第一話「血塗られた道」
薄暗い地下道。
地下水脈に沿って作られたその通路は、城から遠く離れた森の洞窟まで伸びている。
この道を知っているのはごくわずか。
現皇帝の親族でもなければ、出口を知ることはできない。
「それなら、しばらくは追跡の心配はないんだな」
有事にしか使われないこの通路に、二人の男女の姿があった。
一方は豪奢な赤ドレスに白のケープを羽織った美少女で、肩やスカートの一部に、破けた痕があった。
まだ二十歳になろうかどうかというほどの少女で、その銀の髪に隠れた顔は涙に濡れていた。
もう一方は灰色の傭兵服に身を包んだ青髪の青年だ。
少女とあまり歳は変わらないだろう。
無骨な服の上にある顔は、少女と並んでも遜色ない整った顔立ちだった。
もう少し良い恰好をすれば、今頃社交界でもてはやされていただろう。
今はその顔に暗い影が差し、よく見えない通路の奥をじっと見ている。
「追跡がないからと言って、なんです……」
「ヒルダ……」
「ここから逃げて、どうなると言うんですか――」
慟哭とともに吐き出された言葉は、絶望に染まったものだった。
直後、自分の言葉に自己嫌悪を覚えて、顔を逸らす。
アマルテア帝国第一皇女ヒルデガルト・フォン・パンガエア。
親しい者はヒルダと呼ぶ。
今日はヒルダの十八歳の誕生日。
二人が正装なのは、今日が彼女の生誕祭であったからだ。
少なくとも、ほんの数時間前までは、こんな地下通路を進んでいる予定などなかった。
歓談と食事、ダンスを終えて帰る者は帰り、残る者はグラスを片手に語り明かし、次代の皇帝の誕生日を祝うはずだった。
しかし、突如として現れた乱入者たちによって、幸福な時は蹴散らされた。
入り口に立つその青年貴族は、パーティー会場の一同を睥睨してから告げた。
『我々貴族連合会は、現皇帝の掲げる政策に断固として反対するものである。
帝国領を拡大し、他国を従属させ、国家の威信を存続させる。
帝国にさらなる繁栄をもたらすことこそ皇帝の使命のはず!
それを現皇帝はないがしろにし、むしろ他国にすり寄り、誇りある帝国の権威、品位を貶めている。
皆も知っていよう、隣国からの圧力に怯える皇帝は、軍事行動の一つ起こさず、むしろ領土の一部を割譲したことを!
そう、この皇帝……いや、このクズは売国奴である!!
他国に阿り、この国に遺恨を生む温床なのだ。
よって我々貴族連合会は、臆病者の現皇帝を弾劾。
新皇帝として皇弟殿下を推挙する。
それをもって、失われた我が帝国の威信と領土を取り戻すものである!』
それは、まぎれもない皇帝に対する反逆だった。
なだれ込んできた兵士たちによって追い詰められた皇帝は、自らを守るより、娘の安全を優先させた。
死が確実となった自分より、大切なものを守りたい。
親としての、最後の願いをマスティマに託した。
「皇帝は、最後の瞬間は国家の父ではなく、君だけの父親として戦ったんだ。その想いを、無下にするわけにはいかない」
「その結果、父は死んだのですよ……マスティマ師範」
マスティマと呼ばれた青年の差し出した手に、ヒルダは手を乗せない。
地面を掴んだ手を、上げることができない。
唇を噛む彼女は、自分が今ただ八つ当たりをしているだけだと、自覚はあった。
そんなヒルダに向けていた手を、マスティマは頭に持っていってわざとらしくかく。
無理に立ち上がらせる必要はない。
「それでも、大切だから守りたいという想いは、皇帝だろうと、単なる傭兵だろうと、変わらない」
彼女が、自分で立ち上がると知っているから。
「……私の中の血紋が力を失いました。父は、確実に亡くなったでしょう」
「ブラッドを奪わせまいと抗ったんだ。きっと、君が取り戻すのを待っている」
ヒルダは額を抑える。
指の間から薄く刻まれた刺青のようなものが見えるが、心なしか時間とともに色が薄れている。
それこそが、この大陸の王侯貴族がその地位ゆえに持つ力であるが、今の彼女からは失われていた。
「無力な子どもに、できることは多くありません」
「皇帝だって、一人だけで戦争はできない」
「この度の襲撃で、お父様のことを支持していた貴族の大半も、敵に回るでしょう」
