リストカットとメメント・モリ、そしてミッドナイトライダー
リストカットの話題がありまして、少々考えたのです。
(1)周囲を騒がせたい
(2)消えてしまいたい
(3)生きていることを確認したい
主体としては(2)と(3)が多いのに、世間の解釈としては(1)が多いような気がします。と思っていたのですが、実際は(2)が多いとのこと。
まぁ、追いつめられた人に寄り添うこともなく(1)と決めつける人達の話や、(2)の心情をつらつらと述べられる話は、他の方々に任せることにします。
なぜなら、私が理解できるのは(3)のみになりますから。
そうしてまぁ(3)について思う所は、メメント・モリなのです。
メメント・モリ(memento mori)
「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」
「人に訪れる死を忘ることなかれ」
そんな感じの内容ですね。
死生観の一種と言えばよいのでしょうか。
生きているかどうかワカラナイ・・・そうだ確かめてみよう。
そうして、カミソリを手首の動脈に当てる。
噴き出す赤い液体、それは、確かに生きている証左としての現象。
その確信を得るための代償は、迫りくる死だったりするのです。
刹那の生の確認は、迫りくる死によって可能となる。
それを私は知っている。手首を切ったことはないのだけれども。
「リスカ(リストカットの略)したこともないのに言うな」
って否定されてしまえば、それまでの話なのですが、まぁ少しお付き合いください。
あまり自慢できる話ではないのですけれども、若いころ、大型バイクを乗り回していたのですよ。結構なスピードで。
そこにおける、リストカットとの近似性というか、そういう感覚が少しありまして、ちょっとだけ書いておきたかったのです。
(3)生きていることを確認したい
それは、自分自身の存在の確認。
バイクで走ると、空気を切り裂きますよね。
その空気を切り裂く感覚は、希薄だった自分の存在を感じさせてくれます。
アクセルを開ける
→ スピードが出る
→ さらに空気を切り裂く
→ 自己の存在を強く感じる
ああ、自分はココにいる。
もっと……もっと……と、エンジンを唸らせてしまう。
それは、確かに生きている証左としての現象。
その確信を得るための代償は、迫りくる死だったりするのです。
別に「時速300キロ出した」とか「スピードの向こう側」とか
そんな話じゃないのです。
止まっているだけじゃ、空気と同じ存在に感じてしまう己を、
とにかく空気とぶつかって切り裂いて、そこに在ることを確かめて
いたのだと思うのです。
作者さん2名様から刺激を受けて書いてしまったエッセイ。
交通ルールは、守りましょうね。
あっでも、速度の一線を超えると、おまわりさん諦めますけど。