第二十三話「母の声」
「ずいぶん、無茶をしたのね」
頭上から聞こえた声に、青年は目を開けた。
青年――マスティマは柔らかい草の上で寝転がっていた体を起こす。
湖畔だ、森の中にぽっかりと浮かんだような大きめの湖。
起き上がった時に見た顔は、ずいぶんと久しぶりに見た顔だった。
「母さん……?」
同じ青い髪を持つ女性――彼の母であるリシテアだった。
大聖堂士官学校に彼が入学したのは、十五歳の時だった。
それまで一緒に暮らし、鍛えてくれた母と別れてから一年。
エウロパに誘われ、大聖堂の門を潜った。
「だって、母さんは、もう……」
「うん。魔物に負けちゃって、マスティマに血紋を託して、力尽きた」
すでに、彼の母はなくなっている。
生前にエウロパとも引き合わされ、傭兵として教えを受け、彼を鍛え上げた。
だが、魔物と戦いで命を失った。
「母さんは、傭兵として、依頼主たちを守って戦った。でも、その結果……」
「そうだね。情けないところ、マスティマには見せちゃったね」
すでに七年も前だ。
だが、あの日以来、マスティマの心に刻まれた疑問は消えなかった。
『何を守って戦うのか』
傭兵としての矜持か。
力ある者としての責任か。
守ることを目的としない傭兵は、何を守るのか。
「母さんは、何を守りたくて戦っていたんだ」
「決まってるじゃない。マスティマ、あなただよ」
母が亡くなるとき、重ね合わせた額から伝わってきたのは感謝だった。
一人残していくことの謝罪より、一緒に過ごしてこれたことへの感謝。
「お父さんが亡くなって、独りぼっちになるかもしれなかった私のもとに、あなただけは残ってくれた。戦場で勝つより、あなたを育てるほうがよっぽど大変よ」
「もし、血紋を継承しなかったら、母さんは助かったんじゃないの?」
「うーん、出血量が多すぎて無理だったかな。でも、継承できていたからよかった。こうして、また話せるんだから」
ふと、マスティマは気づく。
母が亡くなってからこのように枕もとに立たれたことなどない。
では、今自分はどうなったのか。
「……俺、死んでたのか?」
「いまさら!? この子の生徒さんも、苦労しているでしょうね」
「母さんは、俺が教師をやってるって知っているのか?」
「うん。何となくだけど伝わってきてる。ブラッドの中に残した私の魂が、あなたが楽しそうにしているんだなって、感じてる」
ブラッドは、魂に刻まれた血の力だ。
稀にブラッドの継承とともに記憶を継承する例もあると言う。
その類のおかげで、今こうして母と会話することができているのだ。
「じゃあ、俺は死んだわけじゃない?」
「そうよ。でも、肉体は眠ってる。砕け散ってしまいそうな肉体を繋ぎ止め、離れてしまいそうな魂を縛り付けている。元に戻すのに、一年もかかっちゃった」
「一年……」
それだけの期間、彼の体は眠りについていたような状態なのだ。
鎖――鎖龍儺のブラッドは、繋ぎ止め、縛り上げる力。
その白い鎖は、触れられぬ者さえも捕らえるものだ。
「どうして、そんな力が俺に――母さんに宿ってるんだ」
「細かい来歴は私もわからないわ。でも、紋章研究者だったお父さんが言ってたわ」
『二十二番目の聖定二十二紋は、”世界”を象徴するものでもあるんだ。フェルディナントの戦旗が”女教皇”を指し示すように』
「世界?」
「ええ、その意味は――救世」
我らを救いたまえ。
そう願われて戦う者たちを、人は英雄と呼ぶ。
「神話の時代から失われた二十二番目のブラッド。今はあなたが、それを受け継いでいる。
どうして持っているかより、どう使うかを考えるのが、大切よ」
脳裏に浮かぶのは、彼の感覚で一年間、ともに過ごした生徒たちだ。
関わりの深かった生徒もいれば、薄い生徒もいるだろう。
あの日、最後の意識が合った日、玉座を奪われた者がいた。
確実に広まるであろう戦乱に、巻き込まれる者もいる。
怯えて逃げ出したくなる者だっている。
助けを求めている者だって、いるはずだ。
「初めて、守りたいと思える子たちができたんだ。いや、たぶんエウロパさんはそうなるだろうと思って、俺を教師にしたんだろうけど」
「彼女には、感謝しないとね。マスティマが、戦士としてまた一歩成長できた」
一介の傭兵は教師になった。
そして、守るべきものを見定めた。
死んでなどいられない。
どれだけ時間が立っていたのだとしても、また彼らの前に立ちたかった。
「じゃあ、眠っている暇じゃないわね」
「ありがとう、母さん。ずっと、守っていてくれて」
「これでもあなたの親なんだから。お嫁さんの姿を見れなかったのは、残念だったかな」
「……善処する」
ひとまず、戦乱に包まれたであろう世では、そんな些細な日常も難しいだろう。
ならば、そんな浮かれた気持ちでいることが許される時代へ、また世界を戻せばいい。
マスティマが左手を上に延ばすと、そこから鎖が伸びていく。
先端には、ヒルダから贈られた短剣があった。
どこまで伸びていく鎖が、何かに当たる。
天井ではない、この意識の世界の果て。
ピシリと割れる空間。
そこから漏れ出る光は陽光だ。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
短い言葉とともに、マスティマの体は飛び上がる。
縮んでいく鎖に引っ張られ、空気を押しのけて空へと落ちていく。
眼前に迫るのは、意識の天蓋。
真っ青な空に激突したマスティマの体は、急に暗く重たい、水に包まれた。
時代は、大陸暦800年、春の一月となった。