「貴族の本懐が血統の維持にある以上、こちらへの協力は望めないだろう」
「この国が嫌いです。無駄に広く、猜疑心の蔓延るこの国が」
「なら離れてしまえばいい。帝位を簒奪されたのなら、もう君を縛るものはないんだ」
ヒルダの言葉に、マスティマは逃げてしまってもいいと、言外に告げる。
「それでも私は、この国を取り戻す」
教師と生徒、意見を交わしあうのは常だ。
相手の選択、問いかけに、教師も生徒もひるまず答えた。
「帝国の本軍は貴族将校も多い。会場には近衛師団が配備されていたが、反乱を止められなかったとすると、裏切ったか、壊滅状態だろう」
「救援や助力を、この国の内部に求めるつもりはありません。
私はこの”血”にかけて、あの者たちを止めて見せます!」
ヒルダは亡命を考えていた。
幸いにも彼女にはそのつてがある。
もし貴族連合会とやらが拡大政策に舵を取るのなら、これから声をかける者たちは協力してくれるだろう
何せ、帝国の侵略の被害を真っ向から受ける側なのだから。
「困難な戦いになるぞ。これまで味方だったはずのもの、全てが敵に回る」
「覚悟はしています。危険を恐れるくらいなら士官学校に通いませんから」
「その勇猛というか無謀さは、出会ったころから変わらないな」
「悪いですか」
「いや、いいことだ」
マスティマの言葉にヒルダは少し頬を赤くする。
皇女として生まれた彼女は、人から褒められ慣れている。
その裏側にはご機嫌取りであることが大半だが、この教師に裏はない。
素直な賞賛に、彼女の闘志は増していく。
「そうと決まれば急ぎましょう。学校が中立地帯とはいえ、道が封鎖されるとも――」
「伏せろ!」
――限りません。
彼女の言葉を遮るように、マスティマがヒルダに覆い重なる。
同時に空気を切り裂く音がして、肉を貫く音が響く。
「先生、マスティマ先生!」
「だ、いじょうぶ……だ……」
灰色の服に肩口から赤いシミが広がっていく。
崩れ落ちたマスティマの体は震えていた。
単なる矢ではないことがわかる。
毒、おそらく麻痺性のものだろう。
「おお、皇女殿下、このような薄暗い場所でも見眼麗しき姿は輝いておられる」
「あなたは……たしか貴族連合会の……」
二人を追いかけてきたのは、貴族らしい恰好の男と、護衛らしい黒尽くめ数名。
その手にあるボウガンから、マスティマを苦しめる矢が放たれたのだろう。
「代表代弁者のフレーゲルです。今宵のパーティーは素晴らしいものでした。まさしく帝国の歴史に花を添える一夜となったでしょう」
「黙りなさい、この痴れ者め! 宴の場を土足で踏み躙り、お父様を、皆を……」
歯を食いしばり、漏れ出そうな声を抑え込む。
先生の前では弱い自分を、このクズの前では恐怖を見せたくはなかった。
倒れたマスティマの袖をぎゅっと握り、激情に耐える。
「お父上の件は実に残念でした。帝国の誇り高きブラッドが一時的にとは言え、失われるとは。皇弟殿下への譲渡は、保留です」
「お父様のブラッドは、必ず私が取り戻す! 宝剣も、王冠も、全部!」
気丈な態度で反論するヒルダに、フレーゲルはつかつかと大股で近づく。
そして、右手のサーベルをヒルダに向けると、彼女の破れた肩口へ持っていく。
「では、奪い取られる前にこちらはあなたを着飾るものを剥いでいきましょう。まずは帝室という権威。次は第一王女である証のブローチ!」
サーベルが軽く振るわれると、ヒルダの首からブローチが飛んでいく。
カラカラと音を立てて落ちたものを、フレーゲルは摘み上げる。
彼女の首にはわずかに切っ先がかすめたのか、赤い筋ができていた。
「さて、次はどこでしょう。指輪、イヤリング、アンクレット……どこから奪うのも魅力的ですが……」
フレーゲルの視線が倒れているマスティマに向く。
そのことに気づいたヒルダは、動けない彼の頭をぎゅっと抱きかかえる。
「パーティーでも大活躍だった、そこの下民にいたしましょうか」
フレーゲルの顔が歪む。
悪鬼のごとき醜悪な笑み。
振り上げたサーベルを止める武器はない。
マスティマを守ろうとするヒルダは、フレーゲルに背を向けた。
「きひっ!」
「――いやっ!?」
ブチッ! と音がする。
