができなかった。
皇帝としての責任を全うできず、全てを奪われた。
誰も言葉にはしなくても、彼女を責める声はいくらでも聞こえてくる。
「ごめん、なさい」
嗚咽がこみ上げる。
それでも、涙を流すことは許されない。
馬の腹を蹴り、部下たちに続いて戦場から離脱しようとした。
「ごほっ!」
だが嗚咽の代わりにこみ上げた血の塊が、ヒルダの口からこぼれた。
同時にバランスを失った体は、馬上から地上へとずり落ちる。
「殿下ッ!」
「停止! 後退停止! 陣形再編!」
部下たちの叫ぶ声に、ヒルダは何とか起き上がる。
「止まるな! 遅れた者は置いていく! 一切の例外はない! 大聖堂へ帰還次第ゴンフォテル対策のバリスタと鉄捲菱を用意し、街道に塹壕を築く! 牙による突撃を防ぎ、魔物消滅までの時間を稼ぐことに徹せよ!」
叫ぶたびに血が昇ってくる。
心臓は狂ったように鼓動する。
止まらず駆けだした歩兵たちの足音が、まるで心音と重なったように耳でわめく。
味方の姿が遠退いていく。
それでも駆け寄ってくる部下は、近衛兵として仕えてくれていた者たちだ。
彼らが自分を運ぶのが早いか、追手が迫るのが早いか。
「これで、師範、私、頑張って……」
たとえ戦わずとも長くはない。
ならば、せめて、最後まで抵抗を。
旗を持ち、戦場の風にはためかせる。
「来るがいい……私は、絶対に、もう……」
部下たちが呼ぶ声がする。
魔物の叫びも聞こえる。
けれど、それよりずっと強く、優しい声が、空から降ってきた。
戦場には似つかわしくないほどに、まっさらに晴れ渡った青空から。
「ヒルダァァァァッ!!」
ふと、顔を挙げた。
森が燃え、黒煙が空を染め上げる戦場。
閉ざされていた太陽を、雲を切り裂いて青空が顔を見せたのだ。
太陽を受けて逆光に閉ざされた影が、光を連れてくる。
風が吹き抜けた。
灰色のマントがたなびく。
四頭のペガサス、その先頭に座る青い髪の青年の姿を、最初に理解したのはヒルダだ。
誰にも届かないはずの声を届かせ、いるはずのない場所へと舞い戻る。
「どう、して……」
零れ落ちる涙をとどめることができない。
きっと、今鏡を見たら、ぐしゃぐしゃになった自分の顔が恥ずかしい。
だけど、止められないのだ。
流星の如く舞い降りるその姿を、決して忘れたことなどない。
いつかまた会えると信じて、諦めかけて、それでも、逢いたくて。
「師範!!」
ペガサスから飛び降り、左手に握った鎖を振るう。
それは突撃してくるゴンフォテルの戦闘の額に突き刺さると、一気に主を――マスティマを引き寄せる。
そのまま鎖を首にかけて安定させると、右手に抜いた剣を御者に突きつける。
「一人乗りなんだ。降りろ」
引き攣った顔をする御者は転がるように飛び降りると、ゴンフォテルの制御が外れる。
マスティマは鎖を使って方向を変えると、先頭の個体を隊列の右へ向けて直進させた。
するとどうなるか、横陣形で並んでいた他のゴンフォテルを突き飛ばしながら進んでいくではないか。
撤退するしか対抗策のなかった状況を、一瞬で覆す。
十分進んだところで飛び上がると、翔け寄ってきたペガサスの背中へ舞い戻る。
そして残っているゴンフォテルの端っこの個体に左手の鎖をひっかければ、ペガサスの移動に合わせて進行方向を引っ張って変える。
直接ぶつけられなくても、ただ隊列を乱して圧迫させてやれば、狂暴な動物はどうなるか。
魔物を除いて最も強力な騎乗動物はゾウだ。
そのゾウとて、隊列を乱してやれば巨体同士がぶつかり合い、自滅する。
「これくらいで、十分だろう」
近衛兵に起こされたヒルダの前に、四頭のペガサスが着地する。
その背から降りてきた青年に、警戒する近衛兵を振り切った少女は走り出す。
振り返ったその胸へと飛び込んだ。
「マスティマ!」
ぎゅっと抱きしめた体は本物で、夢や幻ではない。
魔物たちの叫びが響き渡る戦場において、この二人の居場所だけは奇妙なまでに静寂を伴って存在していた。
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