第十話「マスティマ教室」
【大陸暦798年:春一月・二週目】
マスティマが教師に就任してから一週間。
担当クラスの能力について、彼は大概把握していた。
「ヒルデガルト班の面々は、この調子ならもう少しハードルを上げていけるな。
体力づくりの基本は、限界をちょっとだけ超えることだ」
生徒たちが聞けば青ざめた顔でやめろ、と懇願してくるであろうことをさらりと言う。
この一週間、徹底的に彼は生徒たちの限界値を確かめるための鍛錬を行ってきた。
走り込みを主体として様々な鍛錬――剣術、槍術、斧術、弓術、格闘術、馬術、血紋術――戦場でおおむね必要とされるものについて把握した。
「同じ士官学校生と言っても、やはり程度にばらつきは大きいな」
「そういう……先生は……何が、得意なんです?」
皇女としての威厳のない、疲れ切った様子でヒルダは問いかけた。
四肢を投げ出し、放っておけば地面に体が沈み込んでいきそうだ。
「俺が得意なこと? 走るのは、得意だぞ」
士官学校はカリタス教会の大聖堂と併設されている。
三国の中心部に存在する点から交易路としても整備され、大聖堂としての宗教の中心・観光地と、商業都市としての側面もある。
そんな大都市の外周を、マスティマと生徒たちは一周してきた。
盆地とは言え、それなりに木々もあれば土地の凹凸もある。
まっすぐ走ることのできない山道、歩くだけでも大変なのだが、そこを走る。
生徒の大半が疲労困憊の中、マスティマは多少汗をかき、呼吸が早くなっただけであった。
「傭兵は基本的に全部ある程度できるようになるっていうのが理想形なんだ。周りの奴らに合わせることも多いから。その中で特別得意なものがあるとすれば、剣かな」
マスティマはそう言って腰に佩いた剣を鳴らす。
彼女は曖昧に頷くと、水筒の水を煽る。
彼に剣の教えを請うたらどうなるか、その言葉をついでに飲み込んだ。
「ヒルデガルト班でまだ余裕そうなのは、二、三人程度か」
「余裕ではない人が普通なんですよ、師範」
ヒルダを含め何人かの生徒は生まれたての小鹿のように震えながら立ち上がる。
壁や近くの花壇、椅子までも使って動こうとする様子は、まるで敗残兵の行軍だった。
「しかし、この程度で倒れていたら、血紋の強化も微々たるものだぞ?」
「い、言ってくれますね……」
他の生徒たちがお互いに肩を貸し合いながら移動する中で、ヒルダだけは一人で立とうとしていた。
ここに身分の差はない。
だが皇女としてのプライドはある。
一人で立てずして何が皇女か。
「――ヒルダ」
「し、心配ありませんよ、たいしたことではありません! この程度、乗り越えられずして何が皇女か!」
「さっきまで四肢を投げ出して倒れていた人の言葉とは思えないな」
「気のせいです!」
あくまで意地を張ろうとする少女に、だんだんとマスティマの罪悪感が増してくる。
「あっ――」
限界が来たのか、膝からがくんと崩れ落ちそうになる。
「意地を張るな」
「へぇ?」
マスティマはそんなヒルダの体を受け止めると、そのまま両腕で抱えて横にする。
「ちょ、ちょっと師範!」
「腕は首か肩に回してくれ。足よりもまだ余裕があるだろう」
マスティマは右腕をひざ下に、左手を背中に回してヒルダを横抱きにする。
顔を真っ赤にしたヒルダの叫び声を無視して、さらに倒れている生徒のほうへ歩み寄る。
主が疲労困憊であるのに助けに現れなかった従者エメリッヒは、主より酷かった。
その場から動けないで膝を折って顔面は地面に密着している。
せっかくの二枚目が砂だらけだ。
「え、エメリッヒ、大丈夫なの!?」
「ヒルデガルト様、このような醜態を……お見せすること、どうかお許し――ごふっ!」
「紳士気取りもいいが、体力もきちんとつけろ。台無しだぞ」
「……善処いたします」
倒れた状態のエメリッヒを、マスティマの空いた左腕が腹から抱える。
脇に挟むように担ぎあげると、そのまま二人を運んでいく。
「一番余裕そうなのはヴァルヘルムだな」
「……まぁ、彼が優秀な戦士であるのは、事実でしょう」
生徒二人を抱えながらでも余裕ありげなマスティマは、そのまま他の生徒にも目を配る。
クラスを二分するリーダー格のもう一人、アルブレヒト・フォン・ヴァルヘルム。
体格に恵まれた彼は、体力も相応に持ち合わせていた。
「全員、ヴァルヘルムを目指せとは言わないが、彼を見習って体力づくりに励め。
君たちが戦士である以上、その要は体力なんだから」
「……ちっ」
舌打ちをするヴァルヘルム、一方生徒たちからは気の抜けた答えしか返ってこなかった。
やはり、まだまだ魔物と戦うには彼らは力不足のようだ。
「よし、じゃあ基礎体力の強化のためにはこれからもしばらく走り込みは続けていく」
その言葉に不満は上がらない。
生徒たちも体力が必要だと言うのは理解している。
なにより、反論するだけの元気がない。
士官学校、およびそれぞれの寮への道すがら彼の話は続く。
「各人の基礎については見せてもらった。理想的な環境で育ってきた者たちは確かに十分な実力も保有しているだろう。
だが、魔物は訓練で優秀だからと言って必ず勝てるわけじゃない」
実戦と訓練の最大の違い、それは命がかかるかどうか。
普段では意識しない事柄に直面した時、人間の思考は案外鈍いものだ。
「各々の得意分野を生かしつつ、さらなる発展を目指す。
全員、上級兵種の資格と、それに見合うだけの実力を目指してほしい」
大聖堂士官学校では、各々の実力や功績に見合った兵種というものを割り当てる。
それは生まれの階級によらない称号だ。
この士官学校でどれだけ優秀な成績を収めたか、個人としての実力がどれほど高いかを証明するものになる。
大聖堂士官学校のお墨付きがあるとなれば、生徒も自分を売り込みやすい。
「今日の鍛錬で動けなくなった者、動ける者、余裕でこなせた者、それぞれだろう。
いつか全員が同じようにこの課題をこなせるようになってくれ。
一歩でも早く前に飛び出せれば、一つでも多くの命を救えるようになるから」
いまだ震える生徒も、自ら立ち上がった生徒も、どう答えればいいのかと逡巡する。
「師範、一回降ろして」
ヒルダからの要請を聞くと、そっと彼女の足を降ろす。
いまだ震えながらも、その両足で立とうとする。
「私たちがこの先どうなるかは、今はまだわかりません」
「そうだな。結構無茶を言っている」
「それでも、あなたの期待に応えて見せます。
私たちは大聖堂士官学校に通う、血紋の保有者として!」
震えを止め、まっすぐに立つ姿は、確かに徒人ではなかった。
凛とした、まるで一本の鋭い戦旗のような少女の目には、強さと慈愛、為政者が持つべき心が宿っていた。
まるで教室の総意だと言わんばかりの宣言。
それに不満を抱く者もいるだろう。
だがこの時ばかりは、抱えられたままの従者も、巨躯の好敵手も、何も言わなかった。
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