振り下ろされるかと思ったサーベルの代わりに伸びてきた手が、ヒルダのドレスを掴んで引き裂いたのだ。
もともと破けていた肩のあたりからさらに大きく裂け、彼女の背が露わになる。
「ああっ! なんという僥倖! この状況を共有できる奴が誰もいないなんて、なんて幸運なんだ私は! お前たちも、決して口外するんじゃないぞ、ひーっひっひっひっ!」
腹を抱えて笑い狂う貴族に、ヒルダは決して声を漏らさない。
どんな辱めだろうと、痛みだろうと、彼女は耐える覚悟を決めていた。
“今の”彼女に、反撃するための力はない。
「……ふぅ、さて。遊ぶのも大概にしないと。それでは城へと戻りましょう。余計な荷物は、ここにおいて――」
息を整えるまで数秒。
まるで道端の花を踏みつけるような感覚で、フレーゲルはマスティマに剣を振り下ろそうとする。
むろん、それだけでも人を殺すには十分だろう。
――当たれば、の話だが。
「――ぬぅっ!? な、なぜ動ける!?」
起き上がったマスティマの左手が、フレーゲルの腕を掴んで止めていた。
額に浮かび上がった紋様が輝きを放ち、彼に力を与えている。
射抜かれてから二十秒以上時間を与えられたのだ。
体を動かせるようになるには、十分すぎた。
「き、貴様ごとき平民に、高貴なるブラッドが宿っているなど……」
「高貴だから力が宿るんじゃない。人を守る想いが貴いから、ブラッドは応えるんだ!」
彼の魂に刻まれた受け継がれる血の力――ブラッド。
血に流れ込む意志の力が、たとえ老いて砕けた体さえも動かすことができる。
そして各々のブラッドに秘められた固有の力は、さらなる神秘を齎すのだ。
体を流れる白い輝きが、彼の手の中に穂先を描く。
「ここから、動くな!」
愚者を貫く鎖付き短剣。
マスティマの手に顕現した刃は、困惑したままのフレーゲルの左足に突き立てられた。
絞め殺した鶏のような声が水路に響く。
地面に縫い付けられた足は動かず、たまらずサーベルを取り落とす。
「ヒルダ!」
「ブラッドがなくたって、こいつらくらい!」
それを掴んだヒルダは、主を助けようと近づいてきた黒尽くめの首を胴から離し、次の者の心臓を貫いた。
動かなくなった体からボウガンを奪うと、マスティマへと投げ渡す。
的確に受け取ったマスティマは、霞む視界の中で残った者の額に撃ち込んで黙らせる。
わずか数秒の間に、敵を全滅させて見せた。
同時に、マスティマは再度膝を折る。
ブラッドでいくら体を動かしていても、そもそもの疲労や痛みは消えていないのだ。
「師範! だめ、気をしっかり持って!」
大きく動いた代償に、残った毒が回って意識が揺らいでいく。
朦朧とする中で、肩を貸すヒルダの顔を見る。
声もなく唇が、わずかに動く。
「大丈夫です。すぐに救援が来ます。ですから、お願いだから……」
「に、逃がすか!」
貴族の執念、とでも言うべきなのか。
フレーゲルは血が噴き出すのも構わず足を引き抜くと、短剣をヒルダに向けて振りかざす。
ヒルダの体から離れたマスティマがそれを受け止め、力の限り押し返す。
「先に出口に言っているから……すぐに、追いかけて来い!」
「だめ、待って! 師範!!」
肩から血を零すマスティマに、これ以上フレーゲルを抑え続けることは難しい。
だが、この場から遠ざけることはできる。
傍らの水路、その出口はおそらく地下通路の最果てにまで続いている。
ただ天然の地下水路を整備して作った通路も、水路自体がどこに向かうかはわからない。
ただ、その勢いは大人二人を流すに有り余る。
「マスティマ!!」
マスティマはフレーゲルを道連れに、水しぶきを上げて落ちた。
ヒルダには追いかけることもできず、流されていく姿を見送るしかない。
数十分後、出口に辿り着いたヒルダが見たのは、傷ついた近衛兵の見知った顔が、安堵の表情で自分を迎え入れた姿だった。
そこに、マスティマの姿はなく、捕らえられたフレーゲルだけがいた。
冷たい目をしたヒルダの振るう刃が、怯える愚者に対し、永遠に怖がる必要を失くした。
